ファラーナとリガロ 9
扉の前を塞がれていることに気づいたとき、なんで、と考えるより先に、まず物を動かしていた。リガロには、そういうところがある。もうちょっと頭を使えと叱られるのは、いつものことだった――もっとも、そうやって叱ってくれた先輩騎士たちは、もういない。
――いないからには、叱られる心配はない!
前向きに考えることにして、リガロは横倒しになっている家具を押しのけ、部屋に入った。中は無人だ。そして、窓が開いている。
なぜかはわからないが、娘ふたりは外に出て行ったらしい。
じゃあ追うか、とリガロは窓の大きさを眺め、自分ではちょっと出入りが大変だと踏んで、ふつうに裏口から出ることを選択した。その前に、テッサに声をかけることも忘れない。騒音にまみれた厨房へ頭を突っ込み、
「客がいなくなった! 探してくる!」
とだけ叫んで、あとは知ったことではないとばかりに駆け出した。そう時間はたっていないと思うが、早くみつけねばという焦りはある。
――あの娘、自死を選ぶんじゃないか?
テッサの推測に、リガロも同意するしかない。ふたりで消えたということは、ファラーナも同じ道を選びかねないということだ。そんなのは困る。死なせるために、神殿から連れ出したのではない。
リガロは街中にいくつもある壁の上に登った。道を歩いていても、見通しが悪いばかりで埒があかないからだ。壁の上は、見通しがよい。リガロは修行時代に当番で警邏も担当しており、土地勘もあるため、逃げ出したふたりを発見すること自体は、そこまで困難ではなかった。
問題は、どう思いとどまらせるかだ。
ふらふらと歩くふたりを、距離をとって追いながら、リガロはここでようやく頭を使っている自分に気がついた。頭を使うと、とたんに動けなくなることにも。
――どうすればいいんだ。
行くあてがあって歩いているようには見えない。この道の先にあるのは、領主の城館だ。正確には、裏手にある倉庫やら兵舎やらの前に出る。
そこからさらに壁をのぼれば見張り塔に通じるが、おそらく、勝手に立ち入ることは許されないだろう。住民たちも移動経路として使うことがある街中の壁はともかく、見張り塔のあたりは、城に近過ぎる。
人目につかない場所を探しているのだとしたら、まぁまぁ悪くない選択かもしれないが、良い選択でもないと思えた。塔に近づき過ぎると、警備の兵にみつかり、不審者として尋問を受けかねない。人通りが少ないのは、そのためだ。
つまり、呼び止めるなら早い方がいいはずだが、いざ声をかけようとすると、これが難しい。
迷っているあいだに、ふたりは立ち止まった。気配を殺して近づけば、会話の断片が聞こえてくる。
「行ってかれらを後悔させましょう」
エオネイアの声の方がよく響くので、はっきり聞こえた。かれらって誰だろう、とリガロは思う。自分も含まれている気がする。
ファラーナが、聖域に保護、というようなことを口にした。エオネイアが答える。
「緩慢に、なすすべもなくすべり落ちていくような……」
否定的な気配がする。生きていても、この先なにも望めないといったことを語り合っている。
――やっぱりこれ、止めないとまずいやつなんじゃ?
エオネイアの次の発言で、疑念は確信に変わった。
「一緒に生きることはできないかもしれないけれど、わたしたち、きっと一緒に死ぬことはできるから」
「待って!」
思わず、リガロは飛び出していた。
階段の上で、娘たちがふり向く。ふたりは互いの鏡像のように、左右対称に同じ動きをした。
「一緒に死ぬ、って聞こえたけど。俺の、聞き間違い?」
「あなたに答える必要を感じない」
拒絶されてしまった。考えろ、とリガロは思う。考えろ、考えろ! 一緒に死ぬことはできるなんて、そんなのやめろって、どう言葉にすれば伝わるのか。
難しい。走って行って、ふたりに当て身を食らわせ、連れて帰ることで解決できるなら、そうしたい。
でも、それをやっても根本的な解決にはならないだろう――誰かの意思を変えさせるほど、難しいことはないのは知っているが、そこが変わらなければ意味がない。
と、ファラーナが口をひらいた。
「彼には恩義があるから。ちゃんと話したい……。駄目?」
「……あなたが、そうしたいなら」
そうしてリガロは一歩、二歩、と距離を詰めることを許された。五歩くらいまで行けるだろうか。行けそうだ。彼女らは階段の上に経っているから、近寄ってもずっと見上げたままだが、まぁ、これくらいの方がいいだろう。見下ろしては、逆に話が通じなくなる気がした。
リガロは、そういうところの勘だけは当たる。理由はわからないが、なんとなく、というやつだ。
「あのさ、なんで死にたいの?」
考えても無駄なので、まっすぐに尋ねた。
エオネイアは、はじめて怯んだ様子を見せた。こんな風に訊かれることは、今までになかったからだろう。それでも、答える声は揺るぎない。
「生きていても、しかたがないから」
「しかたないって、なにが?」
「……あなたのような立派な騎士様には、わからないでしょう。ただ人に守られて、余分な荷物として日々を送ることが、どれほど無為なものか」
立派な騎士様という表現に、頬を笑みがかすめるのを覚えつつ、リガロはできるだけ真面目に答える。
「俺が立派な騎士かどうかはともかく、人なんて、誰かに守られて、余分な荷物として生きてるんじゃないかな」
「あなたもそうだというの?」
「もちろん。俺は孤児だし、家族を失ってひとりで彷徨ってたとき、アリィが助けてくれなければ死んでただろうし。その後も、孤児院で面倒をみてもらえていなければ、まぁ死んでるよね。アリィを追って王都に出たときも、いろんな人の世話になったし、誰も親切にしてくれてなければ、わりと死んでそう。あと、孤児になる前だって、家族が面倒みてくれてなければ死んでる」
「……だから?」
リガロは眼をしばたたいた。だから?
