#12 正義の味方が絶対に言わない台詞やつ
永禄十三年(1570)三月七日
大前提、何をしても用いても、最後に己が勝てばいい。
天彦は信長のその決意ある意志部分には大いに賛同できていた。けっして惹かれはしないけれど。
というのも信長は参内したおり帝に対し天下御再興を奏上し五畿内の更なる発展と幕府の安定をお誓い申し上げている。そしてその際には帝から天盃を授かっている。
即ち奏上はオフィシャルの誓約となったのである(猶、御酌は勾当内侍が代わって行っている)。ぬけぬけと。
だから天彦もぬけぬけと内幕を明かした。だって金狸さん味方陣営なんやろー鼻ほじすっ呆けの感情で。
魔王も狐も普通ではない。すると巻き込まれた普通人(未来の天下人)はどうなるのか。
この天彦が投じた一石に、至極一般的な反応を見せた。即ち下座の若武者(天下人の中の人)は完ぺきに心を揺さぶられてしまっていたのだ。
「なにゆえ……」
故の疑問。故の困惑。だからこそまさに何故。家康の反応も尤もであった。
天彦は現下徳川版図となっている駿河への武田軍侵攻並びに室町幕府の裏切りを明かした。もちろん肝心要の肝部分は伏せたまま。
しかしそれだけで家康にはじゅうぶん効き目があったようで。
すべてが幕府の御旗の元、天下泰平に向かっている。天下布武に向けて心を一にするのではないのか。あの毛利家が、三好家が、畿内有力大名が、そして幕臣たちが軒並み挙って将軍家に臣従をお誓い申し上げ、将軍家をお支えする筆頭勢力である織田家に膝を屈したのだから。
よって家康は天彦の言に不審を抱いたのではなく、信長への疑念を深めていた。まんまと誰かの策意に乗せられて。
悪巧み狐が無垢な童の仮面をつけて、しめしめとばかりほくそ笑んでいるとも気付かずに。
それもそのはず。この情報はすでに織田家にも伝えてあると明かされては不審もここに極まってしまって尤もであろう。
悪意なければ、ならばなぜ未だ示し合わせがないのか。ほとんど出払い自国が危ういというのに。
きっと家康はもはや真面な思考が不可能なほど混乱を極めてしまっていることだろう。
大事なことなので二度言う。まんまと誰かの策意に乗せられて。悪巧み狐が無垢な童の仮面をつけて、しめしめとばかりほくそ笑んでいるとも気付かずに。
この裏の顔を知っていれば家康もこのような罠には掛からずに済んだものを。
何しろ天彦のこのときの顔は、満腹の後にダイエット宣言をするデブの次くらいに信用ならない顔をしている。
だがそうとは気づかない家康は小さく唸った。
極端な自信家、または実績に裏付けられた優秀な者、即ち己を過信している者ほどこの沼に嵌りやすいの典型として、天彦の悪魔の言葉を受け入れてしまう。
それを証拠に家康は瞳を大きく瞠り、まるで絞り出すように言葉をつないだ。感服の念を瞳に宿して。
「菊亭様、何故にございまするのか」
「さあ身共には確かなことはわかっらっしゃいません」
「推論でけっこう。何卒っ、ご教授くださいませ」
家康が粘ってくることは織り込み済み。こうまで辞を低くしてくることまでは想定外だが。
天彦ばかりか家康の側近たちまでもが度肝を抜かれたようにビックリを顔に張り付け主君の態度を見つめている。
天彦は少し間を置いた。じっくり醸造させるように。
ややあって尤もらしく首を捻ってそして扇子の先端を床に向け、とん。一度だけ畳を小さく叩いてみせた。
するとどうだ。場はすっかり天彦に掌握されてしまっていた。
家康ばかりではなく、徳川家家臣たちも揃って息を飲んでいた。
なぜだろう。菊亭ご家来衆までもが息を凝らして天彦の一挙手一投足を注視している不思議をしり目に、
「そやなぁ。あくまで一般論やけど」
「はっ、お頼み申しあげます」
「ん。やっぱし信長さんもお人さんの子。外様より陪臣、陪臣より直臣ということやないさんやろかぁ」
なんと――!
