無駄だとわかってるんデスケド。
戴冠式の次の日。ルキナはアーウェン家を訪ねていた。チグサと情報を共有し、状況確認をするためだ。チグサがルキナを呼び寄せたのだから、きっとチグサもシアンを奪い返す心づもりなのだろう。チグサも諦めたわけではないとわかり、ルキナは嬉しかった。
ルキナがアーウェン家に行くと、先にタシファレドとユーミリアが来ていた。二人のこともチグサが呼んだらしい。チグサ曰く、冷静に話ができ、信用できる人たちだそうだ。
「チグサ嬢が、俺たちを呼んだのは十中八九、リュツカのことだろうと思うけど、何をするつもりなんだ?」
客室で机を囲んで座ると、最初にタシファレドが切り出した。チグサに呼び出された三人とマクシスは揃ったのだが、肝心のチグサはまだ来ていない。タシファレドは、一番事情を知っていそうなマクシスに尋ねた。
「僕もまだ何も聞かされてないよ」
マクシスも、具体的にチグサが何を話し、何をなそうとしているのか聞かされていない。一番近くにいるマクシスも他の三人と条件は同じ。
「にしても、急に騎士なんて。一言でも言ってくれたら良かったのにな」
タシファレドが「信用されてなかったかな」と言ってソファの背もたれに体重を預けた。口調は軽かったが、ショックは大きかったようで、シアンに信用されていなかったかもしれないという考えに陥って、心底残念そうにしている。
「ルキナは何か知ってたの?」
「そんなわけないわ」
マクシスがルキナに、シアンに騎士となる意思があったことを知っていたのか尋ねた。あのパーティで、シアンのことを事前に知っていたような反応をしていたルキナの態度が気になったらしい。しかし、ルキナがシアンが騎士になったことを知ったのはみんなよりほんの少し早かっただけ。
もし、ずっと前から知っていたら、こんなことになる前にもっと的確な対処をしていた。例えば、戴冠式にシアンを参加させなかっただろうし、ルイスの呼び出しも無視させて城に近づけさせなかっただろう。
ルキナが間髪入れずに返事をしたので、マクシスは謝るように静かに「そうだよね」と相槌を打った。ルキナが怒ったと思ったようだ。たしかに、ルキナは少々気が立っている。突然の出来事にいろいろと頭が追いついていないのだ。でも、マクシスにあたっても意味がないことはルキナも理解している。
「はぁ…。」
ルキナは大げさにため息をつき、気持ちを落ち着かせた。ユーミリアが心配そうにルキナを見つめている。
「馬鹿みたいな話だけど、私もこんなことになるとは思ってなかったのよ」
ルキナは努めてゆっくり冷静に話す。感情的に話しては何も解決しない。そんなルキナの声に、三人が耳を傾ける。
「こんなに一緒にいる時間が長かったのにどうして気づかないんだって話だけど…でも、もし、シアンに騎士になりたいって気持ちがあったら気づけたと思う」
「気持ちがあったら?」
ルキナの発言に、タシファレドが首を傾げた。ルキナの言い方では、シアンはなりたくて騎士になったわけじゃないと捉えることができる。タシファレドは、シアンが自分で騎士になると決めたと考えているので、ルキナの言い間違いではないかと疑う。しかし、タシファレドの解釈は何も間違っておらず、ルキナも言い間違えたつもりはない。ルキナは、この展開にシアンの意思が働いていないと、ある程度の自信をもって主張している。
「シアンは本当になりたくて騎士になったんじゃないと思う。私は、誰かに脅されたかもしれないって考えてる」
ルキナの主張に、タシファレドは少し驚いた。全くその可能性を考えていなかったわけではないようだが、タシファレドの中で、シアンは人に無理矢理従うような人間じゃないというイメージがあった。どんなに権力がある相手でも、シアンなら脅迫にも負けずに立ち向かうだろうと思っていたのだ。
「よりによって、あのリュツカが脅される…?」
タシファレドは思わず呟いた。ユーミリアとマクシスはタシファレドほど驚いていない。ルキナの考えはもっともだと、もはや同意しそうな態度だ。でも、まだ肯定も否定もできる段階じゃない。誰も、ルキナの意見に同調も反対もできずにいる。そんな中、「ルキナの言っていることはほぼ正解」と肯定の声が響いた。
「チグサ?」
ルキナたちが声をした方を見る。すると、そこには、白銀の髪と赤色の右目をさらしたチグサが立っていた。
「チグサ、急にどうしたの?」
ルキナは椅子から立ってチグサに駆け寄った。チグサは強い目力でルキナを見つめ返す。
