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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
十四章 生生流転の章(余談編)
235/314

#09 語弊と誤解とトートロジーと

 



 元亀元年(1570)八月五日






 内裏。またの名を御所。あるいは皇居。


 いずれにせよ帝の御座す御在所を指す。即ちこの世で最も神聖な場所を指す言葉である。


 何が言いたいのかと言うと。


「痛ッ――ッ」

「あーあ、椛壺さんが不浄を撒き散らさはった。おー怖い、怖い」


 大勢の女史に取り囲まれた一人の女子が、額からかなりの量の出血をしてしまっていた。

 そして清涼殿から最も離れた場所とは言え内裏内で不浄とされる血を流してしまったらさあ大変なのである。よくて死罪。悪くすれば連座の罪を問われ一族郎党処刑まである大罪であった。


 だが出血した被告の罪を問うにはあまりにも酷な状況であった。

 取り囲まれ退路を塞がれた状態での裂傷。しかも加害者であろう女史たちの手には囲碁の碁石(貝殻製)が握られ、床にその碁石がけっして少なくない量散らばっている状況を鑑みれば、コナンくんでなくとも犯人の特定は容易であろうとされる目下、そんな状況なのである。かわいちょ。


 この悲惨極まりないかわいちょな状況に陥っている女子こそ、天彦のオーダーを村八分上等の気概で引き受けた、そう。葉室の姫こと椛姫であった。


 大事なことなので二度言う。

 清涼殿から最も離れた場所とは言え内裏で不浄とされる血を流してしまったらさあ大変なのである。


 何故ならこの時代、血は不浄であり最上級の穢れの象徴とされていたのだ。

 というのもすべては宗教観からなる不浄観であり、当然だがこの時代の帝は神だった。日本古来の固有宗教である神道の一柱なのである。大真面目に。


 そして神道の神様は、血や死を穢れとして嫌うといわれていて、神棚がある家の家族が亡くなると穢れが発生するため、それを神様に見せないために神棚封じを行った。

 この神棚を封じるためには白い紙を目隠しのように神棚の前に貼り付ける。 そして神棚を封じている間はお供え物をしたり礼拝したりしてはいけない。


 つまりそういうこと、なのである。


 もう一度言う。帝は神であった。便宜上最高位である帝位に就いているものの神であった。つまりあらゆる宗教的行事が停滞してしまうのである。

 この日ノ本の安寧や豊作を願い照らし、あるいはあらゆる厄災を祓うありとあらゆる宗教的行事が執り行えないのである。

 すると日ノ本にあかりをともせない。言い換えるなら究極的にはお仕舞いなのである。紛れもないじんおわなのである。大真顔で。


 それは大変だろう。その定点から見た視点では。笑笑


 いや笑ってはいけない。あまりに不謹慎すぎるから。

 だがすっかり放送がなくなってしまった年末の風物詩番組を彷彿とさせるこの状況、ケツバン覚悟で吹き出したくなるのもまた人の真理ではなかろうか。違う。あ、はい。


 いずれにせよ彼らはガチ。まぢの大まぢなのである。やはり笑ってはいけなかった。

 何しろここに衛兵が駆け付けた段階で、最低でも人一人の人生は終わってしまうのだ。絶対に笑ってはいけなかった。ぷぷぷ。とか。


 葉室の姫を取り囲む周囲から、あからさまなさりとて下品には振り切ってはいない侮蔑の失笑が漏れ聞こえるそんな中。

 この状況が葉室の姫にとって如何に悲惨で如何に逃げ場のない窮地かを説明したところで。


「さあ椛壺。この状況を何とする。五山の御狐でもお頼りにならしゃいますかぁ」

「……」


 光源氏に登場する名家出身桐壷になぞらえ揶揄されている椛姫は、額の推定七針ほどの傷口からとくとくと流れ出る出血を美しい着物の裾で抑えながら、それでも無言を貫いた。


 彼女は知っていた。この場で何か反論したところで、この陰湿なイジメが終わらないことを。あるいはもっと悲惨な未来が待ち受けてることを。厭というほど知っていた。なぜならかつては己自身もあちら側の住民だったから。


