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元亀二年(1571)三月二日
堺を出た菊亭一行は情報収集のため高槻城で足を休めると、牛歩の足並みで物集女街道を経由し洛外に入った。
まず目指すは醍醐御料地にある横大路城である。
洛中に入る前のワンクッションの意味合いだが、それにも増して料地を守り切った蒲生家への労いの意味合いが強かった。天彦的に何となくその方がいい気がして。
「店主、馳走になったでおじゃる。心尽くしのもてなしに報いる銭が今はあらしゃいません。代わりと申しては何やが、これを取らそ」
「なんと勿体ない。では有難く頂戴いたします。お公家様、またお越しくださいませ」
「最後まで名を訊かぬのやな。それとも身共を知っておじゃるか」
「いいえ存じ上げません。ですが御伺いした方がよろしかったでしょうか」
「訊かぬが華や」
「ではそういたします。道中の御無事をお祈りいたします。どうぞご無事で」
「おおきにさん」
茶屋をでた。すでに銭は尽きてない。あの工面上手のラウラですら素寒貧だと言って苦い笑い声を漏らすのだ。菊亭の蔵にはきっと銅銭一つもないのだろうことが察された。
だが旅茶屋の店主は素寒貧だと承知しながらも売り物の茶と茶請けを振舞ってくれた。
天彦は故に銭の代わりに扇子を与えた。ばっちりと家紋が刻まれた愛用の扇子を。使い込まれた傷や汚れはこの際きっと味となろう。
店主の代で回収できずともきっと子孫は喜ぶはず。将来的に天彦愛用の扇子ともなれば、おそらく超が付く高値で取り引きされるだろうから。お宝以上に超がつく特級の呪物として。
「銭」
「天彦さん、はしたないですよ。それと自虐が醜いですわ」
「むう。心が狭いのも卑しくなるのも、すべて銭がないからや」
「稚児のように泣き言を。いっそラウラの胸で甘えますか」
「あのな。身共が甘えると申したら何とする気や。男子を揶揄うもんやない」
「あら何とも。存分に甘えさせて差し上げるだけにございますけれど」
「あ、はい」
天彦を困窮させている張本人であるところの三介はついに帰還を果たした。正しくは果たしていたとなるのだろうか。五体満足の無事な体で。いや、おそらくは無事なのだろうという推測で。
というのも天彦は会えず仕舞いで、巷に流れる噂で岐阜への帰参を訊きつけたほど。そう。お手紙さえもらえない状況が続いていたのだ。こちらから差し出しても途中で突き返される始末。
けれどがっかりはしていない。むろん心配も不安もない。
エラーコード403なら一大事だったが、このお手紙すらもらえない急な本国への強制帰還は404 Not Found。即ちお探しの頁は見つかりません。
どうやら魔王様はお怒りのようであった。
つまりこの急な本国岐阜への強制帰還は三介の勝手に対するペナルティ。
外部との接触を一切絶たれた謹慎以上蟄居未満のそうとう厳しいお沙汰であった。
「茶筅アホねん。顔見たらしばいたろ」
「ずいぶんと嬉しそうですこと。妬けますわ」
「は? これのどこが嬉しいねん」
「うふふ、ではそのように」
三介のやらかしにもかなり甘い魔王のこと。一見するとやや過敏な対応かとも思われるが、それもそのはず。
どこから漏れ出したのか現在京の都では織田家重臣中の重臣である生駒家の裏切りが実しやかに囁かれていて、目下織田家中はその火消しに大わらわなのである。
風聞は拙い。それだけで貸し米の金利が乱高下するご時世である。政権を預かる織田家としては一刻も早く鎮静化を図りたいところ。
しかし社会基盤を作り上げるため日々、天下の普請に腐心している政権担当家である大織田家を掻きまわすとは酷いやつもいるものである。
