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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
十三章 画竜点睛の章
223/314

#03 あるいは幸福基準値を何が何でも絶対下げたくないマン

 



 元亀元年(1570)六月二十七日






 初夏の三河に激震が走る。


 浜松城は上に下にと大わらわ。対応に追われ誰もが目を回していた。



「殿、ご決断を――ッ!」



 おそらくは三河だけでではない。北陸でも越後でも遠くは奥州でも。

 ありとあらゆる寺社が一斉に蜂起し遍く治世を混乱の渦に落とし入れてしまっては正常などあり得ない。


 まるで示し合わせたかのように。まるで傀儡師に操られた糸繰人形マリオネットのように。

 宗派の垣根を飛び越えて見事な連携を見せて地域社会を混乱のどん底に叩き落していた。


 それが一つの号令の下に行われた人為的な一揆であることは、おそらく確実であろう。そしてその事実は時が経てば必ず明るみになるという筋の話ではない。


 いずれにしてもまだこのときの彼らに知る由もなかった。そこに気が回せるほどの余裕もない。

 何せ支配下にある土地の寺社が残らずすべて蜂起したのだ。その驚愕たるや筆舌に尽くしがたいことは想像に難くない。


「頭陀寺蜂起、頭陀寺蜂起―にござるッ」


 高野山までもが。


 座に今日一のどよめきが巻き起こった。


 即ち守勢と攻勢の均衡を意味し、これにて可能性の一つがまたしても絶たれてしまう。戦力差を以っての和睦という僅かな道筋が。


「殿、御無念にござる」

「小平太、儂は訊きとうないぞ」

「某とて申し上げとうはござらぬ、……ですが」

「くっ、申せ小平太よ」

「はっ申し上げます! 本證寺蜂起にござる」


 榊原康政は言った。すると、


「あ、……へ」



 あ。


 あ。


 あ。


 あ。


 あ。



 まるで刻が止まったかのような沈黙の帳が降りていた。

 本證寺ほんしょうじ蜂起の一報を受けた座には、沈黙では生温い極寒極限のフリーズが舞い降りていた。


 あるものは虚空を見つめあるものは膝を見つめ。けれど大半は徳川家絶対的支柱である当主を信じて当主を見つめ辛うじて意識をその場にとどめている。


 だが皆と相対するその唯一の人物だけは、ともすると双眸をホワイトアウトさせているのかもしれない。


 ややあってメンタルが完全に萎えてしまったのか。

 絶対的支柱は皆の視線などお構いなしにくりくり眼にそんな呆然を張り付けると、わなわなと震えてその場に膝から崩れ落ちてしまう。


 頼りなさここに極まる。


 それでも座に更なる動揺が見られないのは驚きの事実だが、たしかに家康の驚嘆も同情の余地はあった。かなりあった。


 何しろ梯子を外されたのも同然なのだから。意味がわからない。上げて下げる意味も、掬い上げて叩き落す意味も何もかもイミフ。

 あれほどの窮地を救っておきながら、なぜこのタイミングで掌を返すのか。

 やり方があまりにも無計画杜撰、言葉を選ばず言うなら無為ではないか。あるいは無残。


 家康の脳裏にそんな疑念が湧いても尤もであろう。

 何せ真宗といえば誰もが三つ紅葉を連想し、誰もが五山の御狐様を想起するのだから。


 この両者の蜜月は三つの童でも知る戦国あるあるであった。


 故にまだ将軍家お抱えの五山禅寺系列寺社の蜂起までは許容できた。納得感が持てたかと言えば嘘になるが許容はできた。それほどの勢力でもなかったことも手伝って。


 だが本證寺はいけない。それだけは絶対にいけない。ダメだ。


 その家康の存念はどうやら座に集う郎党末端にまで須らく共有されているようで、誰もが瞳に絶望色の虚無を張り付けていた。

 なぜならあるいは唯一絶対の救援策だったかもしれないからだ。真宗本證寺の仲裁が。


 ましてや手段が悪辣にすぎた。

 民草は無知だが愚かではない。つまることろ権威にひれ伏し敬いこそすれ、けっして指示には従わない。唯々諾々となどあり得ない。

 ならば領地の支配者になら従うのか。結論従わない。表面上従ったフリはしたとしても、精神的にはけっして従ったりなどしないのである。


 ならば果たして誰に従うのか。何の意向になら同意するのか。

 決まっている。常から寄り添い言葉を尽くす地域に根差した僧侶であり神官である。

 その上位存在を紅葉の御紋はすべてを掌握してみせた。ともするとそれは唯一宗派を庇護する朝廷をも凌駕する権威ではなかろうか。


 家康の危惧をあざ笑うかのように次々に舞い込む凶報の雨霰に、いよいよ彼のメンタルも危うくなる。


「無作法御免、三封寺蜂起――ッ」

「なっ、真言密教まで」


「申し上げます! 妙源寺蜂起の報が舞い込んでございまする」

「た、高田派まで……」


 このようにして次々に齎される凶報に、居城浜松城に作戦本部を置く家康は真面な思考さえできないといった風体でただ呆然と報告を受けるしかできなかった。


 本来ならばここで憎まれ役を買ってでも喝を入れる役目の尖兵はいない。今や完全にお家丸ごと菊亭の傘下に収まってしまっているから。

 それ一つとってして痛恨だが、そもそも徳川家には忠臣が多く諫臣の類の家来が少ない。そんな弱点をも同時に突かれたような、まさに徳川家にとっての厄日であった。


 だが一人だけは違った。史実では四天王と称される御大、酒井左衛門尉小五郎忠次その人である。


 酒井は呆ける主君を言葉一つで正気に返し、


「白旗をお上げ召され。さすれば死中に活路も見えましょうぞ」


 あろうことか全面降伏を進言した。


 座に果たして何度目だろうどよめきが巻き起こる中、けれど侮辱では生温いはずの暴言めいた言葉を投げかけられた本人だけは不思議と精気を蘇らせる。

 家康は怒るどころかむしろ納得のなるほどの頷きを返して金言を褒め称えた。

 そして納得の首肯を前後に大きく二度三度と繰り返すうちに、元の精悍さを取り戻してそこにいた。


「左衛門尉、大儀である」

「なんのこれしき。殿であれば遅早にございましょう」

「で、あるか。して本意はいずこにある」

「皆に言い聞かせるほどのゆとりはござらぬぞ」

「儂にじゃ。そう穿つな。旗は掲げる。して降伏の書状はいずこに差し出せばよいのか」

「ならば三方に三通出されませ」

「ふむ、……なるほどの。ならば詫び状も一通要るの。酒がよいか。舶来の上物でも差し出せばあるいは……」

「然様。束の間の機嫌はとれましょうな。なるほど最善かと存じまする」

「うむ」


 確実性を問うための三通。こちらが格下である明確な意志が伝わるという側面もある三通。詫び状は念のため。家康の考えが正しいのならどうせあちらも戦どころの騒ぎではなくなっているはず。故に念のため。


