#07 妙国寺の密約
元亀二年(1571)一月八日
「若とのさんはほんま昔っから、しょーもないとこ変に細かいから」
「おまゆう。てか誰がしょーもないねん」
「若とのさん、お声」
「あ」
まさかの失態。雪之丞に窘められるだなんて。
許せん。自分が。
「なんですのん、そのお顔さんは。はじめに申しておきますけど、ひっとつもかわいらしいことありませんからね」
「おいコラ、先回りして封殺すな」
「で、その上人さん。ほんまに参らはりますやろか」
「訊け」
「で、その上人さん。ほんまに参らはりますやろか」
「おま……、ま、参るやろ。身共の考えが正しかったら絶対に」
「ほな参らはりますね」
「あらあっさり。どないしたん」
「そんなん、若とのさんのお考えが外れるわけないですやん」
「あ、うん」
絶大な信頼が痛い。あるいは寒い。めっちゃ寒い。普通に凍える。
またしても体感温度を冷やしてしまった天彦は、布で包んで懐に忍ばせている温石をぎゅっと握って暖をとった。
「銭もたっぷり。これで当座は凌げますね」
「お雪ちゃん、いつもよりずっと悪いお顔さんしてるで、気ぃつけ」
「えへへ、はーい」
愛とは何ですか。はい概念です。
銭とは何ですか。はい物理です。
では最後に。あなたは何を信じますか。はい物理(数学)です。
とか。
銀主はまたしても大銭を段取りしてくれた。いっさい何の催促もしていないのにも関わらず。
堺町奉行職はよほど実入りがいいと見える。半分以上は揶揄として。
だが天彦、仮に天彦の自由に差配できる世が訪れたところで賄賂を完全に取り締まる心算は元よりない。
余裕のない社会のしんどさや小悪党のいない世界の不気味さを、何となく想像してみたらつい。
べつに水が清くても魚は住めるやろ。
とは思ってしまうが、やはりつい。
だから指揮を揮う心算は更々ない。
自分はこうしてよからぬ謀を張り巡らせておけばよい。
この寒空の下、やはりつくづく思ってしまう。何にも器はあるものだと。
その謀の件、昨日堺町の代官所で悪巧みの一つは仕掛けられた。あとは放っておいても発動する。
だがこれは言ってしまえば勝ち確の児戯案件。どこに持ち込むかだけが勘どころで、持ち込みさえすれば勝利は確定的であった。だが次の策はこう上手くは運ばない。
本題はたった今、この時この場で仕込もうとしている二つ目にして帰洛の本命案件であった。
妙国寺日珖の籠絡である。
懐柔でもいいのだが、天彦はこの日蓮宗の高級僧侶を何としても口説き落とさなければならなかった。
ともすると最悪の場合は形振りなど構っていられないことも覚悟の上で。
と、
えっほ、えっほ、えっほ、えっほ――
「若とのさん……!」
「わかってるで」
二人の目の前をまさしく今、目的の人物を乗せたらしき籠が、静かに通り過ぎるのであった。
◇
「菊亭天彦におじゃる。そこな駕籠には日珖上人さんが御座すとお見受けさんにあらしゃいます」
天彦は上等な仕立ての施された宝仙寺駕籠の動線上に立ち塞がった。
そして凍える身体に鞭を打ち、精一杯の威勢を張って声高らかに名乗りを挙げた。
駕籠担ぎの六尺は天彦を胡乱な目で睨みつけつつも足を止めた。
だが中からの応答はない。
警護の者を付けていないことからも余程のお忍びであることは察せられる。
問題は中身だがそれも推測が外れているとは思えない。
駕籠にはいくつか種類があって、目の前にある宝仙寺駕籠はかなり上等な部類の乗り物である。
未来の現代に置き換えて言うなら運転手付きの高級セダンといったところか。
だから天彦は自信を持って駕籠を止めた。
「日珖上人、二度は申さん。身共を怒らすな。逃げ回っても無駄や。地の果てまで追ってでも必ず思いは遂げてみせるで。潔く堪忍しい」
