#01 雅楽伝奏の家
はじめに。
年齢は数え年、年代は旧暦を使いますが確実性には乏しいです。あと宮中言葉は難しくて調べるのちょっときびぃのでちゃんとは使いません。あくまで雰囲気ってことで。関連して呼び名も厳密性はまったく問いません、大雑把。
因みに少しの書物資料とネット情報で挑んだプロット(七章)を軽~く組んだだけの見切り発車なので、めちゃくちゃ粗いです。プリウスミサイルを駆る心のA級ライセンスドライバーのスーパーハンドリングより荒いです。たぶん整合性はありません。
と、前置きしたとおり本作は歴史を叩き台にしたホームドラマであります。
よって史実ニキや歴女ネキ、中でも特に歴史ガチ勢の方にはお気に召さない内容かと。すべて空想、ぜんぶ雰囲気、凡そ適当。いい加減。もしくは曖昧なモノクロです。
大事なことなので二度いいます。歴史的事実には則りません、則しません。
あくまで歴史・時代小説風なだけの完全ご都合フィクションホームドラマであることを了承くださった方だけお読みください。
これちゃうねん、欲しいのこれちゃうねんと思った段階でそっ閉じ、もしくはプラウザバックよろしくです。そっとね。
それではどうぞ。
永禄三年(1560)五月十日(旧暦)。
「姫や! 福々しいお顔の姫にあらしゃります」
産婆の助手を務めた侍女の一人が赤子を取り上げ歓喜の声を上げた。
そして歓声を聞き届けたご家来衆や家人たちもひっそりと喜ぶ。
が、それも束の間、産婆の悲痛な声が祝賀ムードに水を差す。
「あかん、違います」
「どないしはった」
「もうお一人いはります」
「なん、と――っ」
母体は我が子の出生を確認すると気を失った。
◇
時はおりしも戦国史の最大転換期、桶狭間の戦いが勃発する前々夜。
常にも増して蒸し暑い京の都・今出川殿北屋(後殿)の御産御所にて、清華家今出川に御子が出生した。
このとき今出川家十二代当主・従三位中納言晴季(いまでがわ・はるすえ)数え二十一歳。まさしく野心満々の男盛り真っ只中である。家門繁栄を願い精力的に活動する中、正室逝去という不幸に見舞われる。
だが早々に継室を娶り家中の暗雲を払拭、本年本日、今まさに待望の第一子出産とあれば、嫡男、姫の生誕にかかわらず一門総出でこの慶事を祝って然るべきところ。
ところがである。今出川殿は至極平常。どちらかといえば雰囲気的には寧ろお通夜ムードである。いずれにせよ歓喜の祝辞を叫ぶ者は一人もいない。
それもそのはず、出生した稚児は一人ではなかったのである。
現代感覚からすれば非科学的で実に愚かしい価値観だが、長らく双子出生はお家の凶兆とされてきた。身分階層や地域差によっては多少なり認識の誤差があるものの、概ね長きにわたって不吉の前兆として信じられてきたのである。
中でも特に地位や財といった継ぐべき富が多い家系ほどその存在を忌避する傾向が強く、宮廷貴族の間では確と目に見える形で実質的な厄災をもたらす凶事として認識されていた。家督相続争いである。
この時代の富は一子相伝。裏を返せば貴族の貧窮を意味するのだが、いずれにせよお家に分け与えられるほどの財はなく、よって如何な名門貴家といえどもお家が割れることは致命的と認識していた。故に嫡男嫡子に近しい子は大いなる災いの元とされたのだ。
そしてそれは兄弟仲の善し悪しには関係しない。男児には必ず傅役(侍女・侍従)が付くからだ。それらは閥となりやがてそれぞれにそれぞれを支持する派閥が形成される。お家騒動の立派な火種の出来上がりだ。
またそれとは別に感情的な忌避感も強く、双子は畜生腹と忌み嫌われてきた。そんな中でも特に男女別の双子は特級に毛嫌いされた。それが心中死の輪廻転生と信じられていたからである。
そんな状況をふまえ、双子を取り上げた産婆から報告を受けた家令・堀川有具(ほりかわ・ありとも)(数え二十七才)は言う。
「御双子であらしゃいました。それも男女ともいっぺんに御目もじにあらしゃいます」
通常なら一大事出来の場面。だが双子の父、第十二代当主・今出川大納言晴季は快哉を叫ぶ勢いで笑い飛ばした。
「おほほほ、是は吉兆なり。奥はようお気張りはりましたなぁ」
今出川晴季はこの時代に稀な実に先鋭的な人物だった。言い換えるなら公家らしからぬ実利的かつ合理的な思想の持ち主だったのだ。
