#12 一人静に浜簪
元亀二年(1571)三月二十日
ほんとうのお利口さんなら阿呆の真似事ができる説。
その人物は、天彦の仮説を立証するためにどこからか遣わされたような人物だった。
この瞬間ばかりは天彦も、ほんの一瞬だけ神仏の存在を勘繰った。一瞬だけ。
人物は天彦に対し徹底して辞を低くあたり、尚且つ惟住長秀を切腹の憂き目に遭わせるというあれほどのことをやってのけたくせに、自身は愚かしくも浅はかであると上手に惚けて見せながら、何食わぬ顔で参上していた。
こうして何食わぬ顔で参上したことが愚か者を演じている。そうとしか受け取れない。
むろん人物は一言も発していない。直言の許可を与えていないので尤もである。
だが天彦には確かに感じられた。この人物の言わんとする意図そのままに。
一分、二分、三分と。彼は叩頭したままじっと天彦の言葉をまった。
こんの、大ウソつきの大ペテン師め。
悪態をついてしまうが天彦の顔は明らかに笑っていた。いや喜んでいた。
戦国モードに切り替えているため表情筋の可動域は律している。よって動きは極めて微小。だが小さいながら露見してしまう。あるいは感情までは隠せないのか。それほどに天彦は大喜びに喜んでいた。
そう。この一連の出来事。すべてはこの浅野長吉の企みであると天彦は踏んでいた。
万見仙千代の寄越した人物紹介状には、それらの文言はおろか匂わせすら一切なかったにも関わらず。
やはりライフハック脳に引っ張られているのだろうか。
天彦は固定観念の危うさを感じつつ、だがどう頑張っても払しょくできない感覚、あるいは感情に戸惑う。
控えめに言って引き込まれていた。目の前の人物に。
この織田家の家内パワーゲームという壮大な陰謀を、巧みに天彦という影に紛れさせて自身が為したい策を為したいままに成した稀代の大策士に。
いったいどんな人物なのか。果たしてどんな為人なのか。志向性は。
興味が限界を突破していた。ともすると茶々丸に出会ったあの瞬間と同等かそれ以上に、天彦の感情は昂りを感じていた。
天彦は感情を包み隠すように慇懃に、じっくりと言葉を選んで声を発した。
「直言を許す。面をお上げさん」
「ははっ。お初に御目通り叶い、恐悦至極に存じ奉りまする。某、訳あって流浪の身の上となっておりまする、浅野弥兵衛長吉と申しまする」
うーん。
初見の印象は何の変哲もない侍だった。ほんとうにこれといった特徴のない、どこにでも居そうな足軽組頭レベルの侍だった。
どうしても特徴を捉えろと言われれば辛うじて武よりも文に寄った侍なのだろうという程度。それにしたって消去法なので特徴と言えるかどうかはかなり怪しい。
なるほど。なーるほど。
ひとつお利巧さんになれたことを喜ぶ。
だからこそ天彦の警戒感は最大限の警鐘を鳴らしていたのだ。何の変哲もないということは何者にもなれ、何色にも変化できるということである。
むろん各方面の思惑が交錯しているのだ。100すべてではないにしても、だが大筋の絵は彼が描いたと確信している。
それほどに天彦はこの人物を買っていた。そしてその期待にたがわぬ天晴れお見事な策であった。
何が天晴れなのか。彼が打った策はすべて。天彦の考えにリンクしていなければ成し得なかった。そこが何より凄まじい。盤上の千手を読みつくした上で、梃子を効かせなければ成し得なかった。それだけは確実である。
