#20 悲壮感とは絶遠した感情で
永禄十一年(1568)十一月九日(旧暦)今出川殿・菊亭借り屋敷
「若とのさん、主役は負けたらあかんのと違うん」
「主人公やな」
「それや。小っこい頃、ようゆうてはった」
「うん、ゆうてた。ぶっ――」
天彦は縁側で庭に向かって柿の種を吐いて捨てる。
放たれた種は放物線を描き枯れた池の手前に落ちた。
「お行儀悪いですよ。ぶっ――、あ、某の方がようさん飛んだわ」
天彦としても異論はない。主人公でないから弱く、主役でないから負け続ける。
だが異論がないからといって不満がないわけではない。その言葉にできない憤懣の解消は人知れずそっと解消させてもらう。火のないところに煙を立てた張本人から。
「ほんまやな。ほんまお雪ちゃん、ナレ死せんでよかったな」
「なんですのんそれは」
「知らんでええ」
「またご自分だけ、ずるいわぁ」
「しゃーないやろ、偉い人なんやから」
「蟄居を命じられた不細工な人が、偉いも糸瓜もありませんよ」
「それな」
あれから二週間。騒動の顛末からいうと出火の責任を負わされ菊亭家当主今出川晴季はひと月の参内禁止。その間の謹慎。そして菊亭家嫡子菊亭天彦は無期限の蟄居が命じられた。
蟄居と聞けばさぞ厳罰に聞こえるが門は閉じられていないし、自室にも監禁されていない。お伺いを立てれば屋敷は出られる上に無期限も有限。ぱっぱの禁が解かれればすぐにでも解放される、要するにテイのいい自宅謹慎であった。
なのに天彦は大いに不満だ。一つ間違えれば内裏まで巻き込みかねない一大事だったので、寛大な措置であるにもかかわらず。
不満の理由は明らかで、訴えが真面に聞き入れられず原因調査にしても早々に打ち切られてしまったから。
明らかに何らかの圧力が作用している。この件の仕舞い方には納得できない二人である。敵はしぶとい。
やはり力には力。天彦はつくづく実感して心に刻んだ。
「久御山はどうないなりますやろ」
「あかんかもな」
「惟任日向守さんから返事ありましたん」
「あった。ちょっと厳ぃやって」
「残念です」
「こればっかしはしゃーない」
「わかっていても辛いです」
「そやな」
そして二週間経過といえば知行地(荘園)奪還の日取りが喫緊に差し迫っている。
だが天彦は参陣できない。怪我が完全に回復していないため参陣出来るはずがない上に、周囲の大人含めて先ず実益がさせるはずがないからだ。
現在惟任日向守と直接調整中だがおそらくは延期される。さすがに帝に叱られている人物のために積極的には動けない。そういう流れ。
権威主義社会かつ惟任日向守は特別権威主義者なので致し方ないとしても天彦には焦る理由がそれなりにある。
年をまたぐと一気に情勢が不穏になるのだ。ここから十数年、一気に大戦乱時代に突入する。やはり天彦としては急がせたいところ。が、現状は無理っぽい。
「若とのさん、ほんまに許すんですか」
「あかんか」
「あかんことはありません。なんや感情的に許せへんのです」
「わかる。めちゃくちゃわかる。でも……」
「仕方がなかった。頭ではわかっているんです」
「様子みよ」
「はい」
話題のイルダとコンスエラは無事である。何事もなく逃走していた。
今頃は流行の茶店に出向きレシピ指導に腐心しているはずだ。いつものメンツで。
これに関して天彦は何の沙汰も下していない。感情的には思うところはあるにはあるが、無給の者を責めるにはさすがに無理筋だろうから。
むろん一人逃げ遅れた雪之丞がそうとうかなり感情的になっていることは言うまでもないだろう。たとえどう転んでもあの状況では救いようがなかったとしても。
猶ラウラは破格の100貫(現代価値1,200万円相当)で正式雇用している。この飯事(甘々)所帯には欠かせない大人(苦味)成分だから。
しかし他方イルダとコンスエラ彼女らは無給のまま。この待遇差が二人へのシグナルとなっているだろう。
