7. ナターリャ
ナターリャは、ぼんやりしていた。
最近は、ずっとそうだ。病み上がりなのだし、ゆっくりと身体を治しなさい――そういわれて、逆らうほどの気力もなく、ただ座ったり、立ったり、歩いたり、寝たりしている。食事もする。
大神殿では、孤独になるのが容易だ。ひとりで座っていると、誰も邪魔をしには来ない。瞑想中だと思われるのだ。
ナターリャは、自分が瞑想しているとは思わない。けれど、瞑想とぼんやりの差を理解しているわけでもない。そんなこと、教わっていないし考えたこともなかったから。
――ぼんやりと瞑想って、なにが違うの。……求めるものがあるかどうか?
それなら、今のナターリャがしているのは、間違いなく「ぼんやり」の方であって「瞑想」ではない。
ぼんやりしていると、すべてが夢のように思えてくる。
――わたしの人生って、まぼろしなんじゃないかな。
そもそも、生まれたと思ったのが勘違いだったのかもしれない。
自分はここにはいなくて、ふっと風が吹いたら消し飛んでしまうような、ただの夢なのかも。
あれも、これも、すべて夢なのではないか。〈聖女〉とか。〈試練の乙女〉とか――あのひとの声も、言葉も。眼差しも。結婚の約束も、すべて。
「あ、いたいた。ナターリャ」
久しぶりに名を呼ばれて、ナターリャは声のした方をふり仰いだ。
相手の名が出てこない。簡素な服に身を包んでいるのに、どこか垢抜けた感じをただよわせる、彼女は……同輩の乙女のひとりで、たしか……知っているのに、その名前は喉元に引っかかったままだ。
「体調はどう? 大丈夫そうなら、手伝ってくれない? アリィが疲れ果てちゃって」
アリィはわかる。一緒にいた時間が長かったからだ。
ファラーナとアリスティア、そしてナターリャ。三人はずっと一緒で、仲が悪くはないが良いわけでもない、という曖昧な関係をつづけていた。
ファラーナは〈聖女〉、ナターリャはその代弁者。アリスティアは外見の入れ替えという珍しい術を使えるため、いざというときの身代わりをつとめることになっていた。
――ファラーナは、困ったひとだった。
ファラーナは、ナターリャの遠い親戚にあたる。ファラーナと親しかったエオネイアも、同じく遠縁ということになる。
どちらとも、顔見知りではある、という程度だった。会えば挨拶はする。家のつきあいとして、そういうものだと割り切っていた。お互いに。
そのエオネイアが魔族に魅了され、どこかへ連れ去られて以来、ファラーナは内向的な性格をより強めてしまい、ろくに喋りもしなければ、人の顔も見ない状態になった。なのに、〈聖女〉に選ばれてしまった。
神殿側としては、余分なことを喋らない〈聖女〉の方が扱いやすいし、神秘的でちょうどよい、といったところだろう。だが、喋らないだけで済むはずもない。
それで、親戚であるナターリャが、〈聖女〉の通詞のような立場を押しつけられることになった。〈聖女〉様はこうお考えです、〈聖女〉様にはそのようにお伝えしましょう、〈聖女〉様はお疲れですので、これで失礼いたします――そういう役だ。無言で俯くファラーナの代わりに、政治的な判断はすべてナターリャがおこなっていた。
そのファラーナも、もういない。
最後に見たのは、深夜、部屋から出て行こうとする後ろ姿だ。ナターリャは止めようとしたのだが、そのまま昏倒した。たぶん、なにか術を使われたのだと思う。ファラーナが得意な治癒術は、裏返せば人を害する術にもなるのだ。
ただでさえ弱っていたところだったので、ナターリャは完全に体調を崩してしまった。
何日も寝込んでいるあいだに、〈聖女〉はアリスティアになっていた。聖痕がある、ほんものの〈聖女〉だという。
急に姿を消したので、大騒ぎにもなったようだ。なんらかの奇跡の力で――大神官に呼び寄せられた、という噂だった――アリスティアは王都に戻ってしまったとのことだった。
――じゃあ、ファラーナはなんだったの。
