#18 大前提、銭で買えないものがあるとして
永禄十一年(1568)十月二十六日(旧暦)嵯峨野太秦
明けて翌朝。
当然だが銭のまま持ち帰るなんて馬鹿な真似はしない。物理的に不可能だ。仮に可能だとしても天彦にはできない。なにせ一万貫といえば37トン(37,500キログラム)もあるのだから。
よって頂戴した商業手形(割符)を持って帰る。むろん戦国の手形は現代の手形とは制度が違う。だが利便性という観点だけなら大差なく、高額銭貨の移動には重宝する。
但し地方では通用しない。厳密には経済圏(支配勢力)が違うと換金できない。割符を換金両替するには大本の座が必要なのである。
この事実を以って日本列島が統一国家ではないとする材料にもなり得るが、そもそも東西に分かれただけでも同一国家という認識を持っていないので論外あった。
いずれにしても菊亭家に銭は入った。
屋敷前、お別れの儀式。天彦一行は角倉屋一堂総出で見送られる。
「兄弟子、世話になった」
「いいえ、何も御持て成しできず心苦しく思っております」
「たいそうな土産を頂戴した。これ以上のもてなしがあるやろか」
「勿体ないお言葉。ですが頂戴したのはわたくしの側。まさかあのような返礼品を頂戴するなど、どれほどの財貨を積んだとて釣り合うものではございません」
「大袈裟な」
「いいえ。紛れもなく事実にて」
「ま、価値は人それぞれゆうからな」
「然様にございます」
昨夜の晩餐はいつになく愉快だった。むろん単に天彦の機嫌に左右されただけだが、懸案事項が一息に解消されたのだから尤もな話でもある。
結果、酒が進み舌が滑らかになってしまった。むろん舐める程度で酔いはしない。テイは大事。
酒宴の席での与太話だ。天彦の呟きをどう料理(換金)するかは兄弟子弥七の腕(知恵)次第。
「ほな戻るわ」
「はい。道中の御安全を祈願しております。またのお越しを家人一同心待ちにしております」
「おおきに」
いってらっしゃいませ。
家人一同に御見送りされる。おもてなしの精神か。悪くない気分だ。
天彦は満更でもない風に用人たちを一瞥する。そして鷹揚を装って如何にも権高く籠に乗り込み、意気揚々と角倉邸を後にした。
◇
兄弟子与七は帰途の足に籠を用意してくれた。また道中の安全まで配慮して自前の用人を複数人付けてくれた。
一見すると無愛想で武骨な男たちは、先祖代々吉田屋に仕えるお抱え侍たちらしく滅多なことは起こらないだろう。道中の安全は万全だ。
青い空、済んだ空気。果たしてこれほど清々しい気分でいられたことなどかつてあっただろうか。ない。天彦は秒と要らずに否と答えた。
気分をよくした天彦は、何かにつけて鼻歌交じりで周囲に大尽風を吹かせていた。あるいは当人は感激のお裾分けを撒き散らしているつもりでも、傍からすれば鬱陶しいことこの上ない。
そこに籠越しに並んで歩く佐吉が話しかけてきた。
「殿、ご機嫌麗しく」
「そう見えるか。身共の気分の善し悪しが家内の雰囲気を乱高下させるよってな。お大尽も大変や」
「ならばお下手です」
「なにがや」
「演技が」
「佐吉、思たまんま口にするのは公序良俗に反するんやで。覚えとき」
「異なことを承る。殿は常々、正直に生きろと仰せですが」
しばいてええよな。
石田佐吉。
あたり障りのある人。口と心に乖離がなく、だから裏表がない。
よくいえば正直者、だが裏を返せば口裏が合わせられない融通利かず。多くの人はそんな佐吉と話が合わない。
好ましく思うものは限られるだろう。実年齢八歳段階でこの調子(堅物)なのだから。
「水清ければ魚住まず。行けるとこまで行ったらええけど、偉い人特有の理不尽の押し付けや。泣きながら話合わせとき」
「はっ畏まりました」
「ほんまにわかってんのかい」