故にだからこそ手放しに感動し衒いなく脱帽する。
導入から結果まですべてに措いて卒なく秀逸で、特に己の存在を嗅ぎ取らせない技巧、即ち急所を散らす手腕にかけては天晴れ天下一と認めざるを得ないほどの出来栄えであった。同じ策士として細部に亘ってお手本のような流れを感じていたのである。
何度でも言う。しかもこの策の何が素晴らしいのかというと、すべては他力なのである。
己は少し鼻薬を嗅がせただけで、すべては梃子が原理に則り作用してくれた。
惟住も大津も、天彦も魔王信長も。延いては関わる者すべて。あるいは表層に浮かんだ事実よりもかなり多くの者が策と知らず動かされていることだろう。そう直感するほど、すべてが躍らされていた。
浅野長吉の掌の上で。
まさしく策とはこうあるべき。危険度ゼロ、費用対効果1,000%オーバーの、そんな圧巻の出来栄えだった。
「天晴れお見事さんにおじゃる。しかし長吉、惟住の死で誰が得をするのか。ただ一つ抜けがあるとするなら、そこだけやったな」
「お褒めに預かりまして光栄至極に存じ奉りまする」
褒めていない。だからこそ天彦は言外に皮肉った。むろん負け惜しみ100の感情で。だってむちゃんこ口惜しいんだもの。
が、
「学ぶと行うでは天地の差。やはり某ごとき褌担ぎでは、偉大なる策謀の大家であらせられる権大納言様の足元にも及びませぬ。如何様にでもお裁きくだされ」
天彦を師と仰ぐことを匂わせた卒ない答えを返しつつ、同時に寛恕も願いでる。
浅野長吉。
細部にまで抜かりなく、徹頭徹尾、尾は踏ませないようである。
だが言い換えるなら、天彦の打ってきた策はすべて把握している宣言となる。
果たしてそうかな。
さすがにこれには天彦もかちんときた。こっちはがさつで頭が悪いからメンヘラちゃんよろしく病んだりしないだけで、その一歩寸前手前まで闇落ち寸前のメンタルで、毎日を必死に生き足掻いているんじゃい! の感情で。
やや声を荒げて言い返した。
「浅野何某、お前さん、この菊亭を舐めすぎねん」
「ははっ。ご、ご無礼、仕りましてござる。平に、平に――」
御容赦くだされ。
さすがの軍師気取りもたちまち肝を冷やすと、取り繕うこともできず考えるよりも早くその場に慌てて叩頭して満身からの謝意を示した。
イツメンたちの溜飲が下がった瞬間であった。
とくに是知などは膝を打って快哉を叫んでいる。アホである。気持ちはわかるけれど。
閑話休題、
それもそのはず。天彦の感情の乗った遺憾の意は、単なる不快感を伴い吐き出された六文字の言葉ではない。
それは言い訳をすればするほどその失策を水際立たせる、圧倒的な高みにあった。
言い換えるなら天彦の感情のこもった言葉には、今や他を畏怖させる圧倒的な威光があった。天意並みの威光と、他をひれ伏せさせる上意を超えた強制力が備わっていた。
ふん。450年早いん。こんなもんで堪忍したろ。
「なんや狐に油揚げ掻っ攫われたようなお顔さんして。意外なんか」
「恐れ多くも畏くも、見ると訊くとではこうまで違い申すのか。某、ただただ感服し、ただただ圧倒されてござる」
「実物はどうやった。案外かわいいさんやろ」
「あ、それは……、ははっ」
解せん。
なんでそこで一番魂消る。しばく?
