#02 酸っぱい顔
元亀元年(1570)七月十七日
こんこんちきちん。祇園囃子を背に受けて。
雪之丞並びにルカの合流に気をよくしていた天彦だが、すでに浮かれ気分は薄れている。というのも天彦追放の目付け役の視線が非常に、非っ常ぉぉぉに厳しいものとなっているからだった。
「某は懇切丁寧に言上仕ったはずにございますが。手間取らせないでいただきたいと」
「お雪ちゃんはお公家さんやしそっちの女性は用人や」
天彦の菊亭に外国人ルックの用人がいても不思議はない。というテイで押し切る戦略である。
目線を幾重にも交錯させて探られて。……ほっ、通ったん。
ややあって目付け役の双眸から色濃かった不審の色が薄れていく。
だがしかしまったく完全には払しょくできない。天彦がそのことを不満に思っていると、
「理屈はわかりまする。ですが理由が何であれ京出立から人員が増えれば都度、上様にご報告を差し上げなければならぬ定めとなっております」
「そこは、ほら。何でも臨機応変に――」
「罷りなりませぬ」
「あ、はい」
厳しい口調と表情で即断の拒絶。これは手強い。
押し黙らされてしまった天彦は珍しく表情を強張らせた。脇汗を掻きながら相手の出方をじっとうかがいつつ、“いっちゃん苦手なタイプなん”。率直に分の悪さを認めていた。
「なんでしょうか。そのお顔は」
「かわいいさんやろ」
「菊亭様。合言葉は穏便に。御自身のお言葉でそう申されたばかりではございませぬか」
「かわいいさんやろ」
「世辞をお求めならその都度二両頂戴いたしまするが」
「ひっど!」
「ではご自身のお言葉に責任をお持ちくださいませ」
「ふん、お手間とらせて堪忍なん」
「はっ。以降はなきことを切に願いまする」
「確約はできんが留意するん」
「確約してくださると大いに心休まるのですが」
「ぬぐううう」
天彦が言い負かされていた。あの天彦が。
雪之丞もルカも……特別なリアクションは見せてない。本気の舌戦ならいざしらず稀だがよく見る光景であった。負けるが勝ちの巻とか何とか言って。
舌戦相手は織田家目付け役万見仙千代重元。目下信長が重用している小姓の一人であり将来の親衛隊筆頭候補でもある重要人物。むろんかける期待はかなり大きい。
後々はこの世界線ではいなくなってしまった藤吉郎のポジションに座るであろうと目される非常に優秀な切れ者侍である。つまり信頼度は☆5つ。
人選としてはこれ以上ないほど最適人材かと思われる。なぜならこの万見仙千代はそういった意味では藤吉郎とは真逆の性質をしており、即ち虚飾を嫌いほとんど媚びない。類似人材にあの佐吉が挙げられるだろうそんな人物であった。
故に職性は文官だが気性は実に武辺によった武人気質。与六あたりとはかなり相当馬が合うだろうと思われる。
つまり信長に対してもむろん天彦に対してもフラットな目線で考察でき、上げる報告書も極めて信頼性が高くなること請け合いであった。
余談だが菊亭は都からの追放の他にお家解体の沙汰も下されている(但し名としての家名は名乗れるが)。それが名跡抹消という名目沙汰に含まれた、あるいは隠された信長の真の狙いの一つであった。
公武分離。公家は私欲を出さず公に務め朝廷への奉仕と文化の継承だけをやっていなさい。戦力保有は絶対に許さん。公武の繋がり(特に婚姻)も織田家を通さなければ罷りならぬ。そんな律令ができていた。
魔王様、天彦周りでよほど懲りたのだろう。つまりこの新律令は天彦に向けた掣肘である。なにせ他にそんな公家勢力は皆無なのだから。
いずれにせよそれが信長新政権の方針ならば是非もない。織田政権樹立を望んだのは他の誰でもない天彦自身である。そも拒否権はまったくなかったという事実を抜きにしても従わざるを得なかった。
