#13 気高く耐える
元亀元年(1570)十二月十五日
約束の期限翌日。即ち山科言経帰洛予定の翌日。
午の刻、昼九つの鐘が今まさに鳴っている最中。
敷地内に設置された鐘が厳かに正午を伝えた、余韻冷めやらぬ姫路城本丸迎賓の間では、山科言経を主賓として迎え入れた送洛会が執り行われていた。
言経の帰洛が明日にまでずれこんだのも尤もである。やんごとなき御方からの文が直々に届けられては彼の予定などあってないようなものである。
さて、昼餐会の席上だが、
上座向かって右側正面に菊亭一門が列席し、中央に家康公を筆頭とした徳川家が。そして左側に小寺政職を筆頭に播磨勢を代表する十七家の国人領主たちが名を連ね、姫路に関わるほとんどすべてのキャストが一堂に会するそれは御大層な送迎会となっていた。
「各々方、控えられよ。亜相様の御成りにござる。殿の御成り――」
呼び込みの是知を横目に、天彦はすたすたと着物の裾を擦れさせて歩く。やや後方にこの宴席の本来の主役、山科言経を従えて。
ざざざ、ざざ。
呼び込みに応じて入室してきた天彦の登場に、参席者のすべてが一斉に辞を低くして迎え入れた。
その緊迫感たるや。師走とはいえしっかりと暖で温められているはずの迎賓の間に、極冬を思わせる酷寒の気配が充満していた。
天彦の表情がどことなく険しいこともそうなのだろう。だがやはり何といっても天彦がしでかした事の重大さ、途轍もなさが参席者に畏怖以上の感情を抱かせてしまっているようである。
とくに城下で不始末をやらかした国人領主にいたっては生きた心地がしていないことだろう。
そう。やはり天彦の見立て通り、例の不良どもは播磨国人のお身内だった。
しかも噂はあっという間に都まで駆け巡り、菊亭の勘気を鎮めるために東宮殿下と織田信長公までもが直々に見舞いの文を認めたと専らの噂である。
また信長公が直々に菊亭の労を労うために、ここ播磨に向かっているとも噂されていて、播磨勢国人たちの肝は一層冷えていることは紛れもなかった。
DQN凶賊ないす。
それが暴力を生業とする阿呆どものたった一つの冴えた使い方であったかはさて措き。
魔王、織田信長。彼の恐れ知らずの苛烈さを知らぬ者は誰もいない。何しろ仏閣総本山的、あの比叡山でさえ焼き討ちにしてしまうのだから。
細部は微妙に違っていても、事実だけを切り取ったその噂は日ノ本じゅうを駆け巡っている。
「おおきに。面をお上げさん」
故に列席する播磨勢は誰ひとりとして舐めた態度の者はおらず、天彦の凛とした“面を上げよ”の声が自らの耳に届いても猶、頭を上げる者は誰ひとりとしていなかったほどであった。緑のおタヌキ様を除いては。
「お堅い話は抜きにして。ご一献差し上げまする、ささ、どうぞ召されませ」
「おおきにさん。ほな口だけつけさせてもらいます」
「亜相様は下戸ですかな」
「さあ、どないさんやろ。あまり得意にはおじゃりませぬが」
言って天彦は家康の注いだ酒をちょびっとだけ舐めた。
カァ――っとくる酒精に、これに頼るような人生だけは送るまいと薄っすら思いながら、とびきり上等なおそらくブランドだろう澄酒を味わった。
そう。これは信長直々の織田家からの差し入れであった。澄酒なので魔王ではないのだろうけれど。たしかにどこかのブランドであることは間違いのない見事に澄んだ酒であった。
お膳形式の昼食会には、この時代でもそうとうレアな味音痴の天彦には勿体なさ過ぎる澄酒が一人二合も添えられていて、乾杯の音頭を待つ者の喉を自然と鳴らしている。
当然だがレアリティが高いということは高価である。
家康公は天彦に次いで言経にも酒を勧め注いでいった。
そして自身は手酌でくいっと盃を呷って乾杯の音頭を取るのだろう自身の家来に目配せをした。
「乾杯」
乾杯――。
誰かの乾杯の音頭につづき皆が厳かに掛け声を反芻した。
貴人が盃に口をつけてようやく、昼餐会が始まった。