 幼少の頃よりずっと恋焦がれてきた最愛のお人の無茶無謀極まりないオーダーを引き受けると決心した時点で、ある程度の覚悟はしていた。

 だが実際にそうなってみると、当然だがきつかった。しんどかった。辛かった。痛かった。


 それはそう。貧していたとはいえ彼女も生粋のプリンセス。帝に直言できる家柄程度には良血の姫なのだ。脳内にお花畑を栽培していても可怪しくはない。不思議でもない。


 嗚呼……、天彦さん。


 気丈に振舞ってはいてもやはり、椛の内なる耳には何かがぽこきりと折れる音が聞こえていた。



 と、そこに、




 シャリン、シャリン、シャリン、シャリン――




 美しくも身が引き締まるまさに迦陵頻伽な音色が響き渡った。

 明らかな神楽鈴の風光明媚なその音色に、場の誰もが耳を傾けると同時に己の耳を疑ってもいた。


 それはそう。


 ここは最北東に位置する凝華舎と飛香舎を渡す廊下ではあるが歴とした内裏である。

 そんな勝手が許されるものか。誰もがあり得ているのにそのあり得ない状況に戸惑いを覚えてしまっていた。


 僅か数名の女史を除いて。


「ちっ。御面倒な」

「ほんに」

「まこと」


 主犯格らしき格の高そうな小袖を着た女史がもらす。賛同者の同意のつぶやきを引き連れて。

 その呟きにはこの世のあらゆる忌避感を集約させたような特上の嫌気が込められていた。


 そしてくだんの人物は角を曲がり姿を見せるや、


「おのれ……、一々邪魔立てしおる」

「な、な、な、……ふざけるなっ!」


 すべてのヘイトを掻っ攫った。


「やばぁ」

「すごっ」

「えぐっ」

「知ってた」

「あんなの、あんなの、馬鹿げておりますわ」

「終わってる」

「妾はけっして認めぬぞ――ッ!」

「妾も」

「妾も」


 近づくごとに増える嫌気の言葉。人物が完全に特定された段階で九割を絶句させ、残り数名を激怒させた。


 だが皆の意識を独占総取りする人物はまったく意に介さずに凛と歩みを進める。

 わたくしこそがトレンドよと言わんばかりの見た目に高価な最新桃山小袖を小粋に纏って。神楽鈴を伴奏に花びらシャワーを一身に浴びて。

 そう。登場した人物は何とあろうことか花びらシャワーで登場した。目にあざやかな深紅の色彩を撒き散らして。


 もう一度言う。そう。人物は花びらシャワーで登場した。あり得ない。何しろここは神の御在所。この世で最も神聖な地、大内裏なのである。


 だが登場人物はそれさえお構いなしとした風に飄々と歩みを進めていく。

 それはまるで神話の姫巫女の登場を彷彿とさせ、それを目撃した者すべてを恭しい感情にさせる演出効果を伴っていた。

 但し四名ほどの神楽鈴の振り手と、花びらシャワーを懸命に撒く六名ほどの黒子衣装の用人の、健気な献身に意識が向かなければの話だが。


 見てしまったら道化である。でなくとも100%ふざけている。


「おのれ片割れふざけおる」

「どこまでも妾らを愚弄しておって」

「これほど怪しからぬことがこの世にあろうか」


 罵詈雑言の渦の中、最後にぽつり、


「撫子さま……」


 椛姫が小さくつぶやく。


 そう。彼女は極星、夕星ゆうづつであった。極星は盛ったが実際に年一程度でしかお見掛けしないレアキャラであり、この内裏で彼女と邂逅すればその年は一年○○に見舞われると頻りに噂される最警戒人物であった。


 その夕星姫(正式名称権中納言今出川晴季の娘・撫子)が登場した。謎の効果音と花びらシャワーを伴って。

 撒き散らされている花の名はジニア。またの名をヒャクニチソウ。花言葉は幸福。そして不在の友を想う。であった。


 その夕星が足をとめて可憐に会釈。そして、


「下々の御姫さん方、ご機嫌さんにあらしゃいますぅ」

「誰が下々じゃい!」

「コロス」

「だる」

「うざ」

「きっも」

「しんど」


 意見を総論すると“うわ、でた!”となるのだろう。のっけから実に彼女らしい節を炸裂させて挨拶と代えた。当たり前だが120の敵意を買って。


 だが夕星姫は気にしない。そもそもそんな感情の機微を読み解ける精緻な機能が備わっていない。あるいは備わっていても正しく機能していないまである傲岸不遜な表情で、「おーほほほほほほ」高笑いを決め込んだ。

 天彦がこの場にいれば確実に、おい世界観! 秒でツッコミを入れたであろうドリル縦巻きツインテ侯爵令嬢ムーブで。


 だが彼女は真面目。至って大真面目なのである。

 同日に生まれた一方的に愛され分身との違いは多岐にわたるが、この性格あるいは性質こそが最も差異ある違いではなかろうか。そう。撫子は常にガチ勢だった。

 夕星姫は何かに付けて真正面から物事を捉え好き嫌いはもちろん適否、あるいは善悪までも彼女の正義に照らして決めた。それがたとえ誰様であろうと。何様であろうとも。


 その夕星は状況を具に読み解いたのか。おそらく最も格上であろう姫に視線を合わせる、床に崩れ落ち傷を見せまいと顔を伏せる椛姫を顎でしゃくって、


「何やら楽しげなお遊びをされておじゃりますご様子。どれお一つ、妾も混ぜて進ぜたもれ」

「……織田様の領分である。部外者は立ち入るでない」


 空気が変わった。



 ひっ――!



