#11 所得の中央値と世論の形成と
元亀元年(1570)八月二十二日
大阪本願寺一向一揆問題が一旦落ち着きを見せた八月某日。
堺津港は大航海時代の象徴である大型船舶(ガレオン船)が直に入港できる条件を満たす数少ない港として、東アジア一の交易拠点となりつつあった。
お盆を過ぎたというのにまだまだ酷暑がつづく厳しい中にはあっても、町全体が暑さ知らず、疲れ知らずの賑わいを見せていた。
そんな堺津港には多くの市場が乱立した。織田が座を廃止し楽市を強く推し進めたからである。
堺津港に立つ市はどこも皆大盛況。
そんな多くの人出で賑わう市場の中でも、船着場から程近くあらゆる利点に富んだ最高ロケーションに立つこの市場は、品揃えの豊富さを中心として他とは一線を画する賑わい見せていた。
出品者は今日も今日とて持ち寄った自慢の逸品を売り捌こうと威勢よく声を枯らし、あるいは甘い言葉で懐柔しようと行き交う買い物客を籠絡にかかる。
「さあ坊ちゃんもそこの嬢ちゃんも、寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
「旦那さんお目が高い! これは彼の南蛮から遥々海を渡ってやってきたこの世に唯一の逸品だ」
「儲かりまっか」
「ぼちぼちでんな」
この別格の集客力を誇る市は、座に縛られず毎日立つことから沢山市、または毎日市と呼ばれ堺の民に親しまれていて、未来の現代人ならば“ああフリマね”とつぶやくだろうそんな形態の売買システムを導入していた。
「店主」
「はいよ! おっと伴天連のお嬢さん。その青いお目に適う品はあったかい」
「この簪の意匠は気に入っただりん。けれど簪ひとつが銀十五両とはあまりに暴利ではないだりんか」
「言葉上手の伴天連さん、冷やかしなら他所に行きな」
「銀七両なら買うだりん」
「銀十二両」
「銀七両」
「銀十両」
「銀七両」
「あんたねえ、少しは歩み寄りなさいよ味気の無い」
「伴天連に味を求める方がどうかしているだりん銀七両。こちらの言い値で売るならもう一つ買ってあげるわ」
「持ってけ泥棒!」
「あ゛? うちを泥棒だと」
「ひっ、ま、毎度あり」
大阪は値切ってナンボの文化圏である。そして思いの外銀の流通が浸透していた。金一両=銀七両の交換レートのようである。
天彦率いる菊亭一行はそんな沢山市に足を運んでいた。
さてここ堺津港が日ノ本一のポータルゲートとして栄えているのは織田の功。だがその陰には紛れもなく、この小さな巨人の知恵働きがあったればこそ。
「御奉行に手土産ですかな」
「その意図はおじゃりませぬ」
「ならばあってくだされ」
「ほう。何かご懸念さんでもおじゃりますかぁ」
「懸念など。某はただ御身を案じて……、くっ」
「ほう身共の身を案じて。案じてくれるとお申しさんか。それは大そう喜ばしいことにおじゃりますなぁ」
「な、何をもたもた時を稼いでおいでか! 用は済まされたであろう。疾く堺をお離れ遊ばせてくだされっ」
「ふふふ、おおきにさん」
「何を申されるのか! お役目を何と心得られるっ。お沙汰を何と心得られるっ!」
「おお、こわ」
万見仙千代は執拗に語気を荒げた。ともすると内心の屈服を覚られたくないばかりに。
だがもろバレ。文字に起こすと“ORZ”あるいは“$%&#§ΓΔ”となるのだろうか。ルカ曰く85レベルでのデレサイズで天彦に対する好意を仄めかしていては如何なる擬態も意味をなさない。
むろん配下の手前たしかに言葉尻は強い。選ぶ言葉も口調も荒い。
だがその含意に悪意はまったく感じられず、むしろ好意や敬意を強く感じさせるばかりでは持ち前の怜悧さも影を潜め迫力も欠けた。
要するに万見仙千代は与えられた重大任務である京都追放見届け役もそっちのけで、一向に堺を離れようとしない天彦を責めもせずに好き放題にさせたのであった。
「そや仙千代さん。今度ご報告も予て文を差し上げるん。そのとき主上さんに官位を上奏しといたろ」
「え」
「要らんか」