むろん是知を。おま、必至に隠そうとしても見えてるからな。しばく。
天彦は怪訝からのイラッを顔にだしつつ、まあええやろ。許しを与えた。
言葉半分の感嘆だとしても。少なくとも半分には本心が紛れている。
天彦はちょっとだけ留飲を下げられたことをよしとして、振りかざした刃ならぬ扇子を下げた。
なのに。
「本日は一言。恐れ多くも畏くも、言上仕りたき儀がござり罷り越してございまする」
「そやろな。その前に」
「はっ」
「なぜ参った」
「僭越ながら申し上げます。権大納言様の確たる御意思(施政方針)を感じ取り、某、居てもたってもいられず、こうして罷り越した次第にございまする」
「身共はそない危ういか」
「言葉を選ばず申すのなら。はい」
二間四方の天守の間が一瞬にして殺気に包まれる。
不可視の殺意ばかりではなく、はっきりと目で視認でききる物理的脅威も伴って。
主君へのこれ以上の無礼は絶対に許さぬ。菊亭侍所の面々の鬼気迫る応対に、だが天彦は扇子でその殺意を追い払う。そして、
「申してみ。遠慮はいらん」
「……」
「なんや命が惜しいんか」
「然に非ず。見事なご家中であると心底感心してござる」
「さよか。おおきに。そやけどこいつらは趣味でやっておじゃる。当家は公家。刃傷沙汰など許されるはずもおじゃらぬ。違うか」
「……御冗談を。申せばご無礼にあたりましょうや」
「そう身構えんでええさんや。ほなこうしておじゃろう。身の安全は請け負った。忌憚なき意見具申いたすがよい」
「では、ご厚情に甘えまして一言言上仕りまする。ご覧あれ」
「ん……?」
天彦は長吉が指さした方、天彦の背後に視線を誘導される。
そこには何の変哲もない琵琶湖の風景が広がっていた。当たり前だ。ここは大津城本丸。謁見の間なのだから。
それが何や。訊くのは簡単。だが謎かけを挑まれたような感情になりその一言が言い出せない。
だから渋々、この何の変哲もない風景を眺めていた。ただ茫洋と広がる誰の心にもあるだろう心象風景と変わらぬ牧歌的な風景を。
この手の設問は考え込むと泥沼に嵌る。だから極力思考を排除し、光景に身を委ねた。考えるな。感じろを体現させて。
と。
あ、わかった。
果たしてどのくらいの時が経っていたのか。
天彦は不意に閃きを感じた。
一匹の鷹が、悠然と大空を舞っていたのである。
さすがに自分を鷹と例えるほど己惚れてはいない。鳶が精々。照れ臭いとも違い面映ゆいとも違う。もっと単純に気色悪い。
いずれにせよ彼はあの鷹に例え、主君の孤独を伝えたいのだろう。
天彦はその解を確信的に直感した。なにせ天彦は目下どころかここ最近ずっと、まさしくその感情に陥ってしまっていたのだから。
だからお返しに。
天彦は徐に立ち上がるとちょんちょん。愛用の使い込まれた扇子で長吉を手招きした。
彼は天彦の意図を察したのだろう。御免。言うと躊躇なく膝立ちになりすりすりと天彦の至近に侍ると叩頭して言葉を待った。
「面を上げよ」
「はっ」
「あれを見よ」
「……」
長吉は御免。言って立ち上がると天彦の扇子の先端が示す先を凝視した。
そこには朝霞に霞む一輪の花が咲いていた。それだけが他とは違う、ひっそり薄紅色をした美しい花である。
だがその花を愛でる者はいない。その花は人の立ち入れない本丸裏の即ち人目に付かない岩肌にひっそりと咲いていたからだ。
「されど身共からは確と見える。だが名を知らぬただの美しい花なれば、いずれ記憶から消え去ることにおじゃろうな」
「……さすがは公卿様。下々には計り知れぬ風雅にございまするな。この長吉、これほど感動したことはございませぬ」
「ほめ過ぎや。身共など分家に追いやられた本家のお荷物。どこまで突き詰めても三流におじゃる」
「……」
「しかし長吉、お互いに世が狭うて不自由におじゃるな」
「何たる勿体なきお言葉。末代までの家宝と致したくお許しください」
言うと長吉はいつまでもその薄紅色の花弁をつける、きっと名も知らぬだろう花を見つめるのであった。
天彦から言外に伝えられた“世に打って出よ”のメッセージを確と受け止めて。
もちろん叶うなら菊亭の禄を食んでほしいけれど。
そんな天彦の欲目も強烈に織り込んでいた“心算”は、どう受け止められたかはわからない。
こうして会談はいったん幕を閉じるのであった。
【文中補足】
1、鳶に油揚げを攫われる
ふいに横合いから大事な物を奪われることのたとえ。
文中では自身の風聞を揶揄して狐としている。