このこともあってか信長公は常でさえ神経質な相貌をいつにも増して尖らせて神経をすり減らしているとかいないとか。
体質に合わない酒量が増えていることは想像に難くなく、仮に天彦が部外者ならお労しや魔王様のお手紙を直ちに認め送るところ。だが惜しむらくはどうやら部外者ではなさそうなのでそっとしておく他にない。
この三介への対応からもお察しのように父魔王の怒りの度合いは、控えめに言ってたいへんそう。
触らぬ魔王に祟りなし。天彦は魔王との直接対決(懐柔)の時期をずらすことを決め、当面は内裏界隈の浸透工作としてロビー活動に勤しむことに方針を決めた。
というのも天彦は天彦で、ちょっと織田家に構っていられない問題を急遽抱え込んでしまっていたのだ。
簡単に言うとそれは縷言の計である。菊亭のあることあること。かなり具体性を以って非難する縷言が飛び交い、織田家の醜聞とともに二大お騒がせゴシップとして京雀たちの耳を慰撫していたのである。
思い当たる節は一周回ってもあり過ぎた。
と、そこに丁度のタイミングを見計らってか、一騎の馬が天彦の操る馬の馬首を合わせにやってきた。
「お殿様」
「なんやルカ、そない深刻ぶって」
「はい。度重なる大失態。申し開きの言葉もございません」
「ふふふ、織り込み済みねん。そう気に病むことない」
「いいえ。形を変え、必ずやご恩に報います所存にて。何卒ご猶予をくださいませ」
「猶予もなにも。……ん、そこまで申すなら相分かった。但しルカ。身共はルカさえ納得できるのなら、なんだってええさんなんや。それだけは忘れるな」
「お殿様……、はい」
ルカがこの世の絶望をその美顔に張りつけ謝意を述べる。薄っすらと涙さえ浮かべてみせて。
そう。またぞろ射干がやらかした。むろん証拠は挙がっていない。
だが縷言の中身があまりにも詳細克明でもはや疑念は疑念を超えていた。内部リークを確信せざるを得ない状況だったのである。いっそ吹き出し笑いをするレベルで。
あいつら隠す気ないさんやろ。
天彦がそんな確信を覚えるほどの馬鹿正直なリークであった。
少しずつだが射干の意識改革は進んでいるとのこと。天彦はそれでいいと考えている。故になんの対策も打っていない。
むろんいい加減な責任逃れの放置プレイなのではなく、死なば諸共の覚悟は当然できている。射干党とはもはや菊亭に仕える一介の諸太夫家ではなく、血肉を分けた肉親以上の間柄だと決めているから。
ともすると本家などよりもよほど信用を寄せている。
何しろ射干は、文字通り命の借りの大恩人ラウラの結党した一党であり、大変厳しい状況下で大英断を下してくれた途轍もない義理のあるルカの愛する一党だから。
射干の決断は受け入れる。
それが天彦の決定であった。これは正誤ではない。ましてや損得などでは絶対になく、もっと高尚で極めてウェットな天彦好みとはとても思えない感情由来の決定であった。
故に射干は血肉を分けた肉親以上の間柄でないと不都合であった。
そう不都合。
単純な話、ラウラとルカは天彦にとってそれほどの存在であったのだ。
彼女たち、もしくは彼らがなくては天彦の思う覇道の実現は不可能だとさえ断言できてしまえるほどの。そんな存在になってしまっていたのである。
ある意味でそんな人間関係が築ければ人生上がり、人生優勝まであると天彦は強く信じる。
天彦は様々な変更と転換を余儀なくされて今に至る。ほんとうに様々な。
だが実はこの方針転換こそが、一番の大転換ではないだろうか。あるいは大変調ではないだろうか。そう自分自身でも感じるほど、この心変わりには戸惑っていた。
だが事実。