「め、滅相もございませぬ! ですが某は……」
「賄賂は受け取らんか」
「賄賂などと滅相もなく」
「ほな貰っとき。減るもんやない。減るどころかお前さんの今後の大きな助けとなってくれはる」
「……はっ。ならばご厚情に感謝申し上げ仕り、その際にはありがたく頂戴いたしまする」
すると天彦の態度も変わっていく。客対応から知り合い対応へ。あるいはもっと近しい親密さを以って接し、呼び方も万見から仙千代へ。より親しみを感じさせる呼び名と変わっていったのである。
このように仙千代の態度が変わったのはここ数日のこと。やはりそこには天彦に対する敬意の感情が芽生えたからであろう。
あるいは敬意さえ越えた畏敬または畏怖その物の念を覚えているのかもしれない。それほどに今回の一件、人々に与えるインパクトは絶大であった。
菊亭は国内最大派閥である巨大宗教を人脈人徳で以って抑え込み、そして他方では一声一筆で百万にも及ぶとされる越後の大軍勢を決起させてしまえるという武威まで示して見せたのだ。それも公称では朝廷に絶縁状態とされた落ち目のはずの状態で。
一歩間違えれば数百万あるいは数千万の命が失われて可怪しくなかった最悪を見事回避し、極秘裏にそれも筆一本と僅かな銭(天彦には大金だが)だけで見事に納めてみせたのである。
まさしく偉業。その一言に尽きるだろう。
その事実を前にすれば仙千代でなくとも世間が広く菊亭に対し畏怖・畏敬の念を覚えても何ら不思議はないはずである。
よってその手腕たるや途轍もなく、噂を訊きつけた人々は口々に若き俊英の偉業を称えた。……という事実はどこにもなく。
いつものように菊亭の風聞は最悪を高止まりでキープしている。良いことは広まらず悪名だけを独り歩きさせながら。
それもこれも。
「閣下はそれでおよろしいので」
「閣下やめい。何をや」
「ならば菊亭卿。むろんこれだけの偉業を成し遂げておられながら、市井の評価が真逆に針を振っていることにございまする」
「じんおわ」
「人生が終わったと。そう仰せになられたいのですな」
「お雪ちゃ、いや違う」
天彦は左右を見比べ、
「ルカやな。まったく、うちには口軽さんしかおらへんのん」
そっと視線を逸らしてはぐらかすルカは、戦利品である簪を三つ。その手にしっかりと握っていた。
天彦は二重の意味でほとほと呆れた。一つにあの手にしている戦利品は必ず十五両で売り捌かれるだろう未来を想像して。そして二つに、意味がわからないからこそ使えた誤魔化しミームも意味を理解されてしまってはとんだ味消しであるからと呆れた。つまり自由に振舞いすぎ。
「ルカは自由に振舞いすぎなん」
「そっくりそのままお殿様にお返しするだりん」
「何を」
「三バカのお給金、建て替えたのはどこのどなたさんだりん」
「あ」
「あ」
なぜこうなったのか。理由は後に記すとして、直接的要因を一言で言うなら、
「銭がないん」
これに尽きた。
堺奉行松井友閑から分捕った(借りた)銭は茶々丸案件ですべて使い果たしてしまっていた。それどころかあちこちから工面し引っ張ってきた証文の裏書人となったので借金すら拵えている。それもまあまあ莫大な額の。即ちど素寒貧。寒いどころの騒ぎではない。
よって定理。銭が惜しいとか惜しくないとかやり方が上手いとか拙かった以前の問題ではなく菊亭定石として銭がなかった。
つまりこの足止めは金銭的事情による強制停滞なのであった。
いずれにせよこのように当の天彦本人が取り立てて弁明する気もないのではどうしようもなく。
仙千代はそんな若き公卿にどうしようもなく魅了されてしまっていた。
そして一方では、その秘された得体の知れなさの一片を覗き込んでしまった恐怖にも苛まれるのだが、それはさて措き。
「して市まで出張って、いったい何をなさいますお心算で」
「見たままなん」
「それをお尋ねしております」
「銭を生み出す算段や」
「この襤褸一枚から銭を生み出しなさいまするか」
「そう申したん」
それが適うならまさに錬金。
