#28 情けは敵、仇も敵なり
永禄十一年(1568)十一月十九日(旧暦)
内裏城郭の漆喰壁沿いをぐるりと真向かい目指して歩いて行く。
道中、門衛(武衞)に不審な目は向けられるがどうやら胡乱には思われていないようである。誰何されたり制止されたりまったくせずにノンストレスで天道(大手筋)を行ける。
天彦はだから敢えて、
「お勤めご苦労さまです」
「はっ、忝く存ずる」
衛兵に声をかけてみる。すると即応。
衛兵はやはりというべきか、やや緊張の面持ちで格式張った応対をした。
この反応で確信する。幸か不幸か自分の顔と名前は末端衛兵に差すほど売れているようであると。
だからではないが昂っていた感情が薄っすらと冷めていった。
むろん冷静には程遠いものの視野が極端に狭くなる状況からは脱っすることができていた。
ゆっくりと立ち止る。
天彦の動作に合わせて背後の家人たちも歩みを止めた。
こういうとき雪之丞の存在は何を差し置いてもたいへん貴重。控えめに言ってラブである。
「若とのさん、どないしたん泣きそうな顔して」
「泣きそうちゃうで、泣いてるんや」
「うわ、見栄もよう張らんのん。かっこわる」
「阿保か。これからやっちゅうねん」
「うん、知ってます」
二人して笑い合う。男らしく虚勢を張って子供らしく無邪気に。
「武田攻めてくるん」
「お雪ちゃん、さすがに盗み聞きはあかんで」
「違います。漏れ聞こえました」
「襤褸い壁のせいか」
「はい薄っっっすい壁のせいです」
「修理しよか」
「はい修理しましょ」
ラウラは抜け抜けと白々しく堂々と同意の頷きで応じ、佐吉は……、修行が足りないようだ。
織田は四万の兵で上洛を果たしたという。いくらなんでも盛りすぎだとは思うが、都の民にはそのくらいのインパクトを与えたのだろう。何となくわかる。
すると武田は。
現状では史実通り駿河侵攻、つまり駿河や後北条領への二正面作戦決行中である。逆説的に大した兵力は移動させられないはず。
「千か二千か」
精々。それも寄せ集めの。言葉に発生し公家町を包囲されている場面を想像してみる。うん。
控えめにいって地獄だった。お仕舞いだった。家も家だがなんといってもこの町、防衛力に弱すぎん。脳内で容易に蹂躙される様に眩暈を覚える。
そして見過ごせない問題として武田と織田の同意問題である。目下の京に織田の同意なく誰かが上洛できるだろうか。確実に否。何人もけっして叶わない。
そんな世界線があったのだろうか。考えても答えは出ない。だが二正面作戦を決行しているのだ。絶対にないとは言い切れない。
すると……脅し、か。だがけっして虚仮脅しではないレベルの警告。うん、警告の意味合いが強いのか。そう考えると得心がいく。
武田系今出川に嫡子が誕生した場合に備えた警告だろう。ご苦労周到なことである。欲しいならいつでもくれてやるというのに。やらんけど。
天彦は一旦思考を閉じて、手をぽんと打った。
「すっきりされましたね」
「うん。案外大したことなかったわ」
「どないです」
「想像してみ、お雪ちゃん。千や二千の屈強な兵が今出川殿をぐるりと取り囲んで、お雪ちゃん出さんかいって威勢を誇ってるんや」
「こわないかも」
「植田雪之丞、ださんかい! うおぉぉぉ、やったら」
「そ、某は戦います。……コワいけど」
「無茶はしたらあかんで」
「でも……、そや! そういうとき主役さんやったらどう言わはるん。若とのさんいっつもゆうてはったやん。かっこよくありたいのやったら主役さんになりきって考えやって」
「主人公な」
「うんそれ」
「ハズイからやめて。一生ゆう気なんか」
「恥ずかしいこと某にさそうとしてはったんですか」
「撤回します。そやな主人公やったら、“千や二千何するものぞ。欲しくばこの首くれてやる。取りに参れ。百は二百は道ずれとして進ぜよう。いざ――っ!” やろか」
