ファラーナとリガロ 7
食堂は、昼食を求める客でまだ賑わっている。当然、厨房は忙しい。
いつもなら、テッサも袖をまくってはたらいている時間だが、今は厨房裏の小部屋にリガロを招き入れ、疲れた顔で話を聞いていた。
「穢されるっていうのは、ほんとに、やるせないもんだね」
それが、テッサの最初の感想だ。
次いで容赦のない評価がリガロに向けられる。
「それで、あんたはなにをやってたんだ。頼まれたんだろう、殺してくれと」
「……できませんでした」
「それでも神殿騎士か。まったく。神殿にかかわると、ぼんくらになる呪いでもかかってるのかねぇ」
テッサは頬杖をついて、リガロを眺める。椅子がぎしりと軋んだ。
「申し開きもできません」
「なに丁寧語になってるんだよ。しかし……まぁ、そうだねぇ……。こうなったら、あの娘、自死を選ぶんじゃないか?」
リガロは答えられなかった。肯定したくなかったからだ。
――わたしにも矜持があるの。
その言葉が向けられたのはファラーナだったが、リガロにも強い印象を残していた。
矜持とは、なんなのか。リガロには、よくわからない。ただ、人に情けをかけられるのは嫌だという気もちは、わからなくもない。
リガロは孤児だ。その生い立ちのせいで、どうせ手癖が悪いんだろうといった思い込みから来る非難を受けることもあったし、逆に、なんて可哀想にと同情されることも少なくなかった。
エオネイアの語る「矜持」を想像するとき、自分の身に置き換えるならば、それは孤児という枠に押し込められたときの気分に近いだろう。リガロが孤児であるという事実から逃れられないように、エオネイアから、魔族に穢されたという要素を切り捨てることはできない。それは彼女の本質ではないのに、拭い去ることは不可能だ。
矜持とは、自由のことかもしれない――なんとなく、リガロはそう思う。他者に規定されることからの、自由。だとしたら、魔族に穢された者に自由はない。周りの視線もそうだが、魔族が、いつでも内側から食い破りに来る。彼女が矜持を守りきることは、きっと、生きている限り不可能だ。
「せっかく殺さずに済ませたんだから、生き延びてほしいけどね」
「親心、ってやつですか」
「そうだねぇ……あの娘は、美味しそうに食べてたかい?」
リガロは、エオネイアが食事しているところを思いだそうとした。
「自分が食べるのに夢中で、見てなかったな」
「そりゃしかたがない。でもまぁ……皿は全部、空になってたからねぇ」
「神殿の食事、酷いですからね」
「今は、材料を手に入れるのだって大変だからね。それで旨いものを食べさせようとしたら、そりゃあ、もっともっと大変さ。うちは商売だからやるけど、神殿の厨房は、そこまで頑張れないだろうよ」
「なるほど」
「で、さっきようやく、そこそこ気のきいた神官が来てくれたから、手紙を渡しておいたよ」
「助かります」
「ただ、今日はほんとうに大騒ぎだから、いつ渡せるかはわからないとさ。なんでも、領主が来たらしいよ、神殿に」
「ああ……そういえば、会談があるという話で」
テッサは、これ見よがしにため息をついた。
「なんでそういうの、ちゃんと教えておかないんだろうね。わたしに?」
「ごめんなさい!」
リガロは素早く謝る。そういえば、なにも話していなかった。
「そりゃ、神殿も次の〈聖女〉を急いで仕立てるってものか……難民受け入れの調停のためなんだろ、〈聖女〉様がこの街に来た理由」
「詳しい話は、俺は知らされていません」
びしっと背筋を伸ばして答えながら、たしかに、上官に報告してるみたいだなと思う。もちろん、テッサは上官でもなければ、神殿騎士団の一員ですらないのだが。
「……ふうん。それにしても、早い」
「早い?」
「次の〈聖女〉を立てるのがだよ。元〈聖女〉がもう戻れなくなるだろう? それでも次の〈聖女〉を立てたってことは、元〈聖女〉がよほど扱いづらくてさっさと交替させたかったか――」
ここで、テッサはちらりとリガロを見た。
