#06 お鍋の具材を客体化させるやつ
元亀二年(1571)一月七日
しゃか、しゃか、しゃか、しゃか、すりすりすり――
菊亭一行が去った堺町奉行所、宮内卿法印私室ではすべての傍回りを引き払わせた部屋の主がひとり硯と向き合っていた。
宮内卿法印は磨り上がった墨に筆先を落とすと、達筆で鳴らした自慢の筆を走らせ文を一息に書き上げていく。宛先に山上宗二と認めた文を。
山上宗二は屋号としての通り名の方が広く人々に知られている。
その名を薩摩屋宗二と言った。あの織田家の茶頭にして御意見番の千利休の高弟である。また彼自身もここ堺町に大きな商いを展開していた。
そして何よりこの薩摩屋、小田原との繋がりが非常に深く、一説には後北条の草であるとさえ噂される人物であった。
このご時世、如何にも不穏な組み合わせだが、それを意図してかどうか。宮内卿法印は真剣な眼差しで文と向き合い、自身が書き上げた内容をしげしげと眺めながら丁寧に吟味するのであった。
「こんなものか」
三枚目の文に合格を出すと、ごきゅんごきゅんごくん。すっかり冷めてしまった茶で喉の渇きを潤した。――美味い。
どうやら自分でも思いもよらぬほど喉が渇いていたようであった。
人心地つくと目を瞑り、先ほど来の出来事をゆっくりと回想した。
あの見るものすべて見透かすような空恐ろしいキッズの双眸と一組にして。
『あるいは松殿家を継いでも不足ない十分な後ろ盾を、其許の名で織田家中に集められよ。対象は申さずともわかっておじゃろう』
『あ、嗚呼……、そんな――』
結論、亜相菊亭は宮内卿法印松井友閑が織田三介信雄の後援者となることを目論んだ。
即ち、織田家家督相続問題への介入である。これは相当危うい賭けであり、宮内卿法印もむしろ天彦の身を案じたほど。
なぜなら嫡男信忠は地盤固めに余念がなく、着々とその準備を進めている甲斐もあってか、家内の大半以上の信任を取り付けていると専らの噂。
しかも菊亭の推す三介といえば、……お察しである。
人はたしかに悪くない。だが家長としての決定的な資質に欠ける。それが宮内卿法印による次男三介の見立てであった。
故に危うく、どうしようもないほどの大博打なのである。
だが菊亭がこうまで推すなら話は別。
天彦の覚悟を受け取った宮内卿法印は震えながら請け負ったのである。万事承ってござると。
むろん天彦は何も明言していない。ただ清華家成に織田家の次男坊を推しただけ。あとはすべて宮内卿法印自身の推論の積み上げである。
だが一般的に清華成した人物が家督相続の筆頭でないことの違和感はえぐい。
それを罷り通してしまうと織田家の評判が地に落ちるほどえぐいのだ。それも果ての彼方までも。
敬う心算がないのなら端から受けてはいけない。これは慎重に慎重を期してもまだ足りないだろう超ナーバス案件である。
一方で、公家に対する畏敬の念と同じように武家の継承問題も生半可な気持ちで触ってよい問題ではない。命を失うという意味ではあるいは公家問題よりよほど直接的に危ういだろう。
よって逆説的に即ち天彦の言動は半ば自動的に、菊亭の織田一門への参画表明を意味していた。
天彦がこの一般解釈をどう受け止めるのかはさて措いても、武家の常識では間違いなく一門参画の宣言と受け止められたのであった。
「雲のようなお方なれど。さすがに筋はお通しなられるはず。ふむ、ならばここはひとつ……、模様を張ってみるか」
事実このつぶやきからも、宮内卿法印がそう受け止めていることは明らかであった。
そもそも論、菊亭の干渉自体は非常に明るい話題である。天下布武への大きな一歩として、端からそれを望んでいた織田家にとってあくまで認識としてだが吉報に違いなかった。
