#10 治部と刑部と、ときどき変わらぬ友愛と
元亀二年(1571)三月十八日
信長直接の来臨の一報が舞い込んだのは本日早朝早くであった。
むろん大津城は上に下にと大騒ぎ。そんな喧噪著しい大津城の本丸城内にあって、ある集団が整然と移動している。
その先頭を行くのは、仕立てのよさそうな裃を着たキッズともアダルトとも判然としない青年侍。
彼は背後に十数名の事務官を従え、脇に面相的には同年代ぽいけれど体格が五割増しな護衛らしき侍を侍らせて、ひと目神経質そうな目性から放つ近寄りがたい雰囲気をむんむんに発散させてひた歩いていた。
「治部、お主、何を悩んでおる」
と、ひと目神経質そうな目性の青年侍は、その体格五割増しの護衛侍の方から気安く声がかけられた。
だがひと目神経質そうな目性の青年侍はその問いに応じず、むろん歩みもとめなかった。ガン無視である。
が、
「治部、お主、何を悩んでおる」
声をかけた体格五割増しの護衛侍もそんなことは百も承知とばかり、最度同じ文言を投げかけ問い掛ける。
三度、四度、五度目の問いに、ひと目神経質そうな目性の青年侍はいよいよ逃れられない現実を直視したのだろう。
片目を眇めると足を止め、実に厭そうな眼差しを体格五割増しの護衛侍に向けると渋々応じた。
「藪から棒に。何も悩んでおらぬ。刑部、お主こそなんじゃ、糊が効いておらぬではなか。衣服の乱れは心の乱れにござるぞ。殿の御導きになられる正しき道を歩まれよ」
「いや殿はどちらかと申すと邪道であろう」
「何をッ」
「いや待て。そう武張るな。待て! 言葉選びに失敗した。この通り詫びるから刀を収めよ」
「おのれ、二度はないぞ」
「お、おう。……そうだ。儂のことはよい。しかしお主、ならば渋面を少しは控えられよ。それでは人が寄り付かぬぞ」
「大きなお世話にござる。だいいちこれは生来生まれつきの面相にて。文句を申したいなら母上にでも申すがよかろう。もう黄泉におられるがな」
「そんな赤子が居て堪るか。お主という男は。ええい小賢しい、こうしてやるわい、えい」
「わ、何を、貴様、やめぬか。あ、あは、あはははははは、やめっ」
護衛が護衛対象の脇をくすぐる。
このあり得ない光景にも列は一切乱れない。整然とこの異常な光景を受け入れて事が収まるのをじっと黙し、視線を伏せて待っていた。
ぴくりとも笑わずに。されど微かにだが、どこか微笑ましげに目を細めて。
そう。彼は石田佐吉三成。菊亭家の押しも押されもせぬ重臣であり、当主の覚えめでたき側近中の側近官僚。目下は菊亭家祐筆筆頭の要職にあり、当主天彦の申し付けるすべての雑事を請け負っていた。
そして護衛の侍は大谷紀之介吉継。史実での大病はすっかり完治し、今はこうして元気に菊亭家の諸太夫として家政に精を出している。
目下天彦直属の祐筆ポジにある彼だが、剣術の技前の確かさを買われ此度の遠征では佐吉の護衛も兼ねている主君自慢の家来の一人である。
対して従五位下・治部少輔石田佐吉三成。必然信頼度はたかく、対外的にも評価は高くなって然るべき。彼もまた菊亭に多く隠れ潜む戦国元亀に名立たるはずの大傑物の一人であった。
今はまだ何事もなしてはない。だが菊亭家当主の覚えがめでたい。評価はそれだけで十分だった。
何しろ五山のけんけんさんの化身が棲まう化け物館の上から数えて序列五番目の家来なのだから。控えめに言ってえげつない。
というのが菊亭家以外からの目線評である。それを証拠に、
「祐筆筆頭様! 何卒お取次ぎくださいませ」
「ならぬ。疾く下がられよ」
「そこを押して何卒! 後日改め、付け届けもございますればどうか」
「誰ぞおる。公然と買収を口にするこの薄汚き不届き者をひっ捕らえよ」
はッ――!
