ファラーナとリガロ 4
目覚めるとそこに――当然のように――エオネイアがいて、なによりもそれが夢のようで、信じがたくて。
胸が詰まる想いでまじまじとみつめていると、エオネイアが静かに尋ねた。
「ファラーナ、あなたは〈聖女〉の責務をなんだと思っているの」
いきなり、答えられない問いを投げられた。
さほど間を置かず、エオネイアは、彼女の考えを告げる。
「人々を守るための存在でしょう、〈聖女〉は。なによりもまず、心の支えとなるもの。その〈聖女〉が、黙って姿をくらますだなんて」
「……申し開きは、できません」
「わたしも、あなたのいいわけを聞きたいわけではありません」
「はい」
「なにより、わたしにはあなたを諌める資格がない。もとはといえば、わたしの不甲斐なさが招いた事態なのですから」
「エオネイア様は、不甲斐なくなどありません!」
思わず反駁してしまう。と、エオネイアはうっすらと微笑んだ。
――ああ、わたしが知っているエオネイア様だ……。
薄く氷がはったような。冷たい笑みなのだ。どこまでも、人の手がふれることを拒む笑顔だ。それが、ファラーナは好きだった。
拒んでくれるから、憧れることができた。今だって。
「いいえ。わたしが不甲斐なかった。相手が魔族だと見抜いたにもかかわらず、すぐに逃げもせず、これもよい経験になるかと考えて会話をつづけた。人を呼ぶこともしなかった。だから、魔族の穢れを大神殿に持ち込むなどという、大それた事件を引き起こしてしまった」
エオネイアは〈試練の乙女〉として選ばれるために養女に入った家で、魔族と出会ったらしい。
そのときのことを詳しくは語ろうとしなかった――思いだすと、それだけで心が揺れるから、という理由で。
「でも……でも、浄化の術は、ちゃんと」
「ええ。あなたの術は、きちんとはたらいています。自分をとり戻して、なんだか生まれなおしたみたい」
自身の胸をおさえて、エオネイアは眼を伏せた。
そしてそっと、感謝を口にした。
「ありがとう、ファラーナ。わたしを助けてくれて」
その言葉だけで、ファラーナは胸がいっぱいになった。自分が生まれてきてよかった、ここにいてよかった、向いてないと思うけれど〈聖女〉でよかった、なにもかもよかった、と思えた。
よかった……エオネイアを助けることができて。
至福の一瞬は、しかし、すぐにエオネイア自身に断ち切られた。
「それでも、魔族の穢れはけっして消え去りはしない。どんな拍子でよみがえるか、わからない。もちろん、魔族がわたしに意を凝らせば、すぐにあやつられてしまう」
ファラーナは口を引き結んだ。
そんなこと、させない――そういいたかったが、いってどうなるのだろう。現実には、ファラーナは魔族をしりぞけることすらできない。
エオネイアは、静かにつづける。
「結果的に、神殿の聖域が破られていることが明かされたのは、よかった。でも、あなたがわたしのところに来たのも、こうして連れ出したのも、賢いおこないとはいえない。わかっているでしょう?」
「……はい」
「あなたは〈聖女〉としてのつとめを、もっと重視しなければ」
ファラーナは、答えられなかった。
――〈聖女〉としてのつとめって、なに?
