#08 ぎゅっ
元亀二年(1571)四月四日
北野天満宮での面接仕事を終えた夜、公家町菊亭屋敷。
「お帰りなさいませ」
「おかえりなさいませ」
「ん」
風魔党なのだろう部屋付き用人と射干一門衆なのだろうこれまた部屋付き侍従に迎えられ、天彦は書斎に入った。
菊亭にはたくさんの気まずいが潜んでいる。
書斎のこの状況もその一つだろう。
天彦はちら。ちら。
黒髪黒目の用人と金髪碧眼の従者をそれとなく見比べ束の間逡巡、それなりに間を置いて結果、第三の選択であるどちらに声をかけたとも判断がつかないまんじやつを選択。即ち明後日の方向を向いて言葉をを選んだ。へたれ。
「お雪ちゃんは」
「すでにお戻りになられております」
ほとんど同時に言葉が重なる。だがどちらも先を譲らず、最後まで言い切って終わった。
天彦は思う。言葉のリンク具合いはもちろん、衣服のリンクコーデ具合いといいあんたら実は気が合うんと違いますのん。と。
言葉リンクはさて措き、衣服のリンクコーデはだいたいみんなそう。といったツッコミには耳を貸さずに真顔で思う。
それは上層部の関係性にも同じことがいえるのではないだろうか。と。
だが次の瞬間右目を眇める。そもそも菊亭などという奇矯な貴卿を慕うのだ。志向性が似通うのは尤もな話なのかもしれないと気づいてしまって。
「妹ちゃんに癒されたい」
…………。
なるほど。よく教育されている。求められる以外にはリアクションを取らなかった。
「……」
「……」
果たしてそうかな。
素朴な疑問はさて措いて、雪之丞からのレスポンスがないことはやや淋しい。屋敷には帰ってきているようだが、まだ顔を見せには戻っていない。
感情論を抜きにすれば、だが天彦はそれでいいと考える。そもそもあれはレスが欲しくての行動ではない。あくまで自発的に行った自己満。
雪之丞にはもう返しきれないありがとうをお腹いっぱいもらっている。何よりお互い気まずすぎた。
もうお雪のくせに……!
それはそれ。淋しさ余って1.5倍で込み上げてくる腹立たしさに渋面を浮かべて感情を露わにした。
「ひっ」
「っ――」
教育不足が露呈したところで、失礼いたしまする。いつの間にやら部屋付き侍従の元締めとなっている次郎法師が姿を見せた。
すると示し合わせたかのようにぞろぞろと、女性陣が姿を見せた。
「お帰りなさいませ天彦さん」
「お殿様、お帰りなさいませだりん」
「ん、ただいまさん」
菊亭が誇る女傑三人衆が登場したところで、天彦は束の間の憂いを払拭。
男子なんてそんなもんでしょ。のノリで思考をオフィシャルに切り替えた。
顔ぶれといい就寝前の登場といい、きっとそういうことだろうから。
「お殿様」
「ん」
「悪い話ともっと悪い話と、絶望的にえぐいお話と。どれからお聞きになられますか」
「えぐい!」
「意外です。てっきり――」
「ちゃうちゃう、ちゃねん。優しいお話からにしてほしい」
「ですよね。では――」
「待った」
「はい」
「茶を」
「はは」
ごーん、ごーん、ごーん。
先を競り合うように用人が立ち上がるのとほとんど同時に、夜四つの鐘がなる。
せめてTPOは選んでほしい。
天彦の想いは用人に向けられたものかそれとも。
いずれにせよ長い夜になりそうな予感を胸に天彦は、それでも涼しい顔を取り戻すと、美しく整えられた中庭に視線を向けて茶を待った。
◇
悪い話は政局絡み。もっと悪い話も政局絡み。そしていっちゃんえぐい話は……。
「ふっ、キャスティングボードを握りに参ったか。どれお手並み拝見と参ろうさんや」
やはり政局絡みだった。
「お見事です。惚れ惚れいたします」
「何たるご立派なお覚悟。まことお見事にございます」
用人の賛辞に素っ気なさを擬態しつつ内心では気をよくしていると、
「あらあら目一杯お背伸びなされて」
「肩肘ぴんぴんに張ってしんどそうだりん」
「殿の持ち味とは申せ、いささかお気の毒に思いまする」
揶揄はいいとしても同情はあかんやろ!
