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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
十一章 夢幻泡影の章
203/314

#13 大菊花と三つ葉葵と、こそっと三つ紅葉と


副々題はお餅10つ!です

 



 永禄十三年(1570)三月十二日






 籠に揺られてゆらゆらと彦は公家町へと移送され中。


「佐吉、如何ほど進んだやろ」

「……まだ先ほどお尋ねの儀より二間ほどしか進んでございませぬ」

「まんじ」

「くっ、申し訳ございませぬ!」

「あ、ちゃうちゃう。佐吉はひとつも悪ないさんよ」

「殿……」

「悪いんは是知や」

「はへ!? んごっ、ああ゛ぁああ、げふぉげふぉ」



 あははははは――。



 一句、

 是知をフリーズさせて憂さ晴らし身共の周囲に草生える


 一人隠れて、兵の携帯食のための餅をこっそりと頬張っていた是知が死にかける。すると佐吉以外の周りの家人たちがどっと歓声を上げた。佐吉はむろんオニ白い目を向ける。いや浴びせかけるか。

 いずれにしても状況としてはかなり面白い場面である。だが句としては最低の部類であろう。味もなにもあったものではない。外来英語とかまずアカンやろ。

 光宣が採点者なら顔を赤らめて喉を枯らして烈火の如く叫んだことだろう。


『なんで天彦さんはいっつもそうなん! もう、何遍ゆーたらわかるんや、草は生やしたらアカンのよっ』


 ――と。


 懐い。普通に懐かしかった。これをノスタルジアというのなら、天彦は絶賛ノスタルジックな感傷に浸っていた。


 さきの関白・九条植通を筆頭とした公家ご意見番衆が室町第奉公衆を伴い弾正忠を祗候しこうする。その一報は公家町を駆け巡った。


 むろん天彦の耳にも届いている。それこそ噂の一つ取り零すことなく遍くすべてを拾っている。

 例えばその祗候面子に九条家現当主の九条兼孝、その実弟の三人・二条昭実、鷹司信房、義演の二条家勢が揃い踏みしていたことや。

 他には三条公仲、飛鳥井雅春・雅敦親子という中核メンバーの名も挙がっており、九条派閥の復活を予想させる久しぶりの反菊亭フルキャストでのご登場だったことも把握している。猶、その逆に関白(近衛前久)が珍しく自重していたことも承知している。


 この動向は信長との謁見以降の動きなのであの日を起点に朝廷も動き始めたのだろう。

 帝と九条は密接な信頼関係を築いている。急に切れるとも思えない。

 その九条を徹底的に追い詰めたのは天彦の菊亭と信長。よってあの謁見を手打ちとした言外の放免示唆とも受け取れなくもないが、果たして。天彦は特段関心を示していない。関心事は他にあった。


 その他にも複数の情報が上がっていて、中でも特に面白かったのは公家衆が肝心要のお目当ての人物に、まさかの門前払いを食って大恥を掻かされたという報せだろうか。

 これは噂に昇らない裏の真実。信憑性は100に近しい。何せ会談要求を拒否した人物から直に報せを受けたのだから。

 またその際にはどうやら裏で糸を引いているのは二条晴良の線が濃厚らしいことも訊かされている。

 訊かされずともおよその察しはついただろう。公家は何かを仕込むとき、わかりやすく黒幕が影に潜る傾向が強いので。だがまあありがたい。反面不安でもあるのだけれど。


 なぜなら信長が親切すぎる。言い換えるなら丁寧すぎる。

 それはつまり丁寧に応接しなければ危うい関係だと認識されているとも受け取れ、実際に書状には両家の円満をやたらと誇張して取り上げていたのできっとそういうことなのだろう。チクられて以降、三介とも気まずくて会えていない。


 いずれにせよこれらすべてひっくるめて九条派閥(二条家主体)の動向になどこれっぽっちも関心を示さなかった天彦だが、気付ける者になら気付かれるレベルで一瞬だが表情を歪ませた瞬間があった。

 もたらされた情報の中に、親友ずっトモ光宣がぱっぱ光康共々親子揃って九条一派に同行していた。という報せが紛れ込んでいたのである。それも気遣われるように無関係の書面の間にそっと差し込まれて……。


