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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
十八章 神算鬼謀の章
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#14 豺狼路に当たれりいずくんぞ狐狸を問わん

 



 元亀二年(1571)三月二十日






 織田信長がいつものスタイルで姿を見せたのは、ぎりぎり午前。

 昼九つの鐘がなるほんの少し前のことだった。

 御自慢の側近、赤母衣衆だけを従えた、天下人とも思えない寡兵での来臨に、天彦を筆頭に菊亭家家中は大いに呆れ、そして大いに安堵もしていた。


 ひとつに、いつもの彼であること。ふたつにいつも通りであることが挙げられた。つまり常態。

 彼は僅かな手勢だけを引き連れ、正装も着用せず騎馬にまたがり姿を見せたのである。ふらっと親戚の家に遊びに行くような感覚で。


 菊亭家中は大いに安堵の気配に包まれた。

 少なくともこの場で戦端が開かれる最悪の事態だけは避けられたからである。


「太刀を寄越せい」

「はっ」


 信長は出迎えの一団の前で馬を止めると颯爽と鞍上から飛び降りた。

 そして降りるとほとんど同時に太刀を要求し、お目当ての人物を視界に捉えると120の胡乱を浮かべる。

 そして出迎えの先頭に立つ120の胡乱と真っ向から対峙し、有りっ丈の下目使いを放って寄越した、


「ちっ、息災か」

「またお戯れを」

「戯けが。だれが戯れなものか。貴様の常と同一にするな」

「ひど」

「酷いかどうか。その小さな掌を心の臓にあててみるがよいわ」

「あ、はい」


 会談は思わぬ展開を見せていた。それは天彦の予測を大いに裏切る結果であった。

 良い方に裏切ってくれたのか、それとも悪い裏切りかは今後の結果に委ねるとしても、少なくとも天彦の想定からは大きく逸れてしまっていた。


 信長が見せている感情は深刻でも重大でもなく、然りとて気安く気軽いとはぜんぜん違って、善きにつけ悪しきにつけ魔王の泰然としたいつもの彼のペースで始まろうとしていた。


 さすのっぶ。やはり天下一の器である。


 天彦はこれでもかと目一杯入れていた気合が、ものの見事に空転する感情に振り回されながらも、この成り行きを肯定的に歓迎していた。


 見つめ合うこと数舜。


 視線を外したのは信長であった。


「犬ッ」

「はっ、ここにござる!」

「ここは何処じゃ」

「近江国大津滋賀郡大津にござる!」

「戯けが。だから貴様は犬なのじゃ。内蔵助」

「はっ。人外魔境にござる」

「そうじゃ。者共、ここからは先は人外魔境に居ると思えよ」

「応さ! 赤母衣衆、決死の覚悟で殿をお守りいたしますっ」


 従者を含めると総勢三十有余名の信長側近衆が声を挙げて決死を誓った。



 誰が人外やねん!



 だがこの挑発的な軽口で菊亭側が殺気立つことはなかった。むしろ逆。

 どこか安堵の雰囲気に包まれる。


「おい悪党。余の腹が鳴っておるぞ、持て成せ」

「善良な公家におじゃります。が、では直ちに昼餐の膳を支度して進ぜるでおじゃる」

「そうせい。余の舌を驚かせてみせよ」

「驚かせるかは存じませんけど、喜ばせては御覧にいれておじゃりますぅ」

「ちっ小癪な。貴様、今より小癪と改めよ」

「厭やろ」

「――で、あるか」


 が、一拍置ける。

 この信長の一見すると無茶振りとも思えるオーダーは、菊亭・織田家中双方にとって渡りに船の申し出だった。






 ◇






 魔王の、“腹が減った。持て成せ”から始まった不意の昼餐会だったが、参加者の中で味がしているものはおそらく……。


「んっふふ、うふふ。若とのさん、もろこさんとスジエビさんがあると膳の格式が高うなりますねー」

「ほんまやなお雪ちゃん。これも食べるか」

「ほんまですか! 返せと申さはっても返しませんからね。若とのさんはすぐに惜しなって返せ申さはるから」

「誰がじゃい! ……申すときもままあったねん」

「はい。しょっちゅう申さはります」

「お客さんも居てはるんや、恥ずかしいこと言わんといて」

「ほな恥ずかしいことせんといてください」

「おまゆう。まあええさんや。今は申さへんからたんとお食べ」

「ほなお言葉に甘えまして。ぱく」



 うまー――!



