ファラーナとリガロ 1
番外編は、アンケートを使わずに進めます。
……これが普通なのに、なんだか変な気がしますね!
誰かが、階段を駆け下りてくる――。
リガロは眉根を寄せた。
彼が守っている扉は、小塔の入口。塔の内には〈聖女〉ファラーナと付き添いの乙女ナターリャのふたりしかいないはずで、だったらこの気配の主は、彼女たちのどちらかだろう。
こんな深夜になぜ、と思わざるを得ない。
足音は、少しばかり乱れている。階段から転がり落ちかねないと心配になり、リガロは扉を開けて中を覗いた。暗い中を、息を切らして下りて来る小柄な人影が見える。
「いかがなさいました」
声をかけた。
それが、よくなかったらしい。相手は足をすべらし、つんのめった。
――まずった!
あわてて前に出て、階段五段ほどを落ちて来た人影を受け止める。やはり、それは予想外の侵入者などではなく、この塔で休んでいるはずの。
――これは……〈聖女〉様の方だよな?
夜とはいっても、扉からさしこむ星明かりで、ある程度は相手の姿が見える。ナターリャでないのはわかるし、それ以外の、名前を知っている乙女たちの誰でもない。あまり間近で見た覚えのない顔のこの娘は、きっと〈聖女〉ファラーナだ。
「お怪我は?」
「……手を、はなして」
礼の言葉もないのは、しかたがない。〈聖女〉に勝手にふれたのだから、むしろ無礼を叱り飛ばされても文句はいえないところだ。
しかし、リガロにも役目がある。それは〈聖女〉の身の安全を守ること。はなしてくれと命じられるままにすれば、この〈聖女〉は塔から出てしまいそうだ。
それは困る。
「なにか、ご用事が? 人を呼びましょう」
「はなして」
「〈聖女〉様は、お部屋にお戻りください」
「邪魔をすることは、許しません!」
言葉はきついが、これが精一杯なのがわかる、ふるえる声だ。〈聖女〉の威厳のようなものは、まるでない。
それが逆に、リガロを悩ませた。
〈聖女〉様は、ほとんど交流なさらない――先輩の騎士たちからもそう聞いていたし、実際、クリャモナへの旅の途上でも実感している。権高にこちらを見下しているからではなく、どちらかといえば、他者を恐れているのだろうと思わされる雰囲気があった。
今も、彼女はリガロに怯えている。怯えているのに、どうしても、と意を通そうとしている。
――それだけ、必死なんだ。
弱い自分を奮い立たせているのだろうと察してしまうと、もう駄目だ。勇気に報いてあげたい、と思ってしまう。
「それでは、お供することをお許し願えますか」
リガロの申し出に、〈聖女〉は一瞬、たじろいだように見えた。が、すぐに声を強めて答えた。
「許しません」
「ではお部屋にお戻りください」
〈聖女〉はリガロを睨んだが、我意を通せるほどの眼力はない。むしろ、視線に押し負けたのは〈聖女〉の方だった。
「……わかりました」
「どちらに行かれるのか、伺っても?」
「エオネイア様のところへ」
知らない名前だ。
――神殿の関係者かな。
足早に歩きだしたと思ったとたん、またよろけている〈聖女〉に、あわてて手を貸す。
「人に頼んで、呼んで来てもらいましょう」
「できません」
リガロの手を振り払った拍子に、〈聖女〉はまた、ふらりと傾いた。
呆れながら、リガロはまた彼女を支える。体力がなさ過ぎだ。
「神殿の中にいらっしゃるのですか?」
「ええ」
さすがに神殿を出るといわれたら止めざるを得ないので、リガロはほっとした。
夜明けもさほど遠くはないだろう。もう少ししたら、起き出して来る神官や巫女もいるはずだ。誰かと会えば、〈聖女〉も諦めて部屋に戻ってくれるかもしれない。
――いや、それはどうかな。
小柄な〈聖女〉を斜め後ろから見下ろして、リガロは内心、ため息をつく。
彼女は自分の進む方しか見ていない。おそらく、よろけていることにさえ気づいていないのだ。
庭に面した通廊を早足で通り過ぎると、角を曲がる。その先は、灯火もない暗がりだ。深まる闇の奥へと〈聖女〉の背が吸い込まれていくのを、リガロは若干の不安を抱えながら追った。
やがて〈聖女〉が立ち止まったのは、廊下の突き当たり。そこには木の扉があった。
――まったく来たことがない場所だ。
危険がないように、リガロは注意を払っている。これまでのところ、人の気配はない。だが――はっきりと言葉にはできないが、なにかが変だった。
扉にかけた〈聖女〉の手を、押さえる。彼がいることを忘れていたのか、〈聖女〉はびくりと肩を跳ね上げ、一歩、横に身体をずらした。好都合だ。
リガロは扉をそっと開いた。