どこからともなく現れ雇用の口利きを願った浪人が、どこからともなく現れた侍とも文官とも判然としない正体不明の一団に、指示通り引っ捕まって退場していった。
直訴した浪人もやむを得ずなのは、この場の誰もが承知している。当事者の佐吉以外は。
というのも家内のどこを当たっても皆が口を揃えて言うのである。取り立てられたいのなら石田殿にあたられよ、と。
ならばこの浪人が世間に聞こえる噂と併せて、石田佐吉が採用の人事担当と思い込んでも致し方なかった。
むろん意味合いはまるで違い、佐吉の推薦なら人物の胡乱など物ともせず即採用されるに決まっているから。その認識が家内で共有されているのだ。
事実はさて措き、佐吉にはそれほどの潔癖さと潔白さを広く認知されていて、彼が言うのならそうなのだろう。そんな手放しの信頼も菊亭一二を争うほど。
少なくとも菊亭家内では孤高の忠義者として目されているし、実際天彦は言葉の端々に匂わせてもいたのだった。
佐吉が申すのなら身共が違っているさんやな。と。
故に採用はほぼ不可能領域にあった。石田佐吉は善きにつけ悪しきにつけ責任を取りたがらない傾向が強かった。言い換えるのなら賭けには出ない。
似たもの主従だが、裏を返せば英雄家筆頭菊亭家の直臣お取立てとはそれほどハードルの高い事柄だったのである。それを証拠に大手柄著しい風魔党ですら未だに陪臣扱いのままなのだ。
ここに居る大谷刑部でさえ直臣として正式に取り立てられたのは、堺を出た翌日のこと。真の意味で天彦の信用と信頼を勝ち取るのは生半可ではなかった。
「治部、何もそこまで事を荒立てずとも」
「聞く耳はござらぬ」
「大津家も揺れておる。主家菊亭様の温情に縋りたい心境、お主も武士ならわからぬでもないであろうに」
「それはそれ、これはこれにござる」
問答無用。いつもの佐吉である。だが今日はやけに歯切れが悪い。いや歯切れはよいのかもしれないが、心なしか手温いのである。
普段の佐吉ならあの浪人に二度と敷地を跨がせない最後通告状を叩き付けていたことだろう。それを受けると菊亭はおろか他家でさえ仕官は永遠に不可能となる悪しき呪符。
だがそれをしなかった。
紀之介は佐吉のその感情の機微をつぶさに掴むと、ここぞとばかり一気呵成に責め立てた。
「治部、何やら憂いを抱えておるな。わかりずらいが心なしか表情にも冴えがない」
「刑部、お主先ほどからなにを申したい。いいや申すな。口を動かさず足を動かされよ」
佐吉はやはりキレが悪かった。舌鋒もそうだが態度が怪しい。
「お主、悩み事を抱えているな」
「……」
「申してみよ。解決にはならぬかもしれぬが、話して打開される道筋もあろう」
「ふむ。それも一理あり申す。他言無用、誓えるか」
「決まり切ったことを」
「誓えるか」
「ふむ。ならば、我が殿の聖名に懸けて」
「ならばよし。某、実は、縁戚の者を主家で雇用していただきたく思い悩んでござった。だがどうすればよいのか見当もつかず、こうして思い悩んでおった次第」
「は?」
「何か」
「待て。何かではない。なんじゃその下らぬ悩みは。某はてっきり女性のことかとワキワキしておったものを。時を返せ」
「何をッ」
佐吉は声を荒げて激高した。
彼からすればお笑いごとではけっしてなく、それこそ思い悩んで然るべき一大事に等しかった。身内の推薦とはそれほどの重大な覚悟を要した。むろん責任感のオニの彼ならではの志向性である。
他の誰もがやっていても、佐吉はそれを善とはしない。
ましてや己はことごとく他人の仕官を袖にしてきた。それなのに縁故で採用されるとなると果たして家中の目はなんと見るのか。潔癖な佐吉には考えただけでも耐えられなかった。
「おのれ紀之介」
「なんじゃ。しょーもな佐吉」
「何をッ! それ以上申すなら、拳でわからせてくれようぞ」
「あははは、面白い。やってみろ」
今にも取っ組み合いに発展しそうな二人の間に、それを秒どころか音速マッハで払拭する一声がかけられた。
「お前さんらはいつも仲ええさんやな。微笑ましいこっちゃ」