「安全なところにいるのはやめた」
チグサは、自分の素性を隠し、リュツカ家の血筋の者として堂々と生きることを決意した。これはチグサにとってのけじめだ。シアンがルイスの手に落ちてしまった以上、チグサはシアンを守り切れなかったことを認めざるを得ない。そんな状態で、自分だけ隠れて安全なところにいるというのは甘えた行動だ。
「姉様…?」
マクシスが、天地がひっくり返ったかのような出来事に頭がおいつかず、やっとの思いで声を絞り出した。銀髪の少女から聞きなれた姉の声が聞こえてくるのに、とてもチグサ本人だと信じられなかったようだ。ルキナとチグサのやり取りを聞いて、やっと目の前にいる少女がチグサであるとなんとなく理解できてきたようだ。タシファレドは顎がはずれてしまうのではないかというくらい大きく口を開けている。ユーミリアは他二人同様、この事実を初めて知ったのだが、長い時を生きてきたためか、このようなことが起きても、そうそう驚いたりしない。
チグサはマクシスの隣に座り、皆が落ち着きを取り戻すまで静かに待った。しばらくして、マクシスが「姉様と本当に血が繋がってなかったんだ…。」と嬉しそうに言い、タシファレドが「チグサ嬢、そのような美しい本当の姿を驚きました」と口説き始めたところで、チグサが口を開いた。
「シアンはリュツカ家の血に脅かされている」
チグサは短く、はっきりと述べた。
「呪いみたいなもの。リュツカ家は王族に逆らえない。それは昔から決まっていたこと。だから…。」
チグサは皆をおいてスラスラと話していたが、不意に言葉を止めた。「だから」に続く言葉がなかなか出てこない。
「その呪いっていうのは解けるんですか?」
チグサがちっとも続きを話そうとしないので、痺れを切らしたユーミリアが尋ねた。チグサは言いかけていたことを話すのはやめ、ユーミリアの問いに頷いて答えた。
「血の契約だから、血からその力をなくすか…。」
チグサが調子よく話し始めたが、またすぐに言葉につまった。チグサからは話そうとする意志が感じられるのだが、どうしても続きが出てこない。四人が心配そうに、怪訝そうに、チグサを見守る。チグサは、諦めたように口を閉じ、皆の顔を見た。
「私も制約がかけられている。これ以上は話せない」
「制約?」
チグサはさっきから言葉につまっているのには理由があると言う。しかし、制約と言われてもピンとこない。ルキナがさらなる説明を求めると、チグサは立ち上がり、ゆっくり深呼吸をした。
「国王ルイスの本当の正体は…!」
チグサがいきなり早口で話し始めたかと思うと、急に苦しそうに右目を手で押さえ始めた。
「姉様!」
異変に気付いたマクシスがチグサの両肩を支える。チグサは痛みに耐えるように下唇を噛みしめた。
「え?」
ルキナはチグサが押さえている目を見て驚いた。チグサの目のあたりを青い炎が包んでいた。炎は目を押さえている右手すらも包み込み、チグサを苦しめた。十秒ほど炎は燃え続けたが、次第に小さくなり、やがて消えた。チグサが目から手を離し、チグサを支えるマクシスの手に重ねた。大丈夫だと言っているようだ。
チグサはマクシスに支えられながらソファに座り、一息ついた。あまりの出来事に、皆、呆然としている。
「王族に…ルイスに逆らうとこうなる」
チグサは何事もなかったかのような態度で言った。いつも通りの落ち着いた静かな声。とても身を挺して制約の説明をした人物の態度じゃない。チグサの感情の起伏が大きくないのは周知の事実だが、時々、その度が過ぎているように感じられる。
(青い炎…)
ルキナは、チグサの身に起った一瞬の出来事を頭の中で繰り返した。チグサは、リュツカ家の人間は王族と血の契約を交わしており、それは代々受け継がれているのだと言った。逆らえば、青い炎で焼かれる。チグサの場合、ルイスにとって不利になりそうな事柄を口留めされており、何か秘密を暴露しようとすれば、青い炎による罰を受ける。おそらく、シアンも血の契約によりルイスに逆らえない状態にある。シアンを救い出すには、その血の契約を何とかしなくてはならないということだろう。
だが、ここで一つのことに引っ掛かった。シアンの両親の話だ。リュツカ家の屋敷は、シアンが四歳の時に火事になっている。でも、普通の火事じゃない。屋敷を包み込んだのは青い炎だった。しかし、屋敷はどこも焼けておらず、綺麗に残っていた。たしかに炎は上がっていたのに、屋敷も何も燃えなかった。しかし、その事件でシアンの両親は行方不明になっている。現在、二人ともその火事で死亡としたと処理されている。死体も何も見つかっていないのに。