また同じく天彦に極めて近しい宮内卿法印にとってもかなりの追い風であることは間違いなかった。
ただでさえ粒ぞろいの中、加えて目下織田家中、天下を睨むにあたり優秀な人材がかなり揃いつつあった。
そんな過当競争著しい出世レースにあってまさに渡り船の申し出である。官僚として一家の長として誰がこの申し出を断れるのか。
何しろ菊亭への取次役というだけで宿老ポジションは約束されたようなものである。
それほどに織田家中における菊亭への畏怖は凄まじかった。とくに君主信長の菊亭贔屓はまるで血の繋がる一族衆かくやとばかり何かにつけて手厚く遇した。
家中の評判も似たり寄ったり。それこそ人ならざる何某柱の化身と誠に信じる者もいれば、次男と良好な関係を結んでいるというだけで目の色を変えて次男の人脈を潰しにかかるような嫡男がいるほどに菊亭への特別視は高まっていたのである。
よって宮内卿法印は返事を持ち帰ることもせず、その場で即応したのであった。
『上奏は宮内卿法印さんのお口から』
『……上様に』
そう。それを天彦の口からではなく宮内卿法印の口から信長に上奏させることにこそ意味があった。家中すでに差配済みの仄めかしの意味として。
でなければあの信長のこと。容易には首を縦には振ってくれない。
一方、多少の不安材料もなくもない。
たしかに天彦が何かを言明したわけではないからだ。だが言ったも同然の顔をしていた。
「某、確とこの目で見届け申した」
この言葉通り、見る者誰もが息を呑むほどの実にいい(悪い)貌をして言ったのだから。
言外に断れば他へ持っていくと脅しつけられてしまっては、飲まざるを得ないだろう。たとえそれがあからさまな内政干渉だとしても。
何しろその他へ持っていくという他が大いに問題なのだから。
彼我の関係性から一目瞭然。むろん他とは例のお国。ドラゴンさんがお住まいのあのお国であることは火を見るよりも明らかであった。
「猶更薩摩屋には働いてもらわねばならぬ」
宮内卿法印は決然と、けれどどこか期待を寄せた声色でつぶやくのであった。
◇◆◇
元亀二年(1571)一月八日
堺町奉行所での会談の翌日、暁七つの鐘が鳴ってからしばらく。
即ち早朝五時前後。
まだ日も昇らぬ真っ暗闇の中で、天彦は境内の庭でじっと立ち呆けていた。
「寒い」
「アホですやろ」
「おい待て」
「なんですのん」
「あ、うん」
雪之丞の口調にいつにない棘があったので秒で撤退。
それはそう、阿呆な自覚が自分自身にあったので。
何しろ寒い。
力んでいないと奥歯がガタガタ鳴ってしまい、気を張っていないと意識を刈り取られそうになる。
そんな寒空に二人はいた。
「家来にやらせたらよろしいですやん。なんでご自分御自ら……」
まだぶつくさゆー。ずっとぶつくさ。
天彦は負い目があるぶんうるさいとは吠えられない。よって恨みがましい視線だけで黙れカスを訴える。
結論、妖怪愚痴こぼしとの張り込みは二度としない。
これは負け惜しみではなく切実な感情として。しんどいところに延々愚痴を聞かされたら正直メンタルがえぐられすぎて病む。
そもそも、では何をしているのかというと単純に見張りだった。天彦は張り込みをしているのである。
妙国寺の日珖上人は昨夜遅く帰寺した。それはルカからの報告で確かである。
ところがよく明日の面会要求が一向に通らないではないか。いや通ってはいるがのらりくらり。確実な約束の時間を一向に取り付けようとはしてこない。
これは逃走を図るに違いない。確信して焦った天彦は、騒ぎが大きくならないよう極近しい家来にだけ事実を告げ、極秘裏にこうして灯篭の陰に身を潜めているのであった。
