#09 リスクプレミアム
元亀二年(1571)一月十七日
天彦がストレスばたんきゅーしてから丸五日。完全休養とまではいかないが十分な休息はとれている。裏ではそれなりの業務をこなしつつ。
一歩表に繰り出せば風は刺すように冷たく、息は凍えるように白い。
そんな大寒間近の時節柄、ここ自治都市堺にも洒落では済まされないほどの厳つい寒さが到来していた。
「不自由を常と思えば不足なし。暑い」
しかし天彦の部屋はぬくぬくと温たい。それこそ体感では息苦しさを感じてしまうほどむんむん、煌々と、ふんだんに暖が取られている。
寒さで凍えて死者が出ることも珍しくない昨今、この発言が贅沢と知りながらも、けれど暑い寒いを感じなくてもよい人生を自らの手で勝ち取ってきたのだ。そのくらいの我儘は許されよう。
そんな思いで天彦は、すっと開けられた襖扉の方へと目をやった。
「よろしいですか」
「ん」
男装の麗人、次郎法師だった。
彼女はラウラ並びにルカと共に三人で、24時間の持ち回りの看護体制を敷いて天彦の看病にあたっていた。
「お声が聞こえましたもので。お加減は如何でしょう」
「ん、ええ風が通り抜けてええ塩梅なん」
「では少しこのままにしておきましょう。お具合いはいかがですか」
「おかげさんでこの通り、すっかり癒えてええ感じさんや」
「ご無礼を承知で申します。お殿様のお言葉は少々信用なりませぬ故、失礼。……お熱は引いたようにございますね。ようございました。御髪を整えてもよろしいでしょうか」
「ん」
口を開けば弱音を吐くか無意味に強がるかの両極端な天彦のこと。よって次郎法師の応接は至極妥当と思われた。
信頼度の低さにやや憮然としながらも、次郎法師への信頼度はかなり高い。
天彦は床に入ったまま腰を起こした状態で次郎法師の好きに任せた。
彼女は意外にも世話好きなのである。そして家内には数少ない身だしなみにとても口うるさいお洒落さんだった。
髪を整えられたついでに冷しぼで汗を拭きとってもらう。
普通ならここでお仕舞いのところ、次郎法師はひと手間を加え香油をさっと塗ってくれる。
べたつく汗が拭われると、代わってひんやりと薄荷の清涼感が心地よさを倍増させる。香りとは可怪しなもので、心なしか気分までスッキリしてくるから不思議だった。
「心遣いおおきにさん。次郎法師をはじめ、お前さんらには心配をかけてしもて堪忍さんやで」
「滅相もございません。殿あっての我ら家中ですから。今後も何卒、重々ご自愛くださいませ」
「えらい丁重やな。なんぞお願いごとでもあるんか」
「なぜそう勘繰られるのか、次郎法師は哀しく思いまする、しくしく」
「さよか。勘繰って――」
「ございます」
「あるんかーい」
あるらしい。だろうね。そんな気配がむんむんだった。
「お耳を拝借」
「ん」
ごにょごにょごにょ。
「……必要な沙汰なんか」
「むろん」
「帰洛を前に、あまり大袈裟に事を構えたくはないんやが」
「何卒ご一考くださいますこと、切に御願い奉りまする」
「業腹か」
「腸煮えくり返っておりまする」
「それはあかんな」
「はい。いけませぬ」
天彦は重臣のお強請りに渋い顔をしながらも首を縦に振って応じた。
「英断にございます。では御前、失礼いたしまする」
「加減はしたってや。いい人キャンペーン中やしな」
返事はない。
代わり番こ看病の退勤時刻なのだろう。
次郎法師はお目当てだったらしいお強請りを告げると、そそくさとたち去って行った。
「まあ、相談あるだけまだましか」
これが是知あたりなら、事後承諾か無理やりな追認で済ませて苛烈な措置を下していたはず。あるいは報告さえしないまで考えられる案件であった。
では彼女は何を強請ったのか。彼女の家内に措ける領分は外交(武家担当)である。しかし事案は天彦が直々に手掛けている収益化案件であった。
どういう経緯で彼女の耳に入ったのか。だが入ってしまった今、それを調べても後の祭り。
そんな彼女は感情を殺すか、それともそうさせた対象をコロスのか。本来の彼女は慎重派。熟慮を重ねた末に前者を選ぶ家内に数少ない貴重なタイプだったはず。だからこそ無理を押しても招き入れているのだから。
「家風に引っ張られてるんやろか」
菊亭の家風が濃すぎるのか。それとも……。
天彦が眉根に皺を寄せていると、
「殿」
襖越しに是知の呼びかけが聞こえる。それも常にない緊迫のトーンで。
天彦はより一層眉根の皺を深くさせて応じる。
「なんや、不穏な声音で」
「はっご明察の通り、大凶報にございます」
厭すぎる。だが立場柄耳を塞ぐわけにもいかない。
天彦は不承不承、先を促す。
「事が事だけに御傍、ご無礼仕りまする」
「前置きはええ。近う参れ」
「はっ、お耳を拝借」
ごにょごにょごにょ。
「っ――」
のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――
悶絶級の雄叫びが二間四方に鳴り響く。
はい。その通り。耳にしたまま不穏だった。それもどうやら飛び切り特級の。
「おいてッ! やらかしにも程があるん」
ここでまさかの事態が生じる。結論、よもやの敗走、大敗走。その一報であった。
そう。やらかし。いや大やらかし。大やらかしでお馴染みの織田三介殿がやらかしたのだ。
いったいどこを攻めていたのか。天彦は怒りに震える。
というのも伊予攻めは一旦中止になっている。
なぜなら朝廷を介して和睦の使者を送っているから。
正式な和睦はなっていないが公式に朝廷のお預かりとなっているため、実質的な停戦中のはずであった。おいて。
「相手先は」
「伊予村上にございまする」
じんおわ。
やはり攻め先は伊予の村上党であった。だが脳が上手く処理してくれない。
いずれにせよ事実は一報を聞きつけた天彦の思考をバグらせるには十分な、まったく笑えない冗句であった。
「落ち着け身共、落ち着くんや。すーはー、すーはー。……茶筅しばく。おのれぇぇぇ!」
落ち着けるか。まじでしばく。だから生きていてほしいしばく。
銭、また銭が飛んでいく。いややっぱし嘘、氏ねコロス。
やっぱりウソ。今三介に死なれたら困るでは済まないほどのダメージを負うのは政争対策を練った天彦自身であった。
「げろまんじ」
「殿」
「大丈夫や」
「……まったくそうは見えませぬが」
それはそう。
震える。指先といわず胴震いするほどに満身が震える。
そして思考も空転する。考えが一向に纏まらず二転三転してしまう。
「いや許さん」
結論、許せない。まじで許せない。なんでなん。なんでやのん。なあ茶筅。
「殿、お身体に障りまする」
「その障るネタ持ち込んだんはお前さんやろ」
「くっ、ご無礼仕りました」
ちょっとした八つ当たりの意地悪を挟んで、気分を上げる。するとややあって少し頭に上った血が下がると気づけた。
犠牲者である是知に視線で謝意を送りつけつつ、誰かそそのかした者がいると。三介の側近、または近しい者を順々に脳裏に思い描く。
「どの伝手で情報は上がった」
「某の伝手にて」
「風魔党は」
「すでに現地入りしてございまする」
「射干は。……ややこしくするだけか」
「はっ」
会話をしながらも推論を重ねていく。算砂の策はないと信じる。あれが気狂いの類でも無いかぎりは。
ならば、……考えても埒が明かない。今は詮索より結果が先決。
「佐吉」
「はっ、ここにございまする」
「ん、徳川さんにお手紙や」
「はっ」
目下、この世の誰よりも肩身狭く震えて眠っている、いや眠れていないだろう人物に文を認めさせ、天彦も自身が筆を取り思いつく限りの先に筆を走らせお願いを書き綴った。
粗方書き終えたところで、
「こうなればせめて、黒幕は大物であれ!」
ぶっ潰す。
文を大事そうに抱えてそそくさと退室する佐吉の背中を見送りながら、思惑ごとひっくるめて敵をぶっ潰す。そう決めれば思考が冴えた。すると次第に三介の身が本気で心配になってくる。
本気で案じる。何しろこの時代、首級狩りに遭えば如何な悪運の持ち主といえどもかなり危うい。何せ瀬戸内のあそこらは屈強な海賊平民の巣窟なのだ。
「村上もええ迷惑やろ」
「あるいは好機と乗じて」
「それはない。あれは蛮勇が目立つが案外物事の機微が読める人物や」
「で、ございまするか。ならば、はっ、然様に思いまする」
「ん」
こうなれば天彦の翻意を勘繰られないよう願うばかりである。
そうなったらお仕舞いです。
またしても中国四国地方は騒乱状態に陥ってしまい、織田家も朝廷なんだと構っていられる場合ではなくなる。むろん天彦も。……おそらくきっと。
「まんじ」
やはりどう考えてもあり得ない。いくら三介とておバカがすぎる。
だが他方、とんでも窮地に陥っていることだけは紛れもない事実であり。
「是知」
「はっ、ここにございまする」
天彦は覚悟を決めた。すべての財産を発散することに。あるいは財以上に散財することに決めたのだった。
「銭に糸目は付けぬ。播磨勢を総動員し可能な限り有りっ丈の手段を尽くして我が盟友である稀代の慮外者を窮地から救い出せ。何ならこの際、菊亭裏書の約束手形を切ってもよい。手段は選ぶな」
「周囲の村々に銭をばら撒いても」
「ええさんや。うん、盛大に撒こか。併せて無事に身柄を引き渡せば更に加増致すと触れよ。陣頭指揮を執ってくれるな」
「はっ! 即刻直ちに参りまする」
この時代、頼るべきは権威と思想。だが即効性が高いのはいつの時代も現金だった。加えて権威も思想も頼みごとをすると銭がかかる。それも途轍もなくかかる。
とどのつまり銭なのだが、ようやく仕込んでいたあれやこれやのマネタイズの目途が立ったばかりだというのに飛んでいく。まるで翅の生えた蝶々のようにひらひらと。
