雰囲気も大事デスケド。
ルキナは今日最後の授業を終え、溜まった疲れに押しつぶされるように机に突っ伏した。さっきまで人がいた講義室も、もうルキナしかいない。ルキナはカバンから一袋のクッキーを取り出した。目の前に置き、頭を机に預けたまま見る。
(ミスコンのことを考えないとなのに)
ルキナは、明日の生徒会までにミスコンについての説明の準備を済ませておかなければならない。だが、今、ルキナの頭を悩ませているのはこのクッキーだ。これを解決するまで、他のことは考えられない。
「先生、お疲れですか?」
ユーミリアがトイレから戻ってきて言った。当然のようにユーミリアが隣に座った。毎週、月曜日には必ず女子部の活動をしている。だが、月曜日のルキナたちの授業は部活時間より早く終わってしまう。ルキナたちは、その部活までの一限分の時間をよくこの講義室で過ごしている。ルキナたちの受けている授業の後、この部屋が使われることがないことを知っているのだ。
「あれ?それは…?」
ユーミリアが首を傾げる。渡す予定だった人以外のために用意してあった予備は、さっきユーミリアが全部食べた。もう渡したいと思う人には会わないだろうから、と欲しがってたユーミリアに予備全てをあげたのだ。つまり、ここにおいてあるのは予備ではなく、もともと渡そうと思っていた人宛て。ユーミリアは、ルキナがみんなにクッキーを渡しているところを見ていた。まだ渡していない人がいるとは思わなかったのだ。
ルキナは、顔を下に向けて、机に額と鼻を押し付けた。
「シアンの分」
ルキナの言葉を聞いて、ユーミリアは驚く。
「クッキーを作ったのは、あの人にあげるためだったんじゃないんですか?昨日も一緒に馬車で学校に戻ってきましたよね。なんでまだあげてないんですか?」
クッキーを作ったのは昨日の昼前。シアンにサプライズで渡そうと思っていたので、シアンにはルキナの買い物を任せ、家から追い出した。その間にクッキーを作った。次にシアンに会った時には、もうクッキーを渡せる状態にあった。シアンには一番にあげられるはずだったのだ。
「そうなんだけど。なんかあげづらくて」
ルキナも、昨日のうちに、なんなら出来立てをシアンにあげるつもりだった。でも、いざ渡そうとしたら怖気づいてしまったのだ。
「どうしてですか?」
当然、ユーミリアも疑問に思った。ルキナは、ユーミリアの疑問に答えるため、机から顔を離した。
「その…なんて言うか…受け取ってもらえなかったらどうしようとか考えちゃって」
ルキナが不安げに言うと、ユーミリアが困ったような顔をした。ルキナからそのような答えが返ってくるとは予想していなかったのだ。
「なんであの人が先生のクッキーを受け取らないんですか」
ユーミリアは、ルキナの思考回路が理解できずに頭を抱える。シアンが恋愛的にルキナを好きかどうかわからなくても、彼がルキナのことを大切に思っているのは、誰だって知っている。シアンがルキナからの贈り物をないがしろにするわけがない。そんな当たり前のことで悩んでいるルキナを、ユーミリアは理解できない。
「だって、きっとシアンは今年もたくさんもらってるわ。今さら私があげたところで…」
「何言ってるんですか。同じクッキーでも、作った人、渡した人によって違うに決まってるじゃないですか。しかも、あのシアン・リュツカですよ。先生がくれたものを喜ばないわけないじゃないですか」
「そうかしら」
「そうですよ」
そこまで言われても、ルキナは自信をもてない。ユーミリアは、椅子から立ち上がって、ルキナの脇の下に腕を通した。
「ほら、悩んでる暇があったら渡しに行きましょう」
ユーミリアはルキナを立たせて、クッキーを手にもたせた。
「この時間はたしか魔法科の方の図書室で勉強してますよね」
「ユーミリア、ちょっと」
ユーミリアは、自分とルキナのカバンを持ち、もう片方の手でルキナの手首を掴んだ。そのままユーミリアはシアンのいる図書室を目指して歩き始めた。