すると、
「六尺、もうええ」
「へい」
妙国寺の住職、日珖上人が駕籠の中から姿を見せた。
「寒いとこお待たせさせてしもて。まあまあなんと、こんな手を凍らせて。庫裏へご案内いたします、ささ参らせませ」
「ここでかまへん、話を訊け」
「……強硬な御方さんや。それでは聞ける話も聞けません」
「命が惜しくはないようやな」
「な……、亜相様ともあろう御方が――」
「時が惜しい。身共は鬼になると決めている。無駄な駆け引きは無用と進ぜよ」
「御伺い、いたしましょ」
天彦は一拍呼吸を入れて、
「加納與作を預け渡せ。身共の用件はそれだけや」
単刀直入にオーダーを告げた。
「……」
誰の合図か、この頃にはすでに二人の周囲には無数の銀閃が月明りに照らされ鈍い光を放っていた。
今の鬼気迫る雰囲気の天彦と相対して、これがパフォーマンスだけで済むと感じる者はどうせ長生きでないのでここで逝ってもいいだろう。
天彦はそれほどの気迫を込めてこの場に臨んでいたのである。
すべては兄弟子、角倉了以のために。彼の名誉を挽回したいがためだけに。
命を張ってこの場に臨んでいるのである。
「……聞きしに勝る千里眼。いったいどこで嗅ぎつけられたのやら」
「返答や如何に」
「お引渡しできません。……、申したらどないなさるお心算で」
「根切りにいたす」
「まさか」
「二度は申さん。加納與作を預け渡せ」
見つめ合うことしばらく。
すると日珖上人がの目が泳いだ。天彦ははっとして伽藍の方を凝視した。
「小太郎、居てるな」
「はっここに」
どこからともなく返事があった。天彦は当てずっぽうで声のする方へ言葉を向ける。
「応接してくれた新発意さんおったやろ」
「即刻押さえまする」
「頼んだ」
次の瞬間、
「違う……!」
日珖上人の悲痛な声が響き渡った。
これにて確定。天彦は確信した。
姿なき声の主も同様に不気味な笑い声だけを残して気配を消した。
「なぜおわかりに」
「日海の叔父御前は日淵におじゃろう。そして日淵の兄弟子はお前さん、日珖上人。だから必ずお前さんを頼ると思うた。それまでのこと」
「……それはまだ理解に及びます。拙僧が知りたいのは、なぜ日海に弟がいることをご存じなのか。あれの存在は父親でさえ知らぬはず。それに……」
天彦は飛び切りの笑顔を浮かべて言い放った。
「霊亀山の教えに決まってる」
キメ顔でドヤって。
「そんな、わけが……」
「御仏の代理人さんがそれを否定したらあかん」
「……まさか、そんな」
どうやら現実を受け止められないようで。
天彦は勝ち名乗りを上げようと愛用の扇子を取り出すべく、懐に手を入れようとしたそのとき、
「あ」
ばたん。きゅー。
「殿……ッ!」
「お殿様!」
「誰か、疾く薬師を連れて参れ」
そのまま倒れ込んでしまうのであった。
睡魔と寒さによる疲労、そして極度の緊張から解放された解放感も相まって。
熱は数日でるだろうけど、きっと大事にはいたらない、はず。
その実に満たされた表情を見れば、おそらくきっと。
天彦が伽藍に運び込まれたのを確認して、イツメンたちは満を持してとばかり日珖上人に詰め寄った。
その迫力たるや。何も言わずに海千山千の論説者の舌鋒を完封していたほど。
「菊亭家侍所扶を預かる樋口大膳亮兼続にござる」
「日珖にございます」
「ご無礼と承知ながら、お尋ねしたき儀がござる」
「すべてお話いたします」
一を告げると十の解答が返ってきた。助かる。
与六を始めとした菊亭イツメン衆は日珖上人の言葉に意識のすべてを傾けた。
「日海とは本因坊算砂の法名にございます。不思議なもので、この法名。世に出ることなくあれは還俗しております」
本因坊算砂は法名である。出家する前の旧名を加納與三郎といった。また與三郎には実の弟がいた。
