#05 鳳雛、ちょっとだけ羽ばたく
元亀二年(1571)三月十六日
公家町・旧一条邸菊亭家屋敷。
その正面の通用路には、五百では利かない騎馬が詰め掛けていた。
見事な馬体の騎馬に跨る煌びやかな衣装を纏った厳めしい侍たち。もうそれだけで威圧感は満点である。
加えてそれがしかも粒立てた名立たる武将揃いとあって、場は逆に騒然とするほど。
そんな彼らは鞍上から険しく見える視線を、彼らが出しているのだろう見事の一言に尽きる豪奢な箱に送っていた。
「者ども、抜かるでないぞ」
「はっ」
騎馬の先頭には織田家軍事総奉行である惟住左衛門督長秀と、黒母衣衆筆頭である川尻与兵衛尉秀隆が馳せ参じていた。
共に軍務を司る押しも押されもせぬ織田家の重鎮であり、その威風だけで賊を寄せ付けないことは請け負いの完璧な陣容であった。
その彼らが何かの気配を察知したのか、さっと鞍上から飛び降りると手綱を従者に預け渡し、つかつかつか。彼らが用意したであろう牛車に足を運ぶ。
そして箱の傍で控えるべく煌びやかな衣装のまま片膝を屈した。裾の汚れなどお構いなしに。
略式ながらも最上位の礼法である。彼らはその姿勢をとったまま畏まって待ち構えた。
するとややあって、
「菊亭天彦様のおなーりー」
呼び込みの発声が聞こえた。と、同時に警護を除くすべての名のある侍たちは首を深く垂れて伏して出迎え客の登場に備えた。
「惟住越前守、並びに川尻肥前守。出迎えの儀、大儀におじゃる。道中の御無事さん、よしなにあらしゃいますぅ」
「ははっ、確と御奉迎差し上げまする」
「はっ、同じく」
いつにない天彦の態度に、場の緊張感はピークに達する。
「お家来衆さん。ほな、よろしゅうお頼みさんにあらしゃいます」
ははっ――!
天彦はまたぞろ余所余所しい口調を棘のある声色に乗せてイツメンたちに掛けると自身はそそくさと牛車に乗り込む。
だが一見すると冷たく感じるその声掛けに対し、与六、且元、氏郷、高虎といった菊亭侍所の諸太夫たちは、表情を紅潮させるほど嬉々として主君の乗る牛車の脇に侍るのであった。誰も彼もが大波乱を予感する期待感丸出しの顔をして。
向かうはむろん、魔王城(京都本店)である。
◇
旧二条第本丸御殿は現在、中央官庁庁舎二条本庁として機能していた。
その本丸一階迎賓の間にて、本日は重要かつ重大な会談が執り行われようとしている。
菊亭×織田会談である。
久方ぶりの両家の邂逅とあってか二条第はやけに重苦しい気配に包まれている。
それもそのはず。この会談にあたっては菊亭側から、それは非常に珍しい注文が入っていたからである。
天彦側が会談に差し当たって付けたその注文とは、“国家豊穣を祈念しての謁見なれば理にあたられたし”であった。
解釈の幅はかなり広い。だが受けた信長は魂消たとか。
直ちに博識である祐筆を招集、回答を求めた。ところ、御政道に敵い給え。という結論に至ったのである。
要するに天彦を帝の直臣である公卿殿上人として正しく遇するようにという要望だと解釈されたのであった。
それは信長をさぞ驚嘆させたことだろう。そして同時にそうとう警戒もさせたはずである。それはそう。あの型を嫌う略式が服を着て歩いているような人物による形式・格式要求なのだから。親しい間柄の信長でなくとも普通ではないことを予感させて尤もであった。
故にそれが本日のこの二条第の緊迫感に繋がっていて、並々ならぬ事態の出来はそれを知らぬ者にまで十分に理解させるほどであった。とか。
そして本日。すべては天彦の要望通り、すべてが格式張っていた。
手落ちがないように細部にまで渡り細心の注意が払われていた。
席次以外は。
直前まで信長は迷っていた。天彦をどう遇するかを。天彦とどう相対するかを。真剣に、懸命に、深刻に考えていた。
だが信長は自身が上座で迎え入れることに決め、今、まさにこうして天彦と対峙しているのである。
貴人の中でも極僅か、ほんの一握りの貴種にしか着衣を許されない、厳かな浅紫の位袍を纏った、そして一切の隙を感じさせないともすると冷淡とさえ感じさせる凛とした相貌の天彦と。
「ご苦労、よう参った」
