#06 これになてり
元亀元年(1570)五月七日
「御内意なるぞ! 如何した、頭が高かろう」
「は、はは」
天彦は掲げられた勅をみるや瞬時に下座に回って居住まいを正した。
良い悪いではない。作法ですらない。感情もない。もはやこれは条件反射であった。
けれど単なるではない。あの勅書が本物であろうと偽物であろうと、天彦の中に流れる英雄家の血脈が公家規範に従えと無条件の従順を強要してくるのだ。
するとどうだろう。沸々と笑いが込み上げてくる。
お葬式やお通夜の場面で笑ってはいけない可笑し味が込み上げてくるように。
あるいは不幸だから笑うなと自分に言い聞かせているときの感情に似て。
あるいは……、
「この世は一つの世界さグラシアーノ。誰もが自分の役割を演じなければならないのさ。ボク? ボクのは哀しい役だよ――」
悪魔でも聖書を引くことができるのさ。身勝手な目的のためにね……。とか。
思わずヴェニスの商人の名シーンを読み上げたくなるほど、天彦の中には無常の可笑し味が込み上げていた。
ならば惟任にはこの言葉を送りたくなる。
「契約通り肉を1ポンド取るがいい。けれど血は一滴も流してはならぬ」
「菊亭……貴様、狂ったな」
はは、あははは、ふはははははははははははは――ッ!
「狂う? 狂うさん何、なに狂うさん。ははけったいなこと申さはるん。もし身共が狂っているように映るのなら、それは世界が歪んでいるから。狂っているのは世界の方なん。身共はほら、この通りずーっと素面で、ずーっと正気」
「……意外な幕切れであったが、貴様の名は忘れぬぞ。好敵手であった」
「おおきに」
「帝の御内意である。本日付で菊亭を清華家格から抹消し公家籍を剥奪。京からの追放を命じるものなり!」
伽藍堂に一陣の風が吹き込んだ。
五月の風である。むしろ心地よいはずの風はけれどその場に集う菊亭一門に凍えるような寒風となって吹き荒んでいるように感じさせた。
「将軍、いや管領細川京兆家の代替さんか」
「我は我にて誰の代替にも非ず。だが役回りはそうなろうな」
「餌は何や。山城安堵と史実に倣って泉の国半国でも口約束されたんか」
「家領の回復である」
「家領、家老ね。ふは、くふ、うふふふ」
「何が可笑しい」
「田舎侍に家領などあったかしらと考えてたん」
「その田舎侍に絶望を突き付けられている貴様は何であるのか」
確かに。ふふふ。
天彦は薄く嗤って惟任から視線を外した。
手頃な武力と傀儡将軍が欲しい朝廷の失策である。いや大失策。
天彦は確信した。これは近衛を筆頭とした公卿界隈の総意であると。そしてその総意に首を傾げながらも異を唱えなかった帝の決定であると。
つまり自分は邪魔者である。どこに居てもマイノリティなのは今更慣れっこだが、さすがにこれはちょっと効いた。
だが惟任を舐めないでいただきたい。あの日向守、傀儡大名になどけっしてならない。ある意味では惟任を誰よりも信頼し誰よりも適正に評価している天彦の確信であった。
信長よりよほど善い将軍となるだろうと。少なくとも天彦はそう確信した上で朝廷の決断に絶望していた。
好き嫌いで問われれば嫌い。人材的な適否を問われても知るかボケの感情で、ただ自身の恨みの感情だけを基にして、猛烈な否を突き付ける。
「ほな惟任さん。おめでとうさん」
「うむ、祝辞は受け取る」
「一遍だけ負けとくん」
「潔く退場いたせ。其の方の年嵩では長い余生になろうが、仏門に下りこれまでの悪行を猛省して生きるがよい」
「公家はなぁ、何度でもやり直せるから公家なんやで」
「有罪無罰の不文律……、されどその高貴なるお血筋を無駄に浪費なされたな。たいへん残念に思うぞ」
はーい同感でーす。
天彦は実に気の抜けた、まったく以って場にそぐわない軽い応接の言葉を残して伽藍堂を後にした。
◇
「ほな撤収しよか」
