#03 断金の交わり、和して同ぜず
元亀元年(1570)五月五日
広隆寺禅堂の一角をパーティションで仕切った執務室。
菊亭一門が身を寄せる仮宿は、いつものように雑然としながらもいつもとは違うどこか得体の知れない緊迫感に包まれていた。
菊亭の異変の元をたどれば大抵がこのキッズに向かうのだが、やはり今回も例外ではないようである。
「凛として凛々しいお顔です」
「九郎殿、お主は呑気でよいな」
米良一門が作業の手を止め雑談をする傍を菊亭諸太夫衆が通りかかった。
その先頭を行くのは仕立てたばかりのパリっとした束帯を着こなす、無類の権高さが鼻につくでお馴染みの長野家の出世頭であった。
米良家の幼君九郎重隆(数え10つ)は共に居残ってくれた傳役の赤星新六郎統家に促されるまでもなく、自発的にさっと辞を低くして迎え入れた。
この時点で菊亭重鎮を抑えている予習が完璧であり、かつ空気の読める賢しい子であることは明白である。しかもそれに加えて彼には天性の利発さと妙に人懐こい笑顔という強烈な武器が備わっていた。
本来なら田舎豪族の、それも人質風情になど気にもかけない菊亭家の最煩方是知だが、さすがにこの笑顔にはやられたのか珍しく足を止めて興味を示した。
是知が止まると一団も足を止める。
そう。長野是知は晴れて側近衆の筆頭に上り詰め、今や見上げられる地位を手に入れていた。同列競合の石田家の出世頭でさえ意に沿わなければならないほどの。
「長野様、手短に」
「石田。どのように行動し決定するかはこの側近衆筆頭である某の専権事項。祐筆の分際で差し出口は無用に願う」
「……相分かり申した。ご無礼仕った」
「わかればよい」
「くっ」
特技、周囲に無用な波乱を巻き起こすを発動させて是知は、足を止めてまで関心を示した意中の人物と向き合った。
下げられた後頭部をしばし見下ろし、ぽつり。
「苦しゅうない、面をあげられよ」
これが言いたかったまである実に権高い口調で告げる。
「これは御傍衆筆頭殿、祐筆殿も。お勤めご苦労様にござる」
「……うむ。九郎殿こそご苦労である。ささ、申した通り苦しゅうない、面をあげられよ」
「はっ。ではお言葉に甘えましてござる」
米良家の幼君九郎重隆(数え10つ)は、二度目の許可を待って慇懃に面を上げた。何たる聡明さか。
菊亭諸太夫の間に、これは大人物に違いないという共通の認識が植え付けられたことだろう。それを証拠に誰もがこの幼き当主の言動に一段高い関心を示すようになっていた。
その利口さと卒のなさが是知の危機感を煽ってしまう最大の行為とも知らずに。
――きゃあ九郎くん逃げてー。
だがもうホークアイにロックオンされてしまったらお仕舞いです。
お仕舞いではなくともある種の感情が諸太夫の間で共有されたことは紛れもなく、米良家の苦難が確定する。
というのも菊亭において、特に文官諸太夫間においては長野家の寵児に目を付けられた家とは善きにつけ悪しきにつけ距離を保てという不文律が存在した。
即ち今日という日は米良家にとって記念すべきお披露目の日であり、同時に苦難の日々が確定した日として刻まれることだろう。嗚呼、憐れなり九郎くん。
閑話休題、
是知は自身の足を止めさせた言葉に言及する。
「ときに米良九郎殿、何と申した」
「はっ。参議様は御凛凛しいと申しましてござる」
「今の状態がか。あの殿のお顔がか」
「はっ、然様にござる」
「笑止」
「む。御傍衆筆頭殿、お言葉を返すようで恐縮ですがなぜですか。それではまるで参議様のお顔が凛々しくないと聞こえますが」
「そうではない。殿が凛々しいのは当然のことであるが、あのお顔はそうではないのだ。賢しい貴殿がなぜわからぬ」
「賢しくはござらぬが、ならば長野様、某にそうではない理由をお聞かせくだされ」
「何でも強請るのが田舎侍の流儀であるのか」
「……恥を忍んでお尋ねいたす」
「ふん。忍ならば強請るでないわ。よいか九郎殿。当家では考えるよりも感じる力が求められる。何故なら我らが殿がお望みだからである」