 小さな悲鳴が漏れ聞こえる。そんな程度には空気、いや趨勢も変わったのか。

 厳密には夕星の表情が変わっただけなのだが、場の空気感はすべて夕星に支配されてしまっていた。

 僅か表情から一瞬にして感情を抜け落としただけで。あるいはまるで冷酷な鉄仮面を張り付けたように一切の表情を削ぎ落してしまっただけで、この場のすべてを支配してしまった。


 だがそれも仕方がないのだろう。

 彼女の半身たる兄、あるいは弟譲りの凄まじい呪詛顔である。

 今の彼女、控えめに言って激コワおっかないのであった。

 ともするとあの天彦をして秒で退散を決め込む程度には目が座ってしまっていた。

 それがこの場に立ち会い目撃した者の総意であろう。間違いなく。


 だが織田家の名を出してしまった以上、会の主催者も引っ込みがつかない。

 またそれとは別に勘違いもしたのだろう。撫子が織田の名に怯んだと。

 ならばここで畳みかけるのが常道である。

 この場で最も格上らしき女史はここぞとばかり勝ち誇ったように居丈高に、持ち前の権高さを存分に発揮して言い返した。


「そう、これはすべて織田様の意向におじゃる! 頭が高いのではあらしゃいませぬか。さあ控えなさい。控えおろう。おほ、おほほほほほほ」


 が、


「織田。織田……、はて清華家や摂関家に織田なるお家はあらしゃったやろか。はてはて」


 と、真顔で問いかけられてしまう。


 これは二重の意味で恐ろしいことだった。少なくとも周囲をすべて凍り付かせる程度には恐ろしかった。

 なぜなら夕星姫は白々しくも堂々と織田家をどうやら存じていなかった風を装い、しかも公然と取るに足らない格下扱いをしたのである。

 魔王様の耳に届けばただでは済まない。運がよければ八つ裂きで済む。その程度には禁忌であった。

 するとこれにはこの場に集う全員が、あるいは面白可笑しがって見て見ぬふりを決め込んでいた警護の兵たちまでもが言葉を失い絶句した。

 そして同時に誰も彼もが厭厭と頭を振った。単純に純然と、このアタオカに巻き込まれたくない一心で。だがきっと巻き込まれてしまうのだろう予感をひしひしと感じてしまっているが故に。


 皆が言葉を失う中、会の主催者さんだけはどうにか正気を取り戻す。

 そして一人呑気に“ん?”と周囲の気配に怪訝を表明しているアタオカ姫に向かって言い放った。


「……おのれ、さすがに看過できぬぞ」

「どうやらご不快な思いをさせてしもうたような。そこな下々の姫御前、無知蒙昧な妾に教えて進ぜたも」


 だが会話はやはり通じなかった。

 夕星姫は一方的な言葉を投げかけ、じっとその返答を待っていた。その間もずっとジニアの花びらシャワーを浴びながら。


「ええいやめぬか目障りなッ!」

「ふむ。願いとあらば聞き届けてやるのも貴種の務めか。よろしかろう。おいやめよ」

「はっ」


 凄まじいまでの傲岸っぷりを見せつけた撫子に対し、会の主催者は震えながらけれど確かな気炎を吐いた。


「とことん妾を舐め腐るか。童は羽林家、古くは源氏に通じる――」

「もうよい。それ以上の恥を晒すは妾の本懐に非ず。黙りゃれるがよい」

「なっ……! 童は織田様の意向を受けて公卿様方との調整に入る羽林家――」

「黙れと申した、織田など知らぬ。そも堂上家以外お人さんに非ず。尚且つその野人に媚びる地下人など童が知る道理などおじゃらぬ。違うかえ」

「っ……」


 撫子の言葉にはある一定の真実があった。

 織田家を権威とする宮廷勢力の大半の地下人とされる下級貴族の師弟たちに反論の余地はない。なぜなら彼らは武家に媚びているから。そして彼ら自身がその劣等感に苛まれて日々を息苦しくしてしまっている張本人たちだから。


