#02 細工は流々、あとは野となれ山となれ
元亀元年(1570)十月二十五日
天彦恩赦の一報が日ノ本中に駆け巡ったであろうひと月余りの間、肝心要の戦は膠着状態のまま何事もなく推移していた。
むろんただ手を拱いていたわけではない。一応の停戦のテイは守りつつ日本海側海上と畿内からの陸路はすべて封鎖し、なんちゃって兵糧物資攻めは行っていた。
だがほとんど意味はない。米は収穫最盛期を迎えたばかりで潤沢にある上に、背後の中国地方と太平洋沿岸側がまったくの笊では。
即ち手を拱いていた。あの天彦が非常に珍しく「ギブ」を宣言するくらいには菊亭徳川コラボ軍の(遠征条件未達による)敗北は日を追うごとに鮮明になりつつあった。
また総体的にこの状況は二重・三重の意味で織田政権に暗雲を立ち込めさせた。
第一に、あの信長が劣勢を承知で追加の援軍を寄越さないこと。そのことからも越後の圧力が相当なものであり、かつそちら方面でも劣勢を余儀なくされていることが窺がい知れた。
第二に、信長公の徳川家康への不審が相当に色濃いのであろうこと。
何ならこの征西で家康を処分したいまで感じさせる酷な采配である。何しろ彼我の戦力差は14万対3万足らずの凡そ五倍差。その内陸地にある歩兵は現下、減りに減って2万を大きく下回る。
つまるところ阿呆である。死にたがりにしても酷い差である。およそ勝てる要素や見込みがまるで立たないのだから。しかもそれが攻め手となれば阿呆以外に何を表する。
いずれにせよ天彦は籠城戦のセオリーからは遠くかけ離れているこれほど酷い合戦を訊いたことがなかった。
ではなぜ徳川だけが標的と決めつけられるのか。
なぜなら信長公から天彦に宛てた書簡が頻繁に、いや頻繁どころか矢の催促でやってきていたから。むろん内容は帰京命令である。
「ご愁傷様なん」
「権大納言様。何卒お取次ぎを!」
「いや身共はまだ正式な任官書を受け取ってないん。つまり無位無官。だからこそ家康さんにこうして上座をお譲りしておりますのん」
「そ、それはあなた様がどうしてもと」
である。言いがかり彦は今日も健在。ちくちくと家康公のメンタルゲージを削っていた。
未来に向けた伏線としてと嘯きながら、恨みを買うかどうかのギリギリの上限ラインを際疾く攻めて。
と、そこに。
「申し上げます――」
え、あ、う゛、うぅぅぅぅぅ。
天彦の元に舞い込んだ一報は天彦の息の根を止めた。盛っていない。
事実として呼吸困難に陥ってしまうほどの、……吉報、朗報、快報であった。
◇
大吉報がもたらされた直ぐ後の中庭境内にて。
恩赦がもたらした恩典は天彦の罪の免罪だけではなかったのだ。
そしてその恩典がもたらす効能はけっして小さなものではなかった。
なぜなら一報を聞きつけたイツメンたちが天彦の元へ続々と集結したのだから。
天彦は滲んで歪む両の眼でそっと見つめた。
忘れたくともけっして忘れることのないだろう彼らの輪郭をなぞるように。
「鞍上からご無礼仕る! 直江与六兼続、越後から参ってござる。大恩ある菊亭様の窮地と聞きつけ居ても立ってもいられず、こうして馳走に参った次第。願わくは麾下にお加え下さいますよう鞍上から言上仕りまする」
与六ぅ。
「同じく越後から! ……参りたくはなかったですが」
「同じく越後から! おっとろしい扶様のお達しに従い泣く泣く馳せ参じましてござる」
市松、夜叉丸……。
与六、ちょっとしごき過ぎと違うか。おおきに。
「河内枚方城から参りましてござる!」
「相模小田原後北条から!」
「山城醍醐城から!」
「在野から参った!」
且元、吉継、氏郷、……高虎はきっと切れて放逐されたな。おおきに。
「相模から!」
「伊予から」
「土佐から」
「紀伊から!」
「某も同じく紀伊から馳せ参じましてござる!」
続々と。ほんとうに続々と。見知った顔はほとんど大半が。あるいは見知った射干の残党もちらほらと。
それこそ境内にひしめき合うほどの人員が、ときに鞍上でときに自らの足で立ち、各々の得物を手に脇に構えていつでも掛かれる臨戦の気配を纏って名乗りを挙げた。
誰一人として馬揃えのような華美な衣装を着ている者はいない。