「お雪ちゃん、腕の具合はどないや」
「おかげさんであんじょうようなってます。若とのさんは如何ですか」
「ぼちぼち、――痛っ! なにすんねん。そんな強う握ったら痛いやろ」
「ぜんぜん強く握ってません。若とのさんはそうやってすぐ無理するから。嘘はあきませんよ」
「あ、はい」
体調の方はどうだろう。骨折二か所、裂傷複数、縫合47針。と、聞けば耳をふさぎたくなるが内蔵はどうやらノーダメージで済んだ模様。負傷してすぐの当初を思えばかなり回復している。雪之丞も似たようなもの。
医師の診断(医術に基づいた医師)がないのですっかり完全とは請け負えないものの天彦も雪之丞もそれなりの回復を見せ、二人ともに五体に欠損がなかったことだけを素直に喜んでいる。
多少のダメージは許容しなければ。いずれ時間経過とともに少しずつ回復していくことだろう。但し歯が欠けた。見事に前歯が二本折れた。乳歯でよかった。
さてこうして曲がりなりにも五体満足を実感できているのも偏に実益のおかげ様である。発見が遅れれば少なくとも天彦の命は危うかった。おそらくは死んでいたことだろう。
当然天彦も理解しているので感謝している。しかしそのお礼を申し述べる機会が一向に訪れない、頂けない。早い話、むっちゃオコなのである。実益氏。
「殿、ただいま戻りました」
「よう戻った。まずはお茶で喉でも潤し」
「はっ」
そこに珍しく裃の正装を着込んだ佐吉が姿を見せた。凛々しい。
佐吉には文官仕事を与えている。五石扶持である。これは元服前なら破格であり、雪之丞も同様である。但し職分は武官として。
だが周囲は騒がしい。主に本家の重臣筋が。元服前にもかかわらず本家の本職と同待遇。この処遇には驚きを禁じ得ないのだろう。過分に嫉妬も含まれる。何より銭の出所に多くの関心が寄せられている。
それを証拠に本家武官筋の家が多くの子弟を送ってきた。名目は出火の跡片付けだとかなんとか。次男以下の元服前小僧をわらわらと勝手に送り込んでいる(山本、湯口、中村、長谷川、長野、川口の武官七家から出向扱いで)。
閑話休題、
天彦は急ぎ戻った佐吉を労いまずは茶で一口と持て成した。
ずずず。
「馳走になりました。美味しかったです」
「それは重畳や。厭なお勤めご苦労さん。で、どないやった」
「けっして厭では。ですが本日も若殿様にはお会いできず。面目次第もございません」
「こればっかしはしゃーない。……そうか、あかんかったか」
「はっ、ですが家令殿からこちらを託ってまいりました。どうぞこちらです」
天彦は土井修理亮からの手紙を受け取ると、ご苦労さんと一言。佐吉を労い下がらせた。
「御前、失礼仕ります」
「うん、また後でな」
「はっ」
佐吉は雪之丞に一言二言声をかけてから辞去した。
嗚呼、本日も不発なりけり。根気比べ。あるいは我慢比べ。しかし比べるも何も負けはとっくに認めている。だが実際のところ勝敗ではない。実益は天彦が一向に非を認めないのが我慢ならないのだ。
種目が変わってきた我慢比べだが、これは正直かなり堪える。天彦はこの手の消耗戦を苦手としている。なんせ非合理的だから。意味が理解できなかった。
天彦は無言で歯を食いしばり託の封を切った。用紙に目を落とす。
すると佐吉と入れ替わるように本家から出向してきた武官家家臣筋の師弟がわらわらと姿を見せた。
「うちは託児所なんか」
「また怒らせますよ」
「身共、主人なんやけど」
「あいつらにとっては違います」
「さよか。でもほんまやろ」
「ですね。盆暗どもばっかしです」
「あれでやれるんやから公家もたいがい微温湯やな」
「御本家が温いのでは」
主従の口は辛かった。
それも尤もで特に天彦とすれば愚痴もこぼれる。なにしろ使い物にならない恰好だけの侍擬きを七匹も。まんまと押し付けられたのだから。しかも食い扶持こちら菊亭持ちで。
