14 重き名、源実朝
建仁三年、西暦一二〇三年、五月十九日。
父頼朝が頼家の継承を守るために粛清を行ったのと同じ論理で、覚悟を決めた頼家は、阿野全成捕縛の命を下した。全成は、武田信光によって捕らえられ、宇都宮一族に預けられた。
「あの若造め!今度は儂の番だ!婿の口から儂の名が漏れたら、儂はしまいだ!あの若造は、祖父の儂だとて容赦はすまい!」
突然の頼家の行動に、時政は、焦って周囲に怒りをまき散らすばかりだった。
義時は、父を宥めようと必死だった。
「全く身に覚えがないということでもありますまい。父上も全成殿に乗せられてやりすぎたのです。ここは、なるべく全成殿への寛大な処分をお願いするとともに、恭順の姿勢を示して、御所様の最終判断を待つしかありますまい」
義時の言葉に、継母牧の方は、時政以上に感情的になって義時を責め立てた。
「おお!父上の一大事と言うのに、何という腰抜けか!ここは、婿殿がすべて一人で仕組んだこと、殿(時政のこと)と我らは何も知らぬ存ぜぬで通し、次の一手を考えねばなりますまい!」
(黙れ!このような事態を招いてしまったのは、分不相応な野心から、出しゃばって、周りをかき乱したお前にも原因があるのだ!この女狐めが!)
継母に対して、喉から出かかっている怒りの言葉を義時は必死で飲み込んで抑えた。
翌五月二十日。調子に乗った比企能員は、さらに北条時政に打撃を与えようと、全成の妻阿波局の身柄も捕縛するよう頼家に迫った。
頼家は、女人である阿波局を処罰するのは乗り気ではなかったが、先手を打って、時政側の動きを封じ込めるためにはやむをえず、「相手は女人だ。決して手荒な真似をいたすな」とよくよく言い聞かせて命を出した。
比企能員の息子、時員らが、大勢の侍達を連れて、尼御台政子の館に乗り込んできた。
「御所様の御命令です!阿波局殿の身柄をお引渡し願いたい!」
(何故、このようなことになってしまったの!)
政子は、受けた衝撃でよろめく己の体を必死で抱きしめて立ち上がって、無遠慮に侵入してきた横暴な侍達を一喝した。
「無礼者が!ここを、鎌倉殿の母の館と知っての狼藉か!」
比企時員は、先の将軍の妻であり、現将軍の母である尼御台の威厳と迫力に恐れをなしたが、弱い犬がおそれを抱く者に吠え立てるように虚勢を張って声を荒げた。
「再度申し上げる!阿波局殿には、阿野全成謀反に関わる嫌疑がかけられております!早々にその身柄をお引渡し願いたい!」
比企の権勢を笠に着る若造ごときに負ける政子ではなかった。
「阿波局は、ずっとこの尼の館にいたのです。二月に駿河国へ行って以来、夫の全成からは何一つ連絡を受けてはおらぬ!女人である局が、表向きのまつりごと、まして謀反の事情など何一つ知らないことは、この尼が一番よく知っておる。それでも局を連れて行こうというのならば、まず、鎌倉殿の母であるこの尼を縄にかけてからにいたせ!さあ!どうなのじゃ!」
さすがに、将軍の実の母にそこまでのことはできようはずもない。比企時員は、仕方なくその場を立ち去った。
時員が去った後、政子はその場に泣き崩れた。
「阿波局の次は千幡か。母である私に、腹を痛めた兄と弟のいずれかを斬り捨てよというのか!全成に父上、義母上も、己の野心のためだけに、大事な私の子を利用して傷つけてまで権力を欲しがるとは!」
阿波局の拘束命令は撤回されたが、五月二十五日、阿野全成は謀反の疑いで流罪に処された。
全成が流刑に処された翌日から、頼家は、将軍としての威光を示すためと、軍事訓練と偵察を兼ねての狩りに出かけた。とりわけ、祖父の時政が取り込もうとしている仁田忠常、安達景盛には注意が必要だった。
六月二十三日、頼家は、八田知家に命じて、阿野全成を処刑した。
千幡は、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめて、目を固く閉じた。己の身近な人間を兄の命によって殺害された事実を目の当たりにして、もはや自分と兄もまた相容れない存在になってしまったのだということを理解せざるを得なかった。
続いて、頼家からの命を受けた京方において、源仲章らが、七月十六日、全成の息子頼全を討ち取った。
その四日後の七月二十日。一度三月頃に病にかかり、体調に波があるなかでいろいろと無理をし続けた頼家は、京方からの報告を待っていた中、中原広元邸で、起き上がれない程の重体に陥った。
(儂は、今倒れるわけには行かぬ!)