蝶々で思い出した。
「お雪ちゃん」
「居りますよ」
「なんや覇気のない返事して」
「だって疲れてますもの」
「だってやない。お仕事やで、しゃんとしい」
「えー、ご自分はずっと眠っていはったのに」
「あ」
「あ」
仕切り直して、
「お仕事やで」
「某ずっと出ずっぱりです。お休みください」
「まだゆう。甘い。当家菊亭がホワイトやったことなんか、過去に一秒たりともあらへんよ」
「あ、居直らはった」
「うん、居直ったで」
「あ」
「あ」
ほんとうならもっとふざけていたいところ。
だが事は急いていた。
「そうへそ曲げんと、お手紙書いてくれるかな」
「そのくらいならよろしいですけど、どなたさんに」
「お雪ちゃんの真なる雇い主さんにや」
「へ? ……ああ、東宮さんに」
「そうや」
「承りました。よっし某の達筆が唸る日が――」
「待てい!」
「なんですのん」
「唸らへんよ?」
「は?」
「達筆は唸りません」
「書けと申されたり書くなと申されたり、いったいどっちなんですか!」
「どっちともやで。文面は考えなさい。あと花押は直筆でよろ」
「え。ほな某の達筆の出番は」
「あらへんね」
「あ」
「あ」
むろん代筆。お雪ちゃんの字はアレなので。
しかも興が乗ると余計なことまで書き始める。主に家中の内緒事や個人の秘密事などを。やめてね、お願いだから。
東宮にお強請りする。目下これ以上の切り札はない。はず。
だが天彦が強請ったのでは目的は達せられても費用対効果が薄い。絶対に対価を求められてしまうから。が反面、雪之丞のお強請りなら。ほぼの確率で東宮殿下は即座に応とお返事くださる。
また遠隔地になればなるほど朝家の御旗は眩く輝く。としたものなので。そう信じてお手紙を認めるのだ。
これで切れる手札の最大二つは切った。
ほっとすると込み上げてくるのは哀しみ、嘆き、やはり怒り。
「おのれ茶筅めぇぇぇ」
天彦は果たして本日何度目になるだろう激憤を発声して、思い直したいほど恨めしい。銭、銭がとんでいく。嗚呼銭、銭あぁぁぁ……。
だが施されたら施し返す。受けた恩は倍返しで。仇は十倍にして返す。
これが流儀、あるいは信条。
天彦のこの信条に照らすなら三介を見捨てるわけにはいかなかった。ましてや今後発動するであろう政争対策の中心人物であれば猶更に見捨てられない。
天彦が扇子でぱちぱち気を静めていると、
「なんやかや言い訳つけてどうせ助けにいかはるくせに。心配やったら素直に心配と言わはったらええのに、ほんま面倒なお人さん」
「おまゆう」
「好き勝手してええ家風も大変ですね」
「うちの家風いつから!」
「ずっとですやん」
「おいて」
だが一歩譲って三介は、うちの子ではありませんの感情で、天彦は問題児であるうちの子をジト目で睨みつけて言う。
「お雪ちゃん、お仕事は」
「お休みします。今日は半どんで仕舞いです」
「なにを勝手な。でもええか当家の暇乞いはバイト休むときと一緒やで」
「は? 何ですのそれは」
「菊亭は持ち場を離れるなら代役を当てるんやで。それがマナーや」
「ひっど! めちゃくちゃブラックですやん! 横暴や!」
「もう一遍ゆうで。ええか当家菊亭がホワイトやったことなんか、過去に一秒たりともあらへんのよ」
「鬼さん! 悪魔さん! 若とのさんなんか嫌いやっ」
ダイスキと顔に書いて言われても。ね。
雪之丞の戯言は放置して、天彦は襖越しの廊下に控えているだろう人物に声をかける。
「与六」
「扶殿は居られませぬが、代わって某がございまする」
襖がさっと開けられる。すると折り目正しい裃を着た凛々しい隻腕の侍が姿を見せた。
「且元か。ん、ならば代わって申し付ける」
「はっ、何なりとお申し付けくだされ」
天彦は暴力のセンスが桁違いな人物に照準を合わせて緊急招集をかけた。
命は首級狩り狩りである。
「久方ぶりの出番、腕が鳴りまする」
「あ、うん。……ときに当家が動かせる手勢の数は」
「ざっと一万にございまする」
「ならば五千を率いて救出に参れ」
「はっ、お任せござれ」
こう言われてしまえば天彦も否とは言えない。本来は武辺に寄った高虎辺りを指名したかったのだが是非も無し。
既成事実を作って自ら救出作戦参加を表明した且元を部隊の指揮者に当て、五千の兵を送り出すことに決めた。
これにて打てる手立てはすべて打った。権威による周知と、神仏による信心に訴え、そして極めつけは暴力に訴える。である。
天彦は現状で許される限りにおいて最大の手札・布陣で、三介救出に臨むのであった。
一向に辿り着けない、近くて果てしなく遠く感じる京の町を思いながら。
【文中補足】
1、不自由を常と思えば不足なし
ご存じ家康公の数ある名言のひとつです。