室内は、廊下よりは少し明るい。大きな机の上に灯火が揺らめいている。魔法の火だ。
その机の向こうに、人影――と見てとる間に、〈聖女〉が彼の横をすり抜けようとした。あわてて腕を掴むと、〈聖女〉はその腕を引き抜こうと躍起になった。もちろん、彼女が全体重を傾けようとも、リガロの手はびくともしない。
「お待ちください、危険があっては――」
「わたしなんか、どうでもいい。エオネイア様を、お助けしないと!」
どうでもいいわけないだろ、と思いながら、リガロは机の向こうの人影を見た。目深に頭巾をかぶったその人物は、まったく動かない。不自然なほどだ。
「エオネイア様……」
「〈聖女〉様、なにかあってはいけません。外でお待ちになってください」
「あなたたちなんか、信じない。あとで会わせてあげますからとか、嘘ばっかり! もう騙されない」
察するところ、〈聖女〉はあの人物と引き離された過去があるようだ。
――なにか、そうせざるを得なかった事情はあるのだろうが……。
しかし、リガロはこういうのに弱いのだ。つまり、自分より他者を気にして、力がたりなくても全力で、とかそういう……子どもっぽさ? よくわからないが、そういうのだ。捨て置けない。
しかたなく、彼は〈聖女〉の手をはなして前に出た。
すかさず相手に走り寄った〈聖女〉は、我慢ができないといった風情で名を呼んだ。
「エオネイア様……わたしです。ファラーナです。お迎えに来ました。すぐに、ここから出してさしあげます」
「お連れするにしても、どちらに?」
〈聖女〉はぽかんとして、リガロを見た。なにも考えていなかったらしい。
ようやく彼の存在についてまともに考えはじめたらしい〈聖女〉を眺め、リガロは意を決した。ただの付き添いより、一歩踏み込んで関与するしかない、と。
闖入者がこれだけ喋ったりじたばたしたりしているのに、向こうは無反応。様子がおかしいなどというものではない。
「反応がなさ過ぎます。なにか術をかけられている可能性は?」
「え……」
「〈聖女〉様は癒しの術がお得意でいらっしゃるそうですが、看破は……どうですか?」
「……」
なぜか、〈聖女〉は黙ってしまった。しかも、こういう反応をリガロはよく知っている。後ろめたいことを隠そうとする子どもの顔だ。
ああ、と彼は思った――やっぱりそうだ。孤児院のチビどもを思いだすんだ、と。仮にも相手は〈聖女〉様なのに、さっきから一々、子どもくさいという感想しかない。
子どもにまかせておくわけにはいかない。
「そういう術が得意な者がいるでしょうから、誰か――」
「駄目!」
あわててリガロの言葉を遮った勢いで、〈聖女〉はリガロの手を握った。
そして、上目遣いに見上げて、ささやいた。
「エオネイア様を、どこかに匿って。誰にも知らせないで」
……ねだられてしまった。さすがにそれは無理じゃないかと考えながら、リガロは尋ねた。
「どなたなのです、このかたは」
「エオネイア様。本来、〈聖女〉になるべきだったかた」
「本来?」
「ええ。わたしとエオネイア様は、同じ一族の出身で……エオネイア様は、わたしなんかとは違うの。生まれながらの〈聖女〉でいらした……。それなのに……魔族に穢されて」
ぽかんとするのは、リガロの番だった。
魔族に穢された? つまり誘惑され、魔族に操られたということだ。リガロは遭遇したことがないが、彼が騎士団の見習いになる前に、そう、目の前にいる〈聖女〉がまだ〈試練の乙女〉だった時期に、乙女のひとりが魔族に誘惑され、大神殿の聖域が破られた、と聞いている。
つまり――。
――これが、そのときの乙女なのか。
前代未聞の不祥事だ。聖域が破れるとは、魔族が出入り可能になるということ。一時は大神官の進退も問われたと聞いている。当時はまだ入団していなかったリガロでさえ知っている、大事件なのだ。
だが、原因となった乙女がその後どうなったかについては、あまり語られることがなかった。
魔族に誘惑された者は、完全に回復することはない。少しでも油断すれば、ふたたび魔族の支配に屈してしまうことになる。
だから、魔族の誘惑を受けた者は、浄めを受けたのち、いずれかの神殿の聖域で保護されることになるのだ。
神殿騎士として、リガロはそうした概略を知ってはいたが、目の前でその実例を見ることになると、印象はずいぶん変わった。
この娘は、死ぬまで監視が外れることはない。神殿から出ることもできないのだと考えると――そうせざるを得ないのはわかっていても、なんだか、ひどく非情なおこないのように思えた。
