#09 祈りっぱなし語りっぱなしで解決実績ゼロの人つよ
元亀二年(1571)三月十七日
大津伝十郎は他の武家とは違い、菊亭家の諸太夫を非常に丁寧に遇した。
一般的に公家に侍従する諸太夫はそれが文官であれ武官であれあまり歓迎はされない。というのも彼らは非常に傲岸で不遜。まるで己が貴種であるかのように振舞ったから。
だがご存じ菊亭は当主からしてアレなので、目につくかはさて措き痛いほどの権高さは誰一人として持ち合わせてはいなかった。誰ひとりは盛った。居た。やばいくらい偉そうなのがひとり。はい、彼です。
いずれにせよ大津伝十郎は誠心誠意が伝わる心尽くしの歓待をしてイツメンを筆頭に諸太夫たちを持て成した。
大津港で水揚げされる特産品やそこを経由して近郊に運ばれていく地方の名産品のお土産まで持たせて。
その健気さがイツメン衆の心を打った。高虎や佐吉ならいざ知らず、海千山千のラウラや与六や氏郷が、そんな単純な経緯だけで絆されるとは思えない。
故にそれだけではないのだろうが、けれど少なくとも御家来衆の歓待は、その一助とはなった。それは確かであった。
「いや、無理よ?」
「天彦さん」
「お殿様」
「若とのさん」
「殿」
「殿」
「某からもどうか」
あぽーん。
ふざけろ、お前さんら。
目下天彦は脅威の圧迫交渉の場に曝されていた。猛烈に、そして熱烈に、ときにはえげつないほどの脅し文句で大津伝十郎の恩赦を願い出られていた。
だが天彦は頑として首を縦には振っていない。理由はひとつ。一貫した方針として他家の武家丸ごとの仕官を受け付けないことにしているから。むろん生存戦略の一環として。
だがイツメンたちが懇願してくる。そんなことは分かった上で猛烈に熱烈に。
「某の秘伝レシピを、若とのさんにだけこっそり教えてあげますから」
「得意げに秘蔵持ち出されても、それどうせ身共が市井に撒いたやつや」
「そうやって何でもかんでも御自分御自分と。なんで若とのさんはそうなんです。若とのさんのアホ、ボケ、わからず屋さん! つい先日までおねしょしてはったくせに!」
「してるかッ」
こいつだけは。せめてちくちく言葉にせえ。それただの悪口やんけしばく。
天彦がこうして、ちょいちょい可愛さ余ってキュートアグレッション感情に見舞われてしまうのはきっと気のせい。……ではないだろう。しばく。ぺし――。
「地味に痛いです。扇子でぺしぺしせんといてください」
「厭やろ。てい」
「痛いです!」
「身共の心の痛みと知れ、てい!」
「あ、いたっ、痛いですって! ――逃げろ」
天彦は雪之丞の呆れる馬鹿さ溢れ逃げ去っていく背中にジト目を向けつつ、けれど感じる。
裏を返せばそれだけ大津伝十郎の為人と、それに裏付けされた好感度の高さを、ひしひしと感じてしまう。
これを感じとれなければ不感症を疑ってもよい。これは抗議の家門運営にインクルードされた欠かせないプロダクトなのだから。よって言い訳は効かない。
感覚過敏な天彦はちゃんと感じ取った。彼らの反応を通じて大津伝十郎の人格が見えてくるのだが、しかし人の良さだけで家来を抱えていけば右を見て左に向いたくらいの秒速で家来の数が膨れ上がっていってしまうではないか。やはり却下。
これは不感症の読み抜けとはまったく別物。結果が同じとしても180度違っている。
話がそれたが、大津伝十郎。確かに救済の手は出した。彼の誠実さに免じて。
けれど領地の安堵も建前に過ぎず、自由度はかなり狭まる。その観点からすればたしかに大津家の非業を予感はさせる落着とはなっている。
何より一番の懸念は四人の倅たちにかなりの恨みを残してしまうだろうこと。彼らの母御前はこの一件で檜舞台から降りざるを得なくなる惟住長秀の妹であった。
だが天彦からすれば確実にこれだけは言える。自分は近い未来、確実に訪れるだろう破滅から彼を救ってやったのだと。
彼の命ももちろん家名の存続も料地だって形式的にとはいえ安堵している。いったいそれ以上に何を望むのか。生きていればそれだけで丸儲けではないのか。それではあまりにも業突く張り。
だが望むだろう。彼らにはその未来が視えていないのだから。
けれど天彦にその未来の出来事は語れない。語ってもいいが具体性を伴う説明はできない。ちょっとでは済まない不審を買ってしまうから。
イツメンなら問題はない。現状よりほんのちょっとラブが増えるだけで済むだろうから。家中だってそう騒ぎ立てはしないだろう。だが果たして世間の目は。
無理。ただでさえ化け物扱いされている。これ以上は勘弁だった。
天彦はイレギュラーを自覚している。しているだけに異端扱いは許容できた。何なら詐欺師扱いだって甘んじて受け入れる覚悟がある。
だが神仏扱いだけはやってない。国を挙げての神格視など理が非でも勘弁だった。
それらをすべて包括的にひっくるめた上で、天彦は断言した。
「救いようは他にもある」
と。