というよりも歯向かうことが恐ろしかった。今回の信長はいつも以上に鼻息が荒かったのだ。最悪は感情に任せて……、最悪シナリオが脳裏を過ってしまうレベルにはブチ切れていらっしゃった。よって珍しく強請らず駄々をこねず殊勝に受けいれた負け彦であった。
だが天彦は自身が草案した日ノ本千年計画の65%くらいは達成できているので残すは余談、余韻、余生である。もはや己は何者でなくとも十分であると豪語する。強がりではなく本心から。多少はゆるーりとホームドラマ展開がしたいという私心もあるにはあるが、そういう意味での余談偏であったのだ。
が、実は残す35%の未達未補完部分にこそ重要な真理が詰め込まれているとしたもので。所詮は取らぬ狸ならぬ狐のコンコンこほん。
苦し紛れの空咳を三つほどして、まあ人生など所詮は意のままに思い描けるものでもなしと居直ってさて。
当然ではあるがあれほどの危機的状況から大逆人である了以を救うということは並大抵のリスクではなかった。むしろ命あったことの方が驚きまである大大大リスクを負っていた。
魔王の激情はそれほど怒髪天を突き破る勢いだったとか。彼方まで。
天彦でさえ誤算尽くし。まさかお家解体とまでは考えていなかったのだ。
これはリアルに食らった。大いなる誤算と書いて大誤算である。ともすると射干党の裏切りよりも手痛い痛恨の大誤算であった。
けれど済んだことを悔やんでも始まらない。すでに余談偏は始まってしまっている。
さて余談序にもう一つ。隠れシナリオだが最も気になるストーリーに触れねばなるまい。あの天彦大好き菊亭イツメンたちについて是が非でも。
天彦の為なら心頭滅却、真実火の海にでもその身を放りこめる彼らが菊亭解散、はいそうですかと素直に受け入れるはずがない。そのことはまさに火を見るよりも明らかで。
故に天彦に自前戦力を持たせることに最大警戒をする信長は、目付け役に重大ミッションを課した。
その課題とはそれら菊亭に集う操縦不能の武辺者たちが、再び菊亭の元へと群れ集うことなきよう目を光らせることであった。即ち仙千代に与えられた一番のミッションは人材の接触・合流だったのだ。故に人材の合流には否が応にも口うるさくなってしまう。
が、
「主家と事を構えて存続を許されていた唯一の御家。実に惜しいことをなさりましたな」
「ほなら魔王さんに進言したってんか」
「何とお伝えいたしましょう」
「勿体ないお家を再建したってんか。なんかどないさんやろ」
「また御冗談を。菊亭様、某はあの戦が初陣にございました」
「あの戦とは」
「京での大戦に御座いまする」
「……ああ、それは堪忍なん。その節は大そうご迷惑をおかけしたん」
「いいえ。槍弓を交えるは武家の常なれば。何より某感謝しておりまする。実に心躍る大戦にござった。おいやこれは弁チャラではございませぬぞ。本心から某菊亭様の御雄姿をこの両の瞼に。そして大そう貴重な経験として菊亭様が繰り出された戦術のすべてをこのお頭に確と刻みつけてございまする」
主君信長への反逆さえなければ仙千代は天彦にはかなり好意的な感情を抱いていた。本来なら公家(主に策士の寝業師)など眼中にはなく、むしろ唾棄すべく嫌う性格をしているにもかかわらず。
天彦だけは別格・格別の評価を下していた。あるいは公家という区分にとらわれず主君信長を含めた全階層の人物の中からでも破格の評価を与えているといっても過言ではないだろう。それほどに仙千代は天彦を好意的に捉えていた。というのも二点。まず例の一戦は万見仙千代にとっての初陣であったのだ。
14歳での初陣は戦国騒乱期であってもかなり早い。つまり強請ったのだ。では誰に。むろん信長公にである。
仙千代は対価も無しにお強請りが許される数すくない家来の一人であった。
そのことがこれで証明されたわけだが、初陣が彼にとって一世一代の花道であることは紛れもなくそれほどに必死だったのだろう。