「それでは亜相様。何かございますればこの三河守をお呼びつけくだされ。御前御免仕りまする」
「ん、おおきにさん」
家康公が天彦の許を辞すと入れ替わって菊亭家のイツメンたちがやってきた。
何やら物憂げな菊池権守家の若殿様を従えて。
「殿、一言申したき儀がございます」
「なんや与六、そない畏まって」
「当家の侍方の不始末なれば。すべては我が身の不徳にござる」
「くく、それはなんぼ何でも無理筋ねん。まあええさん、九郎やろ。申したいことがあるなら申させたらええ」
「はっ」
実は平静を装ってはいるがこれで天彦そうとうかなり焦っていた。
というのも菊池権守家の若きお殿様は、腹を召すと自室に籠ってしまっていのだ。
未来の現代令和ならかまってちゃん好きに致せと突き放すことも余裕なのだが、時代が時代。しかもお公家と違って武家は戦国ガチ勢である。
やって見せよと煽ろうものなら控えめに言ってお仕舞いです。
腹を横一文字に掻っさばいてまだ不足とばかり十文字に切り裂いて、しかも返す刀で喉仏に一太刀突き入れてしまうだろうこと請け負いである。じんおわ。
その九郎は昨日までの思い詰めた表情からは幾分か持ち直してはいるものの、やはりどこか物憂げな表情で、天彦の前に姿を見せた。
「殿……、某の不手際によりお家様に多大なご迷惑とご不便をおかけしましたこと、この菊池権守九郎重隆、お詫びの言葉もございませぬ。この期に及びましては――」
「九郎」
「は、はは」
「皆まで申すな。もう済んだことや」
「殿」
「ええか九郎。お前さんの気高き忍耐。この菊亭、確とこの目ぇで見ておじゃる」
「と、殿――!」
「頼りにしている。お前さんのお家柄と、むろんお前さん自身の働きも。この大遠征、お前さん抜きに成功はけっしてあり得ぬ。それだけは心致せ」
「は、はは――ッ! 心中深くに刻み込んでございまする」
「ん、それでええさん」
大前提、そもそも論九郎はしくじってなどいない。
外様の裏切りを主君の失態とするのはあまりにも酷である。
だが結果がすべての辛い時代。言い訳などするだけ無駄なのである。
故に潔いほどに潔く、誰もが先を争うように死んでいく。
己さえ見事に果てて見せれば家が残る。その一心で。そう固く信じて。
それが戦国室町時代であった。この想いが美意識として昇華され武家の暮らしに深く根差していたのである。
むろん善悪適否には言及しない。いやむしろ天彦的には悪であっても。
だから気分を盛り上げるためにも誇張して言うことにした。
天彦もいい加減、気運という謎エネルギーの存在を意識せざるを得なくなっている。少なくともあんなもんオカルトねんとは言い切れなくなってきている。
「お櫃にお米がないんならお餅を食べればええとちゃう」
…………、
………、
……、
いわゆるリップサービスというやつである。天彦渾身の。意味不明すぎて完璧にすべっているとしても。
「扶さん」
「はっ、ここにござる」
「はっ、ここにございまする!」
…………。
はて。
与六につづいて氏郷までもが応答したのは大いなる誤算。
一瞬考え込んでしまったが、だがすぐに一昨日に伏線があったと思い出す。
こちらも酷だ。あまりにも滑稽すぎて。
天彦は何も言わずにそっと氏郷を目線で引き下がらせる。ラウラさあ。
気を取り直して侍どころ正扶さん(与六)と向き合う。
「目指すは備前、岡山城や」
「……なるほど。いつもながら、さすがのお見事にござる」
「それを申すなら与六もや。身共の意図をすぐに見抜いてみせた」
「それもこれも、悪いお顔をされたどなたか様に日々鍛えられております賜物かと」
「くふ。頼りにしてます」
「はっ、力の限りお応えいたす所存にござる」
天彦は大いに喜び気をよくした。
だが笑み崩れた表情をキリリ。帯を締め直して、
