危ない橋も渡る覚悟デスケド。
夏休みが終わって一週間。気温が一気に下がり、秋らしい風が吹くようになった。たった一週間の差で、かなり季節の違いを感じる。
ルキナは、寮の部屋で小説を書いていた。原稿用紙を机一杯に広げ、頭の中にある構想を形ある文にしていく。ルキナが黙々と一人で作業していると、チグサが部屋にやってきた。今日はチグサに完成した分を読んでもらう日だ。
「それじゃあ、チグサ、お願いね」
ルキナはチグサに既に文が書かれている原稿用紙の束を渡した。チグサは頷いて読み始める。しばらくすると、チグサがポケットからペンを取り出して、原稿用紙に何かを書き込み始めた。
(今日もたくさんありそうね)
ルキナは、チグサがせっせと手を動かしているのを見て、気合を入れ直す。この様子だと、またたくさん読まなくてはいけなくなりそうだ。
チグサが小説を読んでくれている間、ルキナはチグサを部屋に残して、炊事室へ紅茶を作りに行く。生徒はいつでも炊事室を使うことができる。ほとんどの生徒がそれぞれの部屋で静かに過ごしているこの時間も、炊事室を利用可能だ。
ルキナは、ポットに茶葉とお湯を入れ、紅茶を作った。そのポットとカップ二つを持って、自室に戻る。
ルキナが部屋に戻ると、チグサは読み終えるまで残り少しになっていた。ルキナは机にカップを並べ、ポットの紅茶を注いだ。紅茶の独特の匂いが部屋に広がった。
ルキナは、チグサがまだ読み終えていないのを確認し、窓に近づいた。カーテンを開け、窓から外を眺める。月の光がルキナの顔を照らす。雲はあるが天気は良い。窓は開けていないが、空気が澄んでいるのがわかる。
「終わった」
ルキナが月を眺めていると、チグサが声をかけてくれた。
「ありがとう」
ルキナはカーテンを閉め、チグサの傍に戻る。原稿用紙を受け取り、ざっと加筆量を確認する。
「あ、紅茶持ってきたから。飲んで良いわよ」
ルキナは椅子に座りながらチグサに言う。チグサは返事をする代わりにカップを持ち上げた。熱い紅茶を一口すする。
「味、濃くない?」
ルキナが問うと、チグサは「大丈夫」と答えた。そして、慣れた手つきでミルクを入れた。ルキナはチグサの手元を見て、ふふっと笑う。
ルキナも一口紅茶を飲んだ後、チグサが書き込みをした原稿用紙を読み始める。
『見張りが半分になった』
一枚目の原稿用紙の端、チグサの字が書かれている。これを読み、ルキナは小さくため息をついた。
「減ったとはいえ、ゼロじゃないか」
ルキナが独り言のように呟く。チグサは、その声が聞こえたのか、聞こえていないのか、紅茶を一口飲んだ。
「まあ、いいわ。それじゃあ、さっそく動き出しましょうか」
ルキナは髪をかきあげ、原稿用紙を机に置いた。ルキナが、誰かがそこにいるかのように宙を睨む。チグサは、そんなルキナの顔をチラッと見た後、小さく微笑んだ。
翌日、ルキナはベルコルに会いに行った。放課後の生徒会室。文化祭も終わり、生徒会が忙しい時期はとうに過ぎ去った。本当はベルコルも生徒会室に来る必要はないのだろうが、生徒会室に通っていないと気がすまないらしい。
「ミューヘーンさん、どうかした?」
ルキナが生徒会室に行くと、ベルコルが笑顔で迎えてくれた。ルキナはベルコルに近づき、会釈をした。
「以前お話していたことをお願いしたいんですけど」
ルキナがそう言うと、ベルコルは真剣な顔になった。
「ついにですか」
ベルコルはルキナが何を言いたいのかすぐに理解し、頷いた。
「じゃあ、さっそくだけど、今からでも大丈夫?」
「わかりました」
ルキナはベルコルと一緒に生徒会室を出た。そのまま二人は早足で外に出て校門に向かった。学校に常駐している馬車を手配し、乗り込む。
「でも、大丈夫なんですか?アポもなしにいきなり」
ルキナが馬車の中で心配そうにベルコルに話しかけると、ベルコルは大丈夫だと頷いた。
「父は、アポがあろうがなかろうが、必要ないと思えば会ってくれない」
「それって、あんまり大丈夫に思えないんですけど」
「そうだね。でも、大丈夫だよ。ミューヘーンさんが一緒だと言えば」
そう言って、ベルコルは申し訳なさそうにルキナを見た。
「口にするのは憚れることだけど…父は人間関係も自分と家にとってメリットがあるかどうかを基準に考えている。必要だと思えばとことん優しくするし、不必要だと思えば関わることを拒絶する。そうするよう、僕も教えられてきた。父は、ミューヘーンさんのことも、ノアルド殿下の婚約者だから……と」
最後の方は、ベルコルの声が小さくなっていった。あまりに下種な内容だったので、はっきり言うのをさけたのだ。
