#14 鳳雛、ちゃんと悲しめることを自慢してくる
永禄十一年(1568)十月二十日(旧暦) 午後
仮採用などと嘯きつつ、用人を三人纏めて正式に雇用した日の午後。
実益がいつものように先触れもなしに、いつものメンツで菊亭のあばら家を訪れた、そんないつもの風景に。
「子龍、邪魔するで」
「ようこそおいで下さいました」
「ビエンベニード」
「ウェルカムホーム」
主人天彦に代わって、いつもとはまるで違う差し色が差し込まれた。
驚いたのは実益のみならず天彦も。実益も天彦も本来各々が言うべき言葉を飲み込んでしまっていた。
何しろ完璧な男装の麗人がそこにいたのだ。
実益の驚きたるや相当なものである。実情を知っている天彦でさえ面食らっているので尤もなのだが、いずれにせよこれを女性と見破れる者はかなり少ない。
一頻り驚くと次は人物に関心がいく。
どこで拾ってきたのか、背後関係は。背後がないのなら俸給はどうしているのか。実益ならずとも疑問は尽きないはずだ。
「お殿様、茶をお持ちいたします」
「頼んだ」
天彦は鷹揚に頷いた。少し気分がよかったのはナイショだ。
そしてそれら驚愕の視線を一身に集める当事者三人衆は、何食わぬ顔で作業を中断し、歓迎の言葉で実益一行を温かく出迎えるのだった。
◇
「粗茶ですが」
「ラウラ。この場合、謙遜にならへんからその文句は控えよか」
「はい」
「呼ぶまで別室にて控えておれ」
「畏まりましてございます」
客を客間に迎える。京市民にでも手が届く二流半の茶葉で淹れた茶で。
むろんツッコミどころ満載だ。特に茶の香りに五月蠅い実益相手なら猶更。尤もこれは半分実情、半分おふざけなのでこれでいいのだが、その反面小気味いい単なる悪口さえ飛んでこないことには胡乱を覚える。可怪しい、これは明らかな異変だ。
「あの用人、らうらと言うんか。珍しい響きやな」
「お気になさらず」
「めちゃくちゃ気になるやろ」
「明日には居らぬようになっているかもしれない家人なのに?」
「さよか」
何気ない会話で繋ぎつつ、触れてよいものか悩みながら様子を覗う。
実益の用向きはわかっている。押領されている久御山荘奪還の打ち合わせに来たのだ。
なのに本題は一向に切り出されず、然りとて副題や脇道話で盛り上がるわけでもなく。
実益主従はいつになく終始渋い顔で言葉数も少ない。
「そや子龍、他に隠し事があるんやったら前もって訊いとこか。この期に及んでさすがにないとは言わんやろ」
「興三郎が」
「おい。興三郎は麿のお気に入りやぞ」
「碁の腕前を買われて武官として雇われます」
「……びびらせおって。どこの平和な国やねん」
「あきませんか」
「いつもやったらええけどな。今はしんどいから子龍のしょうもない冗句に付き合ってられんのや」
「あ、はい」
実益が自らしんどいことを認めた。これは大事だ。天彦は真剣にいくつかあるネタを思い起こす。
土御門久脩案件は我らが一党にとって宿敵なので話が長くなる。却下。三条実綱を同様の理由から、却下。
学舎同門で当たり障りのない、けれど引っ込みがつくネタとなると案外これがあまりなく、辛うじて一つどうにか捻りだしたネタを提供することにした。
「熊千代の苗字をご存じですか」
「知っとる。長岡やろ。なんや改まれると怖いな」
「はい長岡です。ですが熊千代の本苗は細川と言います」
「待て」
「はい、いくらでも待ちますよ」
実益は視線で人払いを指示してきた。天彦は何食わぬ顔でそれを拒否。
不服なら聞かなければいいと暗に拒絶を固持して構える。
ややあって折れたのは実益だった。
「訊かんとこ」
「賢明です」
「いや一つだけ。……やめとこ」
「幕臣藤孝の嫡子です」