だが天彦の目にはどんな豪華な衣装より美しく輝いて見えていた。
「侍所扶さん。纏めてくれはるかぁ」
「はっ! では点呼をお願いできまするか」
「任されたん。与六」
「はっ、ここにございまする」
「且元」
「はっ、ここにございます」
人生で一番といって過言ではない点呼を取っていると、
「なあ僕らも名乗り上げた方がいいんじゃ」
「いやまだ様子みとこ」
「なんで?」
「忘れたん?」
「何をさ」
「だってお殿様、オニ扱き使わはるやん」
「はっ!? そうだった」
「でもお菓子くれるよ」
「あれは釣りだよ。扱き使うための餌さ」
「そうなの?」
「そうなの」
お前ら。全部聞こえてんぞ。
でもお帰り。おおきにさん身共の大好きなギークさんら。存分に扱き使うたるからな。
天彦は点呼をとる声にほんの少しだけ上擦らせるのであった。
そして同時に残念にも思う。いや哀しいのか。
何を差し置いてでも絶対に駆けつけてくれると信じていた佐吉と是知の声が点呼で返ってこなかったのだ。
「殿、ご健勝にあられましたか」
「ん。与六、おおきになん。お蔭さんでぴんぴんしてるん」
「それは重畳。して早速、おっつけ一槍馳走に参りたく存じまするが」
「嬉しいけど、まあ待つん。報せは何らかの形で必ず現れるから」
「もしや」
「むふ」
「さすがは我が殿。万事抜かりございませぬな」
「そうでもないけど、むふふふ」
天彦は与六に褒められ大好きを隠しきれずに笑み崩れるのであった。
きっも。
◇◆◇
博多会合衆の総意を背負って天彦と対峙した神屋宗湛が天彦に膝を屈したあの日の回想。あるいは種明かし。
「近う参れ」
勝負あったと判断した天彦は扇子でちょいちょいと宗湛を呼びつける。
すごすごと近づいてきた宗湛にもっと寄れ、もっとなんと更に至近に引き寄せて膝の擦り合う距離まで引き寄せると扇子をばさっ。
口元を覆い隠してそっと耳打ち。ごにょごにょごにょ。
「……ま、まさか」
「その胸の内に秘めておけるな」
「は、ははっ……!」
宗湛の目の色は畏怖を通り越し、もはや恐怖の色味に染まっていた。
はいやりすぎー。
ではいったい何をやりすぎたのか。
「生野銀山。あれは絵に描いた餅に終わるやろ」
「如何な菊亭様と申せ、聞き捨てなりませぬぞ」
「はて。お前さんには必要なブラフにおじゃったとお思いさんやが」
「ブラフ。はったりのことでしたな。……どうぞお続けください」
「ほう。感心さんなことや」
「お褒めに預かり光栄です。褒美として御心の内、御聞かせ願えますかな」
神屋は秒で承服した。文脈に含まれる会合衆への説得材料が必要であろうという天彦の言葉を正しく理解した上で。
一を話せば二を理解してくれる人は居そうでなかなか居ない。
信長公やナポレオン辺りはこのような有為の人材を排除していくそうだが、天彦は違う。何しろ己の分を誰よりもよく承知しているので。
天彦は自分の見立てが間違っていなかったことに気をよくしてつづけた。
そしてどこからともなく取り出した二通の書簡をそっと差し出し神屋に手渡した。
「その上で提案したろ。これを持って出島へ向かうん」
「出島とは肥前の大村様が治められますあの砂糖港のことにございましょうか」
「宛先は大村純忠ではないさんやが、確かにその出島や」
「その……、つかぬことをお伺いいたしますが」
「申せ」
「はい。大村様とはご昵懇の間柄でございましょうか」
「存じぬな。まったく接点もない」
「は?」
接点はなくもないがやはりない。と言い足した天彦に対し、怪訝を通り越して胡乱な目つきに変わりかけた神屋の双眸だったが。
だが次の瞬間にはその胡乱に染まりつつある目が一瞬で興味に惹きつけられる逆転の手札が開示された。
「読むがええさん」
「よろしいので」
「ええと申した」
「では、失礼いたしまして」
書簡はどうやら親書のようであった。宛名は前のイスパニア海上帝国在外領土極東管理者フェルナンド・メネゼス提督殿となっていた。
「ふむ」
神屋宗湛は天彦が認めたこの親書に目を通し始めた。
行を追う視線が次に移るごとに書簡を持つ手に震えが見られ、読み終えた頃にはまるで浦島太郎を彷彿とさせる加齢現象が起こっていた。