だが天彦は故実の礼をとったまま黙して一切言葉を返さず。
ただその感情だけを視線に預けて如何なる仕儀かを問い続けていた。
「……」
「……」
果たしてどのくらいに沈黙の時が流れたのか。
場に集うすべての者が固唾を飲んで成り行きを見守る中、果たして先に言葉を発したのはまさかの信長公であった。
「なんぞ不満か」
と、気遣いを見せて折れる始末。
だがその最大限の配慮さえ、今の天彦には届かないようで。
「直言を許しておじゃらぬ。ましてや故実の作法も存じぬ山猿と、交わす言葉は持ち合わせておじゃらぬ」
「なにを」
一触即発の気配がたちまち七間四方に充満する。
だが天彦はそんな気配もなんのその、
「直言を許して進ぜる。弾正忠、大儀でおじゃる」
「貴様」
堂々言ってのけてしまうのであった。
信長の表情と気配から、どうやら事前の示し合わせは一切感じ取れない。
つまりすべてがアドリブである。すると雰囲気は控えめにえっっっげつない。えげつなく終わっていた。
そんな剃刀の刃の上を渡って歩くようなこの危うさに、されど両陣営の反応は180度違っていた。
単に一触即発の緊迫感で手に汗握る織田家家中と違い、菊亭家中はそれどころかむしろこの世の春を謳歌するかのように嬉々として、この緊迫の場面を楽しんでいる。そんな節がありありと伺えた。
主君が主君なら家来も家来、誰も彼もが挙ってみーんな阿呆である。
対する織田家中のすべての侍たちを巻き込んで、そんな呆れとも恐れともつかない感情にしてしまうような狂気じみた空気を纏う、そんなど阿呆揃いであった。
「さすが殿、中々どうして滾らせてくださる」
「然り、死出の花道としては申し分なし」
「十、いや二十獲る」
「ならば儂は三十じゃ」
「相手にとって不足なし」
与六が、且元が、氏郷が、高虎が、吉継が、あるいは侍以外の文官諸太夫たちでさえ、挙って煽りの言葉を吐いた。
ただし100、いや120の本気度で。それと伝わる武威を纏って。
彼らはこう言いたいのである。
この場面こそ醍醐味であると。これぞ万年貧する菊亭家に仕える唯一にして絶対の特権である。そう。絶対の大儀の御旗の下に逝ける。と。
相手が誰であろうとも。あるいはこうして天下に大号令をかけられる大大名の君主が相手であろうとも。
菊亭が掲げる三つ紅葉の下に身を委ねさえすればそれでよい。それが大儀なのである。この世の真理なのである。彼らはそう固く信じている。ともすると妄信的に確信している。
菊亭の臣とは帝の臣、延いては己こそが日ノ本の礎である、と。
そう感じさせる表情で、今にも小躍りしそうなほどの喜びを噛み締め腰に佩いた大太刀の柄に手をかけて臨戦態勢に入っていた。
僅か十数名で、この場に集う数百名にも及ぶであろう織田家の名立たる武将を相手取って、一歩も引かずにむしろ圧倒せしめるほどの武威を放って。
この場が血の海に沈むのか、それとも。
答えはすぐにも形となった。
それは背負うものの大小か。あるいは家の大小か。それとも局面の捉え方の違いだけなのか。
いずれにしても片や額に汗を滴らせる苦渋顔の信長公と、片や涼しいよりも猶も冷ややかな相貌で無理を感じさせない役者っぷりを演じている天彦とでは、勝敗の趨勢は明らかであった。
信長公は、おそらくは誰にも見せたことのないだろう、怒りでもなく諦めでもない、然りとて悟りではまったくない難しい表情を浮かべると、上座を明け渡す意思を示して徐に立ち上がったのだった。
そして、
「公家とは斯様に厄介であったのか。余も考えを改めねばならぬな」
「おほほほほ、武家ほどのこともあらしゃいません」
「――で、あるか」
周囲の緊張が極限に達する中、どかどかどか。
大股で天彦の傍に向かって歩み寄ると、どん。
乱暴に腰を落として胡坐を掻いた。
そして、どこか今度ははっきりと諦めと伝わる表情を浮かべて天彦を正視したのであった。
そしてなんと、
「上座をお譲りしてござる」
「おおきにさんにおじゃります」
あろうことか、天彦に席を譲ったのである。指を突いて髷と月代を晒して、深々と首を垂れたのであった。
まさか……!