内面に修羅を飼う彼の、悪鬼羅刹のように冷徹で砂漠のようにドライな彼の心の内を融かしてみせたのは、銭でも地位でも名声でもなく、情という名の誰にでもある何の変哲もない感情だった。
あるいはそれを巷では感情に左右される愚か者。と呼ぼうと呼ぶまいと、そんなことはどうでもいい。どうだっていい。
天彦にとってこの感情は紛れもなく正しさの象徴であり、唯一にして絶対の頼れる己の指針であった。
コンパスは愛。
「……あ、うん」
第一感さぶい。次にハズさが押し寄せてきて、最後はキモすぎてサブいぼがたった。
はいお仕舞い。
となれば早々にこの話題から撤退しようそうしよう。
いずれにせよ、ここにきて大きく転換をみせた中でもこの心変わりこそが一番の変調であったことは事実である。
それは信頼や信用などというベクトルの感情なのではなく、天彦を因数分解して炙り出した、もっとどろどろとした彼の悪い部分の、いわゆる執着という負の感情から由来するやつ。
言葉にするとチープで重い。だが天彦の感覚的にはかなりいい感じのグルーヴ感なのである。
◇
菊亭一行はなだらかな行列を作って、一路御料地醍醐の土地を目指している。
洛中に近づくにつれ街並みが栄えを感じさせる。造形しかり規模然り。
すると必然人通りも増していき、菊亭の行列も自ず自然と目を惹いた。
そしてその人々が示す反応の代名詞である視線ときたら、
「高虎、しかし酷いな」
「おう氏郷。これほどとは思わなかったぞ」
「鬱陶しいの」
「ああ、面倒じゃの」
「じゃが懐かしい。これぞ京の都であるな」
「おうよ。これでこそ京、これぞ都の空気でござる」
「然様、これでこそまさに京に舞い戻ってきたという実感が湧くというもの」
つまりアウェーと言いたいようで。
天彦が訊けば泣くまであるどこか切ない懐かしみ方に、されど周囲はどっと沸いた。あっけらかんと、とても陽気に。これも菊亭の家風であると言わんばかりの笑い声を響かせた。
聞こえてんゾ、しばく。
心では吠えるが声には出さない。
なぜならこれが家来たちの見せる一流の気遣いだと知っているから。
こうしてバカ騒ぎすることで、民衆が送ってくるこの陰気で邪険な視線から、遠ざけてくれようとしているのである。天彦の陰鬱な感情を吹き飛ばしてくれようとしているのである。きっとそう。そうに決まっている。
お前さんら。
その代表格が集団の先頭を行く二人の猛将。
天彦は鞍上にある頼れる二人の家来を、まるで眩いものでも見るかのように目を眇めてそっと見つめた。
他方、天彦に見つめられている二人といえば。
主君の視線を確と背中に感じつつ、軽口じみた会話を終えると何やら示し合わせたように行列からそっと外れた。
「寄越せいッ」
「放れい!」
そして二人はほとんど同時に槍持ちの従者に唸るように下知を告げた。
すると従者は心得ていたとばかり即座に応対、見事な手際のよさで穂先を外すと大槍を鞍上目掛けて高らかに放る。
放物線を描いた槍は見事に二人の掌に収まる。
「よっしゃ! 高虎」
「おう! 参ろうぞ」
見事に受け止めた二人は、ぶん、ぶん――、上半身の腕力だけで虚空に銀閃を豪快に煌めかせて見事な武威を誇示してみせた。
いわゆる演武というやつである。
五合、六合、七合と、凄まじい風切り音のを伴った銀閃が激しい火花を散らせてぶつかり合った。
やがてそれが五十を数えたとき。
「どなた様の行列と心得るか――ッ!」
「次の権大納言、菊亭天彦様の行列なるぞ――ッ!」
氏郷が吠え、高虎が呼応して叫んだ。
その大声は西京極大路から三本大通りを挟んだ木辻大路まで届いたとか届かなかったとか。
いずれにせよ氏郷と高虎の気合の大喝は、好奇以上非難寸前の視線を送っていた民衆たちの下衆な視線を蹴散らすには十分であった。
おお――!
