ファラーナとリガロ 6
なにが起きたかわからず、ファラーナは、ただエオネイアをみつめるだけだった。
騎士が叫ぶ。
「〈聖……じゃない、ファラーナ、下がって!」
指示しながら、もう彼女の手を掴んでいる。強い力で引かれて、ファラーナは彼の後ろに投げ出されるような形になった。
その一瞬で、騎士は、エオネイアとファラーナのあいだに立ちはだかっている。
「なに……」
「魔族だ。なにか助ける方法があるか、考えろ!」
剣が鞘から引き抜かれるのを、ファラーナは目の前で見た。なにが起きるか予測して、彼女は叫んだ。
「やめて!」
「やめさせたければ、やめられるようにしてくれ」
「やめて、お願い!」
「俺には殺すことしかできない。彼女を助けられるのは、あんただけだ」
叩きつけるようにいわれ、ファラーナは思わず、胸をおさえた。
そうだ。助けなければいけない。でも、どうやって?
騎士と彼が構える剣のあいだから、エオネイアを見る。エオネイアは、ただ静かに座っているだけだ――さっきまでと、少しも変わらないように見えるのに。
こちらに向ける眼差しも、静謐なままなのに。
「助けたいなら、頑張れ」
騎士に声をかけられても、ファラーナは動けない。頭が少しもまわっていない。
助けたはずなのに。助けてくれてありがとう、といわれたばかりなのに。
全然、助けられていなかった。駄目だった。
――わたしは無力だ。
騎士の背後にうずくまったまま、エオネイアをみつめることしか、できない。
そのエオネイアは、ゆったりとした口調で尋ねた。
「どうしたの? 急に」
騎士の勘違いならよかったのに、とファラーナは思う。切実に、希う。
でも、違う。こんなの、エオネイアの話しかたじゃない。
「そっちこそ、どうしたんだよ。手駒が惜しくなったのか?」
「なんの話?」
「やめて!」
ファラーナは叫んだ。気がつくと、立ち上がっていた。
エオネイアは眼をみはり、かすかに口を開けている。ふだんなら、そんな表情は見せないだろうという顔だ。
怒りが、頭のてっぺんを突き抜けるように感じた。
「……エオネイアから出て行け、無礼者!」
浄化の祈りが、意識するほどのこともなく全身から湧き出て、食卓を挟んだ向こうにいるエオネイアを包み込む。
エオネイアの姿勢が、わずかに揺れた。だが、そのまま彼女は立ち上がった。
「無駄だよ、ファラーナ」
声はエオネイアなのに、口調が違う。全然、違う。
騎士が剣を握り直して告げた。
「逃げろ」
「逃げなくていいよ。今のところ、害意はないし」
「雑談でもしたいのか? それなら、俺だけいればいいだろう」
「いや、用があるのはそっちの、元〈聖女〉様だから」
そういって、エオネイアの身体を借りた魔族は、ファラーナをまっすぐに見た。そのまま、ファラーナなら絶対にそんな風にはしない、綺麗な笑顔を向ける。
――浄化したのに!
今、絶対に。ちゃんと、魔族の気配を祓ったのに。
一瞬で、元に戻されてしまった。
「わたしは、あなたに用などありません」
「そう? 君も僕に用があるんじゃないの? だって、たいせつなエオネイアを取り戻したいだろう?」
甘い口調に婉然とした笑み。これも、見たことのない表情だ。
「やめて……」
――弄ばないで!
叫びたいのに、声にならない。
「君、シルヴェストリに文句をつけただろう。おかげで、嫌味をいわれたよ。見境なしに誘惑してまわるのは、やめてくださいって。僕はべつに、見境なしに誘惑してるわけじゃないのに。ちゃんと選んでるよ」
そういって、魔族はエオネイアの手を見下ろす。その手を目の高さまで上げ、くるくるとひっくり返して。交互にてのひらと甲を眺めてから、握って、ひらいて――そしてまた、笑顔を見せる。
その眼差しは、ファラーナに向けられていた。
「ねぇ? エオネイアは逸材だ。君と並んでいたとしても、ぼくはこちらを選ぶね。君もそう思うだろう?」
「そんな当たり前のこと、おまえなどにいわれなくても知っている」
笑みを深めて、魔族は告げる。
「勇ましいね、ファラーナ。想像していたよりも、ずっと勇敢だ! シルヴェストリに喧嘩を売っただけのことはあるね。でもそれ、ずいぶん自虐的なんじゃない?」
「おまえが穢してよいようなかたではない。すぐに離れなさい」
「シルヴェストリにも、そんな風にいったの? そりゃあ機嫌も悪くなるはずだ。君、どうして生きてるの? 殺されずに済んだの、おかしくない? ……あ、そうか。ごめんごめん、そのへんは君のせいでもシルヴェストリのせいでもないね」
一歩、魔族が前に出た。剣を握る騎士の手に、わずかに力が入ったように思えて、ファラーナは騎士の腕にすがりつきそうになった。やめてくれ、と。
でも、それでは駄目だ。なにも解決しない。
――わたしが、なんとかしなければ!