「殿……」
無茶である。
この広隆寺には少なく見積もっても二千人近い郎党が詰め掛けている。
はい撤収で即座に動けるはずもない。
むろん天彦もそれは承知の上。だから、
「ゆーっくりの支度でええん」
「……!」
「……?」
「はっ」
賢しい佐吉は秒で天彦の意図を理解した。
賢しく見せかけるのが得意な是知は頭を捻ってうんうん唸り、次第に腹が立ってきたのか即座に気付いた雰囲気を醸している佐吉の腿をおもいきり捻った。
そしてまだ天彦の為人を正しく理解できていない菊池の若君は、天彦の言葉を額面通りに受け止めた。
九郎は我が事のように苦渋の表情を浮かべつつも歯切れ良い返事で応接する。
「佐吉は満点」
「是知は5点」
「九郎は……、可愛いさんやなぁ」
天彦の考課に三人は三様の表情で応接した。
一人は鼻高な内心を隠して感謝の言葉を口上し、一人は内心を隠さず肩を震わせて謝罪の言葉を申し述べ、一人はきょとんとして言葉に詰まった。
言葉を探している最中、ややあって唐突に消沈したちまち萎れ項垂れた。
「ん、どないしたんや九郎」
「はっ……、某は己の未熟に気付き申しましてございまする」
「未熟? それを申さば身共など九郎の百倍未熟なん」
「まさか。滅相もございませぬ」
「ほんまやけど。まあええさん。ほな互いに精進しよなぁ」
「はっ! この九郎重隆。お家のため主家のため。一所懸命に精進いたしまする」
自分は評価さえしてもらえないレベルなのだと気づいてしまった。
そんな寂寥感からくる奮闘宣言。
天彦はそんな九郎をに心洗われ、まるで眩いものを見る目でじっと見つめる。
九州編をやってもええなぁ。なんや野蛮な辺境っぽいから敬遠してたけど。
公家の意向は果たしてどこまで通用するのか。
天彦は脳内でそっと絵図を描き、本域で算盤を弾くのであった。
「ゆるりと風雅に参ろうさん。それが当家の家風やでなぁ」
はっ――!
青侍衆の実にドスの利いた重低音が境内に鳴り響くのであった。
◇◆◇
元亀元年(1570)五月十ニ日
追放を命じられ早五日が経過した広隆寺では。
今日も今日とて菊亭は撤収の支度に大忙し(棒)
「なんや今日も暇ですなー」
「ほんまやねー」
「こう暇やと眠たあなってしまうわ」
「みんなで昼寝する?」
「しよか、そうしよ」
用人でさえこの様子。とにかく何もするなの通達は末端まで行き届いているようである。
「お殿様、よろしいので」
「なにが」
「用人どもの気の抜け方です」
「ルカ。身共は何と申し伝えた」
「何もするなと」
「ほな正しい反応やろ。用人さんらは務めをちゃーんと果たしてるん」
「はぁ」
「射干でも徹底させてるやろな」
「……修練は許可しておりますだりん」
「都合の悪いときだけ語にするのは悪手やぞ」
「……はい。留意いたしますだりん」
「いいや即座に改善せえ」
「はっ」
天彦はお供を引き連れというわけにもいかないので、ルカだけを従えてお忍びで寺領内をこそっと偵察に向かっている。
寺領といっても完全に掌握している寺下にある長閑な村であり、その村をほんの少し散策するだけの簡単なお仕事である。
むろんまだどこに危険が潜んでいるかわからないので油断は禁物だが。
一揆事案、結末は穏やかに迎えた。
茶々丸は史実とは違い第十二代宗主を宣言しなかった。
その代わりに東本願寺(京都堀川六条)の門主(首)となり、ここに支流門派を会派することとなったのである。
「くふ、お茶々天才!」
遊びに行くのに大阪遠い。
すべてを受け入れた上で、それだけが気懸りだった天彦の要望を実に的確に捉えた茶々丸の絶妙手。超絶ファインプレーであった。
「だっていつでも遊びにいけるもんっ」
ルン。っと語尾が跳ねだしそうな上機嫌でつぶやく。
何が嬉しいって片思いでなかったことが何よりの吉報であった。
