#15 善悪の彼岸
「過去に因縁を持たない者の、過去への感傷ほど愚かしいものはない」
それは血筋に対する羨望の言葉か、それとも揶揄か。あるいは単なる雑感か。
真意は誰にもわからない。けれど信長は確かに言った。行き交う誰かの背中を鋭く尖った視線で追いながら。
「お仙」
「万事抜かりなく」
「――で、あるか」
仰々しい警護の目が光る中、二人で入った茶室から一人で出てきた信長は、祐筆仙千代の言葉に小さく頷くと自身の腕に抱くキッズにそっと視線を落とした。
と、ぱちくり。円らな瞳が見開いた。
「死んでおれ」
「せめて説明だけでも」
「余は死んでおれと申したぞ」
「ならばせめて。家来の安全だけでも担保してください」
「請け負った。死んでおれ」
「家のもんは身共に万一のことあらば――」
「黙れ。貴様、余を軽んじるか」
「あはは、まさかそんな。……ひっ」
信長はぎろり。下目使いのまま、けれど口調は穏やかで。まるで聞き分けの悪い駄々っ子を諭す寺子屋の住職のような口調で言った。
「主家に対して誠実に生きておる者ほど、今いる場所からは動けないとしたものであろう。違うのか」
「わかりません。説明をください」
「故に菊亭は除外しておる」
「わかりません。ちゃんと言葉にしていただかないと不安で夜しか眠れません」
「余は二刻眠ればよいほうじゃがな。果たして貴様は何刻眠る」
「黙秘権を行使します」
「ふん。家令には事前にそれとなく伝えておるわ。わかれば黙れ。いっそこれを機に金輪際二度とその口を開かぬでよいぞ」
「ひどっ」
Omg!!!
まさかのラウラもグルだった。あとでしばく。しばくは無理でも全力で仕返しは絶対にする。できるかな、ムリやろ。
さて措き、然は然り乍ら演技力には定評のある天彦だが、いったい何のために芝居するのか。モチベがなければ気が乗らない。気が乗らなければ定評も仇となる。つまりど下手になってしまう。……の、感情で薄眼を開けて訴えてみるも、
「ひっ」
眼がガン極まりしていて普通にびびる。
要するに従う他ない状況のよう。天彦は黙って諾々と言い分に従った。黙って諾々という定義には各論があるとしても。
但しそこは天彦である。耳に神経を全集中させて周囲の気配を読み取ることは怠らずに従った。
あかん気になる。一旦きになり始めると全部が気になる悪癖が出た。
これでは感覚がやはり鈍い。感覚の足らずを補うべく、そっと薄眼を開けて気配を感じた。そっとね。
気配には仄かな混乱とそれを打ち消す怒りがあった。それは織田家には非常に珍しい自発的な怒りの感情。
織田家は善きにつけ悪しきにつけ信長ありきの大家である。故に喜怒哀楽感情は場を支配する信長に依存した。それの自発的な感情である。どうしたって違和感は拭えない。
更に耳を研ぎ澄ませると。遠くから聞こえる甲冑の擦れる音。そして静かだが周囲の文官たちが慌ただしく動く気配も。
うーん、むずい。
内心で唸りながら頭を捻っていると、
「三度言わせるな、死んでおれ。それとも聞き分けの悪い小童は、真実にしてやらねばならぬのか」
おうふ。
何やら主題とは別に、本格的な裏エピが進行しているらしかった。
これだけ緊迫しているのだ。捻らず普通に推測すれば、襲撃の首謀者である惟住氏から何らかの情報を得たとするのが妥当である。そしてその情報とはかなりの確度で謀反を想起させてくるのだが、さて。
だが謀反には違和感しかない。なにせ大津長昌は形式的にでも上杉家に下っているし、倅伝十郎は菊亭が質として預かっている。
城主の加担しない謀反などあり得るのだろうか。一歩譲ってあり得るとして、ではならば成立するのだろうか。しない。なぜならそこには大儀がないから。
いかな下克上時代とて、大儀なき謀反はただ犯罪。一瞬は夢が見られたとしても即座に露と消えてしまう泡沫と同じ。
ましてやここら周辺は織田家本拠のお隣さん。言ってしまえばお膝元。そんな信長に危険視させるほどの巨大な抵抗勢力があるとも思えず、考えれば考えるほど深みに嵌ってしまう謎解きのよう。……でゅふ、おもろいん。
ならば理非もない。
天彦はここで掘り下げても意味はないと思考を放棄。それが難問へ向かうたった一つの冴えたやり方であることを知っているのだ(棒)。
天彦はこれでもかと頭を捻り散々っぱら考え込んでようやく、今度こそ観念し本当に死体役に徹することにした。南無さんアーメン。
「お仙」
「はっ」
信長が仙千代に天彦の身柄を預け渡す。
仙千代は丁重に身柄を預かると、何を思ったのか思わなかったのか。くんくんと天彦の頭の匂いを嗅いだ。
当然だがあまりいい気分のする行為ではない。天彦が憮然としていると、
「香油は自家製にございまするか」
「ちゃんと正規品。香油座から取り寄せた逆輸入品ねん」
「逆輸入……とは」
「菊亭が考案した品を座から買い付けているからそう申した」
「やはり。嗅いだことのない高貴な香りがしてございまする。お一つ譲っては下さいませぬか。是非とも献上したき御方がございまする」