この驚天動地の出来事に、けれど場は徐々にだがむしろ穏やかな時を取り戻していったのである。
「気が済んだか」
「何とか」
「貴様、これで土産がなくばただでは帰さんぞ」
「おほほほほ、麿もそう願わっしゃりますぅ」
「ちっ、喉が渇いた。茶を馳走してやる」
「ご馳走さんにおじゃります」
「ふん。おい、一等安い茶を出してやれ。渋ければ渋いほどよい」
やめとけ、要らんわ。
天彦の無言の返答にも、ふん。信長は臍を曲げたままであった。
◇
「皆、口を揃えて申しおる」
「ほう。それは何さんにおじゃりましょう」
「しらばっくれおって。貴様が先刻申したことよ」
「然様で」
天彦は何食わぬ顔で応じた。信長もそれ以上は追求しない。
天彦が何を指摘したのかはさて措き、織田家中が皆が口を揃えて信長に注進すること。それは官位を授かること。
天下の仕置き人が弾正忠ではあまりに軽い。そう言っているのである。職位がどうこうではなくて、相対的に軽すぎた。
家格が軽いとどうなるのか。無理が通らない場面がいずれ訪れるだろう。あるいは控え居ろうと鼻っ柱を叩かれる。さきほど天彦がしたように。
むろん恐怖の大魔王にそれをするのは覚悟がいるし、命だって残機10では足りないだろう。
だが。魔王様とて永遠の命ではない。
それは織田信長の代でなかったとしても、いずれ必ず。やってくる確実に訪れる未来のお話。
権威とはそうしたものであり、武家が治める軍事政権ならいざ知らず、天彦が目指す治世とは公家が治める官僚機構政権なのである。である以上は必ずやってくる未来である。
ならば位はどうしても必要となる。それも家が継いでいく特別な家格が。
その位を頂かないという前例を作ってしまうとかなり厳しい。なぜなら武家とは徳川家に例を見るように、始祖の遺言にはかなり忠実な人種である。
信長公が無用としたものを誰が継ぎたいとおもうだろうか。絶対に否である。何しろ魔王はおっかなすぎた。
故に今のうちに改めておけ。奇しくも天彦はそれを体現してみせたわけだが、どうやら信長も感じるところあったようで。
「狐、貴様が程よい官位を見繕っておけ」
「よろしいので」
「二度も言わせるな」
「なるほど。実によい心がけにおじゃります。ならばお引き受けいたしておじゃる」
「ふん。で、あるか」
予てからの懸案事項が不意に晴れた。これには天彦も面食らう。
だが本日の会談を気が気でないだろう東宮への、何よりのよい土産ができた。天彦は本心から衒いない喜びを噛み締めるのであった。
さて本題。
信長はやや身体を前のめりに、重い口調で問いかけた。
「越後が何やら騒がしい。此度の騒がしさはどうやら本腰が入っておるとかおらぬとか。狐、貴様の仕込みか」
「はい」
「おのれッ」
果たして何度目だろう極大の、緊迫の帳が降りる。
だが、
「で、あろうの」
「はい」
秒で収束してしまう。
この案件は魔王をして、それほどの世紀末案件なのであった。
「して、如何する心算じゃ」
「何とも」
「勿体ぶるな。疾く申せ」
天彦はたっぷりと勿体ぶってお道化てみせると、そっと腰に手をあててそこには無い刀をエアーでそっと引き抜いた。
「ふふふ、伝家の宝刀を抜いたったん」
「貴様の所蔵品など妖刀に決まっておろうが。仕舞え不吉な」
「ひどい」
「ほざけ」
ギロリ。
信長はぴくりとも笑わず、彼こそ鈍く怪しい輝きを放つ視線を天彦に送った。
言葉こそなかったものの掛ける圧力たるや凄まじく、その眼力にはしくじれば後はない。疑いようもない感情がありありと込められていた。
だが天彦は軽く受け流す。何なら“おほほほ”と取って置きのお公家笑いで笑い飛ばしてみせるほどの余裕を伺わせて、緊迫の場面に相対した。
懐裏は那辺に。
信長は数舜だが天彦の感情を推し量るような視線をぶつけた。
「手始めに東国を平らげてもらいます。その先駆けとして上杉さんには中央政権の軍門に下ってもらうでおじゃる」
唐突な策の開示に、信長は元より、場に集うすべての者からため息が漏れた。それも憚ることのないクソデカのやつ。
天彦は思わず笑ってしまう。そのリアクションがあまりにも想定内すぎて。
ややあって、
「笑いごとではないぞ。狐、それはほんとうに可能なのか。軍神が我が軍門に下るなど天地が引っ繰り返っても起こり得ることなのか」
「さあ、どないさんであらしゃいますやろ。ですが身共に不可能があったとは終ぞ覚えがおじゃりません」
「さては貴様、北条を調略したかッ! ……おのれ、何が公家じゃ。何が不戦じゃ。呆れて物も言えぬではないか」
「麿はなーんにも申してません」
「どこまでも惚けおって。小童、……信じてよいのじゃな」