「生きてるって、わりと奇跡ってことだよ」
「生きている以上、必ず誰かに守られている。守られずに生きることなど不可能だ。そういうことを、おっしゃりたいと考えて間違いない?」
「ああそうそう、それ」
「わたしはもう守られたくない。だから、生きていることをやめたいの。なにかおかしい?」
エオネイアにするどく切り返され、リガロは口をつぐんだ。
たしかに、いっていることはおかしくないが、根本的ななにかが、おかしい。
「その……守られたくないっていうのは、やめられないのかな?」
「やめるとかやめないとかいう問題ではないから」
言下に否定したエオネイアのその口調には、少なからぬ苛立ちが含まれている。ファラーナが、それを察してか、握った手に力をこめ直したようだったが、エオネイアはその手を払った。
ファラーナが、一瞬、きっと口を引き結ぶ。
それを見て、思わずリガロは叫んだ。
「諦めないでほしい! その……生きるのを!」
「もう疲れたの」
「疲れたんならちょっと休めばいい。誰だって疲れるし、休むよ。で、元気が出たところでまた頑張ればいいじゃないか。なにか手助けできることがあれば、俺だってこう……なんかするよ。なんか!」
テッサが聞いていたら、ぼんくら、とつぶやいて頭を抱えそうだと思った。でもテッサ、しかたないんだよ……と、リガロは心の中でテッサに弁解する。
「わからないの? 手助けなんて、されたくない」
「わからない!」
突然、叫んだのはファラーナだった。
リガロもおどろいたが、エオネイアの驚愕はそれを上回ったようで、あきらかにたじろいで後ずさった。階段のせいで、実質的にはほとんど動けないまま、よろけた彼女を支えたのもまた、ファラーナだった。
握り直した手に、力をこめて。ファラーナは、言葉をつづけた。
「この世の中は、全然公平じゃないって、わたしたち、知ってる。わたしは孤児ではなくて家族がいるから、のうのうと守られているって笑われてもしかたがない」
「そんなこと。だって、あなたのご両親は――」
「ええ。わたしの両親は、ろくでもない人間だった。でも、かれらが与えてくれたの。あなたと生きるという選択肢を」
「ファラーナ」
「わたしに食べ物を与えてくれ、教育を与えてくれた。あなたと出会わせてくれた。あなたはわたしの憧れなの、エオネイア。勝手に生きることを諦めて、みずから敗北を認めるなんて、絶対、許さない」
エオネイアの貌が、ふとゆるんだ。
「……許さなければ、どうするの?」
「あなたを死なせたりしない。ずっと見張ってて、ずっと一緒にいる。だってわたし……だって、ようやく取り戻したのよ。あなたを。再会した、よかった、じゃあ死にましょうっておかしいじゃない! わたしそんなの、認めないから! わたしのために生きてよ。あなたがいるから、わたしの誇りは守られたの。あの親たちに認められなくてもいいって思えたの! だから――」
ファラーナの声がふるえ、言葉が詰まった。涙がこみあげて、まともに話せなくなったようだ。
なにか、まだ喋っているようだが、切れ切れに聞こえる音からその意味を類推することは、リガロには不可能だった。間近にいるエオネイアには、ちゃんと理解されているのだろうか。
――まぁ、俺に伝えたい言葉ってわけじゃ、なさそうだしな。
エオネイアにわかれば、それでいいのだろう。あるいは、わからなくても。
しゃくり上げるファラーナを、エオネイアはそっと抱きしめた。そして、リガロを見て静かに告げた。
「泣き顔を見せたくないから、眼をそらしてくださらない?」
「いや、それやってるあいだに、また逃げられると困るし。すみません」
「無粋なかたね」
「よくいわれます」
エオネイアは息を吐く。その呼気が、少し揺れていることにリガロは気づく。
「そういうときは、足を見ておけばいいの」
「なるほど!」
間近に人がいて、抱きしめてくれるということの価値を、リガロは知っている。幼い日、彼はそれで、この世に戻って来たようなものだから。
アリスティアが抱きしめてくれたあの日、リガロは生まれ直したのだ。
だから、ファラーナがエオネイアの抱擁で救われるように、エオネイアもファラーナに救われているならいいな、と思う。それなら、彼女たちを助けた甲斐があったというものだ。
それにしても暇だな、と思いながら、リガロはふたりが納得するのを待った。
ややあって、ようやく落ち着いたらしいエオネイアが口を開いた。
「あなたほど正直なひと、はじめて会いました」
「……え? っと、もう顔を上げても?」
「上げなくてもいいですけどね。……わたしのもっとも得意な魔法は、真贋判定なんです」
おどろいて、リガロは思わずエオネイアの顔をまともに見てしまった。わずかに目元と鼻が赤くなっているから、彼女もたしかに泣いたのだろうな、と思う。そして、こんなことを考えたと知られただけで、苛立たれそうだな、と。
「それ使える人、滅多にいなくないですか?」
「ええ。だから重宝されているんです。人間にも、魔族にも。ですので、わたしは身を隠したいのです。どちらからも」
「なるほど難題だ……。でもとにかく、もっと考えましょう! なにかいい案が浮かぶかもしれないし、それに……助けてくれる人もいるはずだし」
エオネイアがなにかいいかけたが、ファラーナの方が早かった。
「そうしましょう。もっと、考えましょう」
すると、エオネイアは微笑んでうなずいた。
「そうね」