結果は御存じの通り。
その花道を辛勝という結果で終えたことは彼の侍人生における最大のターニングポイントとなった。
それほど菊亭との大戦は仙千代に鮮烈な印象を植え付けていた。というより織田家家来衆の大半に鮮烈な印象を植え付けている。それもトラウマレベルの強烈なインパクトを。どこの世界にすべての橋を叩き落し区画丸ごと占拠し籠城する気狂いがいるのか。帝の御座す洛中で。いない。
それを公家のしかも参内を許された貴種の御曹司が行なったのだからおっ魂消た。仙千代はあまりの理不尽さと痛快さにいつしか気づけば魅了されてしまっていた。菊亭天彦というキャラクターデザインに。
あくまで感覚だが言語化するなら、公家でありながら意思を通すためなら一戦も辞さずの潔い精神がとても好感がもてる。となるのか。
いずれにしても、そんなある意味で枠に収まらない天彦の破天荒さが彼の主君である織田信長と重なった。以降は天彦のやることなすことすべてが仙千代のツボとなった。
そして第二に、仙千代はあの人物を蛇蝎の如く嫌っていた。
あの人物とはあの人物である。そう金柑頭でお馴染みの愛すべき最強ヒール惟任日向守光秀公である。
彼我の曰くの詳細は割愛するが仙千代は惟任の応接係を仰せつかった。その際おおいなる恥を掻かされたと切腹騒動にまで発展し信長が直々に罷りならんと踏みとどまらせる曰くがあった。
いずれ見ておれ。絶対にそう考えたはずである。だが惟任はいつしか気づけばあの信長でさえ容易には手出しのできない巨魁となった。
おのれ、おのれ、おのれ……ッ!
つまり単純にくっっっそ忌々しいのであろう。知らんけどおそらくきっと。
その惟任と真正面からばちばちとぶつかり合う菊亭の若当主こそ、仙千代にとってまさしく霧の中の一条の光だったのだ。
故にこのお役目も仙千代自ら自薦して望んだ。嬉しくてたまらない。
そんな内心はおくびにも出さず務めて平静を装いつつ、けれど隠し切れない好感を声に滲ませそっと問う。
「菊亭様、して御下向先は」
「え、普通に厭やねんけど」
「え」
「えはこっちなん。逆になんで教えてもらえるとお思いさんや」
「それが某のお勤めなれば当然の理かと存じまする」
「当然の理ねえ。……しゃーない、ええか万見さん。ひとついいこと教えたろ」
「これを機に仙千代と。はっ是非ともご教授くださいませ」
「万見さん。この世に絶対と当然はない。それが絶対であり当然の真理なん」
…………。
距離は縮められなかった。それはいい。問題は天彦の紡いだ言葉にあった。
単なる言葉遊びかはたまた真なる世の定理なのか。今の仙千代には即座に答えがだせなかった。
ならば。
「それが理解できるまではあなた様の御傍を離れませぬ」
「は?」
「それが理解できるまではあなた様の御傍を離れませぬ」
「聞こえてるん」
「よしなに」
「え、なにそれ。……普通にキモいねんけど」
キモいの意味には敢えて触れずに天彦たちは堺町を目指した。
すると道中、居ても立ってもいられなかったのだろう。
自称菊亭一のお家来さんがすっと歩み寄ってそっと手を上げた。
どうぞ。発言を許可します。
天彦は真顔を作り教壇ティーチャーの心境で雪之丞を指示した。
「はい! 某、万見と申されるお武家さんが当家のお家来さんになる方に一両賭けたいと思います」
「これお雪ちゃん。博打はあかんのん。口を酸っぱくして教えたやろ」
「だって路銀に乏しんですもの」
「だってもへちまも――」
「お殿様!」
「なんやルカ。まだお雪ちゃんと――」
「朱雀さまに乗っただりん。だってお殿様は侍ホイホイだりん」
「ルカ、それでは賭けになりませんやん。某の逆側に張ってください」
「厭だりん」
「なんで?」
「負けるからだりん」