ずっと、わからなかったことだ。
求められるままに、ファラーナは祈る。癒しの術を使う。祝福の言葉を口にする。それが〈聖女〉のつとめだから。
でも、そんなもの誰にだってできる。〈試練の乙女〉たちの中で、ファラーナが特別に優秀なわけではない。エオネイアが鍛えてくれたから、たしかに劣等ではないだろう。でも、とびぬけてはいないのだ。どうして自分が〈聖女〉でなければならないのか、わからない。〈聖女〉としてなにをなすべきかなんて、もっとわからない。
「魔族をあなどらないで、ファラーナ。わたしは、かれらのおそろしさを知っている。命を奪われるだけが、敗北のかたちではないということも。……あなたも、ゆめゆめ油断してはなりません」
エオネイアは言葉を切る。
その灰色の双眸が、ファラーナに向けられる。静かに、見きわめている――かつて、彼女の家族の性根を見抜いたように。今、〈聖女〉としてのファラーナの価値が、はかられているのかもしれない。
「あなたはまだ、わたしを慕ってくれているようだから、敢えて口にするのだけれど。二度と、わたしを信用してはいけません」
「……なぜですか?」
「魔族にあやつられるかもしれないからです。わたしが〈聖女〉に影響力を及ぼすと知ったら、魔族はふたたび、あやつろうとするでしょう。わたしを介して、あなたを」
「何度でも、浄めます!」
「今この瞬間だって、わたしは魔族にあやつられているのかもしれない」
ひやりとする声音だ。
「エオネイア様は――絶対、そんなこと」
「〈聖女〉様、絶対というなら、わたしが魔族に穢されたこと。二度と元には戻らないこと。それこそが、絶対なのです。聞き分けてください」
聞き分けろ。それは、ずっといわれてきた言葉だった。
エオネイアが魔族に誘惑された、大神殿の護りを破ったという話が出てから、ファラーナは何度となく申し出た。あるいは、命令もしてみた。エオネイアに会わせてくれ、と。下手に出ても、上から命じても、誰もその願いを聞き届けてはくれなかった。最後には、聞き分けてくださいといわれるのだ。
ぽろり、と涙が眼の端からこぼれた。鼻がつんとして、くちびるがふるえる。
「もう嫌です。そんなの嫌……」
そんなの全然、ファラーナがやりたいことじゃない。
自分が頑張れば民が救われるといわれれば、できる限りのことはする。だって、救いたくないわけじゃないから。でも、ファラーナは駄目な〈聖女〉だ。もう、頑張れない。
いちばん守りたいものを守れないなら、頑張る意味がない。
エオネイアを許さない世界なんて、なくなってもかまわない。滅びてしまえばいい。
「エオネイア様は、ずっと努力してらした。誰より……真剣だった。大神殿に集まった〈試練の乙女〉たちの中で、真に選ばれることを考えていたのなんて、エオネイア様だけ。あのひとたちは、なにも考えてなかった。呼ばれたから来ただけ。できれば〈聖女〉になんてなりたくない、って思ってた」
「〈聖女〉様、お言葉が過ぎます」
「事実です」
「事実なら口にしてよい、というものではありません」
凛として、エオネイアは告げる。そうだ、エオネイアは正しい。そんなこと、ファラーナがいちばん知っている。
「なぜですか。なぜエオネイア様が、魔族に陥れられねばならなかったのですか……どうして? そうなった瞬間、それまでの努力も全部、なかったことになるんですか? そんなのおかしくないですか? だったら、いつなにが起きるかわからないから、努力なんて全部無駄じゃないですか! 魔族に穢されたら、エオネイア様はもう終わりなんですか!」
「ええ、わたしはもう終わっているのです」
「そんなの絶対、認めない! わたしは認めない……エオネイア様がいなければ、わたしもここにはいません。きっと、〈試練の乙女〉として呼ばれるのは避けられなかったけど、その中で〈聖女〉に選ばれたりはしなかった……ひとりだったら、こんなに頑張ってなかった。浄化の術だって、使いこなせなかった。そんなの、できると思わなかったもの! わたしが〈聖女〉なのも否定するんですか」
「〈聖女〉様、話が無茶苦茶です」
「わたしのことは、ファラーナって呼んで!」
全身で叫んでいた。
そんなの、どうでもいいのに――いや、どうでもよくない。
ファラーナは、今まででいちばん真剣に考えた。頭が熱くなるくらい。
「……エオネイア様、わたしは〈聖女〉を辞めます」
「えっ」
声をあげたのは、エオネイアではない。ここに連れて来てくれた神殿騎士だ。
今まで存在も忘れていたが、部屋の隅にいたらしい。いやいやいや、と頭を左右にふっている。あんなにふったら頭が痛くなるんじゃないかと思うくらいの勢いだ。
その頭が、ぴしっと正面で止まった。
「〈聖女〉様、お気をたしかに」
「あ、それがいいですね。わたしは乱心して、ええと……なんなら自死したことにしましょう。あなたはそれを止めようとしたけど、果たせなかった」