「はっ」
「はっ」
これまた秒よりも早く、二人は片膝立ちの略式儀礼で声の主に敬礼する。
遅れて行列も辞を低く首を垂れて出迎えた。
彼らが主君、ちびっ子魔王でお馴染みの菊亭天彦くんのご登場である。
天彦はつぶさに状況を飲み込むと、愛用の扇子を取り出しぱたぱたと仰いだ。
もうそれだけで佐吉と紀之介の顔面は蒼白状態。このお辞儀態勢の彼らからは情景さえ見えていないだろう状況で。
天彦は誰もが畏怖せざるを得ないほどの威圧感をたっぷりに振りまくと、ほどよく取った間をおいてゆっくりと言葉を発した。
「ご苦労さん。楽にするん」
「はっ」
「はっ」
「どないした。お顔さん見せてくれんとお喋りもでけへんやないか。それとも身共なんかとは目ぇさんも合わせてくれへんのんかぁ」
「ま、まさか。滅相もございませぬ」
「はっ、面目次第もございませぬ」
「ん、おおきに。さて、なんや大きい声で怒鳴り合っていたように見えたけれど。なんぞ野犬でも紛れたんか」
「いえ。然に非ず。御見苦しいところをお見せいたしまして面目次第もございませぬ」
「はっ。ほんの戯言にございますれば。何卒ご寛恕くださいませ」
「大袈裟ねん。お前さんらもう少し肩の力を抜いてこうか」
「はっ」
「はっ」
対天彦応接に関しては、極めて似た者同士の二人であった。
天彦は二人の顔を交互に繁々と見比べると、
「紀之介、申してくれるな」
「はっ」
「貴様ッ」
「佐吉」
「はっ。ここにございまする」
「黙れ」
「っ……、は、ははっ」
佐吉は額から大粒の汗をだらだらと滴り落とし、きゅーぱたんの擬音が聞こえそうな表情で震えながら叩頭して謝意を示すのであった。
紀之介は斯く斯く云云。事の発端を天彦に明かした。
訊いた天彦は細っっっい目を大きく見開くと、どこか嬉しそうに口元を綻ばせる。そして、
「佐吉、明日にでも連れて参れ。菊亭の諸太夫として直臣の栄を授けたろ」
「あ、え」
「なんや真っ青なって。厭なんか」
「滅相も! 殿、この御恩。生涯をおかけしても必ずや……」
天彦は佐吉の言葉を最後まで聞くことなく、何も言葉をかけず背を向けてその場をそっと後にした。
◇
「誰さんやろう」
佐吉のフレンドリストにはいったいどんな人材が埋もれていることやら。
誰だっていいが知っている人材ならすべてレアキャラ。それこそこちらが雇用に出向かなければならないほどの逸材である。
天彦はそれこそルンルンと擬音が聞こえてきそうなほどのテンションで、目的の場所へと足を進める。
と、
城内に商人……!?
は?
えげつない違和感の塊が目に飛び込んできた。
可能性はゼロではない。商談だってあるだろうし。
だがここは本丸。港とは分離された居城の一角。そんな雑事を招き入れるはずがなかった。
そして何より、あの胡乱の塊に天彦の信頼できる護衛たちが誰一人警戒感を露わにしていない。これは明らかな異常であった。
天彦が襲撃されたあの日以降、警護の目はそれこそ鷹の目よりも鋭かった。それなのに。
「殿、如何なさいましたか」
「氏郷。あの者、胡乱には思わへんか」
「……何と。己の失態を恥じ入りまする。者共――ッ」
氏郷は警戒レベルをマックスに高めると、即座に天彦を背に匿った。
だが天彦は扇子で氏郷の背をひとつ叩き、
「警戒せんでもええ」
「なぜにございまする」
「ようお顔さん見てみい」
「……なっ」
それは彼らもよく知る、身内の顔をしていたのであった。
「そんなとこに居らんとこっち参れ」
声は聞こえていないはずだが、その商人コーデを着た男は小さくぺこりと会釈をして、つかつかと歩を向けて歩み寄ってくるのであった。
「殿」
「まんじびびったん。でもやっぱし小太郎ねん! すっご。どないしたんやおめかしして」
「射干党の網、思いの外厳重にて。こうして商人に成りすまして入城してございまする」
「なるほど」
ルカ、やるじゃん。
天彦が視線で感心の意を向けると、ルカは照れたように頬を掻き、小さく会釈して応じていた。