 それは普通に辛かった。

 現実と向き合えない弱い主君と思われていることがツラたんだった。


 ……が、裏を返せばその程度の反応である。


 目標の金剛石には程遠いが天彦のチキンハートも少しは硬度を手に入れつつあるようだった。




 ◇




「さすがに進んだやろ」

「はっ、もう後しばらくで到着しましてございまする」

「ん。佐吉、ご苦労さん」

「はっ」


 有識故実に倣って好きではない籠に揺られて出向いたのは公家町である。

 目的地はその中心に位置する大内裏の紫宸殿を真北に捉える建礼門前広場である。


 本日は閲兵式。

 それも帝の御前で執り行われる。故に格式序列的には最上位の式典である。

 菊亭家人たちは誰も彼もが色とりどりの正装に身を包み、緊張の面持ちで行列を維持している。


 角を曲がり大路に入り視界が一直線に開けると、


「おお……!」


 青侍衆の誰かがたまらずといった風に唸った。

「何と、見事な……!」

「まさしく意気軒高なり」

「……これが三河武士。聞きしに勝る武威ですな」


 すると続いて着なれない正装に身を包んだ菊亭諸太夫たちも感嘆のため息と共に感情を発露した。


 行儀は悪いがこのくらいはいい。家来たちの言葉を訊きながら外の様子を想像していると、ようやく天彦を乗せた籠が止まった。


「到着しましてございまする」

「ん。ご苦労さん。……ふぁぁ、長かったん」


 醍醐から延々ずっと。ほぼ半日を掛けての籠移動は道中中々の苦行であった。公卿だけに。そう。公卿だけに参内は籠で行わなければならないのである。

 作法だっる。とは思っても絶対に口に出せない辛さがあった。吐き出せるSNSも無いので辛さが紛れる場はほぼ皆無。自力で消化するしかない。



 閑話休題、

 そんなつらたんちょっと拗ね彦が降り立ったのは特等席。

 屈強な騎馬武者が勢揃いして隊列を組む姿が一望できる好位置である。

 むろん好位置には高貴な人たちが集うとしたもの。どれだけ低く見積もっても失言要注意のご面々であらせられる。


 以下序列順


 上臈局じょうろうのつぼね(後宮女房の最上位・二条尹房の娘)。

 大典侍(典侍の一位・参議万里小路賢房の娘御伊茶・正親町天皇の叔母)。

 新大典侍(典侍の二位・内大臣万里小路秀房の娘房子)。

 目目典侍(権大納言飛鳥井雅綱の娘)。

 勾当内侍(掌侍(内待)の一位・参議薄以緒の娘好子・権大納言高倉永家の養女)、同じく勾当内侍(掌侍の一位・葉室頼房の娘椛、権大納言高倉永相の養女)。

 新内待(内待の第五位・大蔵卿持明院基孝の娘基子)

 内待(治部卿土御門有脩の娘春)

 伊予局(中・下臈格命婦の一位・宮内卿舟橋枝賢娘いと)。同じく大外記押小路師廉の娘)、ほか三名。


 ~といった内裏の裏ボス勢揃い。


 控えめに言ってもヤバいちょっと間違えましたでは済まない面々がすでに陣取っていて、思い思いに観覧の支度に取り掛かっておいでであった。……まんじ。


 絶対に目を合わせるな。けっして関わるな。じっと息を凝らすのだ。


 天彦は得意の壁の華に擬態した。むろん出来っこないのだが。自分ではなく家来があまりに存在感がありすぎて。だから出来ているかどうかは関係なく、心構えの問題として空気に徹した。絡まれたが最後、お仕舞いなので。