主君の発言を受け、それまで息を凝らして事態の把握に努めていた家人たちも態度を決める。
総勢六十有余名の勢ぞろいした家人たち(諸大夫を始めとした近習衆や侍衆、用人など)は声を揃えて祝辞を述べた。
「この度はおめでとうさんであらしゃいます」
「ありがとうさん。つまらん気を回させて堪忍やで」
「滅相もあらしゃいません」
「そうか。下がってや」
「は、ではこれにて御前を失礼いたします」
家人たちとはこれにてお仕舞い、しゃんしゃんだ。
形式上はこれでいい。だが事務的にはそうもいかない。こなさなければならない実務は山ほどある。
特に双子の男女出生を知った陰陽寮は黙っていないはず。ここぞとばかり非難の声を上げるだろう。中でも寮長である土御門家(阿部家)は喧しく攻め立ててくるに違いない。何しろ藤原北家閑院流西園寺家庶流にあたる今出川家と村上源氏久我庶流の土御門とはこれ以上ないほど犬猿の仲であるからして。
――さて本丸やな。
晴季は双眸険しくこれまでの表情を律した。すると室内に凛とした緊迫感の帳が降りた。
しかしあの快活さ、それすら擬態であった。あくまで建前としての歓喜演出。
この誕生それ自体を忌避してはいない。だが……。
この頃晴季には縁談話が舞い込んでいた。将軍家から内密に持ち込まれた縁談であり、仲介者は駿河の御方。そして嫁いでくるのは甲斐の姫。
大虎の娘だけに果たして当たり前の対話が可能かは極めて怪しい。事実はどうあれそう扱ってしかるべき。故に出迎えには万全を期さなければならず、すると正室がいては何かと厄介。晴季も家人たちも血生臭い話はするのも聞くのも苦手としていた。
それを踏まえて主従は表向きの会話を手仕舞い、実務的な会話に入った。
内向きの画策はしない。すべては事後報告で処理できる。今出川家に限らず名門公家一家では当主がこうと決めればすべてはそうなった。
気配ごと改まった晴季は一人居残らせた家令、堀川有具と向き合った。
「みんなさんは落ち着いたようやな」
「おかげさんで」
晴季は白湯を一口。
「星読み筋がぎゃあぎゃあ喚いて本家(西園寺)せっ突かはるやろうし、別家を立てなしゃーないなぁ」
「御慧眼にあらしゃいます。それでどっちのお稚児さんを」
「さすがに男児は障るやろ」
「黄門(晴季)さんの御心遣いがいつか届くとよろしゅうおすなぁ」
「どこにや」
「無粋なことで」
「誰にや」
「方々にどす」
「ええわ、そんなん。ほな内向きの方はあんじょう頼んます。そや主上さんとこ参る前に、本家に行かなあきませんなぁ」
「ではそのように」
口頭では殊勝を装うも、現実問題として別家立ては容易ではない。主上(天皇)専権事項案件だからだ。しかし晴季には勝算があった。それもかなり確実性の高い。
というのも双子の誕生問題とは別に、晴季には慶事があった。
新たに継室として迎える予定の奥の実家問題である。奥(菊御料人)の実家は甲斐源氏の統領甲斐源氏武田家。兄は彼の太郎晴信であり言わずと知れた戦国の雄である。しかもこの縁談を仲介した人物は駿河の守護大名、今川治部大輔義元公である。
そんな晴季にとって義元は奥を介した義兄弟であり、晴季の合理的な思考はかなり義元に影響されている。蜜月関係を証明するように、こうしている今にも数万にも及ぶ大軍勢を引き連れ上洛している最中であることを承知していた。
すると現在天下(京の都)を手中に収めている勢力との激突は必至。
その勢力とはむろん四国の田舎侍。幕府の陪臣。風下に立つにはあまりに格が足りていない。しかし目下宮中作法はかなり四国寄りといっても過言ではなく、そのことが不愉快でならない。今にも声高らかに率先して旗幟を明らかにしたいところだが、事はなってからでも遅くはない。
「三つ紅葉の時代であらしゃますな」
「いいや、左三つ巴や」
「黄門さん(晴季)のお考え、ようわかりました。ではそのように計らいましょ」
「そうしい」
即ち三つ楓(今出川)ではなく、左三つ巴(西園寺)を押し出す。
いかなる時も慎重の上に慎重を重ねて、用心深く立ち回るのが晴季の持ち味、真骨頂であった。
だがそんな晴季を以ってしてもこの浮かれ気分は隠せない。いっそ有頂天にも見えてしまうほど。
「くふ、あは、おほほほほほ」
