ファラーナとリガロ 5
「え……」
思わず声をあげたのは、リガロだけだ。ほかのふたりは、黙っている。
自分の聞き間違いかと思った彼は、テッサに確認した。
「今、元、っていった……よな?」
「ああ。新たな〈聖女〉様が立たれたそうだ。神殿は大騒ぎで、とても密かに連絡を送るどころじゃない」
「新たなって……大神殿で承認もできないのに、誰が」
「名前も聞いた。たしか、アリスティア、とかいってたはずだ」
顎が落ちるかと思った。
ファラーナも、口をぽっかり開けている。表情の変化に乏しいエオネイアでさえ、少しおどろいた風だ。それはそうだろう――ついさっき、その名前が出たばかりだったのだし。
「えぇー……うっそだー……」
「知り合いか?」
「幼馴染」
「……ああ、おまえが追って来たっていう! へぇ、そうか。そりゃ災難だな。結婚は無理そうじゃないか」
「いや……そういうんじゃないから! アリィは俺の命の恩人だから、守らなきゃいけないだけだから!」
全員に注視され、リガロはあわてて否定した。そういうのとはどんなのだ、という点については、あまり考えないようにしたい。まさに今、望みがなくなったばかりだし。
「なんだい、つまんないね。攫って逃げればいいのにさ」
「つまるとかつまんないとかの話じゃねぇから!」
「ここにいるお嬢さんは、ちゃんと攫って逃げてきたんじゃないか。あんたよりずっと上等だよ」
リガロは、言葉に詰まった。一瞬、そうか? と認めそうになって、踏みとどまる。違う、全然違う。
「上等……とか、そういう話でもない」
――あっぶな。上等じゃねぇ、って叫びかけたぞ。
さすがに本人の前で、そのいいようは、どうか。しかも、自分が手を貸しているわけだし。
「アリスティアという乙女は、すぐに〈聖女〉をまかせられる程度に優秀なの?」
エオネイアの問いに、リガロは〈聖女〉を見た。いや、元〈聖女〉……だんだん、考えるのが面倒になってくる。
リガロにとってのアリスティアは、彼を拾ってくれた恩人であり、幼い子どもたちを守ろうとする強さがあって……そういうところは尊敬しているが、優秀かと問われると、即答できない。魔力は豊富だが、使える術はごくわずか。自分は役に立ってない……と、落ち込むことがあるらしいのも、なんとなく知っている。
そのアリスティアが、〈聖女〉。
――大丈夫かな、アリィ。
今度こそ役にたつんだと、張り切っているだろうか。少なくとも、アリスティアならそう簡単には役目を投げ出したりしないだろう。元〈聖女〉より、その点においてははるかに信頼が置ける。
だからこそ、心配なのだけれど。
「公的な行事には、いつも同席していました。会談なども……アリスティアは、見た目を入れ替える術を使えるので、いざというときは、わたしと見た目を入れ替えて〈聖女〉としてふるまえるように、と」
「なるほど。大神殿も考えている、ということね」
「でも、今は大神殿の判断を仰ぐわけにはいかないはずです」
「だからよ。そういう場面でもなんとかなるように、布石を打ってあった、ということでしょう?」
「……わたしの次は、ナターリャかと思っていました」
「ああ、ナターリャね……彼女は元気?」
「今は体調を崩しています」
ナターリャは、〈聖女〉の代弁者というか、対外的な折衝役として、常時行動をともにしていた乙女だ。今は、体調を崩して寝込んでいる。そうでなければ、〈聖女〉の暴挙を止めていたに違いない。
ナターリャのことを考えると、どうしても、彼女の婚約者を含む仲間たちが殉死した一件を思いだしてしまう。
――まぁ、忘れる必要もないんだし。むしろ、覚えておく方がいい。
その悔しさは、ずっと抱えていくべきだ。生き延びたリガロに与えられた義務だ。
「それなら、かれらは妥当な判断をしたというべきね。でも、次の〈聖女〉を立てるのが、あまりにも早い」
「〈聖女〉がいないと困るんだろうさ。ほんの少しのあいだでもね」