 だがお利巧さん。天彦の感情を具に察知した御家来衆も即座に応接。出来得るかぎり擬態して気配をそっと殺し始める。


「……しかし凄いん」

「はい」

「はい」


 佐吉と是知が同意する。


 公家町という入城に身分規定がある土地柄にもかかわらず、そこには物見客多数。おそらく数千を超す観衆が詰めかけている。

 公家町は当たり前だが誰でも来られる場所ではない。だが反面、明確な何か指針があって入場を規制されているわけでもなかった。つまり雰囲気。

 精々家名を持っていて、裕福層に見えれば門衛は一々誰何しない。その程度には京の町には富裕層が出現していた。公家は貧乏。対する商家は……。

 それこそ公家町に勝手出入りできるレベルの富豪商人は、現代の佐藤一族くらいには居る。そういうこと。


 さて、

 視界に広がる光景に思わずといった風に感嘆の声をあげ、誰もが広場に集う武者たちの姿に感嘆の歓声を上げていた。


 ならばあの五月蠅いのはどこに。彼はなんと鞍上の人となっていた。

 この禁裏御料所回復の出征閲兵式の忠臣に彼はいた。この軍勢を率いる三河守の真隣でニコニコきょろきょろと誇らしげにこちらに向かって笑顔を振りまいているのである。


 そう。雪之丞こそがこの禁裏御料所回復出征団の御旗である。

 立場は東宮の永代別当として。

 朱雀雪之丞はこの大官軍であるおよそ五千の兵を率いて禁裏御料所の回復に向かうのである。むろんお飾りの旗振り役として。


 誰もが帝の御来臨を今か今かと待ち望んでいる中、天彦だけが菊亭一の御家来さんのカッコ可愛い雄姿を瞳の奥にスクショしていると、


「参議お兄さん、基子嬉しいさんにおじゃりますぅ」

「……」



 出た! 



 やはりそっとはしてくれず。第一カラミ人は予想倍率2.5倍の二番人気、末恐ろしさには無類の定評を持つしおしおちゃんでお馴染みの大蔵卿持明院基孝の娘基子であった。


「参議お兄さん?」

「あ、はい」

「なんや厭そうやわぁ。基子しおしおなん」

「あ、ご無礼さんにおじゃりました。孝子ちゃん」

「まあ! やっぱりちゃんはおいとぽいさんやわぁ。きゃはは」


 年頃の無邪気さに罪はないが正直しんどい。一度裏の顔、あるいは二つ目の顔を見てしまっている天彦としては、どうしても感情に何らかのバイアスが掛かってしまうのだ。


 すると、


「あら内待、参議さんと親しいのんかぁ」

「はい。大典侍さん。基子は親しくさせてもろうておじゃりおますぅ」

「ほう。お上はさぞやお驚きさんにあらっしゃいますやろなぁ」

「いいえ。お前の好きにせえと仰せにあらしゃいました」

「……参議、ほんまかえ」


 いや、知らん知らん。


 コッワまぢ。まぢコッワ。


 後宮の大ボスにして実質の支配者である大典侍の登場に、天彦はもちろん天彦の陣地全体に緊張が走った。


 さあ弱った。どう答えれば正解なのか。そもそも正解はあるのか。

 天彦は咄嗟に考え答えを導き出すべく脳みそをフル回転。むろん最善はわからない。だが最低でも次善策だろう回答を導き出さなければ。


 思えば思うほど妙案は浮かんでくれない。あ、そう。ほな出さんとこ。


「……」


 出した答えは黙して答えない。である。


「で、おじゃるか」


 どうやら間違ってはいなかったよう。ほっと胸を撫でおろしたところに二の矢が飛んできた。


「あこ叔母さん、妾の参議をお可愛がりにあらしゃりますかぁ。当人に代わって御礼申し上げさんにおじゃります。この通りおおきにさんにおじゃりますぅ」

「……どこにも首を突っ込んで何とはしたないことか。新典侍、そなたは傍に控え居ろう」

「あら、あこ叔母さんったら今日は随分意地悪さんね。うふふふ」

「黙らっしゃいっ」

「あら大きなお声をださはって、なんとはしたないことにあらしゃりますやろ」

「おのれ……」

「まあ怖い。ああ怖い。うふふふ」


 目々典侍の介入で場が俄然騒がしくなってしまう。目々典侍は帝の男児をもうけている。その気分的余裕がマウントを取らせているのだろう。誰の目にも増上慢に映っていた。

 だが誤解だ。天彦はそのことをよく知っていた。むろんいい風に理解しているわけではなく、天彦は目々典侍という人物が単なる愉快犯であることを身を以って知っていた。


 だが現下の味方であることに変わりなく、むろん天彦にとって有難迷惑。どころかまったく以って一ミリも嬉しくない登場からの仲裁であった。


 逃げろ!