「気にしないでください」
ベルコルが「すまない」と頭を下げたので、ルキナは慌てて頭を上げさせた。
「バリファ先輩もそうだなんて思ってませんし、まだお父上にも会ってないので勝手な思い込みはしないようにしますから」
ルキナは、『りゃくえん』の情報から、ベルコルをメリットの有無で判断し、動く人間だと思っていた。たしかに、最初はそう見えた。しかし、実際はそんなことなく、とても心根の優しい人であるということがわかった。ルキナは、ベルコルを最低な人だと到底思えないし、ベルコルの父親に対してもマイナスの先入観を抱くのは良くないと思っている。
「まあ、私の家柄とかノア様関係で近づいて来る人はゼロではないですし、もうそういうものだって割り切ってますし」
ルキナが苦笑すると、ベルコルも少し笑った。どちらかといえば、ベルコルもルキナ側の人間だ。ベルコルは、第二貴族の家に生まれ、国内の誰もが知っているような病院の御曹司。下心を持ってベルコルに近づく輩は少ないはずだ。ベルコルも、ルキナの気持ちは少なからず理解できるだろう。
「類は友を呼ぶのは仕方がないのかもしれませんね」
ルキナが独り言のように呟くと、ベルコルが「え?」と聞き返した。
「友達が似た者同士になるのは、そういうのが理由かもしれませんね。同じような境遇なら下心とか腹の中を探る必要も、探られる心配もありませんから」
ルキナの言葉を聞いて、ベルコルは「たしかにそうかもしれない」と納得したように頷いた。ベルコルにも思い当たる節があるようだ。
同じものをもっている者に近づく意味はない。欲しいものを得られるわけではないから。自分と同じような身分、家柄の者とつるんでも、大きな得はない。だが、逆にいえばそれは、お互いに求め合うものがないという安心感を得られるということ。下心がないとわかっているから、腹を割って付き合えるのだ。たとえば、ルキナたち第一貴族の子供たちはなんだかんだよく一緒にいる。それは、結局、同じ第一貴族同士が一緒にいた方が都合が良いのだ。こういう家に生まれてしまった以上、単純に友情を信じるのは難しいものなのだろう。ただ、それをルキナは悲しいことだとは思わない。そういう世界が当たり前の家に生まれたのだから、そういうものだと割り切っている。
学校を出発して数十分。大きな病院の前で馬車がゆっくりと止まった。バリファ家が経営する一番大きな病院だ。
ルキナたちは馬車から降り、病院の中に入った。建物に入ると、ベルコルは受付に真っすぐ向かった。
「ベルコル・バリファです。父は今どちらに?」
ベルコルが受付のお姉さんに問いかけると、女性はすぐに「第一診察室にいらっしゃいます」と答えた。
「お呼びしますか?」
「はい、お願いします。その時、ルキナ・ミューヘーンさんも一緒だと伝えてください」
ベルコルはテキパキと用件を伝え、顔を上げた。後ろにいるルキナの方を見る。「行こう」と言っているようだ。ルキナはベルコルの傍に駆け寄った。
「それでは、院長室に行ってます」
ベルコルは最後にそう言い残して受付を離れた。ベルコルは自分の家のように病院の中を歩いていく。実際、ベルコルは自分の家と同じくらい、この病院に来ているのだろう。ベルコルの背中には一切の迷いがない。
ルキナたちは階段で三階まで上り、院長室の重厚な扉を開けた。質の良さそうな机と椅子が並べられている。
「病院の院長室、生まれて初めて来ました」
ルキナが興奮気味に言う。イメージ通りの黒色のソファを目の当たりにして感動する。
「そんなに夢に溢れた場所じゃないよ」
ベルコルはそう言いながらソファに座った。
「えー、でも、校長室とか社長室とか、ちょっと憧れちゃうじゃないですか」
ルキナもベルコルの隣に座る。
「たしかに、そういう気持ちはわからないわけではないけど」
「ですよね。校長室とか…社長室ももしかしたら、入れるかもしれませんけど、病院の院長室はそうそう入れるものじゃないですよ。医療関係者で、それなりに偉くないといけませんから」
「なるほどね。ミューヘーンさんの言う通り、院長室に入るのは難しそうだ」
ルキナとベルコルは顔を見合わせて笑う。
二人は院長室に、ベルコルの父、ケイリー・バリファが現れるのを待ったが、彼がここに来たのはルキナたちが病院に来てから一時間以上経ってからだった。だいぶ長いこと待たされたことになるのだが、二人で他愛のないことを話して笑っていたので、長時間待つことになっても苦ではなかった。
ケイリーは、白衣を着て、医師らしい恰好で現れた。