「それじゃあ、シアンの両親は、誰かに逆らって、あの炎に焼かれてしまったの?」
ルキナは、真実を知る恐ろしさに気分を重くしながら、チグサを見つめた。チグサはこの問いに答えられなかった。これも制約されている。ただ、寂しそうにルキナの顔を見た。これだけで正解だとわかった。さっきチグサが「だから…」と言いかけていたのは、このことだったかもしれない。
「罰を受けるのは私たちだけ」
チグサは目を伏せて言った。チグサがどういうつもりでこのような発言をしたのかは正確に把握できなかったが、ルキナには「青い炎はリュツカ家の人間しか焼かない」「青い炎はリュツカ家の人間を灰すら残さずに消してしまう」と言っているように聞こえた。
ルキナは、リュツカの一族に与えられた運命の重さに胸が苦しくなった。しかし、肝心なのはその呪いの解き方だ。
「じゃあ、『血から力をなくす』だっけ…っていうのはどういうことか話せる?」
ルキナが尋ねると、チグサは頷いた。
「私たちの血は、人間の血と竜の血が混ざっている」
ルキナの読み通り、チグサはこの話については口留めされていないようだ。チグサは制約に邪魔されることなく話し始めた。でも、それはルイスにとって重要な話ではないということも意味するのだが。
「リュツカ家の竜の血は、少しずつ薄まっている。力を使えば、その血の力もなくなっていく。魔法も使えなくなって、体も動かなくなっていく。私の父、祖父母も弱っていった。他の皆もそう。私たちは短命な一族。でも、それは私たちにとって救い。あいつらに従わなくても良いという許し」
チグサは淡々と言った。チグサも、その先祖も、王族との血の契約は苦しいものと認識しているようだ。だから、血の力をなくす(=死)を救いだと言い表した。
チグサの話を聞いて、ルキナたちは表情を暗くした。とても希望を見出せる話じゃなかった。特にマクシスは、自分の愛する姉が短命なのだと聞き、誰よりもショックを受けた。チグサはずっと前から己の人生の短さを受け入れていたようだが、周りの人間はそうではない。
「この左目もそう」
チグサは場の空気を理解していないわけではないだろう。救いようのないほど重く沈んでいるのに、チグサはそれを無視して話を続けた。
「半分の力しか残ってないから、呪いも半分」
チグサが左目の横を指でトントンと叩き、左目に皆の視線を集中させた。チグサの左目は、真っ赤な右目と対照的に、白っぽい灰色になっている。この左目も、もともとは赤かったらしい。チグサが言うには、力を使いすぎたのが原因らしい。
(力を使いすぎたって、八歳より前に?)
ルキナがチグサと初めて会った時点で、チグサの左目は灰色になっていた。その頃に力を使いすぎたというのは、何かあったとしか考えられない。やはり、例の火事の時なのだろうか。
「血の契約って、契約そのものを解除できないのか?」
ルキナが一人で頭を悩ませていると、タシファレドが話を進めていた。
「たぶん無理。普通の契約じゃない」
チグサがすぐに返答し、正攻法は使えないと言った。本当に使えないのだろう。チグサはこの話に関して制約を受けていない。普通の魔法による契約や普通の血の契約なら解くこともできただろう。現代、使用が禁止されている魔法による契約は、契約者本人でなくても解除が可能になっている。しかし、リュツカ家と王族の間にある契約は特殊なもののようだ。
「チグサ嬢、俺たちに何をしてほしいんですか?」
契約の解除ができないと聞き、タシファレドは、なぜ自分たちがチグサに呼ばれ、このような話を聞かされたのかを尋ねた。チグサが意味もなく、このメンバーを集め、話をしたとは思えない。タシファレドはチグサに何を期待されているのか予想がつかないので、素直に真正面から問うた。
「とりあえず、秘議会を止めないと」
「ヒギカイ?」
チグサの返答はシンプルなものだったが、タシファレドは秘議会のことを何も知らないので、チグサの言っていることが理解できない。
「秘議会は政府の裏組織。姉様は、秘議会がルイス様やシアンをこんなふうにしたって考えてるんだ」
チグサの代わりにマクシスが答えた。秘議会について基礎知識すら与えられていないのはタシファレドだけなので、ひとまず秘議会の具体的な説明は後回しにする。