ファラーナだって、姿を消したまま戻っていない。けれど、誰か騒いだだろうか? ほんものの〈聖女〉がみつかったら、もう用済みなのか。
では、そのファラーナの代弁者をつとめていたナターリャは、なんだったのか。
なんでもない。この世に必要ない、なにかだ。
――ナターリャ。
記憶の底で、やさしい声が彼女を呼ぶ。ざらついた指先が、そっと頬を撫でる。
――あなたと出会えてよかった。あなたがあなた自身でいられるように、精一杯、守るよ。
わたし自身ってなんだろう、とナターリャは思う。全然わからない。
でも、そういわれたとき、たしかに胸の奥がやらかくなって、なにかを感じたのだ。
今はもう届かない、失われたなにかを――もし、それを求めるなら、ナターリャは瞑想できるのかもしれなかった。ただ、ぼんやりするのではなく。
けれど、そう考えるだけで少し怖かった。それはもう、激しい喪失の記憶と分かちがたく結びついてしまっているから。
「ナターリャ、聞こえてる?」
押し黙ったままのナターリャに困惑したのだろうか。
気遣われているのはわかる。けれど、届かない。どこか遠くで声がしていて、自分には関係ない。そんな感じだ。
「……わからないの」
返したつぶやきは、相手の耳には届かなかったかもしれない。
はぁ、と小さく息を吐くと、彼女は手をさしのべて来た。
「たまには刺激が必要よね。いらっしゃいよ、疲れたらすぐ休めばいいんだから」
わけがわからないまま、レニィに手を引かれ――そうだ、彼女はレニィという名だった――ナターリャは静かな中庭を後にした。
「アリィ、ナターリャみつけたよ」
そうして連れて行かれたのは、〈聖女〉の執務室だった。
大神殿における〈聖女〉のつとめのひとつに、「社交」がある。調停用の緩衝材になったり、神殿の切り札として引っ張り出されたり――場面はいろいろだが、基本的に〈聖女〉自身の意向が反映されるものではない。少なくとも、ナターリャがここで補佐をしていたあいだは、そうだった。なにしろ、ファラーナは自分の意志をおもてに出さなかったから。
不意に、思った。
――でも、アリスティアは違いそう。
机に向かっていたアリスティアは、ゆっくり顔を上げた。その表情が、安堵にゆるむ。
「あー、助かるー。レニィありがとう! ナターリャ……お願い、手を貸して」
「どうしたの」
しぜんに、声が出ていた。最近、こんなこと滅多になかったのに。
なにかを喋る前に考えこんでしまって、なかなか会話することができずにいた。今日だって、迎えに来たレニィとは、まともに話せていない。
場所のせいだろうか。何年も馴染んだ執務室。それとも、長い時間をともに過ごした相手だから?
ナターリャの戸惑いには気づかず、アリスティアは机に置いた分厚い紙をめくって見せる。
「宰相閣下に『重要人物一覧表』っていうのを渡されたんだけど、覚えきれそうになくて。ナターリャなら、うまい覚えかたを教えてくれるんじゃないかなって、思ったの。ほら、よくファラーナに教えてたじゃない? ヒゲがぐりんぐりんの人を目印に、とか」
そういえばそんなこともあった、とナターリャは思う。
人でいっぱいの場所で、いちいち誰某さんですからこういう態度で接してください、と〈聖女〉に指示するわけにはいかない。事前に、ある程度は暗記してもらう必要がある。やる気のないファラーナに覚えさせるために、ナターリャは苦労したものだ。
アリスティアは、すごいねー、と感心する係だった。
「そうそう顔ぶれは変わらないだろうから、会ったことがあるひとばかりでしょう?」
「うん、そのはずだとは思うんだ。でも、文字で名前を見ても、顔が全然浮かばない……」
アリスティアは、大きく息を吐いた。
ほんとうに、疲れているようだ。
「大丈夫?」
思わず、声が出ていた。馬鹿みたいな問いだと思うのに。
よく訊かれるけれど、そんな風に訊かれてもね、とナターリャは思っていた。大丈夫? 大丈夫。そう答える以外、なにかある?