リガロは肩をすくめる。
「わかりません。護衛に立つぶんには、楽な人でした。動かないので。……あっ、今朝までは、ってことで」
アリスティアは、おとなしくしていない。警護の任にあたるのは大変だろう。その点、ファラーナはほんとうに楽だった……今朝までは。
「――あるいは、ほかに理由があったか」
「ほか、ですか」
「たぶん、そっちだろうね。元〈聖女〉様の話だと、次の〈聖女〉様は、入れ替わっても問題ないように情報を共有し、経験も積んでいたように思える。……用意周到過ぎる」
「あやしい?」
「そう、あやしい。なにかある。ただ、それがなにかはわからない。……あんたの幼馴染、心配だね」
「はい」
テッサはリガロの眼を覗き込むようにして尋ねた。
「神殿に戻って、様子を見なくていいのかい?」
「攫って来いって意味ですか?」
「いやいや。そんな〈聖女〉ばっかり連れて来られてもねぇ!」
テッサは声をあげて笑った。
「すみません」
「相手の都合もあるだろうしね。〈聖女〉になりたかったかもしれないよ? そのへん、どうなのさ」
「アリィは――」
リガロは、幼馴染のことを思いだす。不意に、いてもたってもいられないような気分に襲われる。
――アリィが大事なときに、俺はなにをしているんだ。
だが、だったらあの娘たちを見捨てて神殿に戻るべきかと問えば、それもまた、違うと感じてしまった。はじめにファラーナの手助けをしたときに、アリィなら絶対に見捨てない、と思ったように。今の彼女らを見捨てて去るなど、とてもできない。
――守ってくれるんでしょ。
あれは何日前だろう。おとなしく部屋にいないアリスティアに、出歩くなとたのんだときのことだ。
無邪気な信頼に、リガロは胸が熱くなった。そうだよ、と思った。守るために追いかけて来た。強くなった。
でも、ここ暫くのできごとで、なんとなく理解してしまった。
アリスティアを守るとは、彼女ひとりを守るだけでは済まない仕事なのだ。彼女の目が届く範囲のすべてを、守ってやらないと――そうしないと、きっとアリスティアはまた飛び出していく。かつて、異様な風体でさまよっていた彼を、保護してくれたように。
今、アリスティアがリガロに望むのは、言葉にすればきっと、できるだけ皆を守ってね、というものに近いだろう。自分を守ってほしい、とは彼女は思わない。少なくとも、それを第一にはしない。
別離のときに、そこまで理解すべきだった――孤児院の皆を守ってね、という言葉の意味を。
「きっと、立派な〈聖女〉になります」
能力はともかく、こころばえで選ぶなら、アリスティアは間違いなく〈聖女〉に向いている。
彼女が〈聖女〉になったと聞いた今、リガロは奇妙な安心感を覚えている。なるべきものがなった、正しい位置に着いたという納得があった。
おどろいたのに、奇妙には感じなかった。そうか、と思ってしまった。
「……愛だねぇ」
「茶化さないでください」
「まぁ、人はそれぞれの人生を歩んでいくしかないけどさ。あんたがいてくれて、その子もきっと、ほっとしてると思うよ」
「そうだといいですけどね」
「もうちょっと自信を持ちなよ。実態なんてのは、あとからついてくるもんだ」
「いや、それは乱暴過ぎるでしょう?」
テッサは笑い、リガロも声をあわせる。
アリスティアがリガロをどう思っているかは、わからない。ただ、リガロにとっては、アリスティアは明るい灯火だった。太陽ではない――真っ暗な闇を照らしてくれる、人工の光だ。
彼女が明るくしてくれたから、幼少期を生き抜けた。今こうして笑っていられるのも、彼女のおかげだ。
その光を独占することは、自分にはできないのだろう。自分にできるのは、できるだけ長く、明るく光ってくれるように、それを必要とする皆と分かち合えるように、心を砕くくらいだ。
「次に魔族に乗っ取られたら、今度は、あの娘の願いをきいてやるつもりかい?」
「それは、わかりません」