天彦はけれど感情を露わにはせず、涼しい顔で受け止めた。
部屋中に流れる違和感とその正体である奇異な視線を全身に受け止めて。あるいは受け止めきれずに押しつぶされそうになりながら。でも。
「そうは申すがラウラ。ルカも次郎法師もか。この請願書。読み込むまでもなく一目稚拙とわかってしまうん。要するに未成熟で感情的ねん」
取るに足らないと天彦は断じた。
では何を。草案である。
天彦の手元には請願書として認められた、新政権の施政方針草案並びに人事案請願書が握られていた。
むろん西園寺家を経由して菊亭へと持ち込まれている。
では誰が認めたのか。現下内裏派閥である政局第三勢力と目されている野党会派からの提出であった。
発起人は義理弟でギリ兄でもある大炊御門経頼だった。
これだけなら捨て置ける。だが……。
「そうやって厭なことからお逃げになられますと、こうしてツケが回ってくるのです」
「この件に関してはぜーんぶ、お殿様のせいだりん」
「殿、学びはつきませぬな」
「っ――」
だった。
というのも大炊御門経頼は目下の高級女房のほとんどの支持を得ていたのだ。
天彦が先送りにして逃げ回っていたばっかりに。痛恨!では済まされない大・大・大・大失態だった。
草案後見人。
>上臈局(前関白二条伊房の娘)
>大典侍(内大臣万里小路秀房の娘・正親町天皇の叔母)
>新大典侍(権大納言飛鳥井雅剛の娘・目々典侍)
>勾当内侍(橘(薄)伊緒の娘)
>勾当内侍(葉室頼房の娘・椛姫)
>中臈(治部卿土御門有脩の娘)
>下中伊予(宮内卿清原枝賢の娘)
>下中伊予(押小路師廉の娘)
>下中伊予(たんせい入道の娘)
錚々たる顔ぶれの名が列記されていた。改めて見直すと然もありなん。天彦の菊亭を敵視していた人物の縁者の何と多いことか。
これだけ切り取れば訃報に違いない。いや切り取らずとも訃報だった。新内待基子ちゃんの名が連なっていなかったことだけがせめてもの救いだろうか。
公家の父御前である大蔵卿にはまたしても義理ができてしまった。何一つとして返せていないのに。
葉室の姫は……。
「ああ見えて、義理堅いお人さんやから」
しゃーないとは割り切れないが、夕星に付いてくれたことは密かに嬉しかったりなかったり。
だがことはそれだけに留まらない。
「天彦さん。民草は一所に纏まると厄介です」
「古今東西、数に勝る戦略はないだりん」
ラウラが言うと、ルカが追認の言葉をかぶせる。
そして、
「殿、民草は一所に集まると非常に厄介にございます。ましてや記名された各所支持団体は滅法五月蠅い筋ばかりにございますれば」
「それな」
次郎法師は一揆に泣かされてきた経験則で語った。
その経験がない天彦とてマンパワーの手強さは重々承知している。心算。
そう。
彼女たちの指摘通り、経頼はまさかの手に打って出ていた。庶民(各種宗教団体含む主だった経済団体)を味方につけて行動に打って出たのだ。
即ち推定二千万にも及ぶとされる京都市民の過半数を味方につけて、実益新政権に堂々宣戦布告してきたのだった。
郎党や諸太夫は言うに及ばず、一族一門一党、誰余すことなく堂々と名を連ねているあたり、覚悟の程は十二分に知れている。
当然そこには極限の感情があるはずで、けれど書面からは決死の覚悟に値する強い感情の文言は何一つとして見当たらない。
終始最後まで、乱れることなく理路整然と綴られていた。
「さす義弟。常に感情は死中にあり、か」
有罪無罰だとしても。
公家にとって京都追放は死罪も同様の沙汰なのだから。
ましてや公卿ではない郎党衆のお沙汰は、極刑に処されること請け負いである。命懸けといって何の不足があろうものか。
しかもだ。経頼が発起人であるということは羽林家中山一門も賛同しているのも同然であり、相当数の公家の賛同も予想された。
何よりも、すると背後には大典侍。即ち実質皇后陛下であらせられる阿茶局が控えていることは紛れもなかった。
まさか東宮までも。とは勘繰りたくはないものの、どうやらそれを薄っすらと匂わせていることは紛れもなく。
すると裏を返せば東宮は関与していないと紐解けるのだが、今はさて措き。
そう考えると政局第三勢力など烏滸がましく、あるいは目下の筆頭勢力でさえあるのかもしれない。
「さす経頼、やりおる」
「お声が」
「声」
「お声が」
震えているという指摘を言語化しなかったのは彼女たちの優しさか。
天彦は書面から目を離すと、三人をちらっと一瞥。そのまま視線を横へ流すと身につまされる思いで中庭を見つめた。
経頼だけのことならば、哀しいだけでことは済んだ。だが。
「夕星……」
彼の反逆には常にこの重大事がついて回った。
経頼は半身(夕星)の伴侶。経頼が失脚すれば半身(夕星)も身の寄せ場を失ってしまう。善悪とは無関係にこの時代の婚姻とはそうしたものだから。あの父御前のこと。夕星に全ベットしていることだろうから。
延いては弟くん、季持も……。
つらたん。
説得はそうとうかなり難しいだろう。