「ちっ。ハンデ上げますけど」
「要らんやろ。どうせ負けるのに」
「勝かもしれませんやん」
天彦はルカに逆張りをしろと執拗に言い募る雪之丞に呆れ果てながらも、その切実さに雪之丞の懐事情を察してしまう。
つまり悪いのはぜーんぶ天彦のせいであった。しゃーない。
「ほな逆側を身共が受けたろ」
「やた」
「やた」
しかし勝算はそれなりにあった。なぜなら天彦はメンヘラハンター。万見はどうみてもイケカテの陽キャなん。ほいほいとは釣られんやろ。そんな見立てで引き受けた。
この賭けは勝ったな。あはははは。
吝嗇彦は吝嗇彦で路銀の工面に苦慮していた。とか。自ら自嘲の乾いた笑い声を響かせるのであった。
そしてそれとは別件で、
魔王の「おのれ狐め――ッ! またしても余の愛臣を誑かしおったか!!!」という激怒の雄叫びが叫ばれるのは、この時から十日後のことであったとかなかったとか。
◇◆◇
元亀元年(1570)七月十八日
早朝に京を出立した天彦たちだったが、翌日の正午には自治都市堺に到着していた。
自治都市堺。あくまで通称だがたしかに自治の面影を色濃く残す環濠都市であった。
摂津・河内・和泉の三国の堺に位置することからその名で呼ばれる土地柄であり、言わずと知れた国内最大の交易都市である。
流動人口は推定一千万を優に超える数を計測し、京の都を除けば畿内最大都市の一つである。
「ほえー、なんや野生の獣さんまで気忙しそうにお魚咥えはって。なんや目の回りそうな賑やかな町さんですねぇ」
「あははは、その言い回しおもろ。さてはネコのことかいな」
「はぁそれですわ」
「お雪ちゃんはこの雰囲気が苦手か」
「どないですやろ。でも何やくらくらします」
「さよか」
それはきっと苦手なのだろう。通常なら。
天彦は口ぶりと態度が真逆を示している一の家来さんから目を逸らして街並みに目を向けた。
外国人がかなり多いめ。それが第一感。そして飛び交っているお国柄言葉も京よりかなり雑多な印象。総じてかなり発展している。さすのっぶ。
やはり経済を発展させたら右に並ぶ大名はいない。天彦は改めて信長の手腕に舌を巻きつつ、自身も初めて足を運んだ堺の街並みを注意深く観察した。記憶にある大阪堺とは当たり前だがまったく別物。
物価はどうだろう。やはり京の方がややお高いのか。判然としないが普通に考えれば安いに決まっている。なにせ京都は原則無税。それだけで商品は半額まで値を落とせる。道理では。
品数は断然堺の方が豊富である。それはそう。ここは商船がじかに付ける船着き場がある巨大な港町の直売場なのだから。
たしかに人種も雑多な目の回るほど人々が行き交い、そこらかしこから威勢のいい掛け声が耳朶を叩いてくる。いくつもの言語で。
つまり良くも悪くも品性が足りない、ともするといい意味での野性味を感じさせる活気に溢れたまさしく交易都市であった。
これ未来の現代でも地方都市なら負けてるん。
むろん活気というたった一つの観点では。
そんな益体もないことを薄っすらと思っていると、
「菊亭様。まずは代官所に赴き、下向のご報告をお願い申し上げまする」
「堺政所へ身共が自ら向かうんか。お前さんがどうしてもそれをせえと申すなら吝かではないさんやが……、初めてや。こんな侮辱を受けるのは」
「っ――、断じて! 断じてそのようなことは」
「ほーん。口では何とでも申せるん」
「某、菊亭様に何かを強要できるほどの者にはござりませぬ! お信じ召されよっ」
おー必死必死。意地悪成功の巻。
ほんとうにちょっとした意趣返しである。足を運ぶことなど造作もない。下げて減るプライドもなければ今なら体面を保つのに不都合な家格もない。よゆー。
ましてや目下堺の代官は角倉了以の後任として史実どおり松井友閑が就いているのだ。よゆー。むしろチャンス!