「いや、俺が〈聖女〉様を止められなかったとか、誰も信じてくれないです。……じゃなくて! お忘れですか?」
「信じさせるのがあなたの仕事です」
「俺の仕事は、〈聖女〉様の護衛です。あと、〈聖女〉様、おっしゃいましたよね! 神殿から連れ出さなければ〈聖女〉を辞めるって! だからお連れしたのに、結局辞めるって、それはひどくないですか!」
ファラーナは眼をしばたたいた。
「そんなこと、いいましたか」
「おっしゃいましたよ! その場の勢いなんだろうなとは思いましたけど、そこまですっきり忘れないでくださいよ!」
エオネイアが、宥めようと声をかける。
「騎士様、〈聖女〉様は少し混乱なさっているようです」
「俺も混乱してますよ!」
やけになって叫んだ騎士を見て、ファラーナは考えをかためた。
「そうね。目の前で〈聖女〉の気がふれて自死したら、歴戦の神殿騎士でも混乱しておかしくありません。その調子です。取り乱して、神殿に報せてくれればいい。〈聖女〉も、魔族の誘惑に堕ちた、と」
「……着々と筋書きができてる」
「〈聖女〉様、落ち着いてください」
「エオネイア様を救えなかったら、わたしは気がふれます。〈聖女〉でいつづけることなんて、できっこないです」
騎士は口を閉じ、エオネイアは――そっと、ため息をついた。
「世界とわたしを天秤にかけるような真似、しないでください……それこそ、わたしの気がふれます」
「……俺も気がふれたら楽になるかな」
騎士のぼやきを聞いたエオネイアが、くすっと笑った。
「わたしたちをここに連れて来てくださった時点で、かなりおかしいとは思います」
「冷静に指摘しないでください。俺だって、変なことしてるなぁとは思ってますよ……でも、しかたないでしょう。〈聖女〉様、真剣でしたし。なにがなんでも、エオネイア様を救うんだって」
はぁ、と誰はばかることなく騎士は特大のため息をついた。凄く息が長いな、とファラーナは思った。そして、エオネイアがいうように、この騎士はちょっと変わっている、と。
確か、聞いたことがある。乙女のひとりを追って来て、彼女を守るために神殿騎士になった……とか。素敵よね〜、と乙女たちが陰できゃっきゃ話していたのを思いだして、ファラーナは尋ねた。
「あなただって、アリスティアを救うためなら、どんな無茶もするでしょう?」
とたん、騎士は真顔になった。
「しますけど、もう少しちゃんと計画します」
「じゃあ、ちゃんと計画するのを手伝って」
「……いやいやいやいや、〈聖女〉様の計画って、ひとっつもアリィのためにならないじゃないですか!」
「あの……誰の話ですか?」
「アリスティア」
ファラーナと騎士は同時に答え、そして互いの顔を見てしまった。なんとなく。
「〈試練の乙女〉のひとりです。こちらの騎士様と同郷だと聞きました」
「アリィは俺の命の恩人です。死んでも守ります!」
交互に説明したふたりを眺めて、エオネイアは微笑んだ。あの、薄く氷がはったような表情で。
「だったら、騎士様はここにいては駄目でしょう。そのひとを、守れないのでは?」
「でも、アリィだったら絶対に、〈聖女〉様をお手助けしたと思うので。エオネイア様をお助けせずに、見捨てて帰ったら、叱られます」
なんの迷いもなくいいきった騎士を、眩しいな、とファラーナは思った。
自分だって、こんなことをしたらエオネイアに許してもらえない、とは感じる――今まさに、そうなっている。〈聖女〉のつとめを捨てるなんて、きっと、受け入れてもらえないだろう。
でも、それしかない。エオネイアが魔族にあやつられたとしても、犠牲になるのがファラーナひとりなら、誰にも文句はいわせない。〈聖女〉という立場さえ投げ捨ててしまえば、そうできるのだと気づいてしまった。
――でも、うっかりわたしがエオネイア様に殺されでもしたら、きっと、エオネイア様はご自分を許さないから。
だから、ファラーナは全力で自分も守る。エオネイアも守る。大神殿にいたあいだに、〈聖女の遺骨〉にたよらず聖域を展開する研究に関する文書も、徹底的に調べてある。〈聖女〉は暇ではないが、聖典を読みたいとか、あの資料を取り寄せたいとかいう願いなら、かなえてもらえるのだ――それに関しては、聞き分けなさいとはいわれない。
ファラーナだって、ずっと考えてきた。準備してきた。エオネイアを目の前にしたとたん、なにもかも我慢ならなくなっただけで。
三者三様の想いに沈んで、誰も発言しなくなったそのとき、扉を叩く音がした。
「昼飯だよ。あと、情報がある」
騎士が扉を開けると、入って来たのは縦にも横にも大きい女性だった。手には、食事を載せた盆を持っている。
騎士が、その人物を紹介した。
「この家の家主だ」
「テッサと申します、元〈聖女〉様」