 できたらどれほど気分は楽か。だができない。できっこない。


 結果、全方位からオニ白い眼を向けられてしまうこととなった天彦だが、このままでは名が廃る。

 天彦はこう見えて生粋の負けず嫌いなのである。


「是知」

「はっ、ここにおりまする」

「撒け」

「……は。は?」

「撒くん。非常食用に持ち込んだお餅さんを。この特等観覧席から盛大に撒き散らすんや」

「は、はは!」


 是知はわけもわからず、台車一台分持ち込んだ餅を撒き散らした。

 するとどうだ。

 女ボス同士の喧嘩など一瞬で吹き飛び、観覧席がにわかにまた別の喧騒に包まれ始めた。


「なんやこれ、こんな餅食うたことないで!」


 それはそう。生地に砂糖を練り込んでいる取って置き飛び切りの軍備食で持ち込んだのだから。


 その煽り文句に観衆が食いついた。


「くれ! こっちも」

「こっちもや! おくれ」


 力技で逃げ切った天彦に、が、当然だが救いはない。先ほど来の何倍もの峻烈な視線が突き刺さる。


「天彦お兄さん」

「参議」

「参議さん」

「菊亭」


 揃いも揃って非難の言葉も添えてくれて。



 じんおわ。


 すると、


「あ……ッ!」


 このポイント加算の絶好機に一歩が踏み出せなかったまんじ顔の葉室家の姫の顔が目に入ってきてちょっと笑えた。


 少しだけ和ませてもらったところに、


「陛下の御来臨ー!」


 各々方控えよ、控えおろうと警鐘と呼び込みの声が鳴り響いた。

 次に陣太鼓が打ち鳴らされ、天彦はその賑やかしい音に救われてどうにか急場を凌ぐのであった。猶、危険を察知した基子ちゃんは早々に退散している。お利巧さん。


 騒動が沈静化し天彦は少しだけ反省の色を窺わせる。悪巧みのツケが回収されたのだと感じて。

 というのもこの催しは100天彦の恣意的操作であったから。

 この場を設けたのは天彦であり、家康を始めとして徳川家の菊亭の何たるかを示してやるためだけにこれほどの大掛かりな仕掛けを仕組んだのだ。


 その悪巧みのツケが回ってきた。因果関係の極みであった。






 ◇◆◇






 閲兵本隊最前列。


 荘厳な金鎧を纏った鞍上の家康は、左真隣で終始周囲に向けて愛嬌を振りまいている官軍の総大将を横目で覗き見てそっと深いため息をこぼす。


 そして右隣やや後方に配置されている当作戦軍団軍事参謀に向けて、


「次郎法師よ。儂はいったい何と戦っておったんじゃ」

「御狐様と、にございます」

「……狐。踏んだのかのう、御遣いの尾を」

「それはもうしっかりとお踏みになられたご様子で」

「なぜ笑うのじゃ」

「ご無礼仕りましてございまする。こうして命拾いできたことへの安堵が思わず込み上げてまいった次第にて」

「おお、そうじゃった。その節は苦労をかけたの。しかし、はぁ……、まいったのう」

「ほんに参りましてございまする」


 次郎法師は天彦からきつく釘を刺された。イエローカードという訊きなれない言葉と共に。

 何をどうとは一切具体性のない警告だったが実に効いた。思い起こすだけで今でも肝が冷えてくる。

 イエローカードとやらは累積二枚で退場となるらしい。しかも一度貰うと消えないらしく、本当の意味での累積警告らしいのだが……。


 次郎法師は何がどうとかわからないまま必死も必死、大必死で平身低頭謝意を示した。

 果たして沙汰は。今こうして命あることが結果の証。どうやら即刻退場は免れたようである。だが果たしてそれはいったい何からの退場なのかは恐ろしくて訊けていない。


「しかし圧倒されるのう」

「はい。凄まじい武威にございまする」


 家康と次郎法師はまたぞろ目を瞠った。そして緊張に頬を引きつらせるのである。

 二人の目の前には荘厳にして雄大な御旗、大菊花紋章である十六葉八重表菊が幾重にも棚引いていた。

 この旗を掲げるために東宮の永代別当は駆り出されていた。

 そして実際にこれを背負って戦うのは徳川勢。現地で菊亭勢と合流はするものの実質は単独軍とのこと。何があっても負けられない。万が一敗戦でもしようものなら……。


「……のう次郎法師よ。あやつは何を食うておるのか。そもそもこのような場でなぜ食えるのか」

「菊亭様の御家来衆ですから」

「……妙に納得してしまう響きがそこにはあったの」

「はい。ございました」


 家康の視線の先には鞍上で、自分だけはこっそり。誰にも見つかっていない心算の朱雀くんが、懐に隠し忍ばせこっそりと持ち込んでいたわらび餅を食している姿があった。むしゃむしゃぱくぱく。

 あまりの美味しさに自分で組んだ設定ももう完全に忘れてしまって、夢中になってわらび餅の入った竹船容器と格闘する図。


 アホである。あるいは常軌を逸している。


 しかも異常性はそこだけにとどまらず。


「殿、あちらをご覧あれ」

「なんじゃ、……は!?」


 次郎法師は特等席に陣取る菊亭一行を指さした。

 するとどういうわけか大騒動になっており、その渦中のど真ん中に見知ったキッズの姿があった。例の死んだような目性で何を思ったのか騒動を仲裁もせずに周囲に餅を振舞い始めたではないか。