織田家中ではある意味で最も天彦と親交の深い人物の着任とあって、かなりの便宜が期待される。そんな状況であれば渋る理由などありはしない。
何しろ天彦極貧ちう。当座どころか目先の旅銀捻出にさえ苦慮していた。なれば今後資金の調達をどうするのか。実に考えあぐねていた。なぜなら悪目だちできないから。願わくは一生ずっと。現実的には少なくとも魔王の影響力の範疇(最低でも畿内)から出るまではおとなしくしていようと心に固く誓っていた。
「身共との仲やし、宮内卿法印さんなら貸してくれはるやろ」
むろん無期限無利子無催促で。
そんな内心はさて措き悪戯はバレたのだろう。仙千代は言葉なくけれど明確な意志を以って目線で天彦に訴えていた。
言語化するならさしずめ“わかりにくい冗談はやめてください”だろうか。
「ははは、万見さん。お前さん実にええ顔で訴えてくるな。センスの塊なん」
「仙千代とお呼びくださいませ。不躾ながらお尋ね申しまする。センスとは如何なる意味にございましょうや」
「感覚なん」
「感覚にございまするか」
そう。センス抜群。なにせ是知の後任を担うには恰好の人材である。
天彦は賭けの負け二両を払う気満々で小さく笑う。
そしてそんな天彦の内心は明かされることなく見透かされることもなく、一行は堺政所のある堺町奉行所へと向かった。
◇
挨拶を済ませ旧交をたっぷりと温め、末代まで安心とは程遠いが当座は約束されるだろう旅銀を借り受けた天彦が、ほくほく顔で友閑に手配された宿に着いたのは夕刻をたっぷりと過ぎた頃であった。
その宿前で、
「どうか! どうかこの娘だけは堪忍してください。後生ですから何卒ッ!」
「期日は本日、日が暮れるまで。俺たちもよ、この証文を預かった手前手ぶらで帰るわけにはいかねんだわ。わかってくれよ」
「そこを何とか!」
「うるせえばばあ!」
「きゃっ」
言い募っていた女給らしき給仕姿の女が足蹴にされて道に倒れ込んでしまう。
それも天彦たち一行の目と鼻の先で。
ちーん。
周囲を見渡す。
道行人たちは見て見ぬふりのお利巧さんを決め込んでいた。
それはそう。女給を蹴りつけた人物はどう考えても借金の取り立て人で、しかもその道の専門家だから。つまり極道。
戦国元亀。侍も極道も見分けがつきにくい。いやつかない。つまり落ち武者の可能性が否めない状況下、手助けに入るなどどうかしていた。
が、そのどうかしているを謎に求められてしまう人物もいて。
「お雪ちゃん。ワクテカとか地雷なん、やめて?」
「某なんもゆーてませんけど。ゆーてませんけど!」
二遍ゆー。
ゆーてんのとおんなじやねん。しかもその感情は一つではない。左右から二つと二つの双眸から送りつけられいい迷惑。そういうこと。
助太刀してやりたいのは山々だが、あいにく現状鶴の一声で悪党を成敗してくれる助さんと格さんは傍にはいない。ルカは用人設定。技前(殺人スキル)を仙千代に知られるわけにはいかなかった。ならば……、
菊亭戦記始まるの巻。
始まるかい――ッ!
ノリ突っ込み。まあ100の確率ですべるやつ。
それだけはない。それだけはさせない。滑る方ではなく実行に移すやつ。だって魔王様がおっかないもの。
文末をみつをっぽく纏めると明言っぽくなる節を提唱してみたところでさて。
「どなたか、どなたか何卒私の娘を――」
無理んご。力不足です。
出しゃばるはないが見捨てるはもっとないこの喫緊の状況に、天彦の感情は複雑に揺れ動いていた。
この場面、最も欲しいのは一声でこの事態を収束させられる武力、……ではなく地位であった。
すると天彦はつくづく思う。やはり己は貴族なのだと。公家であると。
普通なら圧倒的暴力を求める場面、ところがどうだ。どうあってもこの場面で物を言うのは権威に裏付けられた権力である。それも武力を伴わない。
と、それ以外は無用であるとさえ直感してしまっている時点でどう抗っても貴族貴種であると認めざるを得なかった。
貴族やめる遠征にする心算だったのに。
どうやら無理っぽ。
菊亭天彦は宿命から逃れられないことを切実に実感した。
知名度はある。抜群にある。人気不人気を問わなければ、おそらく日ノ本一の自負があった。少なくとも全国津々浦々、老若男女問わず誰しもその名を一度は耳にしたはずである。天彦の菊亭家はそれほどに名を売っていた。轟かせていたのだが。