「おぉ、かっちょええ。でも若とのさん、絶対に言わへんな」
「なにゆうてんのお雪ちゃん。身共のこと舐めすぎやで」
「え、ゆうの」
「当り前やろ。ゆうわけないやん」
「あ」
「どて」
「でしょうな」
〆はカラスがかーと鳴いた。
それはそれとして保険は打っておかなければならない。インシュランスがない人生など常備薬箱の中にマキロンが入っていない人生に等しいのだから。
あるいは冷蔵庫の扉側にストックキリポーションが切れてしまった状態同然の緊急事態なのだから。どうやってプレーンパスタ食べろっちゅうねんっ。
「ほならここからは正式にお邪魔させてもらおうか。射干」
「はっここに」
「先触れに参ってくれるか」
「承りました。何方へ」
「持明院さんや。場所はわかるか」
「はい。城壁を挟んだ真南の御屋敷かと承知しております」
「そや。行ってくれるか」
「はっ、たただちに」
「中筋通りの裏手から参るんやで」
「なぜ」
「大手通りの用人は口煩い婆さんや。何かと詮索されるやろ」
「なるほど。確と」
ラウラは佐吉を連れて向かって行った。信用度上げにはこの手の用事の積み重ねが地味に効く。
「お雪ちゃん待ってよか」
「えー暇ですやん」
「ほなそこらの衛兵揶揄って遊んでよ」
「若とのさんには常識いつ宿るんですか」
「や、やかましわっ。安定して不安定なのが身共の持ち味なんやで」
「某、ちょっと心配になります。お家の一大事ですよね」
「ぐぅ」
「一門の頭領らしくちゃんとしてください」
「あ、はい。……なんでやねん!」
強がって嘯いて、雪之丞に冷静にたしなめられた気恥ずかしさを懸命に打ち消そうとする天彦だった。
◇
「返してください」
「まず落ち着き。ほらお茶や。宇治から取り寄せたええやつやで」
「桔梗屋でしょ、嘘に決まってますやん。頂きます。ずずず、ごくん。馳走になりました。返してください」
「はは、忙しないお人や。訳、聞きましょ。……ほんで、嘘やったかな」
「はい嘘です」
「ちっ」
おい下がれ。
基孝はいって家人を下がらせ人払いをした。
これはそうとうあり得ないことである。いくら子供とはいえ人払いをして二人きりなど。なにせ基孝は帝の妃(新内待基子)の父親なのだから。
尤も新内待基子はまだ幼齢。正式な妃となるのは次代の帝の代になろう。
天彦が対面している好々爺は、第十六代持明院家当主・従二位権中納言基孝である。
持明院家とは藤原北家中御門流の名門貴家であり、貴族としては羽林家格を有する中流家紋である。因みに家門は杏葉紋。
天彦は下心半分、当時は助かりたさ無我夢中半分でこの家の稚児の命を救っていた。
それが後の持明院基子(孝子)である。目下、帝(正親町天皇の新内待/内待の第五位)に仕える女官であり、いずれ後陽成天皇(勾当内侍/内待の第一位)、として二君に仕える偉人となる人物であった。
特に後陽成天皇期は宰相典待、大納言典待といわれるほど存在感と辣腕を発揮するスーパー女官となる予定の重要人物。
その父親に天彦は大きな貸しを作っていた。同時致死率九割(90%)超えとさえいって恐れられた流行病から命を救うという途轍もなく大きな貸し付けをしていた。
その貸しを自ら剥がしに参っているので、その無様さたるやさすがの天彦とて赤面ものの想定外ではあったのだが。
気安さにもわけがあり、その件以来天彦は基孝から顔を合わせるたび“うちの子になり”とリップサービスで持て成されていたからだった。
「返してください」
「わかってる。そやから訳、聞かせてくれなあかんやろ」
「虎や。人喰い虎や」
「甲斐かいな」
「こっちが必至やのに冗句ですか。笑えません。ぷぷ」
「それは笑てないもんがゆう言葉やで。けど洒落やない事態のようなや」
「はい甲斐です。どないしよ」
「うちの子におなり」
一拍置いて。
「厭です」
「そない正面切るもんやないで。教えたやろ」