「主従揃って……、楽しんでおるの」

「はい。実にこの戦乱の世を愉しんでございまする」


 真面に応接することが馬鹿らしくなるほどのふざけっぷりに、家康の緊張に凝り固まった表情にも気持ち幾分か綻びが見えてくるのであった。


 菊亭がこの調子なのだ。

 家康は気張れば気張るほど、なぜだか勝利が遠のく気がした。


 ならばどうするのか。答えは今、童が示してくれたではないか。


 見栄えどうこうの問題ではない。錦の御旗と並び立っていることこそがすでに栄誉の極みなのだ。これを勝利とすればよい。結果はときの氏神に預けて。

 そしてならば感謝を申すか。家康はちらっと伺い見た。


「無理じゃの。……くそっ、小童めが」


 感謝の念などどだい無理な相談だった。


 それはそう。こそっと申し訳程度に掲げられているくせに、妙に目につきやたらと存在感を誇示してくる三つ紅葉紋が彼ら徳川勢の神経を絶妙に逆撫でてきては。


 だが腐っても武門。家康は声を張って武張ってみせる。


「次郎法師よ!」

「はっ、ここにございまする」

「儂は腹が痛い。ここは任せた。軍扇を取らす」

「……厭ですが」

「二度は申さぬぞ、軍扇を取らす。疾く受け取れい」

「何度でも申しあげまする。厭ですが」

「ぐぬぬぬぬ。貴様ぁ!」

「はい。何でしょうか」

「はぁ……まいったのう」

「はい。参りましてございまする」


 なるほど冗談は気が晴れるのか。一つの学びを手に入れた家康は、けれど現実に直面すると手を震わせる。


 よもや官軍となり逆賊を成敗しに出征するとは。


 どうしてこうなった……!? 


 あの忌々しき狐っ子に完全に嵌められた。それだけは確実である。

 だが武家たるもの。これほどの栄誉が他にあろうか。ない。ならば責められるのか。責められない。何たる周到にして悪辣な企みか。


 どこの公家が主君たる帝を策の駒として悪用するのか。しかも当の帝もノリノリだと訊く。だからこその実用化までのこの速度なのだから。主従揃って性質が悪いことこの上ない。


 家康は改めて宮廷との付き合いの難しさ、厭らしさを思い知らされた。

 その上でもう一度目線を上げる。この日このとき、初めて確固たる自戒を込めて周囲を見渡した。


「はぁ。次郎法師よ。敵はよくよく見定めねばならぬな」

「はっ、まさに教訓にして至宝の金言にございまする」

「餅を頂戴してまいれ」

「え」

「何やらつきたての様子。実に美味そうじゃ」

「はぁ」


 はぁ……。


 学び、学びか。家康はぽつりと二度ほどつぶやいて、もう一度大きなため息を吐いた。


 自軍の幟旗、三つ葉葵と厭離穢土欣求浄土がともすると小さくしょんぼりして見えてしまうことに、やはりどうしても消沈してしまうのであった。











【文中補足】1570年三月現在

 1、九条家

 前の関白・十六代当主九条植通(たねみち/数え64)。男子に恵まれなかったため二条家から養子を迎える。

 十七代当主九条兼孝(かねたか/数え18)。


 2、二条家の隆盛

 他方前の関白・十四代当主・二条晴良(はれよし/数え45)は男子に恵まれる。


 >嫡男兼孝(かねたか/数え18)→九条家に養子に入り家督を継ぐ。九条家十七代現当主。

 >次男昭実(あきざね/数え15)→二条家を継ぐ。二条家十七代当主。従三位権中納言。

 >三男義演(ぎえん/数え13)→将軍義昭の猶子となり醍醐寺本山三宝院に入門する。現醍醐寺大僧都(後に三宝院を復興して醍醐寺八十代座主に就く)。

 天彦が目を付けた醍醐寺(総本山)の格付け下位寺院。熱心な門徒を多く抱える二百万坪の寺領(境内)は誰の目にも魅力である。伏見での菊亭の動きはこの義演の存在によって筒抜けである。

 >四男信房(のぶふさ/数え7)→史実では数年後、信長の勧めにより断絶している鷹司家の養子に入り家督を継ぐ後の十三代鷹司家当主。

 これにより五摂家の内、三家を二条家三兄弟で占めることになり二条家の隆盛が極まる。













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