この弟の名を加納與作といい、彼は兄と同じく叔父の日淵を頼り日蓮の寺社に入信し、新発意として修業に励んでいるとのこと。
そして日海の唯一にして絶対の弱点。これが実弟の與作であった。
母であろうと父であろうと涼しい顔をして差し出すであろうあのソシオパスが、唯一人の仮面をつけて接する相手がこの実弟與作なのである。
それっぽい前情報を日珖の口から聞かされた与六は、果たしてそうかな表情を浮かべつつも話の腰を折らないよう黙してつづきを催促した。
「はい。日海はこの日が来ることを察しておったのでございましょう。弟の身を案じ、こうして拙僧に預け渡した次第にございます。何一つ、繋がりの見えないこの拙僧に」
「殿の御慧眼を侮ったな」
「今となってはその通りかと。亜相様のお噂を軽んじていたことをただただ恥じ入るばかりです。お許しくださいますか」
「に、ござろうな。許して進ぜる」
「ありがとうございます。樋口様、お願い序にもう一つ、願いを聞き届けてはくださいませんか」
「事と次第によるが、申されよ」
「感謝申し上げます。どうか新発意だけは無事に返すと、この老い先短い愚僧にお約束くださいませんか」
「果たせぬ誓いは立てぬ主義にて。何より上人、其許は長生き召されよう」
与六はいっさいの躊躇を見せず即答した。
その断固とした応接態度に、日珖上人は肩を落として項垂れた。
が、
「御家としての言質は与えられぬ。だが個人としての約定ならばこの樋口が請け負ってしんぜよう」
「おお、何たるご寛容。日珖、この御恩、生涯忘れることはございません」
侍所扶が約束したのだ。滅多なことでは反故にされない。
その事実は当事者の日珖以上に菊亭イツメン衆が強く感じていることだろう。
今や樋口与六の信頼度は家内では絶大を誇っていた。むろん天彦の寵愛、いや溺愛っぷりも加味されて。
いずれにしてもこうして天彦の策はなった。最もしんどいと目されていた大本命の第二策が。
算砂の攻略こそ兄弟子了以の窮地脱出と、延いては織田家攻略に繋がると天彦は固く信じているのであった。
天彦の推論に従うのなら、あるいは志半ばだとしてもキーマンを押さえた今、半ば以上が目的は果たされたのも同然である。算砂が人を辞めてしまっていないかぎりは。
と、隻腕の侍大将が皆の声なき声を代表し問い質した。この中で唯一事情を察している風の与六に向けて。
「扶殿、いったいこれは」
「且元殿。あくまで推測にござるが」
「お頼み申す」
「吉田殿の不遇。延いては主家菊亭に迫りくる数々の凶事含めて。すべての元凶を殿は算砂に見ておられるのではと某は推察いたす所存にござる」
「何と……! もしや」
「おそらくは。伊予の騒乱もあの者の描いた絵図の一つやもしれませぬな。でなければ殿もあそこまで感情を露わにはなされぬはず」
「然り。あの不精な殿が御自ら御出陣なされたほど。……おのれ算砂め、けっして許さぬ」
総論として。悪いのはぜーんぶ本因坊算砂のせい。疾く氏ねどす。
事実など実はどうでもよかったりする。こじ付けであろうとなかろうと。
彼らにとって必要なのは目に見えた成果、結果である。
裏を返せば菊亭が、もっというなら菊亭を率いる天彦が辣腕を振るうために必要な土俵が整ってさえいればそれでいい。極論、織田家ですらどうだってよいのである。ともすると朝家でさえも。
「扶殿、某に出番を寄越してくだされよ」
「むろん」
隻腕の侍は静かな気炎を上げると、不甲斐ない己自身を叱咤するかのように下唇をきつく噛んで血を滴らせた。
それに呼応してか、イツメンたちも静かな闘志を燃やしながら、立派な蘇鉄越しに京のある北の空をきつく見据えるのであった。