だが襤褸の茣蓙一枚引かれただけの商売スペースを指さされたところで、仙千代には意味がわからず納得もできない。それどころかむしろ不可解がいっそう増すばかりである。
「まあ見とき」
「その前に一言言上仕る」
「申してみ」
「はっ、なればこそ織田をお頼りなさいませ。菊亭卿の今のお立場は非常に危うくございます」
仙千代は言外に信長の勘気を匂わせた。
対する天彦は、むろんすべてを承知した上でけれど首を左右に小さく二度振って応じる。
だが仙千代は猶も食い下がった。自身の発案に絶対の自信がある風な態度の進言ではなく、むしろその逆。まっ直ぐな瞳を不安げに揺らして言い募った。
「織田を頼り召されよ。何卒」
「つまり仙千代さんは宮内卿法印さんに今一度取り入れと申されるんやな」
「言葉を飾らず申すのなら、然様にござる」
「ふふ、お前さんのそうゆう外連味のないとこ、身共は存外嫌いではおじゃりません」
「お褒めに預かり光栄至極」
天彦はまったくその気を感じさせない口調で言う。あくまで思いやりに対する予算配分といった風に。
何にでも限度はある。今後とも宮内卿法印とは良好な関係のままでありたい天彦は、むしろ距離を置く方針なのであった。
それは宮内卿法印ばかりではない。織田家そのものと距離を置く心算なのである。
天彦の思い描く未来図には互いに干渉しあわないための、最悪は心を鬼にできるお膳立てとしての、どうしてもひりつくようなともすると痛いほどの緊迫感が必要であった。
故に織田は頼れない。ならば居るではないか。あちらから近づいてきた大銀主が。
「先ほど来、閣下を頼って参った商人から用立てられればよろしかろう」
「それはできん」
「何故に」
「それも申せん」
そう。仙千代の言う通り神屋を頼れば早いのでは。
それ一見大正解。おそらく解答としては満点のはずである。ところが守銭奴彦には珍しく、実に彼らしくない拒否の意を表明したのである。それも即座に、絶対拒絶の絶拒の感情を露わにして。
「ならばもはや何も申しますまい。そのご手腕、確と拝見いたしまする」
「ん、そうしい。ささ、あんたさんのように見た目に格式高いお武家さんが傍に居ったら商売上がったりさんや。離れたどっかからこそっと見たってんか」
「はぁ。ではそのように」
天彦は仙千代を引き剥がし力強く頷く。茶々丸問題は片付いた。だが然は然りながら、天彦の心が休まる暇はない。
一難去ってまた一難。
問題が一つ解決するとまたぞろ次の難事がやってくるのはもはや菊亭家のお家芸なのである。
ならばなぜなのか。それはつい先日に遡る。
茶々丸案件が一段落ついて人心地ついていた暑い日中のことだった。
『若とのさん。某美味しい氷食べたいです』
『身共も食べたい。そやけど銭がないさんなん』
『え、銭ないなったんですか』
『ないなったん。お雪ちゃん貸して』
『某の手持ちなどたかがしれてますやん』
『そやなぁ。どないしよ』
『どないもこないも、あの色男さんからぜびったらよろしいやん』
『色男だれさん、誰さん色男』
『決まってますやろ。博多の大店の御曹司なら千両くらい楽々ですやろ』
嗚呼、……そういう。
別の意味で神屋から銭を借りる心算のなかった天彦は、けれど何か気づきがあったのか細い目を大きく瞠って雪之丞を注視した。
『なんですのん』
『めっ』
『め!?』
それは菊亭一のお家来さんが、それこそ鼻をほじる気楽さと気軽さで抜け抜けと言い放ってしまったから。格下の商人から銭を無心すればよいと。よくない、これは。非っっっ常によろしくない兆候である。
彼らの立場ではそれが容易にできてしまえるからこそ、あるいは通らずともワンちゃんが期待できるからこそ、この雪之丞の発言は天彦の肝をたいへん冷やした。
選択肢としてのお強請りならいい。どうあれそこには確かな関係性が構築されているはずだから。あるいは確かな策意が読み取れるから。だが短絡的思考の強請りは違う。それは絶対の悪であった。