面会もできないどころか、居場所も知らされることがなかったという〈聖女〉の嘆きを聞けば、なおさらだ。
「エオネイア様は、あんなに頑張っていらしたのに……あんなに……いつも、いつも、いつも! いつも、次こそ立派な〈聖女〉を出さねばという声を背負って……なのに、あの日から」
泣きそうな声だけれど、泣いてはいない。〈聖女〉は、そっとエオネイアの頭巾をはずした。
短く切られた金の髪。どこも見ていない眼は、炎の色を映して赤く見える。
「誰も……誰もエオネイア様のことなんか、口にしない。この世にいなかったように扱う。どこに連れて行かれたのか訊いても、教えてもらえない。会いたいといっても、そのうちにとごまかされるだけ」
「ここにいらっしゃると、なぜ、わかったのです?」
「お守りを交換していたから。〈試練の乙女〉として大神殿の招聘を受ける前に……なにがあっても、支えあいましょうねって……わたし……なにも、できなかったけど、いつか……きっと会えると思って。ずっと、願いをかけていたの。そしたら、さっき急に……わかった。ここにいらっしゃる、って。お守りが反応して」
肉親同士で交換し合う、無事を祈る護符のたぐいだろうとリガロは見当をつけた。一方が〈聖女〉、そして彼女の言葉を信じるならば、もう一方は〈聖女〉以上の才能の持ち主だ。ふつうは考えられない精度ではたらいたとしても、まぁ……おかしくはない。
〈聖女〉はエオネイアの前に膝をつき、自由な方の手で彼女の頬を撫でた。
「もう、離れない。絶対……絶対に」
――それは無理だろうけど、でもなぁ……。
今の〈聖女〉はほとんど家柄で選ばれたようなものなのでは、という話は聞いたことがある。
何人も〈聖女〉を出しているとかで、親族にも神殿関係者が多い。目の前にいる〈聖女〉も、そういう期待をかけられて育ったのだろう。もちろん、エオネイア様、も。
同じくらいの年代のふたりは、敵視し合うのではなく、互いをひっそりと励ましあう関係になったのだと察しがつく。
しかし、〈聖女〉が魔族に魅了された〈試練の乙女〉と交流するのは、いかにもまずい。神殿の者に知られれば、ふたりはまた、引き離されるだろう。
――どうすりゃいいんだ。
弱った。個人の情を優先するなら、どこか匿える場所を探してやりたい。抜け出して会いに行けるような、そういう場所をみつけてやれれば、と思う。
が、〈聖女〉の身の安全を第一にするなら、問答無用で〈聖女〉を部屋に戻らせるべきだし、エオネイアとは二度と会わないように説得すべきだ――まぁ、そんなことが可能かはわからないが。
「……わかりました。なんとかしましょう」
「ほんとうに?」
「嘘にしてほしいですか?」
「……いいえ。いいえ!」
リガロは身を屈め、未だなんら反応を見せないエオネイアの眼を覗いた。揺れる炎が見えるばかりだ。
「……〈聖女〉様、エオネイア様の目の色は、何色でしたか?」
「灰色――えっ」
答えて、〈聖女〉も気づいたらしい。
エオネイアの眼は、赤い。灯火の色が映っているだけではない。赤いのだ。
――魔族の影響が及んでいる。
身体が冷えたような気もちだった。まさか、そんな。
浄めがうまくいっていなかったのか? それとも、クリャモナ神殿の聖域に緩みがあったのか? どちらにせよ、この乙女は今、魔族の影響を受けている。魔族がそれに気づいて利用すれば、クリャモナ神殿の聖域自体が壊される。魅了された僕は、打ち込まれた楔のようなものだ。
――いや、もう聖域は機能していないのかもしれない。
身体の芯が冷えた。聖域がきちんとはたらいているかどうかを可視化する術があればいいのだが、そういったものは発見されていない。だから、知らぬまに破られていた、などということが生じる――それこそ、大神殿で発生した事例のように。
とにかく、彼女をここに置いておくわけにはいかない。
「絶対……絶対、わたしが助けます。浄めます。だから、誰にも報せないで!」
「そういうわけには――」
「誰かを呼んだら、わたし、もう〈聖女〉をやめますから!」
「――これは酷い」
思ったことが、そのまま口からこぼれ出てしまった。
だが、〈聖女〉は本気のようだ。容易には説得できそうもない。
少し悩んで、リガロは決めた。とりあえず、この乙女を神殿から連れ出すのが先決だ。
「ま、そういうことなら、そうしましょう。ただし、俺のいうことに従ってください。でないと、守りきれませんので」
「……従えることなら、従います」
リガロはにやりと笑った――神殿騎士の顔ではなく、すっかり悪ガキの顔である。
「いいですね、そういうの」