でも、アリスティアは違った。
「情けないと思う。わたし、ずっと他人事だったんだな、って。ファラーナが教えてもらうとき、わたしも覚えようとしてたつもりだったけど、あれ、そういう『つもり』だけで満足してたんだなって思うんだよね。だって、なんにも思いだせないんだもの」
ナターリャと視線が合うと、アリスティアは少し笑った。へにょっ、と顔が歪んだような笑みだった。
そして、情けない声をあげた。
「もう駄目、ぜんっぜん大丈夫じゃない。助けて」
「……わたしにできることなら」
「うん。大丈夫、ナターリャならできるよ、この名簿の解説! やった、ありがとう!」
大丈夫? 大丈夫。空疎だと思っていた言葉のやりとりに、なぜか胸があたたかくなった。
ナターリャが座れるように椅子を引きずって来ながら、アリスティアは尋ねる。
「ご実家からのお迎えが、二日後には来るって聞いたよ。もう神殿には戻らないつもり?」
「そうみたい」
「ずっといてくれるような気がしてたから、びっくりしちゃった。これも甘えだよねぇ……最後にもう一回だけ甘えさせてね」
ふ、とナターリャは微笑む。
「どうしようかな」
「えー、待って、今! できることならって!」
「教えるとは、いってないじゃない」
「いってないけど!」
夢だけど、夢じゃなかった。
ナターリャはここにいて、いなくなる。
生きている限り、そうやって進んでいくしかない……。
「ナターリャなら、次に会うときは、そういう一覧表に名前が入ってる側かもしれないよね」
レニィがいう。ナターリャも、そうかもしれないと思う。
「えっ、どういう意味?」
「ナターリャの家柄だと、親同士でばんばん約束しちゃうから。うちの娘が神殿から戻ります……となれば、その一覧表に載っているような家の誰かと、結婚の約束ができていてもおかしくない、って意味」
――神殿騎士なら、ご家族も否とはいわないだろう。
彼の声を、思いだす。少し緊張してたんだな、と今ならわかる。そのときは、ナターリャはただびっくりして、なにも考えられなかったのだけれど。
家族に呼び戻されそうになっている、という話をしていた。彼に打ち明けたくてというよりは、たまたま、ファラーナの警護とか、付き人としての仕事とか……そういった話題の流れで話しただけだった。
けれど、彼は真面目な顔でいったのだ。あなたがそんなに遠くへ行くとは思っていなかった、と。
そして訊いてくれたのだ。ナターリャはどうしたいのか、を。
――考えたことがないみたい。
――じゃあ、考えてみませんか。ずっと近くで見ていられれば、それでもいいと思っていた。でも、そんなことになるなら、黙っていられない。
婚約しませんか、と彼はいった。結婚を前提に、おつきあいしていただけませんか、と。
まったく考えてもいなかったから、ナターリャが彼を意識しはじめたのは、まさにその瞬間からだった。そして、恋に落ちるってこんなに簡単なことだったのか、と思うようになるまでに、時間はかからなかった。
そんなもの、自分には無縁だと思っていたのに。
名を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになるなんて……想像もしたことがなかった。
――ナターリャ。
アリスティアは名簿とナターリャを見比べていたが、やがて首をかしげた。
「でもさ、ナターリャくらい優秀だったら、べつに誰かと結婚しなくても重要人物じゃない?」
「わたしはべつに優秀じゃないけど」
「えっ、やめてよ。ナターリャが優秀じゃなかったら、わたしなんか地の底までめり込むくらい劣ってることになっちゃう。ナターリャは優秀なことにしておいてよ、それでも比べると、わたしなんか、ようやく半人前くらいだし……」
喋っているあいだに落ち込んできたらしいアリスティアは、名簿をめくって、また大きく息を吐いた。
「アリィはさー、わかってないよねぇ。たまに、ほんとにこの子、辺境から来たんだなって思うわ」
「レニィはさー、いつも容赦ないよねぇ、田舎者に!」
「原因がはっきりしてるから、ちょっと呆れるだけで済んでるの。そうでなかったら、ほんとに呆れるわ」
呆れたように見下ろすレニィに、ナターリャも口添えした。
「基本的に、女性は重要人物にはなれないの」
「でも〈聖女〉って重要人物じゃない?」
「……わかっているでしょう。あなたも、何年も一緒にやって来たのだから。〈聖女〉は、飾りものに過ぎない」
「うん、そういう見かたもあるかもしれないけど、わたしはね、自分が重要人物だと確信して、〈聖女〉をやることにしたんだ」
堂々と宣言してから、アリスティアはすぐに萎れた。
「……なんだけど、駄目な重要人物ね……名簿を見るだけで、くらくらする」
