第109話 右腕の魔道士
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早朝、草原には朝露が発生していた。
夜間に降った露が草の葉や茎にしみ込んで水滴となり、光を反射して美しい輝きを放っていた。まるで宝石のように煌めいている。
ユリアーネは領都防壁の上に立ち、早朝のそよ風に髪をなびかせながら――眼下に広がる草原を【双眼鏡】越しに見下ろしていた。
未知の道具【双眼鏡】
遠くの草木が、まるですぐそこに在るかのように映る。朝露の水滴さえも、まるで目の前で滴るようだった。
草の根元にたまった、朝露の水を飲んだりしている小動物の挙動も、つぶさに観察できるほどだ。
まるで手を伸ばせば届くのではないかという距離に、その小動物がいるようにも見える。
風景を愉しみ、未知の道具を扱う喜びと驚きを感じていることに気付き、ハッとして我に返った。
刻まれた表情は厳粛へと変わり、遠方に焦点を合わせる。
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実兄であるバルドルフが帝国の大軍団を率い、もうすぐ攻め込んでくる・・・
緊張感の中で、自分の説得が何とか成功することを願っていた。
ユリアーネは、兄バルドルフが激戦を望んでいたことを知っている。
従属させるためには、完膚なきまでに叩きのめさなければならない! それが兄の口癖だ。
兄の軍勢が到着するまでの時間が、自分に与えられた思考の余地だった。その時間をユリアーネは有効に使わなければならない。
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王国元帥ドノヴァン殿と帝国にまでその名が轟く――音に聞こえた剣聖に相談した結果、王国の軍旗は全て下ろすよう命じられた。
もし王国軍の軍旗が数多くはためいていた場合――、斥候兵からの報告を受けた兄バルドルフが、妹であるユリアーネの軍が領都エリアをまだ掌握できていない、もしくはユリアーネの軍が撃破された可能性があると思い込む勘違いをし、問答無用で攻め込んでくる可能性が大きいと危惧したからだ。
「 ユリアーネ殿、少しは休まれたらどうか? 何も御身が率先して見張る必要は無い。交代で部下に任せれば良いでしょう? 」
「 !! これはブラックモア殿。ご配慮痛み入るが、斥候兵にコンタクトを取る役は、やはりわたくし以外の適任者はいないと思っていますので―― 」
真後ろから不意に声を掛けられ些か動揺したものの、できるだけ悟られないように平静を装い、毅然と返事をする。
「 しかし一睡もされておられぬのだろう? 少し眠った方が良いのでは? 」
「 それを言いにわざわざここまで来られたのか? 予想に反し、かなりお優しい方と見える・・・ 」
「 ははは! 一体どんな予想だったのですか? 」
眼前の剣聖は、白い歯を覗かせて少女のように笑っていた。
「 あ、いや! これは失言でしたね・・・いや、何と言うかもっとこう筋骨隆々な大柄な女性で、荒々しい方を想定しておりましたもので。まさかここまでの美貌とは想像しておりませんでした 」
「 ははは! ユリアーネ殿に美しいと言われても、お世辞にしか聞こえませんが。だがここは素直に感謝申し上げます! では、感謝の印にこれを進呈しよう 」
そう言いながら、王国の剣聖が右手に握る小さな筒を差し出した。
「 これは? 」
「 ハルノ様から支給された飲料水ですよ。神の国で創られた飲み物で、この筒の中に入っている限り、1年~1年半もの間腐ったりはしないのだそうです 」
「 え? い、一年・・・一年と申されました?! 」
「 ええ、そうです。とにかくどうぞ! 少しだけ眠気に効くそうなので、一気に飲んでください。ちょっと苦いですけど 」
そう言いながら、筒の上部のツマミを何やら指先で操作していた。
「 はい、どうぞ。ここが飲み口になりますので、零さないように・・・ 」
「 あ、ああ、では有難く頂戴致します 」
んぐっんぐっ・・・
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「 美味しい! 確かに少しだけ苦みもありますが、ほのかな甘みもあって美味しいですね! 」
「 喜んで頂けましたか! ハルノ様が眠気に効くと言われていたのを思い出し、お持ちしたのですよ 」
「 お心遣いに感謝致します。しかしこの【ソウガンキョウ】といい【カクセイキ】といい、この飲料水といい――、ハルノ様が貴国に提供されておる道具は、どれも凄いのですね・・・ 」