民衆は氏郷と高虎の見せたデモンストレーションに感嘆し、あるいは主君の面目をたてるその心意気に盛大な拍手喝采を送っていた。
こうして民衆に菊亭の帰還お披露目は恙無く終わった。
それはきっと成功で、悪い噂を消し飛ばしたとまではいかないにしても。形式以上に歓迎され、厚い歓声で迎え入れられたと思いたい。おそらくきっと、たぶん、メイビー。
「ラウラ。あの二人の俸禄、たんと上げたってほしいん」
「はい。ではそのように」
天彦はいい、ラウラは優しく受け止めた。いつもの会話、いつもの笑顔で。
むろんこの通りにことが運用されることなどない。けっしてと断定してもいいほどない。すべては夢物語であり机上の空論なのである。あるいはお気持ちだけは受け取る的な。
上げるも何もそもそもから。給金は一度たりとも真面に支払われたことはなかったのだ。それが菊亭家唯一かどうかは定かではないが、悪しき習慣の一つであった。
よって俸禄や賃金が正しく定期に支払われることから始めなければ菊亭は、いつまでたってもやり甲斐搾取系界隈の代表格企業の誹りから脱却などできないのである。
猶、一門衆を始めとした家来たち諸太夫が、ではなぜやれているのかというと話は簡単。すべて約束手形の発行で銭を用立てているのである。いわゆる信用貸付である。
但し国債と違って広く出資者は募っておらず、同じく利害関係者になるかもしれない武家にも貸し出しは求めていない。ならば。
そう。菊亭発行の約束手形はすべて座や商店が貸し付けを行っていた。ほとんど無利子に近しい低金利で。期限もこの時代なら∞とも思える長期の二十年決済である。
つまり彼ら貸主は菊亭家との繋ぎを買っていたのである。
そんなことは一切特記されていないが、なぜか不思議と貸付額が大きい順に新事業への参入に融通が利かされていた。
しかもこの約束手形が焦げ付く可能性はかなり低いとくれば、商人や座の間では投資先としてはかなりの優良物件として認識されていることだろう。
何しろ裏書には弾正忠信長の花押と落款に並んで、豪商大吉田屋商店の保証印が堂々と刻印されているのだから。
目下、それ以上の保証人はこの世に存在しなかった。
言いきってしまっていいほどの人物が二人、菊亭発行の期限付き約束手形の裏書き人として名を連ねているのである。
人々の想像力をこれでもかと掻き立てる、霊験灼然な触れ込み付きの護符機能まで付与された。
「ようも広めたもんや。ラウラはお人さんが悪かったん」
「仕組みを着想なされたお方がよくも仰せで」
「なーんも知らんよ」
「あら。ではわたくしの勘違いにございましたわ。ご無礼仕りましてございます」
「だが助かった。これで家来たちを路頭に迷わせずに済みそうや」
「あやつらは多少冷や飯を食っていて丁度ですけれど」
「辛いな」
「何を申されます。これほど甘いお家など他にあるとは思えませぬ」
くくくく、うふふふ。
この主人あっての家来であった。
閑話休題、
但し感情面ばかりでもない。そこにはきちんとした計算や打算もある。
つまり同じ死ぬにしても言葉では絶対に死なない。そんな自信の裏返しでもあったのだ。
何しろグローバルな文化的アイコンを標榜したのは自分自身である。
射干党ばかりを責められないという感情も手伝い、天彦としてもこの件には寛容に応接せざるを得なかった。
それが家内に射干贔屓、ルカ贔屓と映し出されることに気づきもせずに。
この頃の菊亭家内にはどことなく不穏な気配が渦巻いていた。とくに是知派の官僚たちの不満の声は聞き捨てならないレベルで大きく、それら不満のタネは彼らを筆頭に文官系諸太夫の悪感情にも火を点け燻らせてしまっていた。目下の菊亭は控えめに言ってそんな由々しき事態にあった。
一難去ってまた一難。
トラブルはひとつ解決すると新たに二つ出現する。
そんな天彦の経験則を証明するかのような惨状はいつものこと。
あはははと笑い飛ばして次へと進む。それがこの戦国元亀、茶碗一杯の米より命の価値が低い大波乱つづきの戦国の時代を、生きてゆくためのたった一つの冴えたやり方。であると嘯いて。
要するに気にしたら負け。ヘラったらそこでお仕舞い。なのである。
縷言を撒いた策士の狙いは至極単純。天彦の名声を貶め、菊亭を追い落とすためであろう。風説の流布とはそもそもそれ以外の意図はないとしたものなのでおそらくきっと。