エオネイアの中にいるものと、視線を合わせる。
怒りが、ファラーナの中で渦を巻いている。自分はそんなに強くない。魔族が怖い。足は竦んで、動かない。でも、こんなの……腹が立つ。身体が熱くなるほどの怒りだ。
「シルヴェストリとは? なんのこと?」
「名告ってないのか。君が対峙した魔族のことだよ。クリャモナに来る、旅の途上でね」
わずかな時間で、護衛の騎士全員を屠り、圧倒的な強さを誇示したあの魔族――あれが、シルヴェストリ。
そして、エオネイアを誘惑した魔族は、あれとは別なのだ。今の説明を信じるならば。
「そう。誤解をして悪かったと伝えてちょうだい」
「ぼくを伝言役にするつもり?」
「いけないの? では、魔界まで勘違いを謝罪しに行きます。案内しなさい」
ファラーナは、人に命令するのが得意ではない。そもそも他者と喋ること自体を、できれば避けたい。
でも、そんなことはいっていられない。ナターリャがこんな感じに喋っていた、という記憶をかき集めて、なんとか背筋を伸ばす。〈聖女〉様は、このようにお考えです――と、考えてもいないことをさんざん代弁された経験を生かすのは、今だ。
――自分の口で、自分が思ったことをいうだけ。簡単よ。
全然、簡単ではないけれど。でも、やるしかない。
エオネイアをあやつっている魔族が、シルヴェストリという魔族と対等の力を持つなら、騎士ひとりでなんとかできる相手ではない。エオネイアの様子がおかしくなった瞬間、首を落とすくらいの勢いで対処しなければ、彼の勝ち目はなかった。
殺すことしかできないと彼はいったけれど、もはやそれも無理――と、ファラーナは妙に冷静に考えている自分に気がつく。
――助けたければ、わたしが頑張るしかない。
騎士がなんとかできる場面は過ぎ去ったと考えるべきだ。エオネイアには、自分の意志で動くことなど望めない。この場でなにかできる人間は、ファラーナしかいない。
魔族は、物憂げに首をかしげる。
「魔界に行きたいの?」
「その魔族をここに連れて来るなら、それでもかまわないけれど? ただ、詫びるのであれば、わたしから出向くべきでしょう」
ナターリャなら、こんな感じのはず……たぶん。
ほんとうはエオネイアを手本にできればよかった。でも、〈聖女〉になってからのファラーナの人生に、エオネイアは存在しなかった。
――やっと……やっと、一緒にいられるのに!
