第1話 神の使徒
この世界に放り出されて、一体どれほどの時が流れたのだろう?
手元に時計の類はなく、正確な時間は分からない。だが、砂塵を噛む風に吹かれ、乾いた大地を踏みしめ続けてすでに二時間以上は歩いた実感があった。
あの銀髪の「 神様 」めいたオジサンは、私の意思を確認したと言ったが、それはほとんど強制に等しく、実質的に選択肢など存在しなかった。
もし、あの時転移を拒否していたら、私は今頃どうなっていただろうか?
あの神様は意味深な言葉ばかりを紡ぎ、その真意は未だ掴めぬままだ。
だがいずれにせよ、今はただ進むしかない。
しかし、闇雲に歩き続けるのは危険だと、本能が警鐘を鳴らし始めていた。
眼前に広がるのは、砂塵が舞い踊る荒涼とした原野。
どこまでもどこまでも、乾ききった大地が連なるばかりだ。幸いにも空は厚い雲に覆われ、気温は体感で18度から20度ほどだろうか。過ごしやすいのは救いだった。見慣れない空間に放り込まれた時のまま、ワンピースにスニーカーという軽装だが、今は少し肌寒いくらいだ。
遠方には巨大な岩山がそびえ立つ。あれを当面の目標地点にしようか?
いや待て。今、私はこの状況を自然と受け入れかけていたが、本当にここは地球ではないのか?
ふと、薄い雲の切れ間から奇妙な星の影が透けて見えた。それは、地球にいたならば毎日当たり前に肉眼で観測できる、あの太陽の影に酷似していたのだ。
あの神様めいたオジサンの言葉が脳裏をよぎる――宇宙は無限に存在し、一つ一つが等しい完全なドーナツ型であり、その宇宙ドーナツが無限に重なり合っている。そして、しばしば上下の宇宙同士が干渉し合うことがある、と。
意味は全く理解できなかったが、いわゆるパラレルワールドというやつなのだろうと、一度は無理やり自分を納得させたはずだった。
つまり、私が今立っているこの星は、元いた宇宙の上か下かは定かではないが、別の宇宙の中にある別の地球ということなのだろうか――?
あまりに荒唐無稽で乾いた笑いしか出てこない。しかし、これは紛れもない現実だと、焼けるような喉の渇きが容赦なく脳髄を叩きつけていた。
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さらに数時間が経過した。
見上げると、あの奇妙な「 太陽 」めいた星は、すでに向こうの空へと大きく傾き始めていた。
「 いくらなんでもあんまりだわ・・・ 」
唇からこぼれたのは掠れた声だった。文字通り身一つで、こんな世界に放り出されるなんて。
「 ダメだ、何か飲みたい・・・できればミルクティー。喉を潤して、糖分を摂りたいのに 」
目の前に広がるのは、これでもかというほど見渡す限りの荒野。小川どころか水たまり一つない。こんな場所で水など期待できるはずもなかった。このままあと二、三日彷徨うことになれば、脱水症状や、それに伴うあらゆる症状で、確実に動けなくなるだろう。
「 何か、何か飲まないと! 」
乾き切った喉が悲鳴を上げる。その時、ふと、ある考えが脳裏をよぎった。
「 魔法で何とかならないものか? そういえば、飛ばされてからまだ一度も試してなかった 」
あの真っ白い、前後左右の区別すら曖昧な、一人ぼっちでいれば確実に発狂してしまいそうな空間。あの場所で、確かに模擬訓練を受けたのだ。
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「 なぜ私を助けてくれたのか? 単なる偶然なのか―― 」
結局あの神様めいたオジサンは、この当然の疑問に対し納得のいく答えを示してはくれなかった。しかしその代わりに、私に約1時間もの間、「 魔法 」に関する訓練を施してくれたのだ。
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『 瞑想をしてみてください。自身の内に眼を向けると、使用できる魔法名が羅列されるはずです 』
オジサンの言葉に、私は戸惑いながらも頷いた。
「 え? め、瞑想ですか? わかりました 」
言われるがまま瞼を閉じる。思わず前頭葉を内側から突き上げるように、眼球がぐっと奥に動いた。そして――
「 わっ! な、なにこれ! 」
瞼の裏側のスクリーンに、ズラリと文字が並び光り輝いている感覚。いや、これはもっと直接的だ。まるで脳内に、そのまま映像が映し出されたような・・・
「 日本語で、というか普通に漢字で、なんか文字がいっぱい浮かび上がるんですけど! 」
私の驚きに、オジサンは満足げに微笑んだ。
『 そう、それら全て――ハルノ君が今後使用できる魔法の一覧だよ 』
『 意識を集中し魔法名を唱えるだけで発動するからね。君の母国語で、なおかつ普段使いはしないであろう単語にしておいたよ。万が一世間話をしている最中に、いきなり予期せず発動! なんて事態になったら具合が悪いだろう? とはいえ、一目瞭然な分かりやすさにはなっていると思いますよ 』
「 は、はぁ・・・ 」
半信半疑ながらも私はもう一度瞼を閉じ、意識を内側に集中してみた。
【治療】
【全治療】
【状態異常回復】
【蘇生】
【光神剣】
【女神の盾】
【絶対防御壁】
【精霊召喚】
【暁の軍隊】
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【岩人形創造】
【調整&接続】
【時空操作】
【聖属性付与】
【聖巨人の左腕】
【聖巨人の震脚】