むろんそれにしたって悪事とわかって決行するなら文句はない。それがおそらくは最善の解答なのだろうから。背に腹は代えられないし。
だが果たして雪之丞にはそこに至る覚悟や思考があるのだろうか。あったのだろうか。
ない。けっしてない。絶対にない。天地がひっくり返ったとしてもない。
それが天彦の見立てであり見解である。善悪適否ではなくあくまで個人の見解として。
天彦は雪之丞には公家のように強かで、されど武家のように気高くあってほしかった。
それが言葉を飾らない天彦の本心、あるいは願望である。そうとうかなり切実な。
むろん天彦は自分自身が他人を教育できるほどの人格者であるなどとは思ってもいない。なる心算もない。だが反面、雪之丞を損得利害だけの間柄に終わっていいとも思っていない。
何も清廉潔白な人になれなどと烏滸がましい思いは抱いていない。ただ単に雪之丞には自分の好む性質の人でいて欲しいだけ。それだけだった。
果たして自分色に染めたいのとどちらが烏滸がましいのかはさて措いて、するとそうするためには何が必要なのか。
ならば教え込むしかない。染めるしかない。だから教育することにした。心をオニ鬼にして。頭をバカにして。
必然的に導き出された回答に従って、柄にもなく天彦が教育的指導を実地で行う決意をしたのが昨日のこと。
知恵を絞る。体を使う。手段は何でもよい。何をしてでも自分の手で銭さえ稼げばそれでよい。
天彦は道徳的必要性はいっさい説かず、行動だけで説く意味を伝えることに決めた。
即ちその姿を見せることによって、主家の禄を食むことだけが。あるいは下々に集ることだけが生計のすべてではないことを、山野を練り歩いていた幼少の頃のようにもう一度、雪之丞の心中深くに刻み込ませるために体を張る覚悟を決めたのである。
天彦は周囲の繁盛を見渡し、所得の中央値が高そうな界隈だと目星をつける。
そしてここを突けばそうとう捕りはぐれている税が徴収できるなと、内心で恩義ある堺奉行の厳めしい顔を思い起こしながら襤褸の茣蓙に直接腰かけた。
懐から愛用の扇子を取り出し“うんうんううん”喉の調子を整えて、凛とした声を響かせる。
「さあお雪ちゃん、銭儲けするで」
「はい! ……でも何を売らはりますのん。業者が参るんですか」
「いいや。これを売るんや」
天彦は自身の頭をコツコツと叩いて指し示した。
「これ……。何ですのんこれさん」
「もう勘の悪い! 知恵を売るに決まってるやろ。つまり言葉や」
「売り物はお言葉さん、ですか」
「そうや」
「はぁ」
雪之丞の納得度は思いの外低かった。
天彦とて雪之丞のその感度の鈍い反応には納得がいかないものの、だがいずれにせよこうして毎日市に参加し、自らが襤褸茣蓙の上に座りこんで声を枯らして商品を売る心算なのであった。
◇
「売れん、なんで」
声を枯らさなければ当初目的である教育的指導者の立場も忘れ、天彦は不貞腐れていた。
そんな主君に対し自称一のお家来さんは呆れ果てつつも、どこかお兄ちゃんの顔で優しく言葉をかけてやる。
「当り前ですやん。知恵が金三両て。冷やかしも飛んで逃げはる暴利です」
「そんな?」
「はい。そんなです。常識をもう一度見直さはったらどないですのん」
「だってちまちま稼いでも手間ばっかしかかるんやもん。それにこんだけの町やで、お大臣さんは居たはるやろ」
「若とのさん。いいですか、物の価値はそれが何であるかなどまったく意味がないのです。誰が作ったのか。あるいは誰が所持したのか。そこに価値が生じるのですよ。その理屈に従うなら、どこの馬の骨ともわからん童の言葉など、どこの御大臣さんでも買いはりませんわ」
「さてはお前さん、偽物やな」
「吉田屋さんに教わりました商売の定理ですけど、間違えてますやろか」
「あ、はい」
発想はよかった。だが価格設定がゴミカスだった。
結論、売れない。人が冷やかしでも立ち寄らない。金三両はそれほど気が狂った値付けであった。
言ってしまえば正気を疑われていたのである。