「あ、いや、そんな……はずが、……まさか――」
やや盛ったがそのくらいの驚愕と恐怖とが綯い交ぜとなった畏怖の念が神屋の顔には表れていた。果たして顔と言わず体中全身に体現されていたかもしれないほど。
「……こ、これは真実にございますか」
「お前さん、先ほど来からずっと無礼なん」
「くっ……ご無礼をお許しください。ですがッ」
「わかる。そやから責めてないん。だがすべて事実である。少なくとも身共の認識では近い明日、そのようになると信じているん」
「は、はは――」
神屋はいてもたってもいられず気づけば畳にめり込むほど額を押し付け天彦の次なる言葉をじっと待った。
「菊亭地のお家来さんを先方に出向させている。よってフェルナンド・メネゼス提督は身共の提案を飲まざるを得ぬ。いや、あるいはお利巧さんな提督のこと。身共の提案の裏に真の利得を読み取れば自ら進んで手を取るやも知れぬ。そうなれば今後の展開はかなり楽なん」
天彦の要望と提案を要約するとこうである。
一、菊亭の御用商人こちらの神屋宗湛を今後交易の窓口と致すべし。
一、朝廷のご禁制を解除致す。
一、関税を全面的に撤廃致す。
上記の提案が飲めるのなら親書二通目に認めた要望書に沿って行動し返答と致すもの也。
正三位・権大納言菊亭天彦 花押
「菊亭様、虚言を担保にしたとて大イスパニア海洋帝国提督の目を誤魔化せるとも思えませぬが」
「宗湛。お前さんずっと無礼なん」
「ですが」
「疑うか。五山の化身さんであるこの菊亭を」
「……そういうわけではございませぬが、追放の身の上で権大納言などと大言を申されましても」
「不敬を責めるか。銭勘定に忙しいだけの商人ごときが」
「滅相もございません」
「まあええさん。策成ればお前さんは大儲け。何しろイスパニア商船が持ち込む交易品はすべて神屋が牛耳ることとなるんやからな」
「はい。ですが銀山よりも絵に描いた餅になるのではございませんでしょうか」
「細工は流々仕上げを御覧じろ、なん」
「なれば銀山と併用して動くことをご了承くださいますれば」
「疑り深いのは一流の証か。しゃーない。許したろ」
事実はなった。
生野銀山は絵に描いた餅となり、そして……。
いずれにせよ一か八かの賭けに全勝ちする。これこそまさしく一流の悪巧み師の真骨頂であった。
そして、最後の仕上げが発動するのかどうか。それは神のみぞ――、
◇◆◇
肥前大村領出島・イスパニア海洋帝国ポート。
昼下がりの午後、自室にあったフェルナンド・メネゼスはモノクルを片手にとある書簡に悪戦苦闘していた。
普段なら書簡など後回し。ましてや異国の文字など読めもしない手紙に取り組む根気はなかった。
だが差出人が捨て置けぬ人物だったことにより、辞書を片手に慣れない作業に腐心していた。
と、そこにドアを叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
「あら、こちらに居らしたのね」
「ラファエラ。探したのだぞ。君ときたらまるで糸の切れたカイトだな」
「あらお探しでしたの、ポルトガル海上帝国在外領土極東管理者殿」
フェルナンド・メネゼスはさっと立ち上がると女史の腰をすっと抱いた。
対するラファエラ女史は見事なまでに美しい仰け反りを見せてかわした。
「硬い、硬いよマイフェアレディ。いったいいつになれば。ん、なぜ逃れようとするのだね」
「厭だからでは」
「あははは。キミは変わらないね」
「閣下もお変わりないようで」
「たしかにね」
「仰せの通り、人は変われないものですわ」
「だねぇ」
ところで。
言いかけたラファエラ女史の視線が卓上の書簡に向かう。
その双眸にこれまでまるでなかった熱い焔が宿ったことをフェルナンド・メネゼスは見逃さなかった。
「見せてあげないよ」
「あら、いつのまに」
「読めないよ。こんなミミズの這ったような文字、普通に無理でしょ」
「文字自体はイングリッシュに程近いと存じますが。では翻訳家が必要では」
「……キミ以外にお願いしたいところだが、あいにくキミ以上の語学家と事情通を私は知らない」
「お引き受けいたしましょう」
「頼んだ」
……!