「ええ。けれど、これではファラーナが戻る場所がない。そもそも、ちゃんと探してさえいなさそう」
エオネイアが、静かにまとめた。そう語る声からは、なんの感情も読めない。
「神殿なんて、そんなもんだ」
応じたテッサの声も、やはり感情は薄かった。達観というより、諦観がこめられている。
室内の空気は重い。
……と、不意にテッサが動いた。
「あまりのんびりもしていられないんだった。それに、うっかり料理が冷めちまう。さっき、できたてをくるんで来たからね、そろそろ、ちょうどいいだろう」
膝の上に持っていた盆を、テッサは卓上に置いた。布包みを開き、次々に料理を取り出す。蓋つきの容器には、とろみのついた煮込みが入っていた。蔓を編んだ籠には、皮がぱりぱりしたパン。まだ、窯の熱が残っている。大鉢に盛られたのは、美味しそうな焦げ目のついた肉団子。香料の匂いが、強く漂った。
食器を並べると、テッサは満足げにうなずいた。
「身のふりかたについて考えるにせよ、ちゃんとものを食べてから、だ。眠いときと腹が減ってるときは、ろくな考えにならないもんだよ。わたしの知恵が欲しくなったら、リガロを使いに寄越すといい。このまんま逃亡するなら、身を寄せる先の斡旋もできるからね、遠慮はしないでくれ」
「なぜ、そんなに親身になってくださるのですか?」
エオネイアの問いに、テッサは笑って答えた。
「わたしにも、神殿から追い出された経験があるからさ。おまえの居場所なんてない、とね。ないなら結構、外に作ればいいんだよ。そういうことを、知ってる――まぁ人生の先達ってやつ? たよりにしな。大人なんていうのは、あとから来る若い者を助けるためにいるんだから」
いいたいことだけいって出て行ったテッサを見送って、リガロは扉を閉めた。
「じゃあ、食べましょう。俺は食べます」
その宣言に、エオネイアが面白そうな表情で応じた。
「あなたはいつも食べることばかり話しているのね。……お名前を伺っても?」
「リガロです」
「リガロ。さっきのかたは、どういう経歴をお持ちなの?」
「元〈試練の乙女〉で、その後、神殿騎士見習いの修練を達成したものの、神殿騎士になることが認められなかったそうで、今は神殿前の食堂の店主です」
「凄いのね」
エオネイアの口ぶりからは、ちっとも凄いと思っているように聞こえない。
――まぁ実際、凄いのは凄いにしても、それより変っていうかおかしいっていうか、そういう印象だからな。
とにかく、リガロは食事に口をつけた。腹が減っていたのだ。
本来、護衛の騎士が〈聖女〉や〈試練の乙女〉より先に食べるなど、あってはならないのだが、なにしろ〈聖女〉の方は「元」がついてしまったし、〈試練の乙女〉もたぶん「元」であり、同時に「魔族に誘惑された」「穢された」乙女でもある。
――これはもう、礼儀として気にしなくていいとかいう問題以前に、存在を気にしないといけないやつだけどな。まぁ、腹がいっぱいになってから考えよう。テッサもいってたし! 腹がいっぱいじゃないと、考えもまとまらない。うんそうだ。
リガロが口を動かしはじめたことで、娘たちも食欲を刺激されたらしい。おずおずと食べはじめて、暫くは無言がつづいた。
食べる者を無言にさせる力が、テッサの料理にはある。つまり、非常に旨い。
料理がだいたい片付いたところで、エオネイアが口を開いた。
「今さらですけど、名告っておきましょう。わたしはエオネイアといいます。こちらの元〈聖女〉は、ファラーナ。わたしたちは、同じ一族の出身です」
「ご親戚なのですね」
「幼い頃から、いずれどちらかが〈聖女〉になるべく育てられました」
――アリィとは、大違いだな。
さっき、ファラーナは、〈聖女〉になる心構えがあった乙女などいないと糾弾したが、アリスティアは、その代表格といっていい。
選ばれっこないでしょう、と笑っていたのを覚えている。孤児院を出て行く彼女は、不安でいっぱいだったろうに、それを見せたりはしなかった。