加えて条件も悪すぎた。天彦露店は呼び込みもない。それでは客は取り込めない。目を惹く商材もないのだから。
人材は三バカとルカ親衛隊だけ。だが彼、彼女らの人相及び雰囲気はおよそ客引きには似つかわしくなかったのである。
何よりこれは教育の一環である。あくまで天彦の話術一本で勝負することに意味があった。
「若とのさん、諦めて地図売りませんか」
「え。地図さんどこにあるん」
「某、地図なら書けますけど」
「まじまんじ」
雪之丞は筆を握り、懐に忍ばせてあった墨汁入れに筆先を湿らせると、さささ。まるで一筆書きの要領ですらすらと世界地図を書き上げていった。
あっという間に正角円筒図法による世界地図の出来上がりである。
「できました! どないですやろ」
「お、おお……すっげ!」
そのかなりの出来栄えに、天彦も思わず“おおすっげ”衒いない感嘆の声を上げるほど。
「やっぱし世界さんは平らですやん」
「え」
「ルカが申すんです。世界さんはまあぁるいと」
「いや丸いやろ」
「は?」
「若とのさんは阿呆なんですかアホですね」
「おまっ」
だが天彦は声を荒げず深呼吸で怒りを鎮める。
簡単な理由だった。この頃、日ノ本にはまだ地動説が浸透していないことを承知しているから。
ほとんどの人が天の方こそ大地の周りを回っていると考えていたからである。
笑ってしまうが彼らはまじ。笑っても弄ってもいけない。
「ぷぷぷ、お雪ちゃんさあ」
「あ」
「あ」
だが天彦はバカにした。虚仮にもした。愚弄もした。徹底的に。
「何でですのん、わからずやさん!」
「ほな仮に世界さんが真っ平として。ほな海や。あの海の仕舞いはどないなってるん」
「滝に決まってますやろ」
「くはっ、あは、わはははは」
堪らず腹を抱えて大笑いしてしまう。信長公の下で地球儀を見ている雪之丞ですらこの調子である。世間がこの論調なのは尤もであろう。
「酷いです! ほなどないなってますん」
「どないもなってへん。けれど滝もない」
「だから! ほな先はどないなってますんッ」
「丸うなってる。この日ノ本のある土地は円形。故に一周回れば同じ位置に戻ってくるん」
「は?」
雪之丞に不憫な人を見る目で見られてしまっている天彦は、そうとも知らずこの時代のマイナー説である地動説を懸命に説いた。
すると、
「なあチビ助。お前さ、ウソついてないと死ぬ病気なの?」
何たる侮辱か。
天彦は内心の感情を即座に引っ込めると、声のする右隣に首を傾け目で探る。
そこには同じく襤褸の茣蓙を引いて刃物研屋を商っている三人組の姿があった。
一人は浪人のような風体の双眸鋭い大人であり、残り二人は天彦たちと変わらない年頃のこれまた侍を彷彿とさせる風体の童であった。
さて誰の発言か。天彦はじっと息を凝らしたまま三人を測るように値踏みした。
あれやな。
だが労せず答えは見つかった。あるいは答えの方から見つかりにやってきたのか。いずれにしても声の主はどうやら彼のようである。
労せず一人の少年に目星をつけられた天彦は、次の瞬間には半ば呆れ顔だった表情を改め戦闘モードに切り替えた。
なぜならその彼の方も天彦をしげしげと見つめ返していたから。
値踏みしている心算がされていた。……ははは、おもろ。
ならば公家言葉は一旦封印する。理由はない。このイベントに乗っかり全力でクエストを楽しむために。
つまり猛烈に暇だった。
「お前さん、無礼と違うか」
「得体の知れん奇怪な説を説く其の方こそ胡乱であろう」
「なに」
「地が回っておるなどと申すふざけた論説に加え、挙句、知恵とやらを金三両で売る。その卑しい心根こそが無礼であると申しておる」
「お前さん、もしや知恵働きを認めぬのか」
「違う。そうではない。術理に裏付けられた知恵を揶揄しているのではない。その程度のことはわかってほしいものだがな」
「ほう。思いの外やりおるの。侮ったことを詫びて進ぜよう。許せよ」
「そちらこそ、負け惜しみにしては目が死んでおらぬの」
「名を名乗るがよい」