単純にイツメンたちの顔に免じただけなのだが、感触は想像する十倍を遥かに上回る好感触で返ってきた。
「殿……!」
天彦は家来たちの反応、鍵カッコとビックリマークが推定十つ余りついただろう反応を受け取って、改めて大津伝十郎の人間力の凄さに感じ入るのであった。
けれど一点。
「大津の何がいったい、そうまでしてお前さんらの御心さんを動かしたんや」
一向に核心を掴めない、事の本質だけがどうしても引っかかった。
◇
結論、大津伝十郎の大津家は二年以上に亘り、菊亭家を支援してきたらしかった。影に日向に。
むろん天彦は把握できていない。だから日向部分はないのかもしれない。つまり裏支え中心に支えられてきたようであった。
エビデンスはまさかの人物が認めた文であった。
「天彦さん、こちらを」
「何さん」
はァ!? ……、まんじ。
天彦はラウラから差し出された文に目を通す。文末に目を向けずとも、落款花押を確認する必要なく、コンマ5秒とかからずそれが誰の認めた文であるのか気付いてしまう。
「兄弟子」
そう。角倉了以直筆の文であった。これまで何度となく目を通してきた文。そこに認められた文字を天彦が見間違えるはずがなかった。
つまり吉田屋を通じて菊亭家はかなり便宜を図られてきたのだろう。通関や関税などの。加えて賄賂と。文にはそういった具体性を伴う恩義の数々が克明に記載されてあった。
これは即ち俸禄を真面に支払えていない菊亭の、土台というのか基盤というのか。あるいはちょっとした闇が垣間見えた瞬間でもあった。
隣人は優しい振りをして隙あらば毒牙を剥くもの。
それが天彦の体感であり経験則。だがその反面はない。この事実に表裏はなかった。これまでは。
天彦は亀の鈍足だが、けれど着実に前進してきた自負がある。しかしながらその道程には多くの他人の尽力があったのだろう。
その突き付けられた事実を前にすれば、我がことながら痛切に感じてしまう。己が如何に独りよがりであったのかを。
はぁ……、めんど。
天彦はクソデカため息をひとつ零すと、救いようは他にもある。
脳内の言葉を具現化させた。
「天彦さん」
「お殿様」
「若とのさん」
「殿」
「殿」
「殿」
考え込むこと十数秒。
「倅を召喚いたせ。我が下僕として召し抱える」
お、おお――!
けっして小さくない感嘆が漏れ聞こえた。そして口々に真っ直ぐな言葉で謝辞を述べ衒いない喜びを爆発させた。
はぁ。しんど。
やはりまたしても大きく方針丸の舵を切らざるを得なくなった、ようである。
倅が菊亭家の諸太夫なのだからその生家の窮地を救うのは道理に適うの巻。
自分で脳内反芻してみてかなり無茶だと直感してしまう。
陪臣とはいえそもそも織田家家臣の倅を、信長の許可なく召し上げるなどどだい不可能な話である。それこそ大上段から喧嘩を売っていると受け取られて何ら不思議はない最上級の挑発行為である。
もしこれを通そうとするなら、その無茶にも増したむちゃくちゃな詭弁と強弁が必要となることは誰の目にも明らかで。
するとそれを知らぬはずはないお利巧さんなイツメンたちは主君天彦ならやってのけてしまうだろうと高を括っている節がある。
いや節どころの話ではない。手放しの信頼を預け、家来のお強請りなど容易に叶えてしまうのだと、全幅を超えた信頼感でどうやら成功を確信してしまっているようであった。
家来たちのこの明るい表情を見ていると天彦は、妙な胸騒ぎとえっっっぐい重圧とに押しつぶされそうになったりならなかったりする。
「ほんまはあかんねんで」
だが天彦の出したこの答え。苦し紛れのこの奇策はイツメンたちを大いに喜ばせ、どこか曇天ムードだった家内に一陣の清風を吹き込まさせ晴天を呼び込んだことに間違いなかった。
この唐突に突き付けられた当主マターだが、当たり前だがイツメンたちが思っているほどに容易くはない。なにせ天彦、一杯どころか何杯か食わせたばかりである。
はぁ、しんど。
それはしんどい。こんなしんどいことを常時突き付けられる家長職などいつでも放って捨ててやる。と毒づいてしまいそうになるほどしんどかった。あくまで心構えとして。
だがこうなったのも自分の蒔いた種である。自分がこれまで独りよがりに突っ走ってきたから招いた結果である。
天彦は祈りっぱなしで解決実績ゼロの宗教家を心底羨ましく思いつつ、それと同じくらい世間にテーマを与え論じるばかりで一向に解決はしてくれない論説家を妬ましく思いながらも、しかし本音はけっして言葉に出さず、西の空を横目でみやり、ぽつり。
「むずいがせなあかん。最善は要らん纏まれば悪手だってなんだって。さて、どうやって丸め込んで落とせばええんや」
つぶやくと、もう心はここにあらず。
魔王信長のすべてが詰まった脳内ファイルを呼び起こすと思考の全リソースを傾けるのであった。
【文中補足】
1、大津伝十郎正員(おおつでんじゅうろうまさかず)(1560~
壱岐守を名乗り父長昌の死後、藤堂高虎に仕え関ヶ原に従軍した。