「鼻で笑ってさしあげてもよろしくってよ、〈聖女〉様。じゃあナターリャ、この呆れた子、たのむわ。わたし、衣装の打ち合わせに行ってくるから」
「しかたないわね。たのまれてあげる」
レニィを見送って、アリスティアはまた名簿に視線を落とした。
「ねぇ、ナターリャ……わたし、重要人物にはなれないのかな。こんなに大変なのに」
「重要人物になりたいの?」
「うーん、なりたいとかそういう段階は過ぎてると思うんだよねぇ。とっくに、なっちゃってるし。で、なっちゃったからには、ちゃんとやりたいんだ。でも、その『ちゃんと』が難しくて……」
ゆっくりと、ナターリャは答えた。
「あなたがやりたいようにやれば、それでいいと思う。重要だとかそういうのって、周りの評価でしょう。評価は、あとからついて来るものだから。そこばかり気にしてしまうと、つらくなるだけじゃない?」
「……凄いなぁ。ナターリャ、〈聖女〉特別顧問とかやらない?」
「なにそれ」
「たまに神殿に来て、わたしのお悩み相談を引き受けてくれる係。えっ、これいいな。たまにじゃなくて、頻繁に来て
くれてもいいけど……あっ待って、わたしが訪ねてもいいよね? ナターリャ、実家どこだっけ?」
ナターリャは笑った。久しぶりに、心の底から。
「馬を替えながら馬車で頑張って、二十日以上かかるくらい遠くよ」
「えっ……」
「そう簡単には来られないでしょう」
「そんな遠くに行っちゃうの?」
「寂しい?」
「寂しいに決まってるじゃない。わたしたちって、ほら……なんていうか、戦友? みたいな感じだったから」
そうね、とナターリャは答えた。たしかに、そうだったかもしれない。自分ではなにもしようとしないファラーナという〈聖女〉を機能させるために、ナターリャは頑張った。アリスティアも、そのかたわらにずっといたのだ……彼女こそが、ナターリャの頑張りをもっともよく知る人物であり、最大の理解者なのかもしれない。
「約束して、アリスティア。あなたは、あなたらしいままでいて。あなたがそうありたいと願うような存在でいる、って」
「……えっ? わたし、なりたい自分になれる気なんて、しないんですけど……そりゃ努力はするけど!」
「結果や評価の話ではないの。自分の心に嘘をつくような真似はしないでくれ、ってこと」
――あなたがあなた自身でいられるように。
あのときの彼も、こんな気もちだったのだろうか。
たぶん同じではないとナターリャは思ったが、でも、まったく違うわけでもないだろう。
まわりの都合で、歪まないでほしい。信じる道を、行ってほしい。そのために、ナターリャがしてあげられることなど、なにもないけれど。だから、これはただの無責任な願いだ。
それでもアリスティアは、うなずいた。
「あー、それならわかるかな。うん、頑張る。ナターリャもね」
「わたしにできることなら」
アリスティアは微笑んだ。
「ナターリャ、さっきと同じこといってる」
「人間、できることしかできないものよ」
そう答えて、ナターリャは眼を伏せた。できることしか、できない。できないことは、できない。
彼はよみがえらないし、二度と会うことはできない。
失ったものを抱えて、それでも生きていくことが、自分にはできるだろうか?
「ナターリャなら、わたしよりいろんなことができると思う」
真剣な表情で覗き込まれて、ナターリャは微笑みかけ――それから、真顔に戻した。
アリスティアは、本気でいっている。笑って流すのではなく、ちゃんと答えねばならないと、自分の中の真面目な部分が訴えていた。
ずっと、うちひしがれて萎縮していた、魂の核のようなものが。
ナターリャをナターリャたらしめている、なにかが。
――頑張れ、ナターリャ。
久しぶりに、自分を励ました。そうすることが、できた。
あなたらしく、といってくれた彼の言葉を、想いを、無にしないために。
「……〈聖女〉様がそうおっしゃるなら、頑張らないとね」
アリスティアは、にっこりした。
「もちろん、できる範囲でね。病み上がりなんだし」
「ええ。でも、できることはやらないと。まず、この名簿を覚えやすくするところからね。数を減らしていきましょうか。王族はだいたい大丈夫でしょう、そんなに人数いないし、殿下もあなたのことはわかってくださっているから、変な発言をしても、うまく補助してくださるはず」
「……ねぇ、どうして変な発言をするのが前提なの」
ナターリャは微笑んだ。今度は、笑って流すべき場面だったから。
※ナターリャは、アリスティアが魔王と友好につきあう道を選んだことや、天の御使として降臨する作戦は知らされていません。魔族のせいで婚約者を失った立場なので、今後、魔族との融和を進めていく予定の神殿からは、離れた方が彼女のためになるだろう……という大神官の判断で、家族からの「娘を返せ」という要請が受諾され、実家にひきとられる流れです。
次週予告:レニィ