 我らが愛すべきお馬鹿さんただ一人であろう。


 このおバカな主従のおバカな会話は、図らずも場に一時の和やかな風を吹かせていた。


 それは本当に救いの風だったことだろう。天彦にとっても。

 何しろイカさんとちくわさんの次に、もろこの生姜焼きとスジエビの素揚げが無類の大好物である彼だけなのだから。

 この料理人心尽くしの膳を味わえているのは、場に雪之丞ただ一人なのである。

 彼は無敵の強心臓を存分に発揮して、料理人心尽くしの膳を隅々まで堪能しているらしかった。語尾がるんるん躍るほど。

 この重苦しい空気感に、ともすると腹が減ったとこの膳を催促した当人ですらあるいは味わっては食べられていないだろうから。


 と、これを好機と捉えたのか。信長が便乗した。


「朱雀は淡海料理が好物か」

「好物? なんでですのん」

「おい。今まさに貴様が声を弾ませておったのであろう」

「いいえ。膳が華やぐ。そう申しただけですけど」

「何が違う」

「違うも何も、そのままの意味ですやん。けったいなお人さん」

「なにを」


 ちょ――っ、と待て。オネガイシマス。


 天彦はもちろん、周囲は絶句したまま固まってしまう。


 いったいどこで本気の天邪鬼感だしとんねん。氏ぬ。

 インテリジェンスが高ければ高いほど、この応接には腹が立つはず。真面に取り合おうとすればするほど、神経を逆撫でされること請け負い。


 そして魔王信長は戦国を代表する短気であり、同時に切れ者大名でもある。

 天彦は半ばじんおわの感情で、恐る恐る信長を見やる。


 お……?


 だがなんということか。信長の鋭く尖った双眸が、気持ち柔和に丸みを帯びているではないか。

 天彦のお願い堪忍を尻目に、事態は思わぬ好転を見せていた。


「朱雀貴様。常から思っておったが、公家の諸太夫にしておくのが実に惜しい。菊亭などというあばら家から抜け出て、余のところに参らぬか。御家の栄達は約束してやるぞ。如何じゃ」


 魔王の、天彦の心の柔らかい部分をクリティカルに抉ってくる誘い文句に、けれど雪之丞は一ミリも興味を示さず平然と言い放った。


「その物言い。若とのさんを見誤っているのなら申し訳ございませんが織田さんこそあばら家かと存じますん」

「なに」

「なんでしょう」


 おうふ。


 この応答にはさすがの菊亭家中も凍った。

 面子が面子だけに急転直下の展開は誰もが覚悟していたことだろう。

 だがそれにしてもこれは酷い。

 あの与六をして、半ばやり切れない感情を構えたまま決死の表情で成り行きを見守った。


 が、


「くく、くははは、がははははは――! これは一本取られたな。朱雀、儂は愚かか」

「はい。若とのさんを見くびるなんて、織田さんらしゅうありません」

「で、あるか。朱雀、帥の忠告、確と心に刻んだぞ。たしかに狐を見誤るなど愚の骨頂であったな。うむ、褒美を遣わす。何なりと申すがよい」

「え」

「何を面食らっておる」

「あ、……はい。ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして、後でなんぞ頂戴するとします」

「で、あるか。仙千代、必ず褒美を取らせよ」

「はっ。確と承りましてございます」


 昼餐会に参加した全員。菊亭に関わらずすべて。最っっっ高に肝を冷やしたことだろう。

 むろん天彦でも雪之丞でもなく。天彦と雪之丞を除く全員が、あるいは仕掛けた魔王自身が自覚を以って、命の危うさに気づいていた。


 それほどに天彦の気配がひりついていたのだ。


『お雪ちゃんが今日のうなったら、身共の命も明日まででええ』

『どないしましたん。いつもは欲張りさんのくせに、えらい控えめですやん』

『お雪ちゃんが氏ぬほど好き、ゆうこっちゃ』

『え、きも』

『おい待てい! 言うに事欠いて――』

『でもあきませんよ。厭ほど生きてもらいませんと。家中の阿呆どもに、極楽でも絡まれるのうんざりなんですから』

『厭やろ』


 この場の誰もが皆知っているのだ。菊亭と朱雀。この主従の関係性を。

 主君を救い出すためなら内裏への砲撃も辞さない家来と、家来のためになら世界の滅びを量りにかけてもいいと公言して憚らない主君との、この世の何よりも尊いとされる絆の固さを知っている。