菊亭天彦が堺に参った。
噂を訊きつけた者たちは果たしてどのような行動に移るだろう。
答えは単純明快である。凸。突。トツ。である。
凸しかあり得ず多くが天彦を参るであろう。中には敵も紛れ込んで。むしろ敵性の方が多い割合で。
詰む。この戦力では絶対にかわせない。
このブランドネームが今となってはやや重荷となって天彦の小さく狭い肩に圧し掛かる。
いずれにしても家紋を描いた愛用の扇子を掲げればおそらくだがこの場は収束させられるだろう。公家に刃向かう庶民はいない。武家さえ面と向かった公衆のその場ではいないだろうから当然として。どのように回収できるのかは知らんけど。
天彦が損得勘定であーだこーだ悩み抜いていると、
「若とのさん、かっちょいいです!」
「さすがお殿様、見込み通りの御方だりん」
「菊亭様。即断は危うくございまするぞ」
おうふ。
気づけば無意識の内に愛用の扇を開き掲げていた。お仕舞いです。
何が仕舞いか。
そう。
仙千代の指摘通り、娘を抱えた借金取り小悪党の背後には大勢の徒党が控えていたのである。
「これはこれは菊亭様。珍しいところでお逢い致しますものですなぁ」
「あ」
「長生きはするもんや。仏さんに感謝せな」
「う」
「おどれ、生かしては帰さんぞ。覚悟せえよドクソチビが」
「くっ」
じんおわ。
その徒党を掻き分け姿を現わせた首魁は、散々な目にやっつけた堺納屋衆の一人。屋号を油屋とする油屋常琢であった。
油屋は天彦に嵌められ滅んだ三好家のお抱え専属商家の出身であり、それは語るに涙の辛酸を舐めたことは紛れもなく。ならば天彦の菊亭を末代までの宿敵と公言したところで不思議はない。それほどの憎悪を目下天彦にぶつけている。
ならばここら界隈の反菊亭勢力筆頭商家であっても不思議はない。とか。
「どないしよぴえん」
勝てば大いに有利になるし視界も開ける。だが不可能。
泣き言彦の言葉にもならない心の声が漏れ出ると、
「若とのさん、いったん若とのさんだけ取っ捕まってください。某が策を練って後でお迎えに上がりますんで」
「あ」
「え」
あのさあ。お雪ちゃんさあ。え、ちゃうねん。せめて“あ”やろ。
いや“あ”と歩調を合わせていてもこの際許しがたいけれど。まじでおいコラしばく。本気と書いてまじと読んでしばく絶対。
「若とのさん、頬っぺた張るくらいならどうぞ」
「最っっっ低やな。さすがに引いたぞ!」
「あ」
「ふん」
「あ」
「ふん」
「……ごめんなさい。冗談でしてん」
「すべってるでお雪ちゃん。すべるにも程があるほど」
「はい。みたいです」
ルカの雪之丞へと向いていた仄かな、けれど確実にそれとわかる殺意の念が和らいだ。
あー痛かった。ルカこっわ、こっわルカ。
「しゃーない。許したろ。一遍だけやで」
「はい!」
「お殿様、こいついずれ裏切るのでは。早期の粛清を進言いたします」
「こいつ! いや粛清て。おいルカ、某の方が上役やぞ」
「何か」
「う゛。……何も、ないです」
「ちっ、女性に言い返す度胸もないカス侍が」
「っ――」
ルカが広義の女性かどうかはさて措いて。
自称菊亭一のお家来さんが、自ら進み出て一番に保身に走るギャグ節を炸裂させて場の緊張緩和にひと肌脱ぐのであった。
果たしてそうかな。
疑惑は尽きない。
だって彼、口がヘリウムガスより軽いのと生存本能の高さだけは昔っから呆れ返るほど感心させられてしまっているから。
【文中補足】
1万見仙千代重元
生誕不明(作中設定1554~元亀元年現在数え17歳とする)
一説には織田家一門衆とのことなので当作品ではこちらの仮説を採用している。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
新編開始後、☆の高評価一名様、ブクマ七名様、DM・ツイッター含む感想要望六名様、誤字報告二名様と、支援活動していただきましてかなり嬉しかったです! ながらく停滞していたので一入です! この場を借りて心からの感謝を。ありがとーございます。
さて如何でしたか。菊亭さんの珍道中。新編は歴史本筋展開にあまり関係しないスロー展開を心がけます。その方が自由度が高いといういつもの自己都合で笑。つまりホームドラマです。
ですのでふわっと乞うご期待。くださいませ。それではその時までばいびーまったねー