【聖なる炎柱】
【聖なる稲妻槌】
【聖なる暴風】
【聖なる水球】
【聖なる氷塊】
【聖なる土龍壁】
【聖なる光球】
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魔法名を見れば、その効果は想像に難くない。
ご丁寧にカタカナでルビまで振られている始末だ。言葉通り、私のためにここまで解りやすくしてくれているのだろうか? 確かに、こんな単語の羅列を普段使いすることはないだろう。
しかし一体いくつの魔法があるんだ? 画面がスクロールするように意識を向けると、文字が次々と上へと流れていく。
「 何だか【聖なる】って文字が多いですね」
『 それはハルノ君が生まれながらに纏っている属性だからだよ。かなりのレア属性だ。私が君に任せてみようと決断した一因でもあるのだがね 』
「 任せる? 後一歩で死ぬところを助けていただいたことには感謝していますし、混乱する私が落ち着くまで根気強くなだめてくれたことにも感謝しています 」
私は問いかけた。
「 でも、この魔法とかを本当に使えたとして、一体私に何をさせようとしているんですか? 」
『 そうだね。当面の目標はポータルを探してもらいたい 』
「 ポータル? それは一体何ですか? 」
『 まずは新しい世界に慣れてからだろう。然るべきタイミングで連絡するから、その時また説明しよう! とりあえず今は、大魔法使いの誕生を祝うと共に――備えようじゃないか! 』
快活に笑う長身痩躯の男性とは対照的に、私からは溜息しか出なかった。
『 さあ、訓練の時間だ! 』
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『 さぁ! 魔法の模擬訓練はこのくらいにしておこう! ここからは本編スタートだ! 』
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――訓練の時は試さなかったが、この【聖なる水球】は、文字通り聖属性を帯びた水球なのだろう。もし水分が出現するなら、少しでも喉を潤せるかもしれない。
私は精神を集中させ、この世界に来て初めての魔法詠唱を試みた。
「 聖なる水・・・ 」
しかし、その言葉が途切れた。
「 え? ちょ、何? 土煙が舞い上がってる! 」
思わず詠唱を中断する。
ゴツゴツとした岩場の向こう側、遥か遠方ではあるが、土煙のようなものが立ち上っているのが岩場越しに視界に入ってきたのだ。
い、いや、徐々に何かが近づいてきているのか?! 連続して巻き起こる土煙が、明らかにこちらへと向かってきている!
どうする? 直感的に危険な気がする! 見下ろせる所までこの岩場を駆け上り状況を確認するか? それとも今すぐここから逃げるか?
いや、どちらも今近づいてきている「 何か 」に確実に捕捉されてしまう可能性が高い。
ここは・・・とりあえず隠れる!
即席で与えられた知識によれば、元いた地球に比べると、この世界の生態系は随分と特殊らしい。どんな生物がいるのか少しだけ好奇心をそそられるが、今はさすがに警戒心がそれを凌駕していた。
岩場の陰に隠れつつ、仕切り直しで魔法詠唱を実行する。
「 絶対防御壁! 」
光を帯びたパネルのようなものが、複数枚一瞬だけ私の身の回りに展開され、即座に掻き消えた。
この魔法は術者個人――つまり私に対してしか効果がなく、他者には詠唱自体ができないらしい。
さらに
「 女神の盾! 」
光を帯びた盾の紋章が、上半身の内部から浮かび上がるように一瞬現れ、これもまた即座に消える。
こちらは他者にもかけることができるようだ。
効果のほどは軽く説明を受けただけで、単なる受け売りにはなるが
一つは一定量の被衝撃を無効化する目には見えないシールド、もう一つは被衝撃を一定割合カットする不可視のシールドらしい。
無効化とダメージカットの違いは理解できる。やはり【女神の盾】だけを掛けている場合、被衝撃が完全にゼロとなることはないのだろう。他者に対し使えるか使えないかの違いも、頭の片隅に置いておく必要がありそうだ。
言われた通り、とりあえず二つ重ね掛けしていると、より安心という認識で間違ってはいないだろう。
あの神様めいた人物曰く、『 相当に苛烈な攻撃を受けない限り剥がれることはないと思うよ 』とは言っていたが、それが実際どれほどの耐久力があるのか、今のところ未知数だ。
念のため最悪の展開を想定し、訓練の時にも一度試したこの防御魔法二種だけは、事前に使っておきたかったのだ。
▽
岩場の陰で身を低くし、「 何か 」が通り過ぎるのを待つ。
ドドドドドドドドドドドドドド・・・
明らかに何かが複数、猛スピードで疾走している音だ。馬か何かだろうか? しかし、それにしても地響きが凄まじい。地面から直接振動が伝わってくる。
次の瞬間、隠れていることなど忘れ、思わず身を乗り出してしまうほどの衝撃を受けた。
岩場の傍を通り過ぎたのは、馬ではなかった。
それは甲殻類のような硬そうな外皮を全身にまとった四足獣で、脱兎のごとく――跳ねるように疾走していた。しかもそれが3匹! 大型の熊ほどの身の丈はあるように思えた。
そして私は目を疑った。3匹の内――2匹の背には、全身を甲冑で包んだ人間らしき存在が手綱を握っていたのだ。
人間? こちらの地球の人類なのか? そもそも私が今いる座標は、元の地球だとどの辺りになるのだろう? こちらにも日本列島は存在するのだろうか?