この奇策はそうとしか考えられない。もちろん2億%の欲目ありで。
この場合は御祝儀相場で片恋としてもよい。それほどに天彦の感情は温もっていた。
その真宗大谷派世宗主の教如が支流を会派した記念として、一揆は解散。
賠償金を朝廷に支払い手打ちとなった。
その仲裁に近衛家が奔走したそうだが天彦に関心はまったくなかった。報告を受けた際、どうでもいい。その一言で片付けたとか。
また織田軍は京都に帰還しなかった。おそらくだが琵琶湖を迂回して岐阜に直帰したように思われる。まだ情報収集中だが、そうであるならここも史実とは微妙に食い違っていた。猶藤吉郎の生死も未だ不明のまま。
だが天彦は織田軍の動向にはあまり関心を示していないようである。
普通に考えて一揆でうるさい京都に舞い戻るメリットがなさすぎるのと京都が忙しすぎるのと自身の身の振り方で精一杯なのもあって、自然な応対や流れは一旦放置することにしていた。させてもらっていた。
むろん魔王への信頼を絶対の担保として。これが覆るとどうせ詰むのでいいだろう。そんなどこか御座なりな感情で。
そして問題の京都だが。
現下、都は水色一色に染まっている。
咲く花はむろん桔梗。哀しいかな紅葉で紅く染まってはいない。
京都所司に惟任日向守が就いた。“代”ではなく所司である。言い換えるなら守護と同格。あるいは守護を置かない京都では守護職に代わる最高の格付けとして惟任を所司に迎え入れた。
京都におけるこの所司はいわば将軍とも同格であり、つまるところ朝廷は惟任を傀儡武家政権のトップに指名したのである。
従三位左近衛大将という破格の官位を授けてまで。
これにより惟任は天彦の格上に君臨してしまったのである。
なぜなら天彦は参議の官職を罷免され、正四位上の官位までも剥奪されてしまったから。
むろん将軍職を罷免された義昭よりも格上であり、現状武家の最高位に就いてしまったようである。知らんけど。
「ははは、まぁた無位無官なん」
「自身の凋落をお笑いになられるお公家様は、この日ノ本にお殿様を置いて他にはございませんでしょうね」
指摘されて気付く。たしかにそうかもと。
だがしかし天彦の念頭には所詮公家などこの程度というバイアスが根強くこびり付いていて、あまりこの冷遇に違和感を覚えない。
爪に火を点す高貴さって何やねん!
の反発感情はもちろんあるが。
「そうかな。……いっぱいいそうやけど」
「例えば」
「あれ、居らんわ。そうか、そうかも。あはははは」
「笑てるでこのお人さん」
「声真似すな」
「あら似てませんでした?」
「似てた。ちょっとビビったん」
「まったく。大人物なのか阿呆なのか。……たぶんどちらもなのでしょうけど」
「おいて!」
ルカは、ルカだけは変わらずルカを演じてくれる。
その見えない気遣いにありがた味をほんの少しだけ感じつつ、
「そろそろ仕込まれている策のタネを明かしてくれてもよろしいのでは」
「はは、アカン。奇術のタネは明かしたら醒める」
「もう。お殿様はいっつも意地悪だりん!」
「お前さんとこの当主に教わった通りに振舞ってるん」
「……ラウラ様」
「報せがないのが元気な報せ。……にしても薄情もんめ」
「お殿様……」
「元気にしてるやろか」
「はい。あの御方であれば地獄であろうと快適に」
「ははは、環境を整えて見せるか。わかり味えぐいな。その例えは」
「はい。お殿様の信頼を勝ち取りその名を天下に知らしめるのに、三月とかかりませんでした」
「まんじえぐい!」
あははははは。
二人で快活に笑い合った。お互いに形式的な笑いではなくどこか吹っ切れたような笑顔を浮かべて。
さて、
惟任さんは人物である。一角の。優れた。立派な。得難い。
公正とは言い難いも、やはり正義マンであることは片一方の事実であった。