「あのさ、チグサ。その制約とか罰とか、血の契約のせいだって言ったわよね?」
ルキナはチグサに気になっていたことを確かめたくて、順番に一つずつ確認しながら話を進めていく。
「解除できないって聞いてるから微妙な気もするんだけど、一応、血の契約ではあるんでしょ?でも、ほら、血液検査ってあったじゃない。普通の契約じゃないって言っても、そこで反応しないことはないんじゃないの?」
ルキナの問いに、チグサは少し微笑んで頷いた。どうやらルキナは正解を引いたらしい。もしチグサが教師だったら「良い質問ですね」と褒めてくれそうだ。
「先生、どういう意味ですか?」
ルキナとチグサがわかりあってるふうだが、ユーミリアには全然理解できなかった。ユーミリアはもっと嚙み砕いて教えてほしいと言う。
「結果の改ざんが行われてるって話。シアンも血液検査してるのよ。中等学校に入学してすぐに。みんなやったと思うけど」
ルキナが言うと、ユーミリアが「あー」と中等学生の頃のことを思い出し、ルキナたちが何を話していたか理解したように頷いた。
「つまり、本来なら、血液検査で血の契約が検出されるだろうって話ですね」
ユーミリアがニコニコと言う。ルキナがその通りだと頷くと、さらに嬉しそうに微笑んだ。こんなふうに明るく楽しく話せる内容ではないはずだが、ユーミリアのおかげで、少し空気が軽くなった。
「国家魔法技術省か」
タシファレドが唸るように言った。その血液検査も含め、魔法に関する国家事業は国家魔法技術省が担っている。国家魔法技術士と呼ばれる魔法の専門家が働く場所だ。
(サイヴァン先生のいるところ)
サイヴァンが怪しいと散々言われてきた。素性もわからない怪しい人だと。秘議会に関わっているかもしれないと。もし、彼が本当に秘議会の関係者だったら、血液検査の結果を書き換えることは不可能じゃない。
ルキナは深刻な顔になって、チグサを見た。ルキナの考えを呼んだように、チグサがこくりと頷いた。やはり、サイヴァンが黒の線で話が進みそうだ。
その後もいくつか話をし、お昼少し前に解散した。あまり長いこと話していると、誰かに怪しまれかねないからだ。
ルキナは家に帰ると、真っすぐ自室に向かった。息の詰まる話をして来たばかりなので、一人でゆっくりしたかった。しかし、その途中、すれ違った使用人たちがなぜかそわそわしていることに気づいた。
(シアンがいる!?)
ルキナは直感的にそう思った。本当に直感で感じただけなので、根拠はない。ルキナはシアンの部屋に走った。二階の角部屋。ルキナはシアンに会ったら何を最初に言おうか考えながら急いだ。
バンッと勢いよくドアを開けた。しかし、そこにシアンの姿はなかった。それどころか、シアンの荷物がない。まるで最初からここにシアンはいなかったかのように、シアンのいた痕跡一つ残らず片付けられている。
(一足遅かった?)
ルキナはシアンと入違ったのかもしれないと思った。でも、ここで諦めるわけにはいかない。ルキナは屋敷の中を走り回り、シアンの姿を探した。
「お父様!」
「ルキナ!?」
シアンの姿を見つけられず、ルキナは父親の書斎を訪ねた。四頭会議に行ってるはずのハリスが書斎にいて、窓の外を眺めていた。ハリスがルキナに何事か尋ねたが、ルキナはそれを無視した。今の一瞬で全て理解した。やはりシアンは帰ってきている。だが、今出て行こうとしている。ハリスがミューヘーン家に戻ってきたのは、シアンの雇用契約解消の手続きをするため。窓の外を見ていたのは、窓からシアンの姿を見送ろうとしていたからだろう。今さっきまでシアンはハリスの書斎にいた。本当にあと少しのところで入違ったようだ。
ルキナは走った。ドアを乱暴に開け、外に飛び出した。庭にはシアンがいて、シアンが向かっている門の前には国章がついた馬車がとまっていた。
「命令よ、シアン。止まりなさい」
シアンが走って逃げようとしていることに気づいたルキナは、咄嗟に命令した。シアンがちゃんと止まるか賭けだったが、シアンはルキナの命令に従った。
ルキナは立ち止まっているシアンのもとへ落ち着いて歩いて近寄る。シアンはもうミューヘーン家との雇用関係になく、ルキナの命令を聞く必要はない。それでもシアンがルキナの言葉に従うのは、やはり最後の別れをちゃんとすべきだと考えたからだろうか。シアンはルキナに見つからないようにこっそり出て行こうとしていたが、結局出て行くところをルキナに見つかってしまった。それなのに、ルキナの制止を振り切って行ってしまうのは、少々無理がある。