「はったりではなかったか」
院長室に来て、ルキナの姿を確認すると、ケイリーは最初にそう言った。ベルコルがケイリーと話したいばかりに嘘をついたのではないかと疑ったらしかった。
「お待たせしてすみません、ミューヘーンさん」
ケイリーはルキナの前に座って謝った。時間に追われているのか、ただ無意味な時間を過ごしたくないのか、ルキナに早く用件を言うように言った。ベルコルが隣のルキナをチラリと見て、小さく頭を下げた。父親の無礼を代わりに謝っているようだ。
「用件は一つ。お聞きしたいことがあって参りました」
ルキナはケイリーの目を見つめて言った。ベルコルと同じ緑色の目。しかし、目から感じる温度や空気は全く違う。容姿が似ていようと、中身は違うという証拠だろう。
「聞きたいこととは?」
「私の頭のことです」
ルキナがニコニコと笑いながら言うと、途端に、ケイリーが不機嫌になった。
「その話はとっくにすんだものと思っていたが」
「どうすんだと言うのでしょう。私は納得してませんよ。私、確信しているんです。自分に魔法がかけられたと」
「異常はないというお話でしたが」
ルキナの話をケイリーは早く終わらせようとする。だが、ルキナがそれを許すわけがない。
「その検査結果が信用ならないという話です」
ルキナは笑顔を崩さずに言った。意識的に笑顔でいるのは、感情を読まれないようにするため。コミュニケーション能力に長けている者は、相手の感情を掌握し、己の望むように誘導する力をもっていることがある。ケイリーもおそらくそういう類の人間だ。そう易々と感情を読まれるわけにはいかない。そんなルキナの様子を見て手強い相手と思ったのか、ケイリーはさりげなく深呼吸をした。下手なことを口走らないようにしているかのようだ。
「つまり、ミューヘーンさんは、当院の検査不備か結果の改ざんを疑っておられるわけですね?」
「その通りです」
「それはあなたの気にしすぎなのでは?異常なし。これが我々の答えです」
ケイリーはルキナの目を強く見つめた。異論は認めないと言っているようだ。しかし、ルキナはこの程度で折れたりしない。ルキナには強い味方がいる。
「何も、根拠もなしに言ってるんじゃありません。私たちは、私にどんな魔法がかけられたのか知っていますし、その魔法を解く術も知っています」
ルキナがそう説明すると、ケイリーは怪訝そうにルキナを見た。ルキナの言葉がはったりである可能性を考えているのだろう。
「そんなこと言われましても、何を求められているのかさっぱり」
ケイリーは肩をすくめた。知らぬ存ぜぬの姿勢を貫き通すつもりだ。
(いいわ。そっちがその気なら)
ルキナは、ケイリーの口を割らせるため、用意していた別の方法をとることにする。ルキナ一人で説得できるなんて最初から期待していない。
ルキナは、自分の左にいるベルコルの方を見た。ベルコルは、ルキナの視線に応えるようにこくりと頷いた。そして、覚悟を決めたようにケイリーを見た。
「父上、僕はあなたから、賢くあれと教えられました」
ベルコルがゆっくり話し始める。ケイリーはベルコルに期待の眼差しを向けた。息子がどんな言葉で説得を試みようとしているか興味があるようだ。
「父上の言う通り、賢くあることは、この世界で生き残るために必要なことでしょう。誰と付き合い、仲良くなるか。その差で生きやすさが大きく変わることも理解しています。しかし、僕は、賢さは意地汚く生き残るためのものではなく、正義を見出し、貫くことためのものだと考えます」
ベルコルはそれだけ言うと、じっとケイリーを見つめた。ベルコルが父親を説得するために用意した言葉は以上だ。ベルコルの言葉は、ベルコルにしか紡げない。ルキナには絶対にできない説得方法。だが、ルキナはこれでケイリーを説得できるのかと不安に思った。少し押しが弱いように感じたのだ。ルキナが心配そうに黙っていると、ケイリーが口を開いた。
「ベルコルが反抗したのはこれで二回目だ」
ケイリーは面白いものを見たと笑った。
ケイリーの言う一回目は、馬術を習いたくないと言った時。ベルコルは、厳しい父のもとで、貴族社会で生き抜くための術を身に着けつけてきた。その中に、馬術も含まれていたのだが、それまで従順に父の指示に従ってきたベルコルが反抗した。ベルコルは動物が苦手で、どうしても馬に乗ることができなかったのだ。ケイリーは、そんなベルコルは決して叱らなかった。ケイリーは息子を厳しく育てたが、逃げることもまた手段だと考えている。本当に嫌ならやらなくて良い。なにより、ベルコルが自分の意見を述べてくれたことが嬉しかった。