「ええさんよ。条件次第では」
「では結構」
「はやっ」
「座に強請ったほうが安上がりな気がしまして」
「お利巧さんはキライよ」
すると仙千代は、顔を伏せふっと相好を崩した。
「軽妙な菊亭節。訊かせていただきますたび我が耳が喜びまするな」
「……譲ったるわ」
「ふふ、恐悦至極に存じまする。事態は複雑に進行しておりまするが、貴方様はこれまで通り男子たるもの“かくあれかし”といった生き様を御体現なされるがよろしかろう」
「……」
文若青年といった風体の仙千代はどこか皮肉めいて言う。
天彦は心のジト目で応酬した。
「傍若無人にお振舞になられますがよろしかろうと申し上げましたが」
「そんなもんわかってるわ! あ」
「声を潜められませ」
「ん。あんまりにも脈略がないからつい」
「脈略とな。解せませぬな」
「それ、まんまこっちの台詞な」
身共の、どこが、ぼうじゃくぶじん、やねん! やねん。
自覚はない。ちょびっとだけしか。
「これ以上は目立ちまする。人目のつかぬ安置所に参りましょうか。死体様」
「ん」
全力マンキンで否定したいが声を張れない。何しろオーダーは死体役なので。
あと実はあまり感情的にはなれなかった。
というのも天彦、仙千代とのけっして短くない時間の付き合いの中で一つの気づきもあって、本気では怒れない。
人柄を知ったというのもあるのだが、彼は意図せず他者を煽る天才だった。つまり発言に意図した悪意がないのである。
あれでは家内に相当数の恨みを買っていることだろう。そんな人物、性格である。その天才ぷりと容姿のあまりの良さが災いしている悪例であろう。
イケメンにはいったん爆ぜてもらうことにして。
天彦は事態の全貌を掴むべく、視界の端に感じる今やすっかりと慣れてしまった微かだが独特の気配に身を委ねることにした。そっとね。
◇◆◇
場所を移してどこかの建物。貴種を遇するには格式があまりに足りない納屋めいた一室。
だからこそこの場所が選ばれたことは理解するが、やはり感情の整理には時を要した。
天彦は周囲に人がいないことを確認して、そっと呼び掛けてみる。
「小太郎」
「はっ、ここに」
すると応答があった。
いつものように自分にしか聞こえないだろうウィスパーボイスでの応答が。
天彦は自身の感覚の正確さにほっと胸を撫で下ろした。
言ってここは敵地である。敵地が言い過ぎだとしても少なくとも織田家は味方ではない。あるいは天彦の命を狙う勢力が家内に一定数以上存在する共闘相手である。故にかなり不安だった。
「警戒厳しく、長居はできませぬ。用件だけを手短にお伝えいたします」
「ん」
「我が手勢が御身を警護しております。その点は御安心召されませ」
「ん」
「事態の全容は掴めておりませぬが、何やら織田。この地で戦を始める様子」
「敵方は」
「おそらくは民」
「は?」
「あるいは海賊、あるいは武装商家、あるいは土地の喧噪に紛れた落ち武者。いずれにせよこの地に住まう民草にございます」
「ほーん」
過去に因縁を持たない者の、過去への感傷ほど愚かしいものはない。
そこで天彦は魔王の言葉を回想していた。あるいは紐づけられたのか。
いずれにせよここが善悪の彼岸であることは直感できた。
信長は大ナタを振るう心算である。それもリアルで大量に出血の伴う。
天彦も大津の反乱気運は掴んでいた。いっそ思想といっても過言ではないやつ。
城ではなく町全体の気風として。あるいは国全体に及ぶほどの強烈な違和感を伴って。
ここには浅井家を含めた反織田の残党が多く隠れ潜んでいた。
だからこそその気風を薄めるために、上杉の故地とするべく画策したのだ。
「さすノッブ。見事におじゃる」
「見事、にございまするか」
「一本取った心算が、吠え面を掻いたのは身共かもしれんな」
「御冗談を。――しばし潜みまする。御前御免」
と、がらがらがら。引き戸が引かれる。
どうやら様子見の気配に小太郎は姿を眩ませたようだった。
海賊、武装商人、落ち武者、残党浪人、反織田の残党etc。
これら抵抗勢力は畿内にかなり多く点在している。言ってしまえば今更だ。
織田はそれだけ領地の拡大を急いできたのだから。恨みを買うだけの理由はたっぷりと売るほどある。
ならばなぜ大津の正常化を急ぐのか。
言葉を飾れば実りある取り引きとしたいがため。だが言葉を飾らず言うなら。
「意地ねん」
そう。これは魔王の意地。ただそれだけのこと。
それだけのことで、時の経過と共にやがて薄れていくはずの反感を、すべて一瞬にして一掃してしまう心算なのである。敵味方、大量の命を浪費して。
軍神殿が御所望なのだろう。ならば。
というテイの示威行為と受け取れる。つまりこれは信長の意地。本気を見せた大意地である。
「こっわ。やっぱし武家は怒らせんとこ」
腹を据えさせたらお仕舞いである。そうなる前に敗北を認めさせて初めて勝利か。
そして天彦の死の一報を訊きつけた上杉軍の動向まで込みの、壮大な軍事演習。それとも実戦に持ち込む心算なのだろうか。……まんじ?