「で、そうまでして伝えたい案件はなんや。何となくあんまし訊きたない予感がするけど」
「件の仕掛けの首謀者、判明いたしてございます」
「相次ぐ襲撃やな。訊こか」
「はっ、お耳を拝借」
天彦が頷くと小太郎は膝立ちですり寄り耳元でごにょごにょごにょ。
すると天彦の表情から一瞬にして血の気が引いた。
天彦の態度から小太郎は何かを察したのだろう。見せたことのない驚愕を張り付け、いつもの無表情を大きく揺らした。
「まさか、ご存じで」
「……よう知っとる。ずっと網を張っていたからな」
「やはり。げに恐ろしきは殿の千里眼にございまするな」
「たまたまねん」
「なるほど。殿からすれば百発百中も偶然の産物にございまするか。風魔党これにも増して精進いたしまする」
言って小太郎は姿をくらませた。まるでちょうど吹き込んだ春風に紛れ込んだかのようにあざやかに。
そこにまるでタイミングを見計らっていたかのように、ルカが姿を現わせた。
氏郷を払い除けるように身体を寄せると、
「お殿様。お具合いがよろしくなさそうだりん」
「いやどうもない。心配かけて堪忍ねん」
「大丈夫そうには見えないだりん」
「ほんまに大丈夫ねん」
「ですが……」
天彦はルカへの応接もそこそこに、すでに心はここになかった。
小太郎から訊かされた事実があまりに驚愕だったからなのだろう。全神経すべてのリソースがその思考だけに割かれていた。
あり得るのか。
いやあり得ない。
だが、……あり得た。現にこうして起こっている。
普通に考えれば報復だろう。この世界にありがちな。
だが一方であり得ないとも思っている。思ってしまう。
浅野長吉。多くは長政で知るこの人物。確かに豊臣政権を代表する傑物であろう。豊臣政権下では五奉行を務めたほどの人材であれば。
だが天彦にはどうしても解せない。時代とあまりにマッチしないからだ。
浅野長吉(長政)は天正元年(1573)、浅井攻めで活躍した秀吉が小谷城の城主になって初めてこの世に名乗りを挙げることとなる。
そのときですら近江国120石扶の足軽組頭。彼の故地である大津城二万石を与えられるまで、今からおよそ十二年の時を要する。それでさえ秀吉が存命であるという条件が必要であった。
それが飛び級で織田家の最高幹部である天下総御番役の目に留まることなどあり得るのだろうか。秀吉亡き後、在野も在野の状況で。
天彦の頬に大粒の汗が滴り流れた。
原因と結果の間には一定の関係が存在するという原理。転じて物理学における因果律は成り立たないことにおけるジレンマ現象。即ち特殊相対性理論による因果律の揺り戻しが起こっているのでは。
そんな不気味極まりない可能性を考えてしまったから。
「管理者さん、オコなの?」
天彦はふざけた口調で大真面目に、そんなことを思ったり思わなかったり。
が、
「契約不履行はそちらの瑕疵。身共はなーんも悪うない」
だって約束のオフショア口座はまだこれっぽっちも片鱗さえ姿を見せてくれていないのだもの。
みつを風にぽつりつぶやいた言葉には、いつにない恐れと深刻さが紛れ込んでいた。
そんなありもしない人物と約束を持ちだすほど、天彦は心理的窮地に追い込まれているのであった。
【文中補足】
1、浅野弥兵衛永吉(初名)→長政。猶、長政は晩年の改名で初名の長吉を名乗っていた時期が長い。
豊臣政権五奉行の一人。太閤検地を指揮し、諸大名から取り上げた金山・銀山の管理を一手に任されていた。
能力値の高さもさることながら、信長から始まり秀吉、秀頼、家康、秀忠と、主君五人に仕えてきた戦国でも数少ない強運の持ち主であり、その強運を呼び込む理知的な分析力は天彦をして唸らせるほど秀逸である。あるいは戦国一の人物かもしれない。←天彦評。
史実では暴走する佐吉を諫める損な役回りの人。との認識でだいたいおK。
2、石川久五郎光元
豊臣政権の官僚の一人。あまり知られていないが佐吉の縁戚にあたる人物。
言外のリクエストにお答えしまして石田さんと大谷さん回です。……え、答えられ