それもそのはず。義元公が上洛を果たせば今出川家の清華長者は紛れもなく、同時に正一位・太政大臣も確実である。いずれは家格の上限さえ突破して……、夢は膨らむ。
ところが今川治部大輔義元公。この場の誰も。あるいは当事者でさえ、彼が明後日には天に召されるとは思ってもいないはず。
だが時は永禄三年(1560)五月十日(旧暦)。歴史が事実なら義元公は彼の地で討たれ夢半ばで憐れ逝く。時は戦国、現実は世知辛くどこまでも過酷なのであった。
それはそれとして目下は四国の天下。そこの手当ても抜かってはならない。
「麿は稚児さんらの面倒で忙しいさかい、阿波さんとこはよしなにしといてや」
「え、身共が、におじゃりますか」
「あんさん以外に誰がおるんや」
「御無体な」
「無体なことあらへん。ええか、くれぐれもあんさんが直々にその重い足を運ぶんやで。諸大夫遣わしたら、わかってるやろな」
「そんな殺生な」
「せいだい死んどいで。骨は拾うたるさかい。そやけどあんまり怒らしたら骨も残らんから節度は守りぃや」
「ちっ」
晴季の背中越しに家令の舌打ちが小さく響いた。
【文中補足】
1、今出川家。
家格を清華家とする公家であり、鎌倉時代末期、太政大臣西園寺実兼の四男、右大臣兼季によって創設された屋号。
史実では後に本号となる菊亭号も併用した。この菊亭は別名ともなっている今出川屋敷に兼季が愛好した菊が数多く植えられていたからとされているが、当作では十二代当主晴季が出生した双子のために立てた今出川家の諸流屋号とする。
猶、よって菊亭家は今出川家を本家とする諸流のため清華家ではなく、菊亭家自体の家格は半家とする。
※猶一説には大納言のときまでは菊亭を称し、大臣以降に今出川を称したという逸話もあるが本作では以下同文。
1.5、公家序列
天皇家 第106代正親町天皇
摂(関)家 近衛家 鷹司家 九条家 二条家 一条家
清華家 今出川 大炊御門 花山院 久我 三条 西園寺 徳大寺
大臣家 正親町三条家 三条家 中院家
羽林家 飛鳥井家 山科家 広橋家 花園家 冷泉家 他多数
名家 裏松家 烏丸家 甘露寺家 中御門家 日野家 他多数
半家 五辻家 五条家 北小路家 白川家 土御門家 藤井家 藤波家 (菊亭家) 他多数
2、継室
正室の死別や離婚を受けて、当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。
3、永禄三年(1560)の年代線。
今出川晴季(21)、堀川有具(27)、武田信玄(38)、今川義元(41)、織田信長(26)、豊臣秀吉(23)、三好長慶(39)、明智光秀(28)上杉謙信(30)、北条氏政(22)、今川氏真(22)、徳川家康(17)、千利休(38)
4、今出川家内式目
史実では菊亭家内式目となっている家法に則り、家臣団家内序列を定める。家令最上位の家格格付け絶対構造。
家令は諸大夫(従六位下から正四位下の官人)の上位となり、文官は武官よりも格上とする。但し近習旧家を上位として准旧家、新家の順に格付けとする。
5、家内構成(序列)
家令(家督十石・部屋住み八石) 堀川従正四位下参議家
諸大夫(家督八石・部屋住み六石) 清水谷(客分)、山本、石田、中川、上田
武官(侍)(六石扶持) 山本、湯口、高江、中村、長野、堀、長谷川、川口、上原、上田
近習旧家 山本、湯口、村上、川口
近習准旧家 波多野、中村、長野
近習新家 堀、本田、長谷川、上原、三輪、中川
用人(無位無官の御用係・米四石扶持) 多数
【登場人物】
1、今出川正三位中納言晴季(いまでがわ・はるすえ)(21)
戦国の怪人、豊臣秀吉のお気に入り。それを証拠に江戸時代、清華家でここん家だけ石高が突出していた。唐名の黄門(中納言)で呼ばれるのが通常とのこと。
2、今出川家家令・堀川従四位参議有具(ほりかわ・ありとも)(27)
絶家した堀川家の遠縁分家。今出川家の近習旧家筆頭。六歳で家督を継ぎ(六石扶持デビューは破格)以来主君晴季に仕えている股肱の臣。家中(主に出入り御用商や用人の間)では腹黒宰相もしくは単に腹黒だけで通じる。
あわわ、気が向いちゃった。
武家が最も華やかなる戦国時代に公家なんて引きはないよね。うん、知ってる。
でもそれくらいで丁度いいよね。よろしゅう御頼みもうします。