「これは身共の私戦におじゃる。故に当家ですべて賄う。当家の恩顧家来、菊池を虚仮にした宇喜多直家、身共はけして許すまじにおじゃります。任せたで、我が扶さん」
「はっ! 万事お任せござれ」
人目があるので極めて控えめに。
けれど与六は内なる闘志をそのイケメンに浮かべて、静かに気焔を上げるのだった。
伊予松山城奪還を放置して宇喜多の備前岡山城だけを責め取る。
するとどうなるだろう。敵側同盟軍はたちまち疑心暗鬼に陥ること請け負いである。
策士たる直家が長曾我部元親の裏切りを勘繰らないはずがなく。
あるいは岡山城が陥落するよりも早く、長曾我部・宇喜多同盟軍は瓦解するのではなかろうか。それが天彦の見立てであり策略の本筋であった。
むろんその伏線たる流布計は仕込み済み。今頃伊予では元親宛ての書状を運ぶ間者が捕えられていることだろうから。いつものように念入りに。これまでのように抜かりなく。
但し今回ばかりは優しくない。きっと多くの血の雨がふることだろう。
その覚悟はできている。許さん――。
天彦は暗澹たる感情を晴らそうと愛用の扇子をぱちり、ぱちり。
調子を取ろうと叩いてみても、思いの外気分は晴れない。
すると、
「難しいお顔さんなさって。亜相さん、お味はいかがさんで」
天彦の横顔に声が掛かった。声のする右側を見ると言経がいた。
自らの渋面が場の空気を凍らせることを、今更ながらつい最近自覚し始めた天彦は、ならばと調子をあわせてお道化てみせた。
お得意の、いや実はあまり得意ではない冗句をひとつ。脳裏に浮かんだ文言をすぱっと声高に言葉にした。
「インクレディブル」
「けったいな。いったい何ですのそれは」
「お構いなく。身共の生まれ育った故地の方言におじゃります」
「故地の。それはそれは。おほ、おほほほほほほ」
むろん天彦と言経の故郷は京都。そんなはずがないことなど百も承知の冗句である。
予定調和なのかどうなのか。言経は軽快なお公家さん笑いを高らかに響かせて座に温もりを運んでくれた。
だがその瞳の奥はまったくひとつも笑っていない。あるいは笑えないほどの状況に陥っているのか。
いずれにしても彼とて魑魅魍魎が跋扈する内裏を堂々渡り歩いてきただけはある。
そんなさすがの片鱗を伺わせて、言経は切り出した。
「羽林山科家と大英雄家菊亭さんと。両家の関係が末永く、そして円満さんにおじゃりますよう。この参議言経、深く深く御願い奉りさんにあらしゃりますぅ」
「下手やな」
「下手におじゃりましたか」
「うん、むちゃんこ下手ねん」
「ふっ、そうは仰せやが亜相さん。妖術と明かされた方がよほど腹落ちする。そんなことがこの世にあるとは存じませなんだ、麿の精一杯の上手におじゃる」
「逃がさんで、宰相さん」
「……お手柔らかさんにおじゃりますぅ」
「これに懲りたら言経。わかっておじゃろうな」
「天彦さん。それは重々、重々さんにおじゃりますぅ」
天彦と言経はしばし見つめ合ってにこ、にぱ。
これにてわだかまりはすべて水に流したの合図で互いににこ、にぱ。っと微笑み合った。
「それは重畳。ほな、あんじょうお頼みさんにあらしゃりますぅ」
「こちらこそ。何卒よろしゅうお頼みさんにあらしゃりますぅ。おほ。おほほほほほほほ――」
言経はどうやら天彦が条件を達成できないと踏んでいたようで。
この応酬にはそんな含みが色濃く出ていた。
だがそれは言経を責められないし馬鹿にもできない。普通であればそれが至極妥当な見込みだと思われるのだから。
ましてや菊亭の商売下手はつとに知られた事実であり、あの家の借財は今や国家財政にも匹敵するとかしないとか。実しやかに囁かれるほど莫大らしい。
故に言経はテイよく断った心算であった。天彦なら一を六に。あるいはそれ以上に値付けするだろうこと確信していた上で。
故に不可能。この僅か数日では。そう判断していたのである。
だから逆に猶予期間の短さはむしろ優しさの心算であったほど。