 だが下級といってもかなり高貴なのは間違いがなく、撫子の生家である清華家や摂関家の格式が異様に高いだけである。もっと胸を張ればよいのだが。

 撫子姫には劣等感に追い打ちをかける余人とは隔絶した風雅な品格が纏われていた。


 ある者は絶望に打ちひしがれ人生を悲観し、ある者は激高し発狂して人生を狂わされる。

 このように今出川晴季の娘・撫子とは混ぜるな危険の象徴であった。


 すると撫子は何を思ったのか思わなかったのか。従者に何かを耳打ちした。そして返答を受けてなるほどと得心したようすで数度頷く。


「従六位上とな。……くふ、しかも弾正忠とな。よもや足利の被官の被官とは。これはもしや面白話におじゃったかえ。ならば失敬。粋を解さぬとは、妾の手抜かりであったようにおじゃりますぅ」


 とどめを刺した。いや敢えて刺しにかかったのか。

 すると撫子の目論見通り会の主催者は撫子の言葉に乗っかってきた。


「その通りにおじゃる。これは洒落。ただのお遊びにおじゃりますぅ」

「ほう」

「あ」


 ビシッ――!


 やや和みかけていた場が、一瞬で凍り付いた。まるで真夏のホラーを見ているように。

 凍り付きその場の誰も笑っていなかった。笑うどころか真逆の感情。恐怖に頬を引きつらせ、中には意識を失う者まで出る始末。


 撫子と対話をしていたその当人が一番肌で感じ取ったのだろう。言葉を発した次の瞬間には自身の置かれている状況を理解した絶望を、その美しいおてもやん顔に張り付けていた。


「痛ッ――、あ、あ、あ、嗚呼……、まさか。なんということを」


 会の主催者は自身の身に起こった事実を受け止められないのか。半ば半狂乱となってその場に崩れ落ちてしまう。

 その額からかなりの量の不浄を滴らせながら。奇しくも丁度同じくらいの七針程度の傷を作って。


「童も混ぜてたも。そこなお前、お前が次じゃ。あなおかし、あな楽し」

「え」



 ぎゃあああああああああああああああ――。



 渡り廊下に絶叫が響き渡った。


 親玉成敗で済ませておけばおそらくは美談で済まされたエピだろう。

 だが普通ではないのだ、この姫は。しかも正義の味方ではけっしてない。

 撫子は次々に額を愛用の鉄扇で打ち付けていき、遂にはその場にいた全員の額から不浄を吐き出させてしまうのだった。じんおわ。


 果たして誰の人生が終わったのか。あるいは終わらなかったのか。

 いずれにせよ撫子はこうして不浄を出してしまうという無理やりな局面を作り上げ、誰もが訴え出られぬ状況を作り上げてしまっていた。


 ある意味でお見事。ある意味で出鱈目やりすぎ。


 そして撫子はどこか恍惚とした表情で凶器となった鉄扇をしげしげと見つめ、


「そう申せばこの扇、織田とか申す侍大将に献上されたような……」


 善なるや。悪なりや。


 ひとりつぶやく。……も、次の瞬間には適否の判断を下していた。


 我が最愛の半身である弟御前を妾の元から引き離したのじゃ。悪に決まっておろうもの。という身勝手な理由によって。

 そも最愛であるかはかなり怪しい、いや相当胡散臭いであろうことはさて措いて。


「愉快な催しであった。では参ろうさん」


 確信犯は120%の無垢さを演出してその阿鼻叫喚の場を後にした。


「お待ちくださいませ!」


 そしてこの世の切実さを集約したであろう切実な言葉も聞き届けずに。






 ◇






 だが椛姫もただの姫様ではない。

 集団の脇をそそそと抜けて先頭に追い付くと、とおせんぼをする格好で集団の前で叩頭した。


「お待ちくださいませ! 相識の間柄なれば何卒、なにとぞご温情をたまわりたく」


 確実に無視をするだろうと思われた場面、けれど夕星は足を止めた。


「ふん、誰さんかと思えば椛かえ。申すがよい。訊いて進ぜたろ」

「はい願い聞き届けて頂き誠に恐悦至極に存じまする。夕星さま。どうかこの妾めを一門にお加え頂きたく御願い奉りまする」

「なに。馳走の礼かと思いきや、厭じゃ。とく往ね」

「え」

「えではない。妾は往ねと申したぞよ」

「あ」

「あでもない」

「う」

「うでも……ほう。己、この鉄扇の切れ味を味わいたいようじゃの」

「わ。滅相もございませぬ」

「ふん、どうだかの」


 帥は存外曲者じゃからのう。


 言いながら夕星は椛の脇を抱えて立ち上がらせる配慮を見せる。

 そもそも名を覚えており、かつ非っっっ常にわかりづらいが親しげに呼んでいる時点でかなり稀。言ってしまえばお察しなのだが今の椛にそれを気付ける心の余裕などありはしない。