追いすがるリガロに投げた言葉も、こうだ――孤児院の皆を守ってね。
しかし、〈聖女〉になるはずがなかったアリスティアは〈聖女〉になってしまった。反対に、〈聖女〉になるべく育てられたふたりの乙女は、ここにいる。居場所を失って。
気の毒にな、とリガロは思う。〈聖女〉をやりたいかどうかと、もう〈聖女〉としてのおまえはいらないと閉め出されるのとでは、また別の話だろうし。
「リガロ様は、これからどうなさいますか?」
「……はい?」
「ファラーナの脅しは、もう効果がないでしょう。〈聖女〉を辞めるもなにも、次の〈聖女〉がいるのですから」
「それはまぁ、そうですが」
「とはいえ、このまま戻ったら戻ったで、ファラーナ失踪の事情について問い詰められるでしょう。責任をとらされて辞職、という流れもあり得ます」
「えぇー……」
思わず、騎士らしからぬ声が漏れてしまった。
エオネイアは、わずかに眉を上げる。
「なにも考えていらっしゃらなかった?」
「まぁ、そうですね……。とにかく、あなたを神殿の外に出して、聖域の修復をするのが第一だと思って」
「単純なのね」
……一応、リガロは彼女らを助けてやった、まぁまぁ恩人といってもいい立場なのだが、あまり感謝されている雰囲気がない。不思議だ。
エオネイアは、ファラーナの方に向き直った。
「申し開きの余地が残されている騎士様はともかく、わたしたちは神殿にとっては邪魔な存在で間違いないでしょう。ファラーナ、あなたはどうしたい?」
「……わたしは戻りたくありません」
「あなたなら、一族の誰かが匿ってくれるかもしれない」
「エオネイア様と一緒でなければ、絶対に、嫌です」
そこだけ、ファラーナの声が強い。なんだこれ、と思いながら、リガロは皿を盆の上にまとめた。ふたりの意見がまとまるまで、席をはずした方がいいかもしれない。
正直、巻き込まれたくない――いやもう十分、巻き込まれまくっている気もするのだが。
「わたしは、神殿に戻らないわけにはいきません。聖域が必要です」
「神殿にたよらない聖域の展開法なら、研究があります。わたしも、努力します!」
――えぇー。この〈聖女〉様……じゃない元! 元の人って、そんな凄いのか。
神殿騎士団でも、聖域の研究はしている。聖域が展開できれば、どんな防御魔法よりも強い力で魔族を跳ね除けることができるからだ。
今のところ、実用性は皆無といわれている。展開はできても、維持ができないのだ。とっさの防御に使う程度の用途しか見込めない上に、要求される魔力が高過ぎる。というわけで、研究から実用には進んでおらず、実戦部隊はほとんど鍛錬すらしていない。ほかに、もっと優先順位の高いものがあるからだ。リガロも、聖域展開は名を知るばかりで、やってみたことさえない。
「ファラーナは、わたしを守ってくれるつもりなのね」
「もちろんです!」
「でも、ごめんなさい。わたしにも矜持があるの。守られるだけなんて、とても耐えられない」
「……おかしいです。神殿に戻るのと、どこが違いますか? わたしは駄目で、神殿の聖域に守られるのは、耐えられるのですか?」
「そうね。だったら、わたしはもう死ぬしかなくなってしまう」
「そんな!」
部屋を出る機会を逸したリガロは、息をひそめて彼女らの口論を見守るしかなかった。
勘弁してほしいと思っていると、不意にエオネイアが悲鳴に似た声をあげた。
「あっ……」
その眼が、リガロを見る。
瞬時に、リガロは気づいた。これは、彼女の合図だと。
――必ず、あなたに報せます。
エオネイアの静かな声が、脳裏によみがえる。
魔族の誘惑に堕ちた者は、いくら浄めても、完全に快復することがない。だから、次があったら――とり返しがつかないことを引き起こす前に。自分を助けたせいで、あの子が罪をかぶるような状況になる前に、と。エオネイアは淡々と告げたのだ。
――申しわけないのだけど、わたしを殺してください。
リガロは、剣把に手をかけた。