何しろ相手はあの夕星姫(撫子)。その程度の潔さは常に持ち合わせていてしまう。そうでなくとも有り余るほど激烈すぎる激情の持ち主なのだ。話し合いの余地があるとは到底思えなかった。
政の世界なら勝敗決した後、ノーサイドも謳えるだろう。
だがこれは生死を分ける大戦であり、時は戦国元亀である。奇麗事の入り込む隙間などありはしない。
天下統一がならぬ今、勝者総取りの理なれば、敗者は煉獄へまっしぐらと相場が決まっているのだった。
何より勝敗をそういった形で決着させなければ、わだかまりが残りすぎてしまうだろう。
数百年単位の未来を見据えている天彦としては、感情論を抜きにしてまで極力後腐れは排除しておきたかった。
気楽に、気楽に。しんどいことは明日、明日。
そうして生きていきたいのは山々なれど。
雪之丞でさえ許してくれないこの現下、実現性には乏しかった。それこそこの草案として提出された請願書の条文のように。
「如何なさいますお心算で」
「久々、大ピンチねん」
「うふふ。果たして久方ぶりにございましょうや」
「む。久々ねん」
「ではそれで」
それやめて。
だが事実として、ここからの巻き返しは容易ではない。
おそらくだが東宮は勝者に付く心算なのだろう。それを厳しいとはけっして言えない。
誰もが生存に必死なのだ。それこそ次代の帝と目される御方でさえも例外ではなく。
だが実際はどうだろう。
片や理想的な生粋の貴族で、肩や型破りで面妖な異端貴族。
傍から見ればその出自にさえ吝嗇が付けられなくもない元半端公家(半家)の出である。
いずれにせよ共に貴種には違いない。だが同じ貴種なら同族は必ず前者を推す。
条件が整えばと注釈は付くものの、絶対といって差し支えないレベルでは絶対に前者を推す。
信頼度や期待感などという青臭い判断基準などではなく、もっと根源的な安心感の観点から。
善悪適否と関係なく貴族とは往々にしてそうした人種としたものなのだ。
つまるところ変革を求めるのはいつの時代も持たざる側で。富める側、すでに持てる者は変わらぬ日常と踏襲の中にある。ありたく思う。
それこそが始祖からつづく家門の維持、延いては資産形成の必勝法だと知っているのだ。
要するに、
「リベラルの皮を被った超保守派の目論見。それが事の本質ねん」
まったくもって面妖な構図だった。
それもこれもフィルターバブルの弊害なのか。
天彦の周囲には善きにつけ悪しきにつけ、似通った感覚の者しか寄ってこない。
どちらかというなら。
あるいは比べるまでもなく、天彦の側の方が断然リベラルな改革派に相違なかった。
天彦の思想に引っ張られ、あるいは魔王は元々その思想だったかは定かではないとしても。菊亭と織田とは改革路線で共闘している。それも生半可な改革ではない激烈な改革路線で。
それは上杉も同様で。よって武門含めた政権側(権力側)が改革を求め、支配される民草側が踏襲を叫んだ。
裏には仕組まれた巧みがあるにせよ、天彦にはどうにも解せない摩訶不思議さがそこにはあった。
既得権者である坊主や神官が賛同するのはまだ理解に及ぶ。
高級女房も同様に。
だが。
「京都市民さん。なんでなん……」
むしろ自分は市民にこそ寄り添っていると自負していたのに。
こんな未成熟で感情的な施政方針が支持されるなんて。
なんて愚かで憐れなのか。
まったくもって一ミリも理解できない。この愚かしさが。
それもこれもフィルターバブルの弊害なのか。
天彦の周囲には善きにつけ悪しきにつけ、似通った感覚の者しか寄ってこないという現状があった。
「いとおかし」
天彦はけっして誤用ではないと居直りつつ。
それだけはどこをどう切り取っても理解できない市民感情とやらに、延々ずっと悩まされつづけるのだろう予感に苛まれる。
と、
「あのぉ……」
「こそーちゃうねん! もう遅いん! 捕まえたッ」
「ふえ……!? ぐ、ぐるじいですぅ」
天彦は狐を返上。オオカミのようにしなやかに、目をギラギラとさせ飛び掛かると夜分の闖入者をとっ捕まえた。
女性陣のあらあら、やれやれ目など気にもならない。無敵である。
「やかましい。お雪ちゃんみたいなもんは、一生身共に黙ってぎゅっとされといたらええねん」
「そんな……」
「なんや!」
「あ、ほなそうしときます」
「そうしとき。ぎゅ」
「ぎゅっ」
「もっとぎゅ」
「もっとぎゅっ」
「もっともっとぎゅ」
「あほや」
「おいコラ」
あはは。うふふ。
二人して照れ笑い。誤魔化し笑いを交わし合う。だがけっしてその身体は放さずに。
世界は二人きりだった。ぬくもりはやや高いめの36.8度くらい。
天彦は唯一絶対の癒しの登場に大歓喜とは違う、けれど満身にそれとわかる嬉しみを滲ませて、束の間の憩いの時に埋もれる(埋もれさせる)のだった。
【文中補足】
1、フィルターバブル
インターネットのユーザがネットから得る情報が、自分と同じ意見や趣味のものばかりになってしまい異なる意見や趣味が見えなくなる現象のこと。