ところがそれがまさか。算段してしまうとは。しかも付けも付けたり十万貫もの大銭を、物の見事に段取りして見せたのである。あり得ない。いやあり得たのだが信じられない思いでいっぱいなのである。
「しかし弾正忠殿と……」
「魔王さん、いっつも身共を買い被らはるん」
困ったお人さん。
言経は涼しい顔で嘯く天彦に空恐ろしさを感じてしまう。
織田家は菊亭の示したネタに二十万貫もの値を付けたとのことらしい。
言経は、天彦が受け取った織田家の振り出した約束手形を細分化した菊亭振り出しの約束手形を受け取っていた。
その額実に十万貫。言いだした言経をして手も心も震えあがる額であった。
どのように工面したのか。詳細までは訊かされていない言経だが、その銭の凄まじさも然ることながら、天彦の打ち出した策の中身が気になって仕方がなかった。
「亜相さん。勿体ぶらんと教えて進ぜませ」
「べつに勿体ぶってへん。申したところでだーれも信じてくれへんから厭になっただけにおじゃりますぅ」
「どなたも? はて……」
すると菊亭イツメン衆が一斉に視線を逸らした。
なるほど。誰もの誰もとはご家来衆か。
言経は、すると天彦が拗ねるのも納得であると得心する。
「麿は信じておじゃります。この山科言経をお信じ召されませ」
「そう?」
「はい」
「……たまたま偶然出くわした行商を救ったら、たまたま偶然大銭二十万貫を運んできてくれたん」
「お前、阿呆やろ」
「誰がお前じゃい!」
「嘘も大概にするでおじゃる」
「出た!」
ほらやっぱし。
拗ねて何ごとかを延々と毒づく天彦だが、言経はなるほど家中の誰も信じないことに納得する。反面、やはり秘中の秘なのかと肩を落とした。
だがいずれにしても結果がすべて。
これには言経も度肝を抜かれたのだ。そして同時に誓ったのだ。今後二度と試すような真似はしないと。
試すということはいずれ己も試されるということ。この世はすべて双務契約でなりたっているから。
すると果たして自分は菊亭の突き付ける問いに答えることができるのだろうか。
何とか応じることはできても、菊亭の望む答えを弾き出せるのかは自信がなかった。故に二度と試さないと固く己に誓ったのである。
むろん菊亭家とは繋がっていたい気持ちに変わりはない。天彦との個人的友誼も本物である。だがそれと御家事情、つまり政は別物である。
内裏の政局は生き物である。ともすると東宮殿下でさえ安泰ではいられないほど、魑魅魍魎が跋扈暗躍しているのである。
気は抜けない。気も置けない。
個人的親愛のためにお家を潰してみろ。笑われるで済めばまだいい。
むしろ天彦ならば怒り心頭で強く非難してくることだろう。それが理解できるくらいには彼らは通じ合っているのである。
「で、弾正忠さんはお越し召されるので」
「くふふ、まさか。少なくとも身共はなーんにも訊いてません」
「……城下では専らそのお噂で持ち切りにおじゃりまするが」
「うふふ。皆さん、お好きさんやね。お噂が。好き勝手に囀りはるわ」
「その顔、……お前さん、まさか」
「ん? かわいいお顔さんしてはるやろ。でゅふ」
「むほ」
でゅふ、でゅふふふふふふふふふふふふふふ――
おほ、おほほほほほほほほほほほほほほほほ――
天彦の奇妙な笑い声と言経の不気味な笑い声の二重奏が大広間に鳴り響く。
「な、なんじゃあれは……」
「なんと不気味な」
「何たることか」
「あれが菊亭様……」
「あれが公卿……、あな恐ろしや」
「見るな。見てはならんぞ」
ただでさえ冷えて湿っぽい宴席を更に寒々しく、そして空々しく染め上げるのであった。
あるいは今回の影の大立役者、射干ルカ女史の満面の笑顔との対比を浮き彫りにして。
【文中補足】
1、気高く耐える
意訳:a菊池氏の場合)字義のまま心の心痛を隠して絶える。
意訳:b天彦の場合)めぐんでください笑
けれど共に帰属意識高い系男子には違いない。ってゆー対比。