「じゃあ駄目だね。また同じことになる」
「はい。だから、話し合おうと思って」
エオネイアの存念は聞いた。だが、まだファラーナの意見を聞いていない。
三人で、きちんと話し合って、次を決めたい。でないと、リガロだってそう簡単にはエオネイアの依頼に応じられない。
「ああ、それはいいね。そうした方がいい」
「神殿が捜索している気配は?」
「あるよ。あるけど、薄い」
「……でしょうね」
「ま、新しい〈聖女〉様が立った以上、今後は、どうやって消え失せたか、の方が重視されるだろうね」
「見つけ出してもしかたがないから」
「そうそう。ぼんくらでも、その程度はわかっておきな。で、わたしが思うに、あんたたちは発見されるべきじゃない」
「べき、じゃないですか」
「そうだよ。発見したら、向こうだって困るだろ。扱いに。少なくとも事態が落ち着くまで、新しい〈聖女〉様がしっかり〈聖女〉としての地位を確立するまでは、駄目だ。でないと、元〈聖女〉様を担いで俺が偉いごっこを始めるぼんくらが、絶対にいるからね」
リガロはそこまでは考えていなかったが、たしかに、テッサの予想は妥当だろう。神殿内の派閥争いとか、領主と神殿の力の均衡とか、さらには王室との確執とか……とにかく、いろいろな問題が渦巻いている。〈聖女〉という地位さえ、そこでは利用価値の高い駒としか看做されない。
「けど、こんなときに……」
隣国は既に、崩壊したとまでいわれている。魔族の攻勢が、それだけ激しいのだ。
避難民が押し寄せたクリャモナも、けっして安住の地たり得ないのは確実だ。住民は、不安に覆われている。次はここだ、と。逃げ出す者もいると聞いた。
「こんなときだから、だよ」
「えっ?」
「どさくさにまぎれて、権力に手をのばすんだよ。今なら届くかも、ってね。今こそ好機、とまで思ってるぼんくらだって、いるだろうさ」
「……そういうもの、と諦めるしかないですか」
「人はそれぞれに生きてるからね。そいつの人生はそいつのものだ。そいつの選択も、そいつのもの。でもさ、わたしらまで巻き込まれる必要はない。嫌なことに従う必要はない。同意を求められても拒絶すればいい。やつらに合わせる必要はない。わたしらの考えを、教えてやるんだ。必要なら、ぶん殴ってでもね」
テッサは一回、言葉を切った。そして、リガロを見てにやりと笑った。
「呆れるかい?」
「まさか。さすがテッサ、って思ってただけです」
「あんたの人生もあんたのものだよ、リガロ。あのお嬢さんたちの面倒をみるのもいいけど、それだけにならないように気をつけな。視野を広げるんだよ。世界はどこまでもつづいてるんだからね」
「さすがテッサ」
「おうよ。伊達に子だくさんじゃないだろ? さ、あんたは戻りな」
テッサが立ち上がったので、リガロは先回りして扉を開けた。
気がきいてるじゃないかと評しながら、テッサは彼の肩を気安く叩いた。
「わたしは、あんたのことが気に入ってるよ。無駄に死なないように気をつけな」
「ありがとう。テッサも」
「なにいってんだよ。いざとなったら食堂のお客が全員立ち上がって、壁になってくれる。わたしほど安全な人間はいやしないよ」
ひらひらと手をふって厨房へ戻るテッサを見送って、でも、とリガロは思う。
――きっと、テッサはそのお客の前に出る。
指一本ふれさせないよ、こいつら全員わたしの可愛い子どもたちだ! ……くらいの啖呵は切るだろう。
そういうテッサだからこそ、リガロたちを匿ってくれるのだ。
――早く、移動した方がいいな。
いつまでもテッサに迷惑をかけられない。新たな〈聖女〉という騒動が落ち着けば、神殿の対応にも余力が出るだろう。いくら灯台下暗しとはいえ、ここは近過ぎる。
急ぎ足に廊下を戻っている最中に、なにか重たいものが倒れるような音が響いた。
――硬い音だ。人体じゃない。
そう考えながらも、リガロは一気に扉までの距離を詰め、扉を開いた。
「なにかあっ――えっ!?」
視界は、完全に遮られていた。