目の前で奪われるようなこと、絶対に許せない。
絶対に……絶対に。
「君が〈聖女〉だったら、連れて行ってあげてもよかったけどね……。所詮、名前だけだし」
魔族は、ファラーナの弱いところを的確に突いてくる。
名のみの〈聖女〉。それは、彼女が漠然と感じていたことだ。今はその名さえ失ってしまったようだが、それが嬉しいのか辛いのかもわからない。
結局、自分は〈聖女〉だったことなどないのだ、と思う。そう呼ばれ、扱われていただけで。
名前しかないなら必要ないというこの魔族は、きっと、ファラーナよりも真剣に〈聖女〉を求めているのだろうと思いあたる。
「あなたは〈聖女〉が必要なの?」
ファラーナの問いに、魔族はうっすらと笑い――その微笑だけは、今までに魔族が見せてきたどんな表情よりも、本来のエオネイアに近かったので、却ってぞっとした。
「僕は〈聖女〉に興味があるんだ」
「だったら、ここにいても無駄なのではないかしら。あなたがいったように、わたしはちゃんとした〈聖女〉ではないのだから」
「でも、僕のエオネイアを浄化してしまう程度の力はあるよね。使いたいと思ったときに使えないのは、不便だなぁ」
「エオネイアはあなたの道具ではない」
いいきったファラーナを見て、魔族は一回だけ、ゆっくりと眼をしばたたいた。
それから、うん、とうなずいた。
「まぁいいや。じゃあ、ちゃんと面倒をみておいてね。次に使うまで」
その言葉を最後に、エオネイアは床に頽れた。
そんなつもりはないのに、小さな悲鳴が漏れてしまう。
「エオネイア!」
「まず浄化を」
騎士の言葉に、ファラーナはうなずいた。
浄化自体は単純な術で、魔力さえ尽きなければ、いくらでも使える。どんな術もそうであるように、これにも向き不向きはあるから、自分が向いている方でほんとうによかった、と思う。
わずかばかりでも……エオネイアを救える手段があって、よかった。
ただ、これがその場しのぎにしかならないことも、あらためて痛感した。
――魔族を祓うことまでは、できない……。
もちろん、今までにそんなことができた者はいない。それでも、できるのではないかという淡い希望があったのに。もう、完全にうち砕かれてしまった。
「うまくいった?」
「ええ……でも、わたし――」
エオネイアのかたわらにうずくまるしかできないファラーナに、騎士は告げた。
「頑張ったじゃないか」
「いいえ……全然。全然、たりない」
「俺が剣を使わずに済んだんだ。上等だよ」
ふう、と息を吐いたのを聞いて、騎士も疲れたのだとようやく気がついた。
見上げるファラーナと視線が合うと、騎士はまた、にやりとした。
「胸を張って自慢していい。魔族相手に一歩も譲らなかった、ってな」
「……いいえ。今のは、魔族が勝手に諦めただけ」
「それはそうかもしれないけど、魔族相手にあんな風に喋れるなんて、それだけで凄いよ。頑張ったよ、〈聖……じゃない、ファラーナは。……エオネイアはまた、暫く目が覚めないかな? 寝台に運ぼうか」
「ええ。手伝います」
ふたりで、ぐったりしたエオネイアの身体を寝台に横たえる。衣服をととのえながら、ファラーナは彼女の寝顔をじっとみつめた。
「食器を返して、家主にちょっと報告して来る。すぐ戻るけど、なにかあったら大声で叫んで」
「はい」
騎士が部屋を出て行くと、部屋は静寂に満たされた。
エオネイアは動かない。呼吸をしているのか不安になるほどだ。彫像のよう、と思う。あるいは絵画。
あれは、一族の総本家の邸だっただろうか。壁にかけられた大きな絵があった。眠る乙女を描いたものだ。筆の運びがわかるような粗さがあるのに、描かれた金髪は艶やかで、繊細で。なぜ、粗さと繊細さが両立するのかと不思議に思って、訪れるたび、ファラーナは飽かずにその絵を見ていたものだった。
後に、それは一族から出た最初の〈聖女〉を描いたものだと教わった。
――はじめて会ったとき、絵の中から出てきたのかと思った……。
だから、エオネイアに会った瞬間に、もう、このひとが〈聖女〉になるんだと信じてしまった。今にして思えば、馬鹿らしい。ただ見た目が似ているだけなのに。
エオネイアは、髪が美しいとか面差しが高貴だといった理由で〈聖女〉にふさわしいのではない。
「頑張ったとか……そんなこと、なにも評価できない」
それはエオネイアの言葉。そして、今の自分にふさわしい言葉。
「頑張るのは、なにかを成し遂げるため……」
――ファラーナ、頑張ったからで満足しては駄目。
エオネイアの声が耳によみがえる。
ファラーナは黙って聞いている。エオネイアはいつも正しいから。
――結果が出なければ、頑張りを評価することはできない。だって、それは正しい手段を尽くしていなかった、あるいは適切な計画を立てられなかったということだから。時間の浪費にほかならない。頑張ったというのは、醜い弁解でしょう。少なくとも、わたしとあなたは、それを使うのをやめましょう。
だから、ファラーナは頑張っただけでは駄目なのだ。
「エオネイア様……わたし……頑張ることしかできないんです」
寝台のかたわらに膝をつき、ファラーナは深くうなだれた。
その頬に、エオネイアの手がふれる。
「ファラーナ」
「エオネイア様」
かわいたくちびるが、かすかに動く。
「それでもいいの、とでも……いってほしい?」