結論を言えば、ケイリーが折れた。ベルコルの説得は見事ケイリーの心を動かした。
「ベルコルの言う通り、賢さは正義に利用されるべきだ」
ケイリーはそう言って、ソファから立ち上がった。院長室に置かれている金庫を開け、中から何枚かの紙を取り出した。ルキナを検査した時のカルテだ。
「国令だとか何とか言ってな、嘘の検査結果を伝えろと言われた」
ケイリーが見せてくれたカルテには、当時の正当な記録が書かれていた。本来、このカルテや諸々の書類は没収されるはずだったのだが、ケイリーが目を盗んで金庫に隠したのだ。
「まあ、私も医者の端くれだ。患者に嘘はつけないと言ったら、国の奴が医者のフリをして代わりに言うって」
ケイリーが鼻で笑った。そして、顎をくいっと上げた。ルキナが手に持っていた紙を見ろということなのだろう。ルキナが手にしていたのは、ケイリーが言っていた国令が書かれた文書。ご丁寧に前国王のサインが書かれている。
「一応確認しますが、国に、王に背くことになることに関しては…」
「息子一人危険な道を歩かせるわけにはいかないだろう」
ケイリーは、ベルコルを見て意地の悪い顔をした。言っていることと態度が全く合っていない。これではまるで、ケイリーがベルコルを何かに陥れようとしているかのようだ。
「それに、私が動いた以上、危ない道にするつもりはない」
ケイリーはルキナに対してのご機嫌とりをやめたようで、いつの間にか敬語はなくなっていた。ルキナはその方が話しやすいと思った。今やルキナたちは国令に背いた運命共同体。他人行儀な敬語は邪魔なだけだ。
「バリファさん、こちら、持ち帰ってもよろしいですか?」
ルキナはカルテとその他の資料を持って帰りたいと言う。すると、当然のように、ケイリーがなぜかと理由を尋ねた。
「今の国王を全否定するつもりはありませんが、横暴なやり方が気に入りません。来る時に、その証拠として提示します」
ルキナは資料の束をひらひらさせた。もちろん、カルテをもっとちゃんとじっくり読みたいとも思っている。保管方法は考えなくてはならないが、とにかく持ち帰ることが先決だ。
「どうしてそこまで?ミューヘーンさんのように賢い人ならば、もっと他に方法があるだろうに」
ルキナが持って来ていたカバンに紙束をしまっていると、ケイリーが問うた。なぜあえて危険な綱渡りをするのかと尋ねる。たしかに、このような国に背くような手をとらなくても、ケイリーの言うようにもっと良い方法があるのかもしれない。しかし、ルキナの目的はただこのカルテを手に入れることだけではない。ルキナの目的はもっと先にある。これはただの通過点にすぎず、目的のためなら、ルキナは危ない橋もためらわずに渡る覚悟を持ち合わせているつもりだ。
「私はもう被害を被ってますから」
ルキナがにこやかに答えると、ケイリーは「それもそうだ」と満足そうに頷いた。ルキナの答えは具体的なものではなかったが、ケイリーはルキナの気持ちをそれなりに理解できたようだ。
用もすんだことなので、ルキナは学校に戻ることにする。
「それでは、今日のことはご内密に」
ルキナがソファから立ち上がると、つられたようにバリファ親子も立ち上がった。ルキナの言葉に「互いのためにそうするのが賢明だろうな」と、ケイリーがルキナに手を差し出した。ルキナはケイリーの手をとり握手を交わした。
ルキナたちは行きに乗ってきた馬車に乗り込んだ。まっすぐ学校に向かう。その馬車の中で、ベルコルがルキナにケイリーが味方につくという確信はあったのかと尋ねた。
「それなりにこちら側の人間だろうと思って話をしに行きましたよ、もちろん。危険を冒す覚悟があるのと、馬鹿みたいに危険にぶつかりに行くのとでは全然違う話ですからね」
ルキナが冗談っぽく言って笑うと、ベルコルは真面目な顔で頷いた。ルキナの言葉が完全に冗談ではないことを理解している。
「大丈夫ですよ、バリファ先輩。私が一緒だと聞いていながら、のこのことあそこにいらっしゃる時点でこちら側の人間です。私が何のために会いに来たのか予想はできていたはずですから」
ルキナがそう言うと、ベルコルは「それを聞いて安心した」と笑った。ベルコルは、実の父親が敵対することにならずにすんだことに心底安堵している。そんなベルコルに、ルキナは意地悪にも「この程度で音を上げないでくださいね。まだ始まったばかりですよ」と言った。ベルコルは急に顔を引き締め、「わかっている」と応えた。
そう、ルキナたちによる反撃はまだ始まったばかりだ。