本家から武官(侍)系の重臣子息(次男以降の男子)が出向してきた(主に家令堀川の推薦で)。
山本友親12、湯口正二郎10、高江推参12、中村五文12、長野是知10、長谷川崇平10、川口正道10。
口と態度は悪いが天彦は案外ひっそりと一部から人気を得ていた。逆説的に菊御料人のおかげともいうが、一部には本気で仕えてもよいと考える家来もいるのは事実である。
この際もっとも苦労しているのは雪之丞であろう。雪之丞の苦労は相当で陰でかなり可愛がられている(別の意味で)。しかも一切そのことについて天彦に感知させないという涙ぐましい工夫も見せていて、見せていないのである。出来た家来や。
その悪クソガキ軍団が一人、山本友親が口火を切った。
「若とのさん、なんぞ用事はありませんか」
「ないなぁ」
すると次々に続く。
「ぼんやりとして、情けないガキやで」
「お前らもガキやろ。鼻垂れとるやないか」
「なんやと! 家来の失態を公に指摘する何ぞ、それでも主人かいな」
「文句の前に直せ。というより厭やったら帰りや」
「侍の仕事をなんや思うてるんやろ。そら菊御寮人さんも怒らはるはずや」
「わかった。身共の負けや。みんなで表の掃除でもしとき」
「掃除なんか侍の仕事やない。ほんまに使えんガキやで。右衛門大夫様仰せの通りや」
「おい。さすがに聞き捨てならんぞ」
禁句を耳にして天彦が顔色ごと気配を変えると、悪ガキどもは蜘蛛の子を散らすように散会して去っていった。
はあぁぁぁぁぁぁ――。
クソデカため息が一つ、おまけに隣からもう一つ。
「お雪ちゃん、何とかならへんかな」
「それは何とかせえというお下知でしょうか」
「いつも無理ゆうてすんません。頼りにしてます」
「ほんまです。父上と兄上に相談します」
「頼むわ」
「はい。期待せずにお待ちください」
「期待はする」
そしてもう一つ、彼らの何が性質が悪いかというと彼ら子弟、分家を下に見ているのだ。甲斐の笠を着て。つまり菊亭の嫡子天彦を完璧に見縊っていた。
これは最低最悪である。しかも本家の重臣の子息だけに教養があって要領がいい。表立っては馬脚を表せない。何か罰を与えるにも許可が必要となる。つまり何をしても不問。
おまけにしかも無位無官の天彦とは形式上身分は対等。本家奥から殺したいほど疎まれている時点であるいは格下。これを悲惨といわず何を言う。
天彦はまたぞろ無言で歯を食いしばり託の封を切った。用紙に目を落とした。
「ん……?」
するとまた邪魔は入っ……、いや違う。荒んだ心を慰撫する可憐な琵琶の音色が優しく天彦の耳朶を撫でた。
「妹ちゃん、お兄ちゃんは元気やで」
「若とのさん。撫子姫は姉御さんです」
「いやち゛ゃ。夕星は妹でおじゃる」
「またそれや。出禁になった理由、それやと叱られたばっかりやのに」
「ぐっ」
後悔はしている。反省はしていない。いい加減に夕星の婚礼相手を訊きださなければ。
天彦は本日三度目、けれど歯は食いしばらずにそっと手紙に目を落とすのだった。
【文中補足】
1、皇室御料地
三条大橋から御所の灯りが漏れ見えた(壁に穴があいている例え)と揶揄されるほど困窮していたとされるこの時期でさえ、まだ49カ所存在した。しかし年間収入は僅か750貫文(90,000,000円)しかなかったとされており、これが事実なら相当困窮していたことは想像に難くない。
ここから臣下(公家衆)や諸々の人件費等の報酬を支払わなければならないとなるとかなりでは利かないほどきついはずである。つまり正しく徴税できていなかったことが覗える。
2、右衛門大夫(自称)(うえもんのだたいふ)
一条信龍(武田信虎九男)、武田二十四将の一人。菊御料人の異母弟。
3、雇用形態
給金の場合、通常は年俸制である。ラウラの場合も100貫(1200万円相当)は年俸である。