「……感じる力、にござるか」
昨日人質のテイで預かりとなっている九郎重隆は感じ入った風に首を小さく上下させて同意の態度を示してみせた。さすがである。
この場合の唯一の正解を、奇しくも天然で導き出せた九郎重隆の将来はどうやらそれほど悲観的でもないようである。
「……小癪な。だが勘働きは冴えておるようであるな。当家で益々精進いたすがよかろう」
「はっ。御金言、忝く頂戴いたすでござる」
「嫌味しか申しておらぬがな」
するとこの言葉を契機に、九郎重隆の雰囲気が一変する。
「なーんだ、ご自覚があられたんですね」
「おまっ」
「ふふ、お次は剣術で如何か。某の得意は槍術。丁度よい差分に思われまするが如何」
「……誰にも天より授かった分があり申す」
「よもや背を見せられるのか」
「何を! おい貴様、某を侮るなど、如何な殿のお預かりといえど看過できぬぞ!」
「かっとーしゅーせん。吐いた唾は飲まんたい」
「辺境の蛮族めが。今に見ておれ。ええい参るぞ――っ」
あ、逃げた。
是知は唾棄するような視線を残しその場を後にする。
去り際の空気は如何にも不穏。
だが多くは失笑含みの和やかな雰囲気でその光景を盗み見ていた。
まあ菊亭あるあるなのだろう。何しろ相手があの自分以外全部格下全部敵を地でゆく是知なので。
むろん菊亭家中で長野家に目を付けられたら相当かなりしんどいことはたしかであるが、裏を返せば対抗意識を持たれるほどの人物とも受け取れ。
「あれが米良の御曹司か」
「辺境の土着氏族の子倅と訊いたが中々どうして侮れぬぞ」
「何やら藤原氏の傍流として殿の覚えもめでたいとか。御傍衆への取り立ても噂されている」
「然もありなん。目下殿は九州に関心をお持ちだ」
誰かの指摘に”……”けっして短くない沈黙の帳が降りる。
即ち高級官僚たちが共通の意識の下、心を一つにした瞬間であった。
「名門菊池権守を継ぐそうな」
「ならば家格は石見守か。従五位殿上人であるな」
「我らと同格。……侮れぬな」
「刀剣鍛冶“延寿衆”を差し出したそうな」
「何と。お家の秘伝を」
「うむ、菊亭への奉公は惜しまぬそうじゃ」
「如何にも殿が好まれるな」
「然り。石田殿や樋口殿に通じるど真ん中の気風をしておる」
「なるほど、加えて実に如才ない」
「文官志望であるとか」
「拙いな」
「ならば目障り、疾く潰そう。いや可愛がって進ぜようではないか」
「それがよい」
「そういたそう」
それを証拠に、高官である文官諸太夫の間で米良九郎重隆が明確に意識されているようであった。
「それはそうと冷える。いやいっそ凍える」
「きつい」
「凄まじいな」
「今朝の殿は……」
「また別格な怖さを纏っておられる」
全員もれなく身震いし、本能的にか意図的にか。いずれにしても凍え震えの元凶から遠ざかるようにそっと距離を置いて行った。
◇
「デブやからか。デブやから三割増しで張り付けのさらしもんにされたんか」
噂が真実味を帯びてきた。
このプチ飢饉に太っちょは罪とのこと。果たして本当だろうか。知らんけど。
むろんそんなことはなく、実際は何やら一昨日、足利将軍家御用達の商人が打ち壊しの憂き目に遭い、しかも張り付け刑に処されたとのこと。むろん太っているからということはない。あくまでもアホ彦の脳内イメージの桔梗屋の話である。
だが将軍家所縁の商家が襲われた。それは厳然たる事実である。
そんな不穏はさて措き、このように周囲にちょっとした恐慌状態を引き起こしている当の本人にその自覚はまるでない。これっぽっちも一ミリも。
今日も今日とてなんの生産性もない自己理論の正当性の検証に、忙しなく無意味な思考を回転させている。
「例えば……」
大前提、人間は苦手なことからは心理的距離を置きがちである。
天彦にとっての苦手は室町第であり、延いては足利義昭であった。
足利家が君臨する室町幕府は歴史上江戸幕府に次いで二番目に長く継承された政府であることも少しは苦手感に影響を与えているが本質はそこにはない。
ならば何であるのか。天彦は自身の感情を少し掘り下げて考察してみる。