 もし万が一、雪之丞の身に何かあれば。考えただけでもぞっとしない。


 おそらくは背後に隠されているのだろう、万全を期した態勢で出迎える数十万の軍勢が、たちまち敵兵となって織田の寡兵に襲い掛かることは確実で。

 そうと知らない雪之丞を除くと、実に危うい戯言であると周囲は誰もが魔王信長の正気を疑っていたほどであった。


 実際半ば正気ではないのだろう。

 あるいは正気ではやっていられないのか。


 彼はこう見えても血の通った親族には根っから優しい人柄であり、それが実子ともなると冷静ではいられないはず。

 そう。信長は事態を知った即日即刻、菊亭襲撃に関わった者すべてを裁いていた。

 股肱の臣に切腹を申し付け、実子に蟄居を命じていたのだ。謹慎ではなく蟄居を、である。


 この会談の成り行き如何によっては、その場で倅に切腹を命じなければならない。

 信長公はその身を切られるような覚悟を以ってこの会談に臨んでいたのである。


 信長は真っ昼間から一合升の清酒を呷ると、ぷはぁ。


「酒を注げ」


 不愉快そうに言い放った。


 が、次の瞬間。


「誰でもよいがお前ではない」

「ひどっ」

「酷いものか。次代の内親王を室に娶る良血殿に、酒を注がせたなどと聞こえればどうなる。すわ一大事、織田の増上慢がたちまち日ノ本津々浦々にまで鳴り響こう。やめい」

「あ、はい」


 案外冷静なのかもしれない。

 その割には拳骨でど突きまわしてくれていたことは、すっかり忘却してしまっているようだけれど。あの頃とは立ち位置、即ち格式が違うからか。


 ならば意識を改めなければならないのは天彦こそなのだろう。

 一ミリもそんな心算はないけれども。


 天彦は魔王の意外にもどこか怖気づいているような気配に、妙な淋しさを覚えていた。


「越後の龍さんは、やっぱしおっかないものですか」

「ふん、やかましい。それは越後殿とて同じことじゃ」

「同じ?」

「何を今更。貴様が我が愛娘を娶らばすぐにでも立場は反転する。やつこそが余を恐れ戦慄く番となろう。おいやきもきさせるな。誰でもよい、娶れ」

「……」


 らしい。


 内親王殿下も織田家の宝も、誰ひとりとして娶る気などない天彦からすれば、永遠に来ない明日への希望としか。

 だが一方で、自分がそんなキーマンであるとは露とも思えず。

 これは素っ呆け系キャラを演じているのでも何でもなく、心の底から違和感しかない、天彦のウソ偽りのない素直な感情であった。


 だから、


「天意がお決めになられましょう」

「――で、あるか。しかし天彦。今のままの考えでは、貴様の先も明るくはないの」

「例えば」

「ふん、白々しい。ならば答えて進ぜよう。家を存続させぬのなら、無暗に家来を抱え込むものではない。数名の供を引き連れ、臥龍よろしく仙人のような隠居暮らしをしていればよい」


 ぐうの音も出ない、オニ正論であった。


 そして天彦の誰にも明かしていない心の内が、寸分違わず見透かされていた。


 やはり信長は天賦の才の持ち主である。

 天彦は改めて信長の偉大さに感じ入り、他方で己の矮小さを痛感する。


「ぐう」


 相手が自分をどう思うのか。それは相手の課題である。

 天彦には関係のないこと。

 これまではそのスタンスでやってきたしやってこれた。

 信長は言外にそれを正せと言っていた。


 自分がその役目を買って出たはずの会談だったのに。

 まさかの真逆の展開に、怖いンゴ。さすがの天彦もちょっぴりではなく戦慄いてしまう。


 と、


「馳走になった」


 あの信長が、気持ち程度ではあるものの小さく顎を引いたのだ。

 天彦は目を疑った。そして目を擦ってこれが現実かどうかを確かめる。


「なんじゃ、その目は」


 現実だった。


 呆けていると、


「天彦殿。膝を突き合わせて語り合いたく存ずる」

「ほなそのように」


 妙に社交辞令的な言葉が耳朶を叩いた。

 その薄気味わるさときたら。雪之丞が八頭身で大好物のお団子に見向きもしないくらいの違和感である。控えめに言ってもえっっっげつない。


 ぶるぶる。武者震いだかなんだか。体が感じる妙な震えに抗いつつ天彦は、信長の要望通りすべての人払いを済ませるのであった。


 二人は雄弁な沈黙を背に、茶室へ向かった。






 ◇◆◇






「済まぬ。許せ」

「え、……あ」



 どさ。



 物事は何にでもグラデーションがある。明暗だって濃淡だって。揺らぎも定まりもあるだろう。


 そして同じく例外も。


 蝋燭の灯りに浮かぶ一輪の名もなき花瓶刺しの花が、小さく影を揺らしていた。














【文中補足】

 1、犬=前田又左衛門利家


 2、内蔵助=佐々内蔵助成政


 3、豺狼路に当たれりいずくんぞ狐狸を問わん

 山犬と狼が行く手にいるときに、どうして狐や狸を問題にしていられようか。

 大悪人が重要な地位にいて権力を振るっている場合、その下の小悪人より大悪人をこそ除かなければならないことのたとえ。





















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