少し遅れて誰も騎乗していない3匹目が、前方を疾走する2匹の後を追っている。
3匹目に誰も乗っていない理由はすぐに判明した。
ガリッ! ガリッ! ガリッ! ガリッ! ガリッ! ガリッ! ・・・
――ふおっ! キモッッッ!!
3匹目を追尾するように、荒涼とした大地を切り裂くように怪物が猛進していた。そう、まさにモンスターと呼ぶに相応しい巨大なサソリのような生物だった。
その姿は、まさに悪夢から抜け出したかのようだった。全身を覆う黒光りする甲殻は鋼鉄のように硬そうで、無数の傷跡がその戦歴を物語っていた。巨大な両のハサミは、まるで断頭台の刃のように鋭く、地面を掻きむしるたびに乾いた土埃が舞い上がる。
その動きは異様だった。左右合わせて八本の足はほとんど動かさず、屈強なハサミだけで地面を掻き、高速で推進しているのだ。まるで大地そのものを敵視しているかのように力強く、そして執拗に。
さらに目を引くのは、その長大な尻尾だ。先端には、甲冑が一部剥がれた死体のようなモノが突き刺さっていた。血液が乾いた地面にポタポタと滴り落ち、その死体の手足が無気力に揺れている。その光景は、私の心に深い恐怖を刻み込んだ。
怪物の頭部には赤い眼がぎらつき、獲物をロックオンしているかのようだった。その視線は冷酷で、感情の欠片も感じられない。ただひたすらに追い、捕らえ、破壊することだけを目的としているのだろう。
先端にぶら下がっている人間は、確実に絶命していると思われた。
――そうか、元々あの最後の3匹目に乗っていた人なのか? モンスターに襲われて一人が殺され、残りの2組+1匹は一目散に逃げている、といったところか?
ってか生態系が特殊っていうか、頭に『 超 』の文字が五つ付くくらい危険な世界じゃんよ・・・
私の内心の叫びは、次の瞬間に凍りついた。
――って何だ?? なぜ止まる!?
岩場を少し過ぎたあたりで、巨大サソリが急制動をかけ停止したのだ。同時に、大量の砂塵が巻き上がる。巨体の割に小さな頭を、左右に小刻みにしきりに振っているように見える。
――も、もしかして・・・私に気付いたのか?
額から一筋の汗が頬に伝う。体が硬直し、いわゆる恐慌状態の一歩手前に陥った。
――は、早く追いかけろよー! 何で止まる!? 早く行けよー!
必死な心の叫びも虚しく、徐々にではあるが、私の方にジリジリと近づいてきている。
――だ、だめだ! 確実に私の存在に感づいている気がする。物音は立てていないはずなのに、なぜ・・・
逃げないと! 今すぐに! いや待て、あくまでこのまま隠れてやり過ごすべきか?
いや、もしも目視以外の索敵方法だとしたら? たとえば匂いとか――
それだと、ここに隠れていてもすぐに見つかってしまう可能性が高い。
――どうする?
先ほどよりも体の硬直は解けてきた。でも、すでに体力を消耗している今のこの状態で、全力で走って逃げたところで絶対に追いつかれる。
こ、これはもう魔法を使い、戦うしかないのか? 防御魔法の重ね掛けが、どれくらいの攻撃までなら耐えられるのか? その点が未知数すぎて、ものすごく不安だけど・・・
――あんなキモい生物に殺されるなんて最悪級の悪夢だ。しかもこちらに飛ばされて、いきなりこんなことに・・・
ここは殺るしかないのか? 殺られる前に殺るしかない!!