その上でこの半無政府状態の戦乱時代を引き起こしている最大の元凶としてほとんどの庶人から忌み嫌われているのだが、当の政府にその自覚がないことだろうか。……けれど、それもどこかなんか違う。
破廉恥だとは思うがそれほどの忌避感はない。
ましてや死に体の政府機構が世論を無視し、また時代の流れに抗い生き永らえようと足掻くことへの揶揄ではけっしてない。
それは誰しもの権利だから。生存権こそこの世で最も尊い権利だと考えるからそれはない。
「なるほど」
つまり即ち、もっと単純に政府の無力やあるいは無気力に嫌気が差しているのだと思われた。それが己の帰属する公家社会にも通じるから。
つまりこれは同族嫌悪感情である。土台は違えども同じ穴の狢であった。非常にとても大変残念なことに。
更には政府格を形作る根本の品性やそれに基づく理念、もっというなら倫理的思いやりに欠ける義昭自身の人柄への反発由来の忌避感が将軍家そのものに対してどうにも拭えない苦手意識を芽生えさせていたのである。
自分自身を棚に上げて。
「ほーん」
恥じ入りはしない。人など所詮利己主義の権化なのだ。
天彦にいたっては精々己の視界の及ぶ範囲の幸福、それもどうにか最大公約数に落とし込んだなんちゃってレベルの幸福度しか追求できないのである。
つまり自己保身。あるいは自己満足度を満たすための挿げ替え行為。
それらを擬態させ周囲に納得感を植え付けるために普段から奇麗ごとキャンペーンを張っているにすぎず、それが善行に分類されようが偽善に分類されようが知ったことではない。何しろ絶対値は不変なのだから。
だからと言って自己嫌悪に陥らないかといったらそうではなく。
脛に傷は誰しもある。だから原則として天彦は過去に拘らず捕らわれないよう心掛けてきたのだが、この足利将軍家。いくら何でも脛に傷があり過ぎてどうにもこうにもならなかった。
つまるところ、やはり物事には限度があった。そういう教訓。
これまでは苦手でも一定程度の距離感を保たなければならなかった。武家の最高権威だったから。
だが今は。
斜陽の帝国に興味などない。どうすればこうも凋落できるのかの悪例としてすら関心を示すことができないのだ。この感情はホンモノであろう。知らんけど。
「ふむ」
「若とのさん!」
「なんやお雪ちゃん、ごっつい声だして。はしたないですよ」
「もう! なんでそない悠長なんです。見て下さいよこの状況を」
「状況……?」
あ。
うん。
惨憺たる有り様であった。さすがに、……うん。
「なんや気遣わせてしもたようやな。堪忍さん」
「あまり根詰めんように。家のもんは優しい気弱ばっかしですから」
「あ、うん。おおきにさん。さすがは身共の半身や」
「はい!」
でもそれは違うよお雪ちゃん。
天彦は言いかけた言葉を飲み込み、雪之丞の無自覚な善意風自己解釈に身を委ねた。彼のノンデリは今に始まったことではないのである。
「軍を持てと上奏はした。身共のできることは他にない」
だが帝は否と返答した。返答はなかったがこの惨状が答えである。
本来なら共に手を取り合い苦難に立ち向かうはずの庶人が感情に任せて荒れ狂う様を、指を咥えて見ているだけしかできない憐れで愚かなこの惨状が。
だがそれは天彦の菊亭とて同じこと。
しかも菊亭の場合は猶更性質が悪かった。その気にさえなれば一揆を鎮圧するもしくはそもそも発生さえさせない術が幾通りかあったのだから。あえてその術に目を瞑った。その性質の悪さは朝廷の比ではないだろう。
だが……、
「おいコラ、なんやその憐れむような視線は」
「別にぃ」
「ちっ、執務に集中せんかい」
「はーい」
天彦に茶々丸を見捨て捧げるなどできるはずもなく。
つまり数百万の人命よりも親友たった一人の命の方が天秤は重く傾くということを意味する。
だから天彦に朝廷を責められる道理はない。無いが腹立つ。それが心理。
いずれにしても天彦は静観を選んだ。確固たる意志と目的をもって。あるいは苦渋に苦渋を重ね掛けた上での苦心の末の打算的消去法であったとしても、歴史は結果だけしか見てくれない。