「おい。吾はやめるゆうたよな。わーわーわー」
キレながらいやいやする実益が落ち着きを取り戻すまで待って。
「落ち着いた。よう考えたらあんまし接点なかったからええわ。けど今日は体調が優れへんな。またにしよか」
「はい」
このゴシップ大王が持ち越しにするとは、やはり不調。まったく歯切れが悪すぎる。
さてどう切り込むか。
なにも痺れを切らしたわけではない。むしろ不穏からは一生遠ざかっていたいタイプの天彦なので進んで火中の栗を拾うはずなどないのだが、天彦は不承不承叱責覚悟で異常事態に切り込んだ。
「実益さん、何かあったようですね」
「わかるか」
「もちろん」
「実はな」
「亜将」
土井修理亮が静かだが断固とした制止の声を上げた。
「ええんや子龍は」
「せめて言質は頂かなければ」
「煩いこっちゃ。すまんな子龍、らしいで」
「何なりと、ええように判断してください」
「ほら見い」
「某も承知しております。ですが形式は疎かにはできませぬ。事が事だけに猶のこと」
「さよか」
土井の苦言に従った実益は浮かない事情を語り始めた。
曰く、
禁裏小番衆には内々と外様の二種類の御番がある。天皇との親疎から区別され天皇との接し方も異なっている。
内々番衆は天皇の御前に伺候するので御前番衆とも呼ばれていたが、外様番衆は殿上の下侍(清涼殿殿上の間にある待臣詰所)の外様番衆所に伺候していた。
また彼我には装束でも差異が付けられていて、内々番衆は朝服(束帯)であることに対して、外様番衆は衣冠・直垂という略装で参仕しなければならなかった。
そして内々番衆は天皇や親王、女房らと接触するが、外様番衆は内々番衆を介して天皇の指示を受けなければならない。また内々番衆は外様番衆の代わりを務められるがその逆はないのである。他にも複数、内々番衆と外様番衆には差異がある。
というようなことを実益は訥々と語った。
殿上人の実務を訊かされてもさっぱりな天彦に話す意味。つまりここから先天彦のすべきことは解読である。意は組まなければならない。偉い人の得意技、理不尽の押し付けである。いつものことなので慣れっ子だ。
しかし今回はそれほど難解ではなかったので容易にたどり着けた。
「誰かを始末なさりたいと。ですがお門違いです。身共にその手の伝手はありません」
「物騒やな」
「屈辱的な降級をされた上に虚仮にもされた。よって内々番衆、外様番衆共に侮辱された復讐を果たすのですよね。十倍返しだ!」
「子龍を怒らせるのはやめとこか」
「あれ、違ってます」
「違う。皆同情しとる。きっと綸旨を出した主上さんもや」
――ほう、はてはて。
「内々番衆の御役を解任されただけですか」
「そうや。だが当家にとっては一大事や。西園寺興って以来の最大恥辱やとおおごっさんはお怒りや。麿もそう思う」
「御家すべてが、解任されたのでしょうか」
「麿だけやが」
心配して損した。
ジト目を送ると、すかさず倍ほどの峻烈な視線をぶつけ返され慌てて視線をそらす。
「子龍お前、西園寺を何と思うとるんや。仮にもお前さんとこの主筋やぞ」
「喜ぶべきことでは」
「おい。返事になってへんやろ。冗談は……、その顔。さては本気やな。正気か子龍」
「はい、至って」
「さすがに怒るで。ちょっと教えたらなあかんな」
「ごめんなさい。神速より早く訂正します」
「はは、それは早そうや。そうしい」
「はい」
おかげで少し空気が和んだ。
身体を張って道化を演じたのだ。少しではなく和んでもらわねければ天彦としても立つ瀬がない。
「つまり、どういうことなんです」
「麿は哀しいんや。朝廷の窮状も不甲斐ない公卿も、己も含めて全部が無力で哀しいんや」
えっと、……自慢?