「 ええ、驚異の霊薬をはじめ、どれも信じられない物ばかりですよ 」
「 ハルノ様御本人も、デュール様に匹敵する魔法を行使され民を救い、さらに神の国の道具も提供されておると言われてましたよね? 」
「 ええ 」
「 やはり貴国が羨ましいですね・・・そしてその貴国に対し刃を向けてしまった我が帝国の、今後を憂いますね 」
「 実はここ最近だけでも二回――、デュール様のご降臨に立ち会っています。ここだけの話にして頂きたいのですが、デュール様はハルノ様に対し、かなり特別な扱いをされているようなので、ハルノ様から進言をして頂く形を取れば、大事には至らないと思いますよ 」
王国の剣聖が、そうにこやかに――安堵を得ることのできる返答をしてくれたその時だった。
南西の方角――
中空を大きな黒い一枚の布がフワフワと浮遊しながら、領都防壁に近づいてくるのが視界に入る・・・
ユリアーネとリディア・ブラックモアも即座にその異物に気付き、2人ともその大きな黒布の動向を凝視していた。
「 ま、まさか・・・ 」
咄嗟に双眼鏡を構えたユリアーネが呟くように漏らす。
「 む? まさかとは? ユリアーネ殿! あれは何です? 御存知なのか? 」
リディアも咄嗟に剣の柄に手をかけ、いつでも抜剣できる体勢に移行していた。
大して風も吹いていないのに、あんな大きな布が浮遊していること自体がおかしな事象なのだが――
ユリアーネには一つだけ心当たりがあった。
ユリアーネは足元に置いていた【拡声器】を拾い上げ、口元に当てた。
「「 わたくしは帝国軍のユリアーネだ! もしやバルモアか? もしそうなら得物を納め、こちらへ来るのだ! 」」
そう叫ぶと、黒布は呼び掛けに即座に反応したのか――まるで見えない糸で一気に引っ張られているような動きを見せ、あっという間にユリアーネが立つ領都防壁の鋸壁部分まで迫った!
フワフワと不自然に浮かぶ黒布の端から、ニョキッっと生えるように黒い右腕が出現し、続けてヌルっと、防壁の上に零れ落ちるように黒衣を纏った人型が姿を現した。
「 ヒヒッ・・・やはりユリアーネ様でございましたか。お久しぶりでございます 」
気付けば中空の黒布は跡形も無く消えていた。
まるで黒布がそのままバルモアに変身したのではないか――と、ユリアーネは錯覚を覚えた。
「 やはりバルモアであったか 」
「 ええ確かに。バルモアでございますよ。ヒヒッ 」
全身を黒装束で固め、黒い仮面を装着した人物バルモアは――ユラユラと揺れながら「 ヒヒヒッ 」と陰湿な笑い声を上げている。
「 ユ、ユリアーネ殿・・・この者は? 」
激しく狼狽したリディア・ブラックモアが、小声で質問する。
「 この者は兄上の右腕とも言える魔道士で、バルモアと申します 」
即座にユリアーネが紹介に転じていた。
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「 ど、どうも・・・わたくしは、ライベルク王国の騎士リディア・ブラックモアと申します 」
「 ヒヒッ! これはこれは! ご高名はかねてより・・・しかしユリアーネ様と御歓談なされておるのはナゼ故でございましょうか? どうやらユリアーネ様の軍門に下ったというよりも、失礼ながらその逆のように見受けられますが。それにあのような獰猛なモンスターが、まるで飼い慣らされているように鎮座しておるのも不可解! 」
黒装束のバルモアとやらは、甲高い声音で意外にも快活に話している。
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――「 化け物 」
リディアにとって、バルモアの第一印象はその一言に尽きる。
――ハルノ様とはまた違ったベクトルの、異質な魔道士。
空を飛んでいたように思えるが・・・ハルノ様でさえ、魔法を行使し直に飛ぶことは無理だと仰っていた。ハルノ様でさえ習得していない魔法を、扱えるとでも言うのだろうか?
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「 バルモアよ、まさかお前が直々に斥候に出るとはな・・・だがこれで話が早い! よいか? これから私が話す事は全て真実だ! 陣営に戻り、即座に兄上に伝えるのだ! 一言一句違えずにな! 」
「 御意にございます―― 」
ユリアーネ殿が少し焦ったように伝えると、バルモアと呼ばれる黒装束は膝を突いたのだった。
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