ラファエラ女史の双眸ははっきりとそれとわかる熱気に支配されていた。あるいは自分自身いつぶりだろう活力さえ芽生えさせて。
「提督、是非とも馳走してください」
「まあそう武張るものではないよ。落ち着きなさい。落ち着け、くるじぃぃぃ」
「あら失敬」
「ごほっ、げほっ……、殺す気かね」
「おほほほ。ごめん遊ばせ」
いちゃいちゃしながらもフェルナンド・メネゼスはラファエラ女史の翻訳した文言を脳裏に思い浮かべていた。
「交易窓口の一本化に関税の撤廃。何より喉から手が出るほど欲していた朝廷のお墨付きまでいただけるなど、果たして策意を感じてしまう私は擦れているのかな」
「いいえ至極妥当かと」
「では罠か」
「いいえ。我が殿はありもしないことを引き合いに交渉ごとを進めるような愚か者ではございませんわ」
「我が殿ねぇ」
「何か問題でも」
「問題だらけさ。何しろこれはその殿様からの挑戦状なのだから」
「あら海洋帝国提督ともあろう御方が、裸足で逃げ出すと仰せで」
「ははは、まさか」
黄色い猿になど負けるものか。
フェルナンド・メネゼスの碧眼はともすると深紅に染まっているように見えた。
「それでマイフェアレディ。このゴンダイナゴンとはどのような地位にあるのだね」
「それは……prime ministerを補佐するChief Cabinet Secretaryですわ。日ノ本における二番目の実力者とご理解ください」
「首相を補佐する官房長官か。そして皇帝を除く、だね」
「はい。帝を除くでございます」
「なるほど。ならば虚言はなさそうか」
「はい。そう申しておりますわ」
「彼が? それともキミが?」
「どちらもです」
「ふーん。いずれにせよ猿にしては上出来の提案だ。何より分を弁えている。そして“借りは返したか”……実に潔い私好みの喧嘩口上だな」
「誤解です」
「誤解なものか。あれには煮え湯を飲まされている。まさか知らぬとは言わせないよ?」
「……」
「あははは。キミを困らせる手札を手に入れたようだね」
「自害して果てます」
「ま、待ちなさい」
「待ちますが」
「う、うむ。私はねこう見えて存外彼が気に入っているのだよ。彼は道理を弁えている。そして提案には卒がなく、まるで神がお示しになられた一条の光のように私の心を吸い寄せる」
「甘い蜜のお間違いでは」
「そうとも言う」
「では」
「うむ。乗らぬ手はない。我が船団18隻。御馳走に参るとしよう」
「ほんとですか! 提督のこと、ほんの少し見直しましたわ」
「少しなんだ。はははは……」
天彦渾身の悪巧みはなった。
日本海沖に十八隻のガレオン船大船団が出現したのは、奇しくも元亀元年(1570)十月二十五日のことであった。