天彦は上から数えた方が圧倒的に早い貴種中の貴種である。
望んで会えない者はおそらく日ノ本にはいないだろう貴種。
だが物理的に逃げられたのでは権威もまるで用をなさず。当たり前だが物理には物理でしか対応できないのであった。
その手段として自らが身体を張るのは如何なものか。普通に考えれば家来を頼ればいいのだが、それではあまりに悪目立ちする。ただでさえ招かれざる客なのだ。武力など行使せずともチラつかせてみろ。
たちまち自警団と大揉めに揉めることは必至であろう。すでに警護組頭とは高虎がひと悶着起こしたばかりであった。
天彦の事情として穏便に事を収めたいというのもあったのだが、何も騒ぎ立てずとも、天彦の用件は会って話さえすれば解決する。と思っている。故に灯篭の陰に隠れられるサイズの物体が一つあれば事足りるのだ。
というそんなおバカな理由だけで、天彦は軽々に馬鹿げた行動に移して今にいたる。
むろんだが周囲には鉄板よりも更に硬い、鉄の警護体制が敷かれていることだけは明記しておく。
裏を返せばそれだけ必死なことが伝わるのだが、家来からすればたまったものではないだろう。
こうして家来代表で付き添っている雪之丞の唇はもうすっかり真紫色に染まり上がってしまっていた。
なにせ極寒。厳冬の小氷河期なのである。一言に寒いといっても限度も限界も超えてしまってはいけないはず。そのいけないはずのデッドラインを悠々超えてくるのがこの時代の真冬の寒さなのである。
「う゛ぅぅぅぅぅ、アホみたいに寒いですやん。若とのさんのアホ、アホとのさん」
「最初のはまだええけど、後ろのやつはあかんやろ」
「ほなお部屋戻りません?」
「ほなの用途が可怪しいやろ」
「う゛うぅ、寒すぎますって。ね、戻りましょ」
「あかん。無理せんとお雪ちゃんだけでも戻ったらええさんよ」
「そんなんできるわけありませんやん」
「昔は余裕でやってたよね」
「失礼な。そんなわけ、……あった。ありましたわ」
「知ってる」
声にも会話の中身にも張りが一つも感じられない。
雪之丞は過去の自分の愚かしさを回想して体感1℃身体を冷やし、天彦に至っては2℃以上凍える思いをさせられたのだから。
だがそれでも手を取り合えばアッと言う間にプラマイゼロ。
「お雪ちゃんが居てくれへんと身共生きていかれへんわ」
「知ってますけど。えへへへ」
「なんやこうしているとつい昔を思い出すな」
「はい。ゆうてまだつい最近のことですけど。そや若とのさん、またしませんか闇鍋さん」
「……それは厭やろ」
「何でですのん」
「何でってそれは、身共の舌さんと心さんが猛烈に拒絶の意を表明したはるからやろ」
「酷いです」
「酷ないやろ。そもそもお雪ちゃんの闇がむちゃんこ深すぎるから悪いねん。ていうかアホやろ。どこのどいつが鍋に食べられそうで食べられないもの入れるんや」
「ここに居る某ですやん。でも若とのさんが食べられそうなもの、何でも放りこめと申さはったくせに」
「松ぼっくり」
「無理でした」
「どんぐり」
「オニ不味かったです」
「生渋柿」
「あれは毒です」
「な。アホやろ」
「酷いです」
「いや、まったく酷ないやろ」
天彦と雪之丞はかつてのように二人きり、そんな忌まわしくも愛おしい過去の記憶を彷彿とさせる、この凍てつく寒さの中にそっと身を置きじっと蔭に身体を潜めていた。
「来ますかね、和尚さん」
「和尚と違うよ」
「ほな某らは誰さんを待ってますの」
「上人さんやで」
「一緒ですやろ」
「違うで」
「一緒ですやん」
「だからちゃうて」
緊張感のありそうでなさそうな二人の夜はまだまだ先が長そうである。