あるいは俊英や鳳雛やと持ち上げられて図に乗っている?
そこのところを確かにするため天彦は自身の胡乱を言語化した。
「自慢ですか」
「狂ってるんか」
「では何ですか」
「ゆうたやろ、憂いてるんや」
「はぁ。将軍、いや尾張の影響ですか」
「少なからず全部関係してるわな。むろんそこには麿の無能も含まれるが」
「自虐とはお珍しい」
「この大失態、泣きも入るで」
「なるほど。では、三条さんの弱みがあったらよろしいんで」
実益ははっとして目を見張った。常の三人(土井修理亮、戸田民部少輔、根岸主計大允)も。
清華家は二大派閥でなっている。西園寺家派閥と三条家派閥だ。
目下のところ西園寺閥には今出川家しか組みしていないので派閥と呼ぶのも烏滸がましいほどの少数派、情勢は圧倒的に不利である。
むろんたかが多勢に無勢ごときで怯んだりはしない。何かにつけて逃げ惑い、何かあれば媚び諂う多くの公家集とは違い、西園寺は清華家が英雄家と呼ばれることの代表的体現者である。
「そんな意図はなかったんや。けどどやろ。それが鷹司さん、九条さん、久我さんでも関係あらへんのと違うか」
「弱気の虫ですか。珍しい。明日は鴨川が逆流するんやろか」
「時季外れの鮎がようさんとれるん違うか」
「さては偽物やな。嵯峨野の化け狸、そこへ直れ!」
「ゆうとけ。今は雌伏のときや思うてる。麿より武家伝奏の方がなんぼか酷い」
「将軍義昭さんの横槍ですね。前将軍義栄さんの色を消したいと」
「勧修寺さんは頑張ったんやけどな。尾張が介入して曲げてしもたわ」
「あ、はい」
「なんや歯切れの悪い」
「ご存じのとおりの事情ですので、発言は差し控えたいと思います」
「子龍は生き足掻かせたら日本一やな」
「なにぶん零細公家なのもので」
「近衛さんは出奔した。……と、専らの噂や。虚実はどうあれそんな噂が立つだけでももうお仕舞いや。これで朝廷は九条さんの思いのままやろ」
「うひょ」
取って置きの爆弾発言が投下された。
なぜなら我が軍の絶望的不利が確定したからだ。西園寺はけっして近衛派ではないが九条家とはめちゃくそ反目だ。とても不味い。
「さて我らは如何するか。どっち転んでもそのときはあんじょう頼むで、我が子龍」
「はい」
この口ぶり、おそらく実益は将軍家と何かあった。あるいは西園寺そのものなのかもしれないが、天彦は何となくのところで予感する。
脳裏を探ればこの時期、武家伝奏の御役目でひと悶着あったと記憶していた。
たしか羽林家飛鳥井正治と正敦親子だったか。そこに山科言経と四条隆昌が加われば、この頃の特徴的な戦国臭が色濃く漂い始めるだろう。
そして摂関家――鷹司信房、九条兼孝。清華家――三条実綱・久我敦道、花山院定煕、大炊御門経頼。大臣家――正親町三条公仲、中院通勝。羽林家――冷泉為満が加われば最強の布陣の出来上がりだ。
むろん戦国公卿(朝廷)権力闘争の幕開けである。
「今朝方連絡がありまして、来月、出陣することとなりました」
「約定は果たされたんか」
「おそらくは。総勢八百と申しております」
「口約束の半数か。それでも十分な大軍や。惟任日向守、奮発したな」
「はい」
「高う買われたもんや。で、いつや。領袖として麿も予定せなあかんやろ」
「何かとお世話をかけます。吉日、十六日です」
「ひと月ないやないか。急がなあかんな」
「はい」
各々が固く拳を握り、二人は何かを確かめ合うように頷き合った。