「丁稚風情が偉そうに。だがよい興が乗った。儂は安威五郎左衛門。数年後には天下にその名を轟かせておる侍じゃ、しかと覚え御おけ。して其方は何と申す」
「神屋丁稚、天衛門」
「博多神屋の丁稚か。して天衛門とやら。如何いたす。素直に非を認めて詫びるなら、この場を平穏に納めてやってもよいのだがな」
天彦は扇子をぱちり。
ぱちり、ぱちり、ぱちり……、とんとんとんとん。
菊亭ではお馴染みの親の顔よりよく見る光景。
愛用の扇子で調子をとって、彼らが交わしていた会話を掘り起こす作業に腐心した。
ややあって、
「祐筆さんか! 安威五郎左衛門了佐。洗礼名シモンと呼んでやった方が喜ぶのかな」
「きさ……、どこでそれを」
すると黙って静観していた浪人風体の侍が、腰の得物に手をかけた。
が、天彦は扇子の先端をそっと向けると、
「甚内さん。子供の喧嘩に大人が出張るのは恰好悪いよ」
「……」
「あれ違たかな。てっきり脇坂甚内さんと」
「なっ……!」
なんや合うてたやん。
これまたズバリと人物を言い当て、刀ごと怒気を抑え込むのであった。
「其の方、何者」
すると最後の一人が冷静な口調で問い質してきた。
天彦は三人の中で最も関心のあった人物の参戦に気をよくし、いつも以上に舌を回した。ぶんぶんに。
「進三郎。直言を許す」
「……」
「どないした。名を名乗る栄を授けると申したん」
「あ、あなた様は」
「二度は申さん。名を名乗るがよい」
すると天彦にロックオンされた少年侍は、自身の持つ教養の中で最も格式高いであろう敬意の姿勢を取って名乗った。
「長束進三郎正家にござりまする」
「ん。苦しゅうない。身共の家来にして進ぜよ」
この冗談のような、あるいは冗談にしても性質の悪い申し出に、けれど少年侍は表情一つ変えずに首肯して、
「はっ、ありがたき幸せにございまする。……して御芳名は頂戴できますので」
「うむ。身共は前の参議にして東宮の別当である藤原長者、菊亭の天彦におじゃる。見知りおけ」
あ、嗚呼……。
すると一斉に天彦の視界が開けた。
そう。三人は元より名を聞いてしまった野次馬全員が地に這うように叩頭していたのであった。
「で、どなたさんですのん」
「お雪ちゃん。空気読も」
「で、誰ですのん」
「ふぅ。特別やで。あれは豊臣五奉行。佐吉に汲みした親友やないか。ほんであれは祐筆で、あれはたぶん軍艦奉行や」
「……あの若とのさん? 某わかりませんけど。仰せの意味がひっとつも」
「そんなことではあかんよ。もっと勉強し」
「はぁ」
だった。
【文中補足】
1、菊亭直接雇用スタッフ(目下五名)
>朱雀雪之丞
>射干ルカ
>上原小次郎晴長 晴の一字、即ち偏諱を賜っていることから天彦ぱっぱ晴季の信厚い人物像であることが窺える。
>湯口藤右衛門晴貞 同上
>三輪三郎公将 対して公の一字、即ち偏諱を賜っていることから天彦じっじ公彦の信厚い人物像であることが窺える。
即ちこれが意味するところは、とくにない。
なぜならたしかにこの三名、血筋家柄的には極めて良好な今出川家の被官であることが窺える。だが哀しいかなおバカである。しかも極めて自己中心的な思想の。そんな人物を信用、あるいは中長期的に信頼できる時代ではない。
家に属さないあるいは縛られない侍を信用することはできないのである。
この時代、自由人即ち浪人ほど忌み嫌われた職業は他にはなかった。そういう約束事の上に社会規範は成り立っていたのである。
2、偏諱
天皇や将軍・大名などの実名の1字のこと。 とくにその貴人を敬って,その字を用いることを忌み避けることが行われた。
他方、逆に功績ある臣下に主人の名の1字が与えられることは栄誉とされ,これを偏諱を賜うといった。
3、謎の三人組
>安威五郎左衛門了佐(1560~数え11つ) 秀吉の祐筆
>長束新三郎正家(1560~数え11つ) 豊臣五奉行の一人。算術の達人。計算力の化け物。
>脇坂甚内安治(1554~数え17つ) 豊臣家水軍の将。救国の英雄。




