#10 売れるものはなんだって
永禄十一年(1568)十月十五日(旧暦)
「畜生腹を放逐したんは英断やったな。その小っこいのが片割れか。はん、気色の悪い」
「然様ですか。しかし麿の目には至上の宝玉に映っております。ひょっとすると我が孫、心を映し出す勾玉なのやもしれませんな」
「余の目が曇っていると申すか」
「映し出すと申したまで」
「何が違う」
「はてさて、なんでっしゃろ。最近惚けてきて現と夢の区別も億劫です」
「妖怪爺め、もうええ。左丞相、大儀であった」
「はは」
謁見はどうにか終了。無事とはとてもいい難い。何しろ終始将軍義昭は不機嫌で、その不愉快な態度に呼応するように天彦じっじの応接も負けじと不機嫌だったから。
将軍義昭退室を待って謁見の間を後にする。
誰かに引き止められることもなく、あるいは誰かに失礼を詫びられるようなこともなく、天彦は控えの間に出た。
「天彦さん、厭な思いさせてしもたな」
「はい。夕星にはあわせたくないです」
「堪忍したってや。これも必要な通過儀礼や」
「はい。でも大丈夫ですか」
「何がや」
「誰かがフォロー、……失態の埋め合わさえしようとしないこの幕府の体制が、です」
「それが不安か」
「はい」
「そうか。心配しとったけど、天彦さんはちゃんと育ってる。麿は安心したで」
「はあ」
「ほな行こか。待たせたらあかんし」
天彦としてはもっと心配してほしいところだ。ぜんぜんやれていないから。
「これから誰かと会うんですか」
「惟任日向守。会いたいゆうたんは天彦さんやで」
「そやった」
「ふつうは京都所司代(村井民部少輔)に会いがるもんやけど」
「最高責任者さんはお忙しいでしょ」
「ほう、ほんで二番手か。よう考えたはるわ」
じっじは天彦をぼんさんとは呼ばずきちんと名前で呼んだ。
変化に意味はあるのだろう。あるいはこのオフィシャルの場だけのことかもしれないが、憤死ものの屈辱を平然と飲み込んだ天彦への密かなご褒美なのかもしれない。
いずれにしても器量を高く買った高評価は紛れもない。じっじの天彦を見る目は過去最高に穏やかだった。
と、そこに裃を着た壮年の侍が入室してきた。
天彦じっじは上座を譲らず軽い会釈で迎え入れる。
「お待たせ致した。惟任日向守光秀にござる。千寿院様におかれましてはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じまする」
「隠居の爺や。そうしゃっちょこばらんでいい」
「ではお言葉に甘えて」
惟任日向守は柔和な笑みを浮かべると、ご免と言って足を崩した。
崩すといっても現代感覚でいうところの正座はしておらず、胡坐座りから膝を立てて座った。どうやら膝が悪いようだ。天彦じっじは事前に知っていたようである。
「内大臣卿には常から御引き立ていただいております」
「あんじょうしたって」
「はっ」
駿河(今川家)シンパかつ甲斐(武田家)の類縁である今出川家の縁者であれば、かなりあたりも厳しいのかと思っていたが案外そうでもないようだ。
尤もこの時期武田家(信玄晴信)は戦国最強の異名で轟かせている。一揆(一向宗)と構えている織田にとって背後を気にするのは当然といえば当然なのかもしれない。
あるいはぱっぱ晴季の老練な立ち回りを垣間見た気がした天彦だったが、さすがに老練は失礼かと思い直して言葉を探す。
何しろ天彦数えで10。実年齢ぱっぱ19のときの子だ。二十代の青年に対し老いはない。ならば老獪か。
猶更無礼千万だが不思議と釈然としてしまう。ぱっぱは悪巧みという語句がやたらと似合う、そんな老獪な寝業師だった。
いずれにせよ想像していた刺々しさはなく、一先ずは安心してやりとりを注視できた。
だが子供の出番などありはしない。じっじと惟任日向の会話は淡々と進んでいく。やがて社交辞令も出尽くしたと思われると、惟任日向守が徐に胡坐に座り直し深々とお辞儀をした。