頼家は、何とか気力を振り絞り、己の病の回復を願って般若心経を書写したが、体は衰弱するばかりで、思うようには行かない。
頼家は出家し、長男の一幡に家督を譲ることとし、一幡の継承を守るために、一幡のことを後見人である比企一族に任せようと決心した。
だが、そうなれば、比企一族の優勢は明らかとなり、北条時政と牧の方一派の出る幕はなくなる。それを案じて対策を講じねばと思っていた矢先の八月三十日、ついに頼家が危篤状態に陥ったとの報がもたらされた。
「生意気な青二才が。ようやくくたばってくれたか!」
ほくそむ時政の顔には、もはや孫を案じる祖父の面影はどこにもなかった。
妖艶な笑みを浮かべて、夫にしなだれかかりながら、牧の方は言った。
「この機を逃す手はありませんよ、あなた!」
妻の言葉に、時政は大きく頷いた。
「尼御台も、朝廷から千幡の将軍宣下がなされれば、これを承諾せざるをえまい。小四郎の奴は、我が息子とはいえ、比企の娘を娶っていて油断がならんからな。奴には用心せねばなるまい」
時政は、牧の方の縁を通じて、千幡の将軍宣下を得るために、朝廷に頼家が既に死亡し、次の継承者が千幡に決まったとの虚偽の報告をした。
それと並行して、一幡が次の後継者になることが決定していると思って油断している比企能員に対して、時政は、「一幡君の世になっても、どうぞ我らをお見捨てにならないでください」と下出に出て呼び出し、同じ一幡のめのとではあるが、比企と対立している仁田忠常を唆して能員を謀殺した。
時政は、間を置かずして、中原広元邸に兵を送って頼家の動きを封じると共に、一幡が暮らす小御所にも兵を送るように、息子の義時らに命じた。
義時には、亡き頼朝の仲介で娶った姫の前という恋妻がいた。
「決して別れぬと神かけて誓ったものを。すまぬ。せめて、そなただけは、生き延びてくれ」
もはや取り返しのつかないところまできていることを知った義時は、泣く泣く姫の前を離縁して、京に逃がした。
政子もまた、せめて女性の若狭局、幼い孫の一幡と竹姫は助けようと密かに手を尽くすだけで精いっぱいだった。政子の手引きによって、若狭局と一幡は小御所を脱出して逃げ延び、女児である竹姫と乳母の美濃は政子のもとに保護された。
仁田忠常は、同じ一幡のめのとである比企氏と対立しており、比企を排除することについては賛同していたが、自らの権力の根幹ともなる一幡を害そうとまでは考えていなかった。
一幡のいる小御所が襲撃されて、一幡が行方不明になっていることを知った忠常は、どういう了見かと時政に食って掛かった。
(尼御台め!情に流されて勝手なことをしおって!事情を知った仁田もこれまでだな)
時政は、「そなたも、我が身と我が子らが可愛いのであれば、父の儂に逆らわぬことだ」そう言って義時に釘を刺して、仁田忠常討伐を命じた。
九月七日、時政の策略で朝廷から千幡を次の征夷大将軍とする旨の宣旨が発せられた。
若い頼家は、奇跡的に危篤状態から脱して回復したが、すべてを知った時には遅かった。
怒りにまかせて、太刀を取ろうとする頼家を、見舞いに来ていた母政子が抱き留めた。
「何もできなかったこの母を恨むなら、恨むがよい!されど、我が子が死んで喜ぶと思う親があろうか!何があっても、生き延びなさい!」
(この人もまた、千幡を守らねばならないのだ。我が子一幡のためと、北条に対して先手を打ったのは儂の方なのだ。これもまた、報いと言うべきなのだろう。儂に運がなかったのだ。母上のいうとおりに一時的に生きながらえたとしても、じじ殿は儂の存在を許しはしないだろう)
頼家は、すでに覚悟を決めていたが、母に対して返す言葉がなかった。失脚した頼家は、北条氏の息のかかった地にある修禅寺へと送られることとなった。
数え十二歳の千幡は、征夷大将軍の位を授かり、後鳥羽院直々に実朝の名を授かった。三代目鎌倉殿源実朝の誕生である。
「千幡は千幡のままで大きくなっておくれ」
父頼朝は、慈愛に満ちた表情でいつもそう言ってくれた。
だが、もはや、千幡のままでいることは許されなくなった。実朝。恐れ多くも院様から賜った誉れ高く輝かしいはずの名。
しかし、千幡との永遠の決別を意味するその名が、呪いのように重く感じられてならなかった。