朝廷または公家界隈で俊英といえば実益の名がいの一番に上がる。自他ともに認める事実であろう。少なくとも菊亭はきの字も出ない。
その清華家の俊英が震えていた。天彦は改めて覚悟のほどを思い知る。
「初陣やな」
「はい」
「麿もや。なんや今から震えるな」
「はい。でも武者震いを、公家な身共らはなんてゆうんやろか」
「さては余裕あるな」
「あるいは現実味に乏しいのやもしれません」
「辛いが現実やで。手刃するばっかしが殺人やない。子龍の号令で大勢の民草が血を流す。それも歴とした人殺しや」
「覚悟してます」
「ほんまにか。中には無辜の民もおるやろう。足軽の乱取りはそうとうひどいことになるで。応援戦とはそういうもんや」
逃げ惑う住民、乱暴狼藉を働く足軽。堆く積まれる骸。それをなす術なく見ている自分。
種も仕掛けも何も無い。実力で取り返すとは闘争以外の何物でもない。血を流し流される。そういうことだ。
天彦は想像しただけで眩暈を覚え、リアルに胃が締め付けられる痛みを感じた。
「号令は実益さんにお任せします」
「阿保か。これは子龍の戦やろ」
「そこを何とか。身共にできると思いますか」
「でけへんな。虫も殺せんやろ」
「ほんなら」
「そやから今から気合入れろとゆうてるんや。遅かれ早かれ、絶対に必要な覚悟やで」
「そんなん殺生やわ」
「ははは、その殺生を己ですると息巻いたんは誰や。麿は代わってしてやるとゆうたで」
「ぐう」
険しさの中にも笑顔を取り戻した実益は快活に笑いとばすのだった。
だがそれも束の間、緩んでいた表情を険しく一変させると、
「清水谷公松。どない始末つけるつもりや」
「どないしよ」
「逃げられへんやろ。敵は策が敗れたんや、間違いなく命取りにきよんぞ」
「逃げたい」
「どこにや」
「イスパニアとか」
白い眼差しが痛い。
しかもなんで背中からも痛いんや。振り返ると三人の仮装用人がとびっきりのジト目を向けていた。
「麿が手、回したろか」
「え、いいんですか」
「子龍にゆーても無駄やろけど、普通は意地を張るもんや」
「意地。なんやろ、それ。美味しいんやろか」
「もうええ」
「だって怪我しとうない。痛いのは厭や」
「さよか。これで一つは返せそうやな。土井、そういうこっちゃ」
「はっ。万事お任せあれ」
天彦はおんぶに抱っこ。
深々と腰を折るだけでは物足らず、更に額を畳みに擦り付けるのだった。
【文中補足・人物】
1、宮廷情勢
永禄十一年(1568)九月、十五代足利義昭を擁立した織田信長が上洛すると、朝廷情勢は一変した。
前将軍足利義栄の登用した人材の刷新が狙いであり、武家伝奏には外様の飛鳥井雅教を起用する改変がなされている。
この飛鳥井が大徳寺伝奏(寺社伝奏)の兼職を要求し、以前から大徳寺伝奏を務めていた勧修寺春右は強く反発した。
正親町天皇は事態の打開に勧修寺留保の綸旨を発給するが、将軍義昭の意向は強く、勧修寺は罷免されてしまう。織田強勢の始まりとされている。
2、職業分布
従五位以上の殿上人(公家・公卿) 1,200人
従六位以下の長上官(貴族・貴人)6,000人
番上官(非正規役人)30,000人
京の総人口が30万人としても、貴族または特権階級の数が多すぎた。
3、鮎
水の花といったらしい。
4、公家の言葉遣い
現代人が読みやすい親切設計となっております。
ご不満な方は、各々脳内で当時の宮廷言葉に変換してお楽しみください。他力本願。