「さいごに天彦さん。なんぞ御頼みごとがあったんと違うか」
「はい」
「ほう、菊亭の俊英が拙者に頼み事とは興味深い。何でござろう」
身構えちゃうからやめて。
ほとんどほめ殺しに近い評価で前振りされてしまった天彦は、殊更緊張の面持ちで本日の主題に入るための導入(触り)で口火を切った。
「一揆とは如何ですか」
「……如何とは漠然としておられる」
それはそうだ。公家とはいえ齢10、実年齢8つの小僧に、唐突に政治問題を切り出されたら困惑する。しかも社交の場で。
何より反応が薄い。それも仕方がなかった。目下宗教関連での最大の敵はぶっちぎりで天台の総本山、比叡山延暦寺だからだ。
雰囲気を具に呼んだ天彦だったが、咄嗟にしくじったとは直感したがもう後には引けない。なぜならこれ以外に本題に切り込めるネタを用意していなかったからだ。むろん用意はしようとした。だがなかったのだ。
ならばこれを以って踏み込む以外にないのである。
「思い違いでしたか。てっきり一向衆には手を焼いておられるかと」
「立ち入った話なら人払いを致すが如何か」
「お任せいたします」
「伝五、人払いを。誰も寄せ付けるな」
「はっ」
「これでよろしいか」
「はい」
天彦は明智五宿老の一人藤田行政を見れたことに少し満足して首肯する。
「して」
「はい。一揆とは激闘が予想されますが如何でしょう」
「ござろう」
「一向門徒は各地におります。お国元なら長島に、京なら依然として山科に門徒は多く背後には越後一揆が控えております。中でも最大の御懸念は摂津石山にございましょう。今がそうでなくとも必ずや障りましょう」
「然り」
「越前朝倉、越後長尾、御盟友三河徳川と、ご承知の通り一揆との闘争は激戦必至。互いに多くの血を流しましょう。むろん遺恨絶大、事後の統治に苦労が絶えないかと」
「大儀なれば止む無し」
「完全にとは確約できませんが、かなり根を絶てると申せば如何ですか」
「ほう。何か掴んでござるのだな」
「はい」
「興味深い内容ではござったが、某では即決できかねますな」
「持ち帰ると」
「然様。それがようござろう。お互いにとって」
暗にご破算と告げてきた。上げる気はさらさらなさそう。
あるいは惟任日向守、既に謀反を覚悟しているのならもはやどうにもならないが、違うのなら選択肢はあるはずだ。
だが惟任日向守がどう取り繕うと二年後には確実に起る事実である。
二年後の元亀元年(1570)、顕如は本願寺門徒に檄を飛ばす。これこそが織田軍四面楚歌の前兆であり、信長が闘争に明け暮れる最たる所以であろう。天彦の見立てでは信長終焉の切っ掛けでもある。
むろん直接の原因は目の前の男だが、そこに至る伏線はいたる所に張り巡らされていて、この石山本願寺との戦闘も要因の大きな一つと踏んでいた。
「持ち帰るならこの話はこれまで。お手間を取らせました。すいません」
おおごっさん、帰りましょ。
期待はずれでしたわ。
聞こえる音量で天彦はつぶやく。じっじの意図せぬ困ったような呆れた風な絶妙に味のある諦観の表情も絶好のキラーパスとなって後を押す。
「待たれよ。今しばらく暇を頂戴したく存ずる」
「どうぞ」
「某の一存では決めかねると申したのは真実。なれば所司代殿にお伺いを立てるが如何か」
「どうぞ」
「御免」
惟任日向守は断るや否や立ち上がり、急ぎ客間を後にした。
その際取り繕う余裕もなかったのか、びっこを引いていたので膝が悪いのだろう。
取って置きの湿布薬を差し上げるか。天彦がどこか他人事のようにいると、
「ぼんさん」
「はい」
「相談ちゅう言葉を知ってるか」
「はい存じております」
「ほなら字義を知らんのやな」
――おうふ。
敢えて心掛けていたと理解している。天彦に対してはかなり直截的なアプローチを実践していたはずである、。ところがそのじっじにしては珍しく遠巻きからの嫌味をぶっ込んできた。これは相当オコのシグナルに相違ない。