秒で察した徳川家の家臣からけっして小さくない非難の声が飛ぶ。
「黙れい」
その雑音を家康は一言で鎮静化させて天彦に謝意を示した。
「一般論と申されましたな」
「そう。あくまで身共の想像するお武家さんの一般論なん」
誰にも思い当たる言葉を囁く。とくに身代が大きくなればなるほど思い当たる節が濃くなっていく。
ましてや家康は信長から相当な無茶を告げられたばかり。朧気だった疑念に確かな輪郭が描かれたとしても不思議はない。そんな悪魔の言葉を囁いた。
「……姫を頂戴した我が徳川は一門にござるぞ」
「おーこわ。三河守さん、そないおっかないお顔さしはったらなる話もならしゃりません」
「っ――、ご無礼、仕りましてございまする」
「ええさんよ。しかし一門。倅に嫁ぐ姫を頂戴したくらいで一門とな。ふは、くはははは」
「なっ」
「あれ、お武家さんとはそない温い家業でしたっけ。うーん、たしかどこぞの弾正忠家さん、家督相続のごたごたで討ち果たされたお相手さんが実弟さんにあらしゃりましたのは、身共の見当違い聞き違いやったんやなぁ。これは失敬、いたしました」
「……」
家康が堕ちた。天彦はこの瞬間に確信する。
ならば後は詰めるだけ。飛び切りに効くトドメの楔を打ち込むまで。
「まあいずれにせよ、古今東西、あるいは洋の東西を問わずどんな古書を紐解いても両雄が並び立った事例はあらしゃりません。英傑・軍雄が割拠した彼の三国時代でさえ僅か60年ほどで終焉を迎えておじゃります。知らんけど」
「ろく、じゅうねん……」
「そう。僅かお人さんお一人分の年数におじゃります。四百年も続いた国家が梟雄によって滅ぼされ、その謀反人どもも僅か六十年足らずで共倒れ。くふ、ふはははは。お武家さんは過酷なんやねぇ、公家である身共にはその過酷さを想像でしか理解でけへん。心中お察し申し上げさん。こんなもんでどないですやろ」
「忝く、……候」
家康は言うと深く首を垂れた。そして言葉も待たず物も言わずに立ち上がった。
そして下目使いに天彦を一瞥。そのどこか恨みがましい視線を向けたまま視線を切らずに顎を引いて一礼、そっと分厚い背を向けた。
天彦はその背に向けて、とどめの矢を放つ。
「朝家は不滅。お人さんの営みが御座す限り未来永劫、かならずそこにおじゃります」
「……内裏御料所の回復に賛同いたし五千、馳走いたす」
「馳走? 馳走とな」
「御不満か」
「身共はかまへん。けれど三河守さん、あんたさんはどうあんやろかぁ」
家康が踵を返した。だが両者の視線はまるで交わらない。
家康の目はどこか亡羊と虚空のどこかを彷徨っていた。
「策を授けてくださいまするか」
「身共の胸襟は常に三河守さんに向かって開かれておじゃりますぅ」
掛かった。
家康は天彦の垂らした釣り糸に掛かり、自分自身も掛かってしまう。
すると家康はまるで武張る風に片足を前に、やや肩を入れて半身になった。
帯刀していれば刀が抜ける構えである。だが腰に得物は佩いていない。代わりに出っ張ったお腹をずずいっと前にせり出して、
「……ならば。朝家の忠臣であらせられる大菊亭家の御意思に賛同し、我が徳川家が主導して押領軍を討伐してご覧入れる。如何かっ」
「ん、三河守さん大儀におじゃる。朝廷に成り代わり侍臣菊亭が御礼申し上げさん。ほんにおおきに」
「有難く頂戴いたす。では御前、御免仕る」
ばいばーい。
天彦は満面の笑みを浮かべて小さな手を上品に振った。
背中越し。家康の表情はわからない。
だが天彦にはそれで十分。その煤けた背中を見れば他に何も要らないだろう確かな手応えがそこにはあった。
「くふ、くふふふ、くはっ。大権現さん若いなぁ、青いなぁ。くっくっく」
信長ならこうはいかない。だが家康は。
ならば打つ手はまだまだある。まだ企める。まだ舞える。まだ狩れる。
誰もがのけぞり息をとめるでお馴染みの、天彦の本域のいい(悪い)顔が久方振りに顕現するのであった。
◇
ぼろん、ぼろん、べんべんべんべんべんべんべん、てぃん――。
「っ……」
エアプじっじが掌をぶった。すると幻痛が掌を襲った。
天彦とじっじ公彦との間で何度となく繰り返されたルーティンだった。
果てはこの“てぃん”が違うと何遍指摘されても直らない不思議に、楽天家を自称する天彦の表情もさすがに曇ってしまう。
言経に公家の本懐を説かれたのであてつけに家業である琵琶雅楽を打ってみたのだが。……錆びついていた。調律さえままならないほど完璧に。
「えとクレ551は……」
ボケまで錆びついてしまっている。551は蓬莱で、お目当ての品は556。
その556にしたって用途外仕様は明らかで、如何に製品が有能であろうとも錆びた腕の復活には効き目はない。そもそも論、本当に腕が錆びているのか問題もある。
それを証拠に傍で控える側用人も、あるいはじっと待ち惚けているルカさえも誰ひとりとして怪訝な顔はしていない。そういうこと。
それ即ちこの錆びついた腕前こそが常態を表わすのでは。とか。思ったり思わなかったりする天彦は用人を視線で追い払いお人払い。ずっと待っていたルカに胡乱な目を向けた。
最近の彼女は図に乗っている。こうして“気安く触るなボケ”くらいの温度感と気位で接して丁度よかった。
対してその絶賛天彦の警戒感を独り占めしているルカと言えば、とくに悪びれる風でもなく持ち前の感情を悟らせない涼しい顔でぺこりと会釈してからゆっくりと口を開いた。
「徳川様、ずいぶんと難しいお顔をなさっておいででしたが」
「だりん」
「だりん」
「すぐ面倒がる! 設定は命の次に大事なん、何遍ゆうたらわかってくれるん」
「はいはい」
「あ」
「不承知なので二回言いましたが何か」
「……あ、うん」
ならばよし。なわけがない。
だが許す。許すしかないほどオニ扱き使ってしまっているので。
戦国室町。主従と雖も片務性はない。あくまで双務契約の上での厳然たる利害関係で成り立っているだけ。世知辛い!