すると出所は中央政権一択であり首謀者は言わずと知れた公家抵抗勢力であろう。それも天彦が支える西園寺家の台頭が目障りで仕方がない界隈の。
いずれ借りはきっちり返すとして、だがこの件での無視できない問題も浮上していた。
それはともすると織田家も絡んでいるかもしれないこと。そんな可能性が見て取れる、非常に危うい風説も混じっていたのであった。
一見すると明院良政に亘りをつけたことによる織田他官僚グループの掣肘と解釈するのが自然だが。……果たしてそうかな。
織田家には複数の派閥が存在する。主に政治閥と軍閥に加えて祐筆官僚閥なる派閥とに大別される。そこに嫡男派だとか色々な要素が複合するが今は除けて話を進める。大別すればこの三派閥。
天彦は今回、考えあってこの祐筆官僚閥を頼っていた。故にそれ以外の閥からの反発は必至と予想され、その予想通りの反応が出たに過ぎない。
天彦に抜かりはない。政治閥の筆頭家老・天下所司代村井貞勝には仁義を通しているし、家臣筆頭家老である佐久間信盛にも当然筋を通してある。むろん軍閥筆頭家老・軍権総奉行の丹羽長秀にも、その他重鎮家来にも以下同様。
だからといって横槍がまったく入らないかといったらその限りではないのだろうが、天彦にはどうしても別の筋の別の思惑が隠されているように思えてならなかった。
内裏の中枢に居座ることが確約されている天彦の、メンツを潰してまで事を荒立てる利得があまりにも少ないからだ。ゼロではないが極めて過少だと言わざるを得ない。
すると、まるで天彦の疑念を晴らすかのような言葉が右斜め後ろからかけられた。
「伊賀者の頻りな出入りが確認されておりますようで」
「ほーん」
まるで天彦の内心を見透かしたようなラウラの指摘に、天彦は確信を覚える。
それはまさしく天彦の予測をずばぴたで補完する状況証拠であったのだ。
「織田さんと伊賀はどうなんやろ」
「織田近衛中将様の一件と、当家預かりの藤林家の一件とで芳しくないと聞き及んでおりますけれど」
「そうやんなぁ」
ラウラは天彦の考えを補完した。
天彦は推論に確信を覚える。伊賀者とは即ち伊賀党のことを指す。
そして伊賀党と訊いて誰もが初めに思い起こす人物は、そう。服部半蔵家の当主、保長である。
この件には服部半蔵保長が介入している。
政治介入はさすがに厳しいだろうが、乱破発破素破はお手の物。
異論は認めない。10人中11人が伊賀と言えば服部半蔵保長を想像するに決まっていた。←きっぱり。
「おタヌキさんさあ」
味方にフレンドリーファイヤーを打たれた気分で気が滅入る。
その反面、家康の気持ちもわからなくもなかった。さしずめ儂の存在も忘れてくれるな。といったところか。
それがうがち過ぎなら都の情勢を不安定にさせて自身の価値を相対的に高めるとか。天彦が家康公なら、きっとならそのくらいは考えただろう。そしておそらく実行に移した。
だがいずれにせよ無駄な悪あがきに終わってしまう。なぜなら将来的には、その健気な想い丸ごと踏みにじる気満々マンなのだから。
現状では徳川家は邪魔すぎる。邪険に扱いたくはないがあまりにも鬼札すぎたのだ。何かにつけて偉大過ぎたのである。神君家康公という人物は。
よって天彦としては、後ろめたさからこの程度では目くじらをたてるきにはなれなかった。何より、
「慣れっこねん」
「まあ天彦さんたら」
「お殿様」
「殿、お労しや」
ラウラとルカはこの際無視。佐吉の真っ直ぐな視線が眩い(痛い)。
そんな天彦だが、やはり悪風には慣れっこだった。何しろこれまでずっと、自分でも厭になるくらい、菊亭と悪風は切っても切れない仲睦まじい間柄だったので。
草が生えまくったところで。
故にむしろ人は己を悪く思って然るべき。そのくらいに思っていた。
「与六」
「はっ」
「気分が変わった」
「ほう。と、申されますと」
「進路変更したく思う。あかんかな」
「蒲生殿には某から」
「助かる」
「なんのそれしき。何なりと御所望くだされ。この樋口与六兼続、殿の御願い、すべてを叶えてみせまするぞ」
与六は呵々と笑って大口を叩いた。
与六の滅多と訊けないリップサービスに、緊張で雁字搦めだった天彦の表情が一気に晴れて解れていった。
「おおきに。さすがは身共の扶さんや。ほなお言葉に甘えて参ろうさん」
「はっ、ではいずこに参られまするか」
「公家町に参る」
「はは――ッ」
各々方、進路を西へと変更いたす――!