故に天彦には魔王軍の帰還を待ち惚けるしかできないのだ。
あるいは救世の第三軍の登場を希うしかないのである。
自身の内なる羞恥心と有りっ丈の自尊心を痛めつけられながら。
と、
「申し上げます!」
「どないした」
「はっ、洛中に進軍あり! 洛中に進軍あり!」
騒然とする禅堂に、次なる急報が舞い込んだ。
「申し上げます!」
「申せ」
「はっ、軍勢が掲げるは水色に桔梗! 軍勢が掲げるは水色に桔梗にございます!」
まんじ、……じんおわ。
「申し上げます! 洛中に進撃する四万の軍勢を率いるは惟任日向守にございます!」
もはや天彦の耳には第三報は届いていない。
ぼうっと境内を見つめる視線は焦点が定まっておらず、ただ茫洋とした何かを見つめる瞳には薄っすらと水の膜が張られていた。
「義は惟任にあり。……身共の負けや。今度ばかりは完敗や……」
苦渋の内から吐き出された言葉は本心かどうか。
だが常識から外れたところで勝負を仕掛けていた自負があった天彦のお株を奪う常識外れの行動には、一定以上の正義があったことは事実である。
そして正義とは正道であり正解としたものである。皆が、多くが本質的に求めるから。
ならばどうする。
「頼んだことにしなしゃーないの」
「お茶々」
「そやろ。せっかく追い出したお荷物を返り咲かしてどないするんじゃ。ここはお前の出番やろ、ちゃうんか」
「……」
「あともう一手。切らなしゃーない手札が残っとるしな」
「あかん! それだけは絶対にあかん!」
天彦は形振り構わず茶々丸を抱きしめた。もはや縋る勢いで。
「おいコラ舐めるなよ。逆転の手があるのにその手が打てん。儂にそんな愚かしい真似をさせるんかい」
「お茶々ぁ……厭や、絶対に厭や、厭やのになんでするん。わーん、えーん」
天彦は恥も外聞もかなぐり捨てて大声で泣き喚いた。まさに慟哭!
切ないにも程がある哀し気な涙鳴が禅堂に小さく響く。
これにはさすがの茶々丸も困惑させられ、けれど言葉は発さない。そこには決意した男の顔があった。
茶々丸はただ泣き縋る天彦の背をとんとんよしよしと撫でるだけ。すでに教如光寿の顔をして。
茶々丸が何を決断し提案したのか。この状況を見ているイツメンたちの目には火を見るよりも明らかで、誰も何も問いかけない。
だが他方、主君菊亭天彦の気性を知る彼らにとって、こんな残酷な場面も滅多とない。
と、ばたん。
懸念したとおりの事態が起こってしまう。
「殿――!」
「殿っ」
「薬師を。薬師を呼んで参れ!」
「ぼさっとするな。お抱えせよ」
「大丈夫、慌てんと。でも頭には気を付けるんやで。さあそっと抱えよ」
「す、朱雀様、はっ! おいそっとだ」
一、二の三――。
そして親友との別離は、この世の何よりも天彦の小さな体に過負荷をかける元凶であった。
「おのれ惟任……、けして許さぬ」
与六のこれ以上ないほどの怨念のつぶやきに賛意はない。あるのは茶々丸の視線での問いかけだけ。
だがその声を確かに拾ったであろう青侍衆たちが、無言の賛意を示しているのはその内なる闘志で明らかであった。
「意図など存ぜぬ、正誤などどうでもよい! 我らは武士、お家のためにこの命を放るまで。各々方、ここで立たねば武士にあらず。我と共に参ろうぞ」
「応」
どこに。何をしに。
そんな無粋な言葉はこの場に似つかわしくないのだろう。彼らの決意に禅堂全体熱を帯びやがて小さく震え始めた。
「阿呆どもめ。そやけど儂は嫌いやないぞ。せいだい気張って死んで来い。儂がきっちり骨は拾たろ」
青侍衆は次々と賛意を示した者から順に、与六の後に続くように禅堂を後にするのであった。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
でね、鬱陶しいと思いますけど再度のお願いなん。
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