冷える。体感温度以上に冷える。あるいは肝が冷えたからか。
天彦はこれ以上けっして応接を間違えられないと理解して、緊張の面持ちを浮かべる。
「今出川の連枝は思慮深くあらねばなりまへん」
「はい。このご時世、お公家さんと雖も、大きく間違うたら簡単に転びます」
「転ぶだけで済めばよろしいこっちゃ」
「んぐ」
「ぼんさんは、出しゃばりすぎやな」
「猛省します」
「口先だけや。目ぇ見たらわかるんや」
「でもおおごさっさん、こうして身共を面に出してくれようとしてはるやん」
「黙らっしゃい」
「う゛……はい」
「何をしようと企んでいるんかは知らん。けど約束せえ」
「はい。家門にはけっして泥を塗りません」
「ちゃうちゃう。そんなもん何でも塗りたくったらよろしい。ぼんさんが死んだらあかん。麿の命ならなんぼでも使てくれてかまわねんのや」
「おじい様……」
「それええな。今度からそない呼んでくれはるか」
「お安い御用です」
天彦は目頭を熱くしながら、一方ではあまりにも厚い信頼に恐怖もしていた。
◇
ややあって惟任日向守が戻ってきた。さすがに京都所司代は同席させていなかったが、言質をとるための証人は連れてきたようであった。
「お待たせいたした。これなるは幕臣、和田伊賀守にござる」
「摂津奉行、摂津・芥川山城城主・和田伊賀守惟正にござる。この場には証人として参り申した」
「隠居の爺や」
「半家菊亭子龍天彦におじゃります。よろしゅう御頼み申します」
「こちらこそ」
小さい身体を大きく見せたかったのか。あるいは甲賀五十三家の筆頭者にいいところを見せたかったのか。天彦は普段使わない尽くし(字の子龍や公家言葉)で挨拶をした。
和田伊賀守をなぜ同席させたのか意図がわからない。摂津繋がりだからだろうか。
いずれにせよ織田にとって幕臣は部分的には利害が相反する敵性存在のはず。天彦が訝しんでいると、
「伊賀守殿は幕臣なれど殿様からの信が厚く、幕臣ではござるが個別の用事も申し付けられる御仁でござる。ご心配召さるな」
「なるほど」
殿様とは信長を指すのだよな。改めて訊けないもどかしさに、それでも天彦が懸命に和田伊賀守を同席させた真の意図を酌もうと読み解いていると、惟任日向守が急かす。
「それで菊亭家の御曹司殿。お話とは」
天彦は喉が渇いたなおおごっさんと値打ちを持たせた。
「これは気が回らずに。おい、茶を進ぜよ」
「はっ」
人払いの定義とは。
人払いしているはずの客間廊下から軽快な返答があった。
「ずずず、たいそうなお味で」
「粗茶ですが、お口に召せば重畳でござる」
「そうですか」
「勿体ぶる」
ややって湯呑を置くと、天彦は胡坐から正座に切り替え背筋を伸ばす。
この時代胡坐こそが正しい礼儀作法なのだが何となく気分的に。
「御子息の居場所を知ってます」
「誰の」
「門主のや」
「なんと……!」
「ほう」
門主といえば石山御坊に決まっていた。
「誤解なきよう言葉にして頂きたい」
「それが宜しいかと」
否定的な言葉を吐きつつも、惟任日向守は身体ごと膝を詰め寄せてくる。そして同じく惟任日向守同意しながらも和田伊賀守は見るからに瞳の温度を変えて天彦を注視した。
「石山御坊、顕如さんの一人息子さんや」
「すぅ」
「うはっ」
おのれで言わせておきながら引くな。天彦は若干憤りながら続ける。
「他所に預けたはるんやね。だーれも気付いてはらへんわ」
「なるほど。ですが養子に価値はない」
「紛れもなく御実子どす」
「……」
惟任日向守が思案顔を浮かべて押し黙ると、和田伊賀守が代わって言う。
「実子と申されるか。あり得るのか、いやあり得るのか」
だが戒律のない浄土真宗では十分あり得た。和田伊賀守は結論付けると、
「惟任殿、これは買いですぞ」
「そのようですな」