けれど古都千年の計を思うとき、信長公・秀吉公・家康公と見比べてみて見劣りするかと問われれば、……うむ。それもやはり否と答えてしまうだろう。
その程度には惟任日向守十兵衛光秀を高く見積もってきた心算である。私怨さえ抜きにできればだが。
そんな感情で敵に塩を送ったはずなのに……、解せん。
「お殿様。立ち退きの最後通牒が参っているだりん」
「まんじ」
惟任軍が寺領の軒先にまで押し寄せていた。お前ら邪魔と言わんばかりに。
何度も言う。何度でも言う。菊亭は公家であると。武力を放棄して自身の信ずる正義を平和裏に貫く公家であると。
「目障りな水色桔梗め。ドドリアさんザーボンさん、やってお仕舞いなさい」
「……不吉な」
ルカのつぶやきが漏れると同時に、
「え」
「え」
背後にひっそりと聳え立つ比叡山が燃えていた。色合いもあざやかなビビットに染まり。
「あ」
「あ」
天彦の気づきの“あ”に、ルカも手拍子で引っ張られた“あ”を発声する。
ルカに気づきがあろうとなかろうと、事態はまさしく“あ”であった。
比叡山にある物といえば延暦寺。延暦寺は天台宗の総本山。そして門跡寺院の総本山でもある。必然天台の座主は歴代天皇の縁者が務めた。
その比叡山が燃えている。ビビットな深紅の炎を立ち上げて燃え盛っているではないか。
天彦にはびびっと来ていた。ビビットだけに。
「激オコなん」
「あ」
今度こそルカにも事情が伝わったよう。ルカの口から漏れ出た“あ”はそんな切実な“あ”であった。
そう。怒り狂う魔王様が魔王軍を率いての進撃である。
これが進撃の巨人なら悪いのはだいたいエレンのせいで片付くのだがそうはいかない。
この本来なら頼もしい織田軍の登場に、けれど天彦の表情は途轍もなく浮かない。そう途轍もなくである。
「のっぶぱっぱ、さすがに根切りはまずいん」
「ね、根切り。……いやまさか御冗談を。叡山は門跡寺院です。ましてや座主をお務めになられているは帝の御実弟ではございませぬか」
「冗談ならどれほどよかったか」
「え」
「やってしまうんよ、あの魔王さんは。……じんおわ」
「っ……」
ルカは見た。家政婦のようにルカは見た。
天彦の双眸に絶望よりまだ濃い真の絶望の帳が降りていることを。
天彦の予測が事実なら。
織田家は完全に朝廷に対し反旗を翻したことになる。
そんなことにでもなれば朝廷は、京の都はどうなるのか。延いては日ノ本も無事では済むまい。
ルカは天彦の影響をばちばちに受けた俯瞰視点で思考を巡らせる。
自身の射干の立ち回り方を主眼に置いて。
出た結論はやはり同じ。
射干は菊亭と共にある。共に歩み先にしか未来は描けないのである。
「お殿様、何なりとお命じください」
「静観やな。けどすぐに動けるだけの支度はさせとき」
「はっ」
天彦は掌をぐーぱー。釣られてルカも同じ動作を真似ていた。
「信長さん。感情に任せて荒れ狂ったらお仕舞いなん」
それでは鬼畜も同然やん。
天彦の切実なつぶやきは突如として吹き込んだ五山颪に掻き消されるのであった。
すると天彦の感情が伝播したのか。いつのまにか集っていたイツメンたちも表情を暗く重いものに変えていく。
「お前さんら。お忍びや申したのに」
「……」
がん首揃えて沈痛な表情を浮かべるだけで、誰ひとりとして気の利いた言葉は返せずにいた。
「ほなら某の出番ですね!」
たった一人のお馬鹿さんをのぞいては。
アカンよ。ホンマにアカンからね。フリではない。
そんな返しも妙に虚しく、またぞろ吹いた五山颪によって虚空に霧散していくのである。
大・大・大ピーンチ!
紛れもなく天彦の人生で一・二を争うだろう選択と、菊亭にとって未曽有の窮地が訪れようとしていた。
アップするたびにブクマが剥がされるの哀しいね
グラシアーノ。ボクはさ、なんだか存在を否定されているような気がするよ