「シアン、なんで私には何も言わないの?」
ルキナは、意識的に声を落ち着かせる。ここで感情的になったら負けだ。シアンと冷静に話せなくなってしまう。本当はすごく怒っているし、泣きたいくらいだ。でも、そんなことをしたところでシアンが出て行くのはやめない。
「…お嬢様には関係のないことだからです」
シアンはルキナに背を向けたまま答える。これはシアンなりの拒絶だろうか。シアンはルキナに関係ないと言うが、こうやって言われると、むしろ関係があるのではないかと感じられる。
「私はどうすれば良いの?」
ルキナは、この問いをシアンにすべきではないとわかっている。それでも、聞かずにはいられなかった。
シアンは血の契約に縛られ、ルイスのところへ行くのは避けられない。しかし、これを最後の別れにするつもりはない。だから、ルキナは目指すべき指標が欲しかった。ルキナはずっと自分の考えを強くもってきたつもりだった。いつだって人を先導してきたつもりだった。でも、それは違った。シアンがいなくてはルキナは駄目なのだ。しばらくシアンと会えないのなら、シアンに何かゴールを決めてほしかった。
「お嬢様は、何もしなくて良いですよ。今までと変わらず、笑っていてくれれば」
ルキナの期待も虚しく、シアンは何も道を示してはくれなかった。
(シアンは何もわかってない。シアンがいなきゃ笑えないのに)
シアンがまた歩き始める。もう必要なことは話したと思ったのだろうか。
だが、ここでシアンを逃がすわけにはいかない。
ルキナは、シアンの腕を掴んで引き留める。ぐいっと力を込めて引っ張ると、シアンがルキナの方を見た。シアンは真っ赤な瞳でルキナの姿を真っすぐ捕らえた。その時、ルキナは激しい頭痛に襲われた。
「うぅ…。」
ルキナは頭を押さえて顔をしかめる。
(最近は調子良かったのに)
ルキナはなぜこのタイミングなのかと、己の頭痛を恨む。
頭が痛い。でも、引き留めなくてはシアンが行ってしまう。せっかく話せたのに、望まぬ形での別れになってしまう。
「お嬢様、何も悲しむことはありません。もとに戻るだけです。出会う前に戻るだけです。きっと簡単なことですよ」
シアンがルキナを真っすぐ見て言った。ルキナが頭痛に苦しんでいるのを見て、悲しそうな顔をしている。
「そんな顔しないでください」
シアンが寂しそうに言った。ルキナの悲しそうな顔を見たくないようだ。でも、それはルキナも同じだ。シアンの悲しんでいる顔など見たくない。
「さようなら」
シアンは別れを告げ、馬車に向かって歩いた。ルキナが頭痛に苦しんでいるすきに、邪魔されないうちに去って行こうとしている。
(止めなきゃ。今止めないと、会えなくなる)
ルキナは大きく息を吸い、そして言った。
「シアン、命令よ!行かないで!」
ルキナは涙を流す。この涙が頭痛によるものなのか、シアンとの別れを惜しむものなのか、それとも両方なのかわからない。でも、今はそんなことどうでも良い。
シアンはリュツカ家に生まれ、こうなる運命にあった。それは避けられない運命だったかもしれない。今、こうしてルキナが言葉で引き留めても何も解決にはならない。それでも、ルキナはシアンを引き留めずにいられない。
シアンは、ルキナの声を聞いて足を止めた。ただ、後ろは振り向かない。背中から強い意志が感じられる。
「申し訳ありません、お嬢様。その命令だけは聞けません」
シアンは、そう言ってまた歩き始めた。これが最後だ。ルキナもシアンがどういうつもりで立ち止まったのか理解した。これ以上シアンの名前を呼んでも、シアンは止まってくれない。シアンはルイスのところへ行ってしまう。
ルキナはその場に崩れ落ちた。我慢しきれず、声を上げて泣く。
(私、シアンなしじゃ生きられない。もうとっくの昔にわかってたのに)
涙が止まらない。子供みたいに泣きじゃくるルキナのもとへ、見かねたメアリが駆け寄ってきた。ぎゅっと強く抱きしめ、部屋に戻るように言った。そして、ゆっくり寝ると良いと。寝て起きたら、きっと心は少し軽くなっているはずだから、と。
ルキナはメアリの言うように自室に戻ってベッドに横たわった。それでも涙は溢れ続けたが、そんな現実から逃れるように眠った。寝ている間は現実を受け入れずに済む。そうして、ルキナは夏の間、部屋から出なくなった。