 そして家康には本題であるその宛先に思い当たる節があったのだろう。敢えて酒井に追求はせずに「茶を持て」、小姓に告げて脱力した。


 ややあって、ずずずず。


 ぷかーすはーっと一服を付けて、なにか物思いにふける面持ちでぽつり。


「げに恐ろしきは公家であるな。……じんおわ、か」


 誰を思ってか思わずか。いずれにしても家康は薄っすら苦笑を浮かべるとどこか諦観の顔をして、濃い無精ひげの顎先を分厚い指先でなぞるのだった。






 ◇◆◇






 二条第・旧二条城二の丸菊亭屋敷。



 サプライズが行われていた。まぢのやつ。


 大のサプライズ嫌いの天彦に向けた、飛び切り取って置きの大サプライズが。


「従二位・西園寺藤原朝臣実益。太政官内大臣候、天気如此、悉く、以状。謹んで拝命いたす」

「はは、臣、謹んで拝命いたします」


 てんきかくのごとし、これをことごとくせよ。もってじょうす。


 天彦にとって我がことならば憂鬱滅入る宮廷儀式も、こと親友ずっトモ事ともなれば話は別。


「だるいなぁ儀式、儀式さんだるいん。早う終わらんかんなぁ」


 でもなかった。


「くく殿、さすがにご無礼にござるぞ」

「でも次郎法師、退屈暇なん。そもそもこの場に身共いらんのん」

「ご自分で強請られたご褒美。その場に立ち会わずして何と成されますか。ましてや善意でお受けになられた上意の御使者を困惑させて何となさいますか」

「いつの話持ち出すねん。上奏したのなんか百年も昔や」

「それほどに殿のご存念が無視できぬほど肥大化した証。不貞腐れ召すなど不敬にございますぞ」


 100の確度でガチ説教されてやや凹みして、辛うじて、


「あ、うん」


「くくく、そういうところはまことに童ですな。ささもうしばらくのご辛抱にございますぞ」


 と、収まりかけたそこにカットイン。


「お殿様、次郎ちゃんの言葉には素直だりん。ちょっとイラっとするだりん」

「次郎法師はちゃんと文脈で対話がなせるん」

「それではまるで――」

「まるでやない。お前さんはそれができん」

「あ」

「あ」


 以降もずっと愚痴をこぼすルカ。面倒極まりないダル絡みをされてうんざりげんなり。結果無視。アホと関わると精神衛生上もよろしくないが実質火傷するので放置一択。


「ハンストします!」

「すればええんちゃうかな。身共はいっこも困らんからな」

「ひどいです!」

「お雪ちゃんより酷いんは今のお前さんやろ」

「む」


 思いあたる節でもあったのか。

 今度は一転、直接的な対応の差に不満を訴えるルカは一旦無視するとしてさて。


「伊予はどないなんや」

「四国は停滞だりん。三好も長曾我部も一条も、どこも内に目を向けられる余裕がないだりん」

「なるほど。毛利さん気張ったんやな」

「それも偏にあれだけの大編成を可能とする吉田屋の軍資金あったればこそと専らの評判だりん」

「おおきに。ちゃんと噂をバラ舞いてくれているようで」

「射干の務めだりん。でもお褒めに預かり光栄におもいますだりん」

「ん」


 と、


「殿」

「なんや」

「落ち着きがございませんぞ」

「う」


 気づけば貧乏揺すりが激しかった。そして手には扇子が。ぼろぼろの状態で。


 ありがとうオリゴ糖。


 お前らの愛で前が見えない。違う。怒りに震えて涙が滲む。


 次郎法師にやや自覚のある多動症癖を指摘された天彦は“う”。むろん感情的には“う”に克明な濁点をつけたいところ。そんな感情で魂をセルフ救済して。


「おおきになん」

「どういたしまして」


 けれど堪えて従う。天彦の中のお姉さんが上位存在だから。ではむろんなく、井伊家の相談役次郎法師は今や菊亭家でもその地位を確固たるものとして築き上げているから。