「はい? わかっておりますが」
「ほなええわ」
「はっ。それで、首尾は如何でしたか」
「わかるやろ」
「はい。ですが念のため」
「上々や。大成功や。身共も震えるほどの大漁やった。薄汚い大人のやり口で大勝利を収めたったで」
「祝着至極にございます。では某の――」
「あかん。元服はまだや」
「殿! 某に結んでくだされた約と相違あるように思いますが」
「相違ない。それやったら訊くが、どこの国に主君より先に元服する近習がおるんや。それとも近江では普通なんか」
「まさか、滅相もございません。拙者は――」
「あかん。この話は仕舞いや」
「……は、畏まりました」
佐吉、元服したら戦に出なあかんのやで。
むろん言葉にはしない。そんなことを言ってしまえば最後、愚弄されていると勘繰るのが侍の習性である。下手をすると腹を切りかねない。
また一方で、例えば天彦と雪之丞のように生まれた日からずっと共に歩んできたような、完全に先祖代々関係性が出来上がっている主従であっても失望させること請け合いの危険な言葉であった。
それほど武士という人種は面目にこだわる。体面と言っても差し支えないだろう。
彼ら武士系戦闘民族は体面さえ整ってしまえばいつでも死ねる人種なのだ。けっして同一視はできないのだ、
そして天彦の菊亭は分家である。分家である以上宗家または本家が存在し上位の意向は絶対である。それが連綿と紡がれた家門の宿命であり、家門制度の絶対性である。この因果法則は武門も公門も変わらない。
一家が存在する以上、等しく背負う業である。血より命より家名が大事。血は家名に宿ると本気で信じられている。
逆にこの制度や風習に否を突きつけ反旗を翻したのがこの時代であろう。言い換えるなら無秩序さの根源こそが制度や秩序の崩壊といえる。
つまり命ということだけに重きを置くなら、先人が示してきた習いある手習いは倣わなければ世は乱れるということである。そして戦国の世はその検証結果を強烈に見える化しているにすぎないのである。
但し天彦は大前提、命に価値はあると思っている。言い換えるなら命など所詮は銭で買える程度の安価な代物であると、どこか冷ややかではあるが確かにそう考えているのだった。
閑話休題、
「その代わりとは違うけど、給金は出したろ」
「はぁ」
「なんや反応鈍いな。嬉しないんか」
「いえ。恐悦至極にございます」
「ほならやめとこ」
「嬉しいです! ちょっと拗ねていただけです」
「うん。それでええ」
「よいのですか」
「真似たんやろ、お雪ちゃんを」
「はい。植田殿ならばどのように応接するかと想像し真似てみました」
「どうやった、手応えは」
「殿は、なんだか嬉しそうです」
「嬉しいに決まってる。佐吉が変わろうとしてるんや、帰ったらお祝いせなあかんな」
「はぁ」
佐吉は戸惑い気味に頷いた。
それもそのはず。自分では半ば自棄気味に、直接の上司であり唯一と思っている菊亭家侍家臣団同僚の応接手段を真似てみたのだ。上手くいくなど思ってもみない。
ところが予測に反して好感触となってしまい逆に戸惑ってしまう。そんなところだ。
「つまり殿は植田殿がお好きだと、そういうことでありましょうか。某、衆道は嗜みませんが」
「そうはならんやろ。佐吉は解釈が一々阿保やな」
「む」
「今度三人で恋バナしよか。ぜんぜん盛り上がらへんやろけど」
「ばな、……とは」
天彦はハテナを脳裏に浮かべてはたと立ち止ってしまった佐吉に向かい、
「元服は身共と同日に行う。この話はこれで仕舞いや」
「光栄です。御配慮忝くございます」
またぞろ籠に並んで歩調を合わせる佐吉の足取りが、気持ち軽快になった。
「殿、立ち入ってもよろしいでしょうか」