横大路通りに樋口与六の大声が鳴り響くと、一斉に馬首が翻される。
天彦は思い立ったが吉日とばかり、目的地を急遽、御料地居城である醍醐横大路城から公家町へと変更。堂々と真正面から朱雀門をくぐり上洛を果たすことにしたのであった。
むろんただの思い付きだが、強ち悪手とも言い切れない。急な予定変更は家内の予定も狂わすが、敵の仕込みや悪巧みの予定も狂わすのである。
猶、菊亭は内裏参内の折りには、生家今出川家屋敷の北隣にある旧一条家屋敷跡に入る手筈となっていた。むろん前住民である一条家は公家町を退散していて今はどこかは杳として知れない。
想像するに中国での一件で反省し、分家の故地である土佐あたりに自主謹慎でもしているのだろう棒。
天彦は関知しない。
すべては太政大臣就任予定である西園寺家の采配によるものである。天彦は下知を甘んじて受け入れるのみ。
それが天彦の実益に対する終始一貫しているスタンスである。今までもこれからもずっと。
しかも今回の件はわかりやすくて受け入れやすかった。実益の意図が明確だったから。
文句があるならかかってこい。
さしずめそんなところだろうか。
実益の荒々しい気性ならそれ以上の可能性もなくはないが、いずれにせよひとたび天下に名乗りを挙げた以上衝突は避けて通れず、天彦とて此度の帰還は喧嘩上等の気概で臨んでいる。
だからといって一切妥協する心算はない。などと肩ひじ張る心算は更々なく、それは実益の領分であり、天彦には天彦の生き様が他にある。
そう。事は何でも柔軟に対応。
よく言えば当意即妙。悪く言えば場当たり的な。
天彦の人生はだいたいがそれに尽きた。されど極意として、どうにかこうにかやれてきている。
どうせ放っておいても非情にならざるを得ない場面はくる。必ずくる。
何しろ敵方の裏には人を人とも思わない破廉恥な、鬼畜伴天連国家勢が大挙して控えているのだから。
どうしたってあたるなら非情にならざるを得ないのだ。あくまで大前提、あくまで心構えとして。
故に公家町煩方界隈の納得感など度外視で、天彦は今回、菊亭の態度を表明しなければならなかった。つまり押し通すという強い態度を。
故に天彦は二つ返事で実益の申し入れに乗っかった。
この案件、かつてのような長いものに巻かれる雑魚ではないと、明確な態度の表明に打って付けのお引越し案件だったので。
「泣き虫天彦くんはもうどこにも居らへんねん」
「そんな若とのさん、端からどこにも居りませんやん」
「おい」
「なんですのん」
「頬っぺならまだしもでこに餡子つけてるやつおらんのよ!」
「あ。ほんまや」
「身共でさえ我慢してんのに、いったいどこで調達してるん」
「てへ。そや若とのさん」
「なんや藪から棒に。厭な予感しかせーへんけど申すだけは申してみ」
「はい。東宮さんとこへの御出仕、堪忍してもらえませんやろか」
「アホか。寝言は寝て申さんかい」
「ほな寝ますわ。東宮さんには申し伝えておいてください」
「お前さん、ポンコツとおり越していよいよいかれたんか」
「ひどっ」
ひどない。
見解の相違である。そして雪之丞、彼は根っからの分からず屋。あるいは理解度が極めて低く、共感力ゼロのゼロゼロマン。つまり説得するだけ時間の無駄。
「逃げろ」
「あ」
雪之丞は拙い馬術を操り、疾風とは言い難い鈍足を駆って駆けて行った。
その気になれば余裕で追いつく。だが天彦にその気は一ミリも起きない。
どうやら本気で出仕をぶっちする気である。別当なのに。東宮家の筆頭官吏なのに。控えめに言って終わっていた。
菊亭家の筆頭。天彦の腹心といえばそれまでだが。さすがの天彦でさえかなり引く。
閑話休題、天彦はしゃんと胸をはって馬を操った。
少なくとも土地を無理やり召し上げたわけでもなければ、権限者である東宮殿下の承認も得ている正当な権利の行使なのである。誰に憚ることもない。
菊亭一行は、ややあって通りから侵入を阻む大門に差し掛かった。
羅城門である。
皆がその大門を見上げる。
「いよいよ戻って参りましたな。誠におめでとうございまする」
「ん」
感慨も一入。
天彦も羅城門をそっと見上げる。
朱雀大路から奥に護国寺を臨むその荘厳な大門を改めて見上げながら、ぽつりつぶやく。
「ただいま」
と。
状況説明だけで一万字。おつかれした。しかも京に辿り着いただけ。しばいていいよ
PS新章・京都政情編よろ。ドクシャーの応援だけが支えです┏○ペコッ