 おそらく総勢の1/3はいるであろう菊亭女性陣を完璧に取り纏め総意を代弁する、今や家内の三大派閥の内の一つの領袖に成り上がっている女傑なのだ。下手な口応えは普通に死活に関わった。

 具体的にはおかずが減る。汁物が温くなる。茶のグレードがこっそり下がる。洗い物の汚れ落ちが完全ではなくなる。そういうこと。


 そんなリアル思惑が顕在化しているにせよ今は慶事である。あの西園寺の俊英が公卿に返り咲けたのだから。

 但しすべての憂いが明確に晴れているわけではない。例えば帝の勅勘が解けているかどうかが定かではないことを始めとして。

 むしろ酷くなっているまであるが、それはこの際目を瞑ろう。天彦とて同じ状況下にあるのだから。


「主上さん激オコなん。なんでかな」

「本気で申されておられるなら正気を疑いまするな」

「勝機を疑う? 一度たりとも敗北したことのないこの身共に対して?」

「……認識が絶対に違いまするな。何がとは申せませぬが」

「ふっ、さすじろ。勘は冴えているようやな」

「お言葉遊びも大概に……、おっと。余裕ぶっていられるのももはやこれまで」

「ん?」


 天彦は次郎法師に促されるままに視線をそちらに預けた。

 かつての面影もそこそこに、予てから精悍だった顔つきに何倍もの補正をかけた戦国最強ビジュの一角が、にやり。嗜虐的な笑みを浮かべてそこにいた。


 はは、かっこよ。


 叙爵の儀式を終えた主家筋名門のプリンスが、手ぐすねを引いて待ち構えていたのである。


 格下から歩み寄るのが公家の流儀。


 天彦はとてとてと歩み寄りしゅた。故実の礼で扇を掲げる。

 返礼を受けて見つめあうことしばらく。


「我が子龍よ、久しいな」

「実益――ッ!」


 天彦の感情が爆発する。


 世界滅びろ。みーんな氏ねどす。


 数舜前までの天彦の言葉。感情。


 あれはウソだ。世界は不思議と慈愛に満ちていた。


「おっと。しかし内大臣は極冠であるな。どうやら苦労をかけたようだ」

「はいなん」

「ふむ。息災か」

「見たままなん」

「それは重畳。だが子龍……いい加減離れぬか。でなければ見たままも何も見えぬではないか。いつまでもその様子では――」

「いや! 厭なん。絶対に厭や」

「……」

「身共はこうして変わらぬことで実益に安心感を与えているん」

「……ったく。減らず口までそのままであるな。ならば致せ。貴様の好きに」

「はい!」


 実益ぅ……!!!


 天彦はこれでもかと実益成分を補充する。

 なぞのマーキングに困惑するも実益は更に差が生じてしまった彼我の体格を実感しつつ、天彦の髪を撫でつける。


 対していい子いい子されているその天彦は更に図に乗って人目も憚らず戦国で一・二を争うビジュつよ公卿の胸元に縋りつき、すすってもすすっても無限に垂れてくる鼻水を擦り付けるのであった。


「やめんか」

「てへ。お帰りさん」

「うむ。留守預かり誠にご苦労さんにおじゃった」

「あ。実益が公卿言葉や」

「最初で最後や。ありがたく拝聴せえ」

「はーい」


 離れていた距離も時間も、二人にとっては一瞬でゼロに戻る程度の些事。

 然もいわんばかりに周囲にまざまざと見せつける天彦と実益は旧交を温めあうのであった。











【文中補足】

 1、内大臣

 左大臣・右大臣に次ぐ太政官職位。大納言のやや上。官位は正・従二位相当。内大臣は最高の地位にあって天子を補佐する三公(大司徒・大司馬・大司空)には含まれない。

 唐名を内府だいふと呼び、専らこちらで呼ばれることがほとんどの名誉職である。史実での豊臣政権下で徳川家康が就いた職位でもある。















最後までお読みくださいましてありがとうございます。

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