「気分次第や。そしてその気分は上々や。すなわちええで」
「お言葉に甘えまして。借りられたのは喜ばしいことです。ですがいつかは返さねばなりません。当家の先行きは如何なものなのでしょうか」
「不安か」
「いいえ、滅相もございません」
「正直に」
「本当にまったく、これっぽっちも不安感はありません」
「何でや」
「なぜ、なぜとは解せませ。殿なら如何なる難儀があろうとも絶対に切り開いてくれると、必ずお家を導いてくれると信じております。それは植田殿も同心でありましょう」
「あ、はい」
佐吉の信頼が厚すぎてコワい。真っすぐな曇りなき瞳がイタイ。
雪之丞は案外あれで怪しいところがあるから程よい。だが佐吉は……。
やめて。そんなんちゃうねん。
天彦は膝を立て、その膝を抱え込むように三角座りの体勢になると、膝前で親指を高速でくるくると交錯させて全力でもじもじした。
「して何を担保になさったので。当家にはもう有為な人材しか残っていないと大っぴらに仰せでしたのに」
「当家の黒歴史を大っぴらにするもんやない」
「はっ」
「それはな、……内緒や」
「はい」
「聞き分けええな。どないした」
「ラウラ殿が曰く、殿には隠密事が多く、もしその忍事を暴いたら鵺になって飛んで行って仕舞われると。昨夜、寝屋で聞かされましたもので」
「恩返ししに行こ。そやからせめて鶴にして」
なんでやねんっ――。
とは言いつつも、佐吉が成長した。ラウラもお姉さんポジを獲得できたようだし、いい小旅行になったようで何より。満更でもない。
天彦は今日一声を張った甲斐があたったと相好を崩した。
むろん質は不要だと言われた。だが借りっぱなしではあれっきりの関係で終わってしまう。それはよくない。兄弟子弥七は今後莫大な富を得る。確実に、だ。
それこそ鉄板。レバレッジを限界まで効かせて全財産をオールインできるくらいの信頼度なのである。
1569年(永禄十二年)の出来事。
一月、三好三人衆が将軍義昭の拠点、本圀寺を包囲占拠。いわゆる御所巻きとは違い明らかな襲撃を行った。
結果、二条城の建設が始まり、周囲の大々的な普請も始まる。(大儲け)
五月、駿河守護・今川治部大輔氏真(第十二代今川家当主)。
今川は公家にかなり入り込んでいて、あるいは逆に公家が今川に入り込んでいても同様に結果は等しく、商家は公家を通じて金を貸し付けている。それもかなり多くの数が。引き上げて大儲け。
詳細は話せないが関連して商売に繋がりそうな情報だけを小出しに話した。
例えば二条城周囲の普請などは因果関係さえ伏せてしまえば、如何にもありそうな情報である。何しろ織田は新参者。おしゃべり京童の心を掴まなければならないのだから。
駿河に関してはあちらが勝手に連想する。何しろ今出川は甲斐を通じての密接な縁戚関係者であるからして。
要するに情報を担保、いや対価にした。無期限無金利とはそういう性質の錢田だ。一万貫は兄弟子与七にとってそれだけのこと。
故に天彦も多少は気楽である。それに少し誇らしくもある。誰にでもできる芸当ではないからこそ適った取り引き。彼我の関係性があったればこそ交わせた契約。つまり、
「なぁ佐吉、あんな大金なんで身共に貸してくれたんやろ」
「殿がご存じなければ某などにわかるはずもございません」
「さよか」
洛外が視野に入った。
籠の有能さに改めて思う。経済活動に本腰を入れるべきであると。
◇
永禄十一年(1568)十月二十六日(旧暦)洛中御築地内(内裏周辺公家町)
「そん、な……」
佐吉が呆然と呟いた。ラウラは言葉を失っている。
洛中が騒がしかった。何事かと駆け付けてみれば、今出川殿が燃えていた。
正しくは菊亭が燃えていた。あばら家だが思い入れのあるわが家が。
「えらい燃え盛っとるで」
「殿……」