天彦はこくり。真剣な目をして頷いた。
対する信長も真剣な目で応酬する。ひょっとすると天彦の数倍にも及ぶ切実なすさまじい熱量のこもった双眸で。
「織田家の命運、天彦、貴様にすべて預けたぞ。その方が望む平和のビジョンとやら、確と余に見せつけてみよ」
言って信長は織田家の軍権の象徴である軍配扇を放って預けた。
預けられた天彦は、一旦露骨に迷惑そうな顔をするというアクションを入れてから、再度仰々しく軍配を掲げ仰いで懐に収めた。
「どうやら正気のようではあるな」
「ひどい!」
「違うのか。お遊びで済まぬ場面でこそ遊んで見せる。真剣な場面ほどお道化て見せるのが天彦、貴様の流儀と思ったが」
「ちっ」
狂気じみた応接を、すればするほど正常性の担保となるとか。どんだけー。
「確と託されておじゃる。ほな参ります」
「うむ。菊亭天彦、大儀であった」
こうして菊亭・織田首脳会談は無事に終えた。
菊亭天彦という人物の、またしても途轍もない伝説をひとつ追加して。
◇
帰路、
「若とのさん、あんな大風呂敷広げて、某知りませんからね」
「あははは。それは困る。そやけどお雪ちゃんが知ってくれてたこと、一度でもあったやろか」
「当り前ですやろ。あり……ま、……あれ?」
「おもしろすぎねん!」
わははははは、がはははは、ぎゃはははは――、
まあない。
だが家中はイツメンを筆頭に、空気感はこれまでないほどの超絶いいムードの行列である。
今なら何をボケても2,000%でウケるだろうレベルの。
なので天彦は敢えて笑いを封印した。
この足でこの悪巧みの本丸の仕上げに掛からなければならないのだ。
「織田と上杉の両家を、一日で梯子なさる御方は天下広しといえども、さすがにお殿様だけだりん」
「凄いやろ」
「凄すぎて、いっそこれは実は容易いことなのではと錯覚を覚えてしまいそうになるだりん」
「ふふ、いつでも代わったるで」
「主家のご当主など、誰も引き受けたがらないだりん。絶対に」
「ひどい!」
だがルカの言葉も強ち冗句でもないのだろう。菊亭の置かれた状況はあまりにも過酷にすぎたし、何より薄氷すぎたのである。
「天彦さん、勝算はおありで」
「まさかないとでも」
「そうは思いません。ですが天彦さんはときに驚くほど無手で、あるいは敢えて場当たり的にあたられますので。一応念のためにお尋ねしました」
ばれてーら。
だが今回ばかりは天彦にだって勝算はある。
謙信には言葉は不要。むろん粗末に扱ってよいという意味ではなく、通じ合っているといういい意味で。
これは天彦の確信である。信頼度の高さと言い換えてもよいだろう。こればかりは謙信にあって信長にはない。そんな確信なのである。
信長と謙信の相違点はいくつもあるが、決定的な違いは天彦に対する認識差である。
ずばり。人として見ているか見ていないかの差。即ち神格視しているか道具視しているかの違いである。
信長は天彦を完璧に道具扱いしている。だが対する謙信は天彦を人とは見做していないきらいがあった。いやはっきりと人扱いしていない。
但しこれは甲乙つけがたい認識であり、一見すると利便性の塊のように思える神格視にも多くの弊害が含まれていた。その逆も然り。
即ちいずれも各々のビジョンには適合しているため、強ちどちらが天彦を有望視しているとは決めつけられず一概には語れない。これは認識の差ではなく視点の違いである。
今回はそれがいいように作用すると天彦は踏んでいた。おそらくはするのだろう。そうやって仕込んできたし、そうなるように接してきた。
だが仮に作用せずとも抜かりはない。万一に備えた後北条崩しは万全である。
「お手紙そろそろ届いたやろか」
「いずこにだりん」
「決まってるん。セバスティアン一世さんとピウス五世ねん」
「……それはどなた様なので」
「ポルトガル王とローマ教皇」
実はイングランド王ジェームス一世にも出していたりするが、こちらは宝くじみたいなものなのでこっそり。
ルカはさすがに事情を知らない。
するとラウラが割って入った。
「スペイン王フェリペ二世ではなしに、でしょうか」
「そうや。イスパニア無敵艦隊にはご退場頂きます。ラウラには堪忍ねん」
「いいえ。ですが天彦さん。あなた様の目はいったいどこまで……いいえ、詮無きことでした。お忘れください」
天彦はすでに聞いていない。心は遥か彼方。遠くの海を渡っているのだろう。
確固たる視線で西の空を見上げて、
「伴天連の勝手は絶対に許さん」
確固たる意志を乗せてつぶやくのであった。
中天に差し掛かった初春のお天道様に。そっとぎゅっと。
【文中補足】
1、鳳雛
鳳凰の雛