「一拍置きました」
「足らん。ぜんぜん足りへん」
「はい。勉強不足でした。でも厭です。父親によい印象がありませんので。権中納言さんのことはまだ好きでいさせてください」
「あ、ああ。さよか。ほな考えましょか」
「はい。飛び切りのヤツ捻りだしてください」
「因みにどちらさんがお越しなんや」
「諏訪四郎。またの名を勝頼さんです」
基孝はすぐさま瞼を閉じた。意外にも長考だった。
遠いのか近いのか記憶の奥を探る風にじっと黙って眉間に険しい皺を拵える。
ややあって、
「諏訪の庶子やな。それも四男坊の。なんや大そうに。てっきり三条さん絡みかと気ぃ張ったわ。ほな在り来たりなご機嫌伺いか将軍さんへの表敬訪問(ご機嫌伺い)と違うんか」
「今川攻めてるからですか」
「そや。今川は連枝やさかいな。北条はその縁者さんや」
「違います」
「ん」
「四郎はたしかに庶子の四男坊。けど必ず跡を取ります。家内での支持基盤こそ築いてませんけど、確実に跡は取ります」
「なるほど。確信がおありなんやね。でも天彦さん、その言葉を鵜呑みにしてもへんやで。勝頼さん、武田さんの通字(信)を継いでいませんようやけど」
鋭いオヤジだ。じっと惚けとったらええのに。
天彦は内心の憮然を隠さず語気に預けた。
「神さんのゆうとおりや!」
まあ普通にすべるのだが。
神通力がこもっていないし勢いで押し切りには相手が悪い。
「……さよか。そやけど困ったら神さん引っ張りだすのそろそろ控えや。阿呆に思われたら御の字、奇妙がられたら先々しんどいで」
「あ、はい」
「ほなちょっと参内してきましょ」
「え」
「なに驚いてはるんや。こんな大物、将軍さんか朝廷しか捌けへんやないか」
政治は力学で動く。科学的根拠とは一切別物、これ常識。
武田がやっていることはもろ政治だ。ならばテコを利かせてやればいい。
基孝は言外にそう告げた。むろん天彦も承知している。この場合の驚きはそこまで働きかけてくれる行為に反応しただけである。
「あ、はい。でも」
「子供が遠慮したらあかん。ましてや麻呂は公家の父親やで。父親が我が子守らんで誰を守るんや」
「あ」
嗚呼……、身共。
不覚にも不意を突かれた天彦は、涙腺を崩壊寸前まで緩ませてしまう。
俯くとお仕舞いだ。耐えろ、堪えろ、男子やろ。
ぎゅうっと膝をつねるほどきつく掴んで懸命にそのとき凌ぐ。
どうにか感情のピークは過ぎ去った。肩を震わせ、
「御頼み申し上げるでおじゃります」
「気丈なこっちゃ。それでこそ麻呂が見込んだ男子やけど」
「ご高配、恐悦至極に存じ奉るでおじゃります」
「よし、お家で待っとり。そやけど今日明日というわけにはいかんで」
「はい。自室でじっとして吉報をお待ちしております。道中、特に暗闇などはお気をつけて」
「そんな危ないんかいな」
「言葉の綾です」
「……ほんまやろな」
「この目が嘘を――」
「見せてみい」
「どうぞ。瞳の奥に深い知識の底がみえるはずです」
「いんや、あさはかな欲望しか見えんな」
「おいジジイ」
「もうええ。やめとこ」
父親とは。こんの――。
「失言を撤回し即刻謝罪いたします。ごめんなさい」
「ははは、冗談や。でも一本取れたようやな。参ってくる」
「ほっ」
なぜ自分の周りはちゃんとふざける人が多いのだろうか。
天彦は自身の言動を顧みずにそんな疑問を覚えるのだった。
【文中補足】
1、持明院家(藤原北家中御門流)
従二位権中納言基孝・第十六代持明院家当主
家格・羽林家、家門・杏葉紋
持明院基子(孝子) 基孝の娘
正親町天皇(新内待/内待の第五位)、後陽成天皇(勾当内侍/内待の第一位)、二君に仕える。
特に後陽成天皇期は宰相典待、大納言典待といわれた。
屋敷は内裏を挟んで今出川殿(菊亭屋敷)の南真向かいにある。
2、武田晴信(信玄)
正室を三条家から迎えている。