天彦とて冷静にとはいかない。だが呆然とするわけにもいかない。
よってその中間の感情で見惚けるのも束の間、天彦は指示を飛ばす。
「ラウラ」
「はっ、ここに」
「家人の確認や。負傷してたら亜将さんとこに駆け込むんや」
「天彦さんお安全は」
「身共はほら、この通り」
天彦は壁一面に張り付き警備を固める天皇の兵隊さんに視線を送った。
「なるほど。ではただちに」
ラウラは納得を見せ西園寺殿に走っていく。
実益はこれで駆けつけてくれるはず。その程度の絶対的信頼関係はある。
視線を佐吉に移し、
「遣いに参ってくれるか」
「はっ」
「肥田帯刀さんのとこに行って、家来を借りてきて欲しい。そやな十人ばかり腕の立つお侍を借りられれば御の字や。屋敷はわかるか」
「武衞館惟任屋敷に詰めておられると伺っております」
「そうか、念のため扇子持って行き」
「はっ、それでは行ってまいります」
「頼んだで」
ぱっぱはさて措き今出川家はあてにならない。なにせこの出火原因かもしれないお方が奥向きを取り仕切っているのだから。
実際にこうまで大騒動となっているにもかかわらず、今出川家から安否確認にただの一人も出向いてこない。そういうこと。
念のため人目に付く位置に移動して空に舞い上がる火柱と煙を眺める。
道一筋挟んでそこは内裏。立地が幸いした。不幸中の幸いにも内裏を警護する大勢の兵士のおかげで天彦の身の安全は当面担保されている。
すぐにも実益が何らかのリアクションを取ってくれるはず。それまで待とう。
天彦が方針を決めたとき、場違いな牛舎が悠々と通過。すると最も喧騒忙しい目の前で停車した。
希望的観測では違うと思いたい。だがさり気なさの欠片もない家紋でお察しだ。
程なくすると屋形箱の物見が上がる。あり得ないことに、そこには顔を覆っていない見知った顔があったのだ。実に愉快そうに嗤う、実に誇らしげに嗤う不気味な笑顔があった。
天彦は咄嗟に目礼で応じる。
「よう燃えてはるでおじゃりますなぁ」
「然様で」
「穢れたもんほど綺麗な火柱が立つんでおじゃるな」
「然様で」
「火元はどこでおじゃる。責任問題を問わんとなぁ」
「然様で」
暖簾に腕押し、糠に釘。
天彦はすべての感情をおし殺して最善と思う応接で対応した。
「ああ、そやそや。菊亭さんの手間を省いてやったでおじゃる」
「……と、仰いますと」
「不手際で出火させた用人を、すでに取り押さえておじゃります。ほほ、おほほ、おほほほほほ」
天彦は震えた。この応接で初めて感情を揺らしてしまった。
だがそれがこの上なく痛快だったのだろう。菊御料人は感情を剥き出しにしてたいそうお悦びのご様子である。
「当家の用人は当家で裁きます。返してください」
「当家の内々の話でおじゃる。妾にすべての裁量権があるのはご存じのはず」
「存じ上げません。お返しください」
「もう遅いんや。今頃はきっつい詮議をうけておじゃる。ほほ、おほほ、おほほほほ」
「なんや、と、この婆あ! 返せゆううたら返さんかいっ」
天彦は一瞬だけ我を見失ってしまった。
「本性現わしたな鬼の子がッ! 見たか者ども、これは謀反や。ただちに取り押さえて詮議せなあかん」
天彦はたちまち取り押さえられてしまった。
「逃げへん。もそっと丁重に扱ってくれへんやろか」
「黙れ、鬼子」
「怖いんか、このちんまい身共が。甲斐兵は精強と違ごたんやな」
「愚弄するかっ! ええい構わぬ、押さえつけろ」
「はっ」
「ご希望だ。丁重に捻り上げて進ぜろ」
「ははっ」
誰ひとりとして天彦に敬意を示す者はいない。丁重に扱おうと配慮を見せる者さえいない。
指示通り二人組に乱暴に肩を掴まれ、腕を捻り上げられる。そして頭越しには十数本の切っ先が向けられていた。