「椛」

「はい」

「当家秘伝の傷薬じゃ。塗っておればそのくらいの傷、十日も経たぬうちに消え失せておろう。……それと、大儀におじゃった。礼を申す」

「……へ」


 夕星は天彦お抱えの薬師が拵えた今出川秘伝の傷薬を分け与えると、その序のように敢えて何についてかは明言を避けて礼を述べた。


 そして照れ臭さを隠すように愛用の鉄扇でぱたぱたと扇ぎ、取って付けたような咳払いをひとつすると、


「妾は覚悟なき貴種がほとほと嫌いじゃ。ほとほと厭。虫唾が走る。即ち覚悟も決意もなく御家御家と騒ぎ立てるあの輩どものこと。徒に武家に阿り胡麻するあの羽虫どもが一等嫌い。自己正当化であろうと反省しようと贖罪を受けようとも。あるいはメンタルの虚弱であろうとも理由は問わぬ何だってよい。それらすべてが嫌いである。厭なのじゃ」


 愚痴と不満が延々尽きない。よほどお気に召さないのだろう。

 だが椛は黙ってじっと訊いた。どこか心地悪そうな表情をしながら。


「あ、はい……」

「うむ。己も羽虫である自覚があるな。なれど其方は少しまし。我が不肖の愚弟を見染めたからの。む、違うのか」

「あう」

「うむ違わぬようじゃの。ならばよい。故に一度だけ機会を与えて進ぜる。お命さんを放れる覚悟が決まったら我が一門の門戸を叩くとよいさんにあらしゃいますぅ。――では参ろうぞ」


 言うだけ言うと夕星は桃山小袖の裾をさっと翻した。

 そして目配せ。すると顔まですっぽりと黒子服を纏った全身真っ黒な神楽鈴の振り手がシャリン。



 シャリン、シャリン、シャリン――



 と鈴を振った。


 続けて深紅の花弁が可憐に舞う。シャンシャンシャンと虚空高くに。



 もはや出オチ。いっそ出オチ。なのに舞台に出続けて猶、すべっている感即ち存在感をまったく失わないその姫の名を撫子、またの名を夕星といった。


 天彦をして最愛と言わしめる戦国一の極星であった。






 ◇◆◇

 





 一方その頃、


「すりすり」

「ペシッ」

「すりすり」

「ペシッ」

「すりすり、すり」

「シャアアアアア」

「え!? 若とのさん、なんでですのん」

「あははは、野生の獣さんのこと身共がわかるかいな」

「でもお名前知ったはりましたやん」

「名前知ってるからって生態まで知ってるとは限らんのよお雪ちゃん」

「そんなぁ。某、この野生さん飼いたいです!」

「いや無理やろ、普通に」


 ちょっとサイズがね。大きいね。途轍もなく。


 それほんまにネッコかいな。かなり怪しい。そうとう胡乱。

 天彦は猫だと言い張る商人に果てしなく胡乱な視線を向ける。ウソジャイナイネー。


 すでに充分ぷんぷんにウソ臭いのだが、


「ええい、ならば! むぎゅう」

「うわ、行きおった」


 雪之丞は我慢ならなかったのだろう。巨大な猫にダイブした。


「んぎゃっ、ギャオ!」


 驚くネッコ。モフらせろと挑みかかる雪之丞。天彦はどこか感心を思わせる張りのある声で叫んだ。

 むろん周囲はドン引きである。推定オオヤマネコの持ち主であろう青い目をした商人を始めとして、買い物客も物見遊山の野次馬もルカ率いる射干一党も。菊亭一のお家来さんはまとめて皆を激しく引かせる。


 だが、かぷり。


「ぎゃおおおおおーん。若とのさん、助けてー」


 あはははは。それではどっちが獣かわからんやん。


「やっぱし。そうなるよね。おいルカ」

「まったくあなた方は……」

「おい身共なんもしてへんやろ」

「煽り散らかしておいてよくも申されるだりん。120同罪です」

「あ。うん」


 あははははは。


 大活躍だった夕星の半身は、猫と戯れる雪之丞と戯れていた。呑気に大笑いしながら。












【文中補足】

 1、相識

 互いに相手を知っていること。または知り合い。


 2、叩頭

 頭を地にこすりつけてお辞儀をすること。























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