「しかしこれほどの報、相当の願いのはず。何をお望みか」
「拙者も口添えすると請け負いましょう。如何する」
掴みは上々、だがここからが天彦にとっての本願だ。
「兵隊さんをお借りしたい。そうやな千もあれば足るやろか」
天彦は実益が想定した倍を要求した。
「因みに何でご利用か」
「横領されとる公領の奪還のためや」
「今出川家の、でござるか」
「いいや、菊亭の。菊亭だけにや。そこは絶対に間違えたらあかん」
「ならば猶の事、承ってござる」
「え、いいんですか」
「この程度、某の一存でお安い御用にござる」
「拙者からも助太刀いたそう」
「馳走おおきに。ではお二方のご厚意に甘えさせてもらいます」
ちょっとお名前お借りしました。確定していた未来の先借りなんで怒られませんよね。天彦はなんでもないことのようについでに本題を言うのだった。
◇
「おおごっさん。怒ってはりますか」
「いや、いっこも怒ってはない。正直驚いたんや。ぼんさん、約束は守らなあかんで」
「え、……あ! おじい様」
「うんうん、そうや。なんや愛おしさが倍になるな」
「はい。おじい様」
「ええなぁ。そやけど、こんな愛らしい顔であんな恐ろしいことを考えつくんやなぁ。亜将さんが子龍言わはるのも納得や」
――ぐっっっはっ……!
尤もらしい顔で告げられた尤もらしい素朴な風の嫌味は、天彦の柔らかい部分にクリティカルにヒットした。
「なんや浮かん顔してるな」
「いいえ」
「そのぼんさんと友だちなんやな」
「はい」
「そうか。業の深いことしはったな」
「はい」
「ええ月や。今夜は菊亭で天彦さんをこうまで追い込んだ、愚かで愚図なてて御の悪口でも言いながら澄ん酒でも舐めよか」
「はい」
「ほな帰ろ」
どれだけ取り繕うとこれは完全に裏切りだ。それでも天彦の心にはそれほど疚しさは芽生えていない。きっと茶々丸(教如)の辿る憐れな人生を知っているからだと自分に言い聞かせているからだろう。
事実として、茶々丸は実の父親に義絶され流浪の身の上となる。そして今後仏門に下れば、茶々丸の判断で多くの門徒を死なせてしまうし反面意に沿わない仏敵を大量に殺しもする。これは確定した未来である。
なのに手放しで喜べないのは、それでも言い訳に過ぎないから。友を売ったのは紛れもない事実だからだ。
「身共はいったい……」
天彦の頭上に月が冴える。忌々しいほどに。
たとえ天彦の思想的に茶々丸の人生が幸福と定義されなくとも、天彦のしたことは裏切りにすぎない。
それを承知した上で、天彦は茶々丸が幸せになるべきだと断定する。
思想の凝り固まった宗教ヲタなら吝かではないが、クラスメイトの茶々丸くんは、あるいは手加減しらずの勝利に貪欲な陰険クソメガネショタの茶々丸は、お茶目でいいやつなのだ。叶うなら幸せになってもらいたい。
いくら阿弥陀如来の本願力(他力)があるとはいえ、あの人生は辛すぎる。
「屈強な尾張の兵隊さん1,000と高槻城の応援いくらか。どんなもんでもつり合いとれます」
「はい」
「天彦さん、あんたさんのやらはったことは交渉やない哲学や。思想や。生き様や。おてんとさんに己の生き様曝したんや。堂々しゃんと胸を張らんかい」
「はい」
大部分は大きなお節介だ。だが僅かながら至極単純な友情感情もあった。
これほど凹むのだからあるいは少なからずではなかったのかもしれないが、いずれにしても天彦は実行した。京都奉行所の兵力1,000と高槻城の応援とを引き換えに、茶々丸を人質に差し出した。
【文中補足・人物】
1、和田伊賀守惟正(38) 摂津・芥川山城城主。甲賀二十一家に数えられる豪族であり、元六角氏の被官の家柄。
伊賀守は自称。他にも弾正忠、紀伊守なども自称した。摂津半国の守護となる。後の高槻城城主となり摂津三守護と称される。
惟正は内裏が伴天連追放の綸旨を発給しようとすると、阻止に奔走するなどキリスト教を手厚く保護した。