というのは一般論で、天彦とて面白がっているだけで、けっして……、
「お前、さてはアンチか」
「……」
レスポンスの代わりに白い眼を向けられる。
「おいコラ、やんのか。そうゆーたんや」
「なるほど、では一戦交えて進ぜましょう」
「あ、冗談なん。……いや待て、なんでやねんっ!」
「待ちますけど。いくらでも」
あ、はい。負けた。
天彦は女子に負けを認められる系男子であった。
先生はーい! 男子がまたサイテーなことやってます!
始めたのは女子でそう嗾けたのも女子であるとしても、言い訳をしない程度には弁えている系男子である。
「お茶とお菓子、呼ばれよか」
「はい賛成だりん」
お茶ずずず、お菓子ぱくり、むしゃむしゃ。
「三河守さんなぁ。そんな酷かったか」
「はいそれはもう。まるでどこぞの住職が不意に寺社に訪れたお殿様を誰何なさい、明かされたときとまったく同じ顔をなさっておいででしたので、えげつなく酷い有り様でした」
「おい」
だがそれはそう。たいていがいったんそこでお亡くなりになられるから。
そして家康もいったん氏んだ。しかしすぐに復活する。
徳川家家臣団は屈強な上に優秀なのだ。すぐさま洗脳は解かれ国境は正常化を果たすだろう。
だがそれでいい。今回の主題は疑念の芽を植え付けること。そして副題として朝廷の延いては公家の不変性を感じ取ってくれれば、それだけで策意の八割方は達せられているのである。
その前に公家のおさらいを。
公家とは朝廷に仕える貴族・上級官僚(官人)の総称である。
その公家の中で五位以上の位階を与えられた者を貴族とし、その貴族の中でも三位以上の位階を与えられた者を公卿とした。
即ち公卿とは太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議を指す。
そしてこの公卿になれる家柄・家格には厳とした定めがあり、摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家である。
中でも摂家・清華家は別格であり、原則貴種とはこの二格を指す。他は雑魚、あるいはカス。まぢでそんなノリで完璧に見える化された身分差が厳然と存在していた。らしい。
その認識は広く武家社会にも浸透していて、家門に格式が欲しい武家は公家文化を踏襲し“清華成”という制度を作って自家の正当性の担保とした。
つまり公家文化をリスペクトしたテイで家格を上げる奇策として血統ロンダリング策を用いたのである。
即ち家康は天彦に不変性を感じ取り、その不変の権化が囁いた未来永劫という言葉に100の真実を見たのであろう。信頼もセットで。おそらくきっと。
裏を返せばそこに武家の儚さを感じ取り、どこか絶望を感じ取ったのかもしれない。
いずれにせよ、
人は見たいものしか見ないの好例として。あるいは最低最悪の悪例として、家康は天彦の言葉に取り込まれてしまったのだ。
「くふ。うふふ。ふはははは」
「え。……やば、きも」
「おいコラ、どこの家のお家来さんがお殿様相手にキモいと申すん」
「ここの家来です」
あ。うん。
たしかに薄気味悪かった。仕切り直して、
「徳川に楔は打った。ルカ、仕上げは任せたん」
「え」
「え、やない。これが指示書や。なにこの通り手筈を整えこの通り実行するだけの簡単なお仕事なん」
「……ひっ、また大戦の大仕掛け! 鬼! 悪魔! 射干虐め!」
ふふ、何とでも申すがいい。だがルカは断れない。
指示書を読み込めば読み込むほどに天彦の意図を察し、そしてこの策意の裏に隠された重要性に気づくから。気付けてしまうから。だからこそルカは本隊を預けられているのだから。
「さあルカ、善は?」
「……最低だりん」
ルカはとぼとぼと御前を辞した。
それと入れ替わるように、是知がさっと障子を開けて顔を出す。
「御所から急使が参っておりまする」
「阿茶さんの御遣いやな」
「はっ、然様にて」
「ん。丁重に上げたって」
「はっ、ただちに」
この場合の御所は東宮御所を指す。なぜなら菊亭は幕府の臣ではないから。
菊亭にとっての御所とは東宮の御座す東宮御在所ただ一つであった。
「佐吉」
「はっ、ここにございまする」
「うん。次郎法師と氏真さんを呼んでくれるか」
「はっただちに」
釘を刺しておく。どっちにしても他家の住民。何を言おうと信用はならない。
さて、
さあ悪巧みの仕上げにかかろう。細工は流々、疾くと御覧じろ。
天彦は扇子を弾いて、今日一いい顔(悪い顔)で好きだが下手な調子を取るのであった。