あの軍神殿が迂闊な動きを見せるとも思えないが。
結果がどうあろうとも、こうして天彦が想像だけで震えている時点で信長の一本勝ち。
またひとつお利巧さんになれた。とか。
この天彦からすれば美しくない上に、ヤケクソにも程がある武家の感情の機微に触れて改めて思う。武家はクソだと。率直に本心から。
むろんそれだけではないのだろう。それだけなら愚かしすぎる。超合理的な魔王様のことだしあり得ない。
想像するだけで幾つかの可能性は思い浮かんだ。
まずひとつに何よりも優先されてきた経済的観点から、坂田、交野、神宮司、橘屋、伊東の顔が思い浮かんだ。
そう。天彦の脳裏には、今や堺と双璧をなし織田経済圏を支える御用商人たちの顔が真っ先に思い浮かんでいたのである。
「銭が力を持つと、下品ねん」
天彦の公家視点からすると確かに商家の品はよろしくなかった。
武家ならばもっと痛切に感じていることだろう。彼らは死生観だけに支配された別人種なので。
商人は下品。あるいは美しくない。それは一方での真理である。
なぜなら彼らは銭を儲けて初めて勝利条件を達成できるのだから。
銭とは何か。脈略的には様々あろう。貨幣とかマーケット指標とか、社会が物および財の生産・流通・消費活動を調整するシステムそのものとか。天彦にとっての精神安定剤だとか。
が、最終的に行きつく先は欲である。故に際限はまるでない。つまり下品なのである。
近頃の商家は目に余った。いわゆるバブル経済期、なのだろう。
天彦の許にも二.三、官位を銭で買えないかと遠回しな打診があるほど。彼らの有頂天具合いは目に余った。むろん天彦は売るのだが。売れるものならなんだって笑。
だが信長は違う。彼はある意味で高潔である。未だに分を弁え弾正忠でいることが何よりの証。
『そや信長さん。茶筅さん、同門に迎え入れる算段付けてますので、そのお心算でよろしゅうさん』
言った時の信長の顔といったら。
『我が織田家から清華成りが生まれるのか。……正直、言葉にならぬな』
控えめに言って、魂消ていた。
むろん天彦の三介贔屓にも驚愕したことだろうけど、違う。
彼はそういう人柄だった。子供は平等に可愛がるし、愛情だって少なからずかけている。
そして何より、どこまで行こうとも突き詰めれば、日ノ本の誇る武家なのである。
怖気づくことなど決してない、日ノ本の誇る侍、武人。
その信長率いる織田家は天下布武を唱えたその日から、内憂外患に煩わされていた。
菊亭も煩わせているその一つだが、もっと巨大な存在がいる。
言わずと知れた関東管領、軍神上杉謙信公である。
その頭上の重しが外れた今、内憂を一掃するまさに好機が訪れた。
機を見て敏にも程があるが、信長にとってはこれ以上ないタイミングでの着手だったのだろう。知らんけど。
「髪、切ろかな」
一本取られた腹いせに。
何の気なしにつぶやいた言葉。だが貴種の理髪には意味があった。メッセージ性のかなり高いやつが。
それもただのメッセージではない。理髪には仏門に下るという途轍もなく重い深刻なメッセージ性が込められているのである。
当然天彦もそれを匂わせるために発声している。あくまで牽制の意味合いで。
あまりにも自分の位置が中央に寄り過ぎていると感じているからだとか、いつも俯瞰でいたいからだとか。朝家の忠臣として公正でありたいから、とか。
今まさに大虐殺が始まろうとしている良心の呵責に耐えかねて、だとか。
理由はつけられれば何だっていい。
と、
「今年の夏は涼しそうだりん。お戯れでなければ、お付き合いいたします」
彼女は言った。
天彦は小さく笑った。
善悪の彼岸。言い換えるならフェーズであろう。
今やフェーズは寺社から商家へ。大きく転換され主役の顔ぶれが完全に商人へと移っていた。
そう仕向けたのは何を隠そう……。
「こっち見んなし」
【文中補足】
1、善悪の彼岸
ニーチェが提唱した既存の道徳的価値観を超えたもの。あるいは従来の道徳からの解放。
何度も書き直ししてたら時間食っちゃった……てへ。
300話記念のFAが嬉しすぎて、共感してほしいので是非!
インターネットハグ募金の方、よろしくお願いいますね!!!
FAは喜楽垢かこしあん様垢にありますのでぜひぜひ、やばいくらい天彦さんかわいいっす(〃∇〃) ぽっ
https://x.com/kirakumoko502
追伸、
誤字報告ありがとうございます。御常連様も御新規様も。たいへん感謝しております。