「なんでシアンのいる場所を知ってるの?」
「イリヤがしょっちゅう今日はあの人と何をしたとか報告にくるんです。だから、だいたいの行動範囲はわかってるっていうか。あ、安心してください。この時間、イリヤは一級生の必修科目でいませんから」
「そういう心配はしてないけど」
ユーミリアはルキナと話しながらぐんぐん進む。このスピードではあっという間に到着してしまう。ルキナの心の準備もできていないのに。
「雰囲気作りって大事じゃないですか」
ユーミリアは、ルキナが逃げないようにするためか、手首を掴む手に少し力を込めた。ルキナはためらいのない背中を見つめる。
「雰囲気?」
「イリヤに邪魔されたら厄介でしょう?」
「邪魔って。クッキー渡すだけなんだけど」
「でも、先生、そのクッキーを渡すだけのことに随分と時間をかけていること、わかってますか?」
「そうだけど」
「私はただ場所づくりをするだけで、その先どうするかは、先生の自由ですよ。ただの私のお節介です。先生がなぜクッキー一つで悩んでいるかも、なんとなく想像してますが、聞きません。先生から話してくれるのを待つっていう約束は守りますから」
ユーミリアは、ルキナの中での変化に気づいているらしい。でも、そのことを無理に聞き出そうとするつもりはないと言う。
「…。」
ルキナは黙った。何も言えなかった。まだ自分の中でも整理できていないものをユーミリアに話すことはできない。
「ほら、先生。シアン・リュツカですよ」
ユーミリアが急に立ち止まって、図書室の手前のソファ席を指さした。いつの間にか目的地に到着していたらしい。
シアンがソファに座って本を読んでいる。この図書室は魔法科の建物の奥地にあり、魔法科の生徒でもほとんど使わない。しかし、他の図書室と違い、ソファの席がいくつもあり、くつろぐには最適な場所だ。静かな場所が好きな人にとって隠れスポット的な場所となっている。この時間は、一人が好きで、授業がない生徒たちはさっさと寮に帰ってしまうので、ここにくる生徒はほとんどいない。だからこそ、シアンはここを気に入って利用しているのだろう。
「良かったですね、先生。今なら貸し切り状態。シチュエーションはばっちりです」
「ばっちりって何よ」
ルキナたちが話していると、シアンが二人に気づいた。静かな場所で話声がしたのだから、気づいて当然だろう。
「お二人がここに来るのは珍しいですね。何かあったんですか?」
シアンがソファから立ち上がって近づいてきた。ルキナはわたわたして、ユーミリアの背中に隠れた。が、ユーミリアがルキナを引っ張って、自分の前に出した。
「え?あ…。」
シアンがどんどん近づいて来る。ルキナは混乱して、ユーミリアに文句を言うことも、助けを求めることもできなかった。
「それでは、先生、部活が始まる前にはお迎えにあがりますので」
ユーミリアがびしっと敬礼する。そして、ルキナが引き留めるよりも早く、一人、走り去って行ってしまった。シアンを前に、ルキナは一人残されてしまった。今あるのは袋詰めした手作りクッキーだけ。
「…う…あ…それじゃあ、シアン、また今度」
結局、ルキナは逃げるという選択肢を選んだ。シアンに手を振り、ユーミリアの消えた方向に向かって脚を動かす。しかし、逃げ切ることは叶わなかった。シアンは、ルキナが逃げる前に、腕を掴んで引っ張った。もちろん、ルキナのことを傷つけないように力は弱く、優しかったが、動きはスムーズだった。ルキナを壁際に引き寄せると、シアンは壁に手をついて退路を奪った。
「ナチュラルにこういうことしてくるから駄目なのよ、シアンは」
シアンに壁ドンされ、ルキナは混乱のあまり、思わず変なことを口走った。シアンの身長はルキナより少し低く、壁ドンをするには適した身長差ではないことや、壁ドンが世間的にもう古いと言うことなど、関係ない。ルキナは、ドッドッドッドッと鼓動が速くなっていくのを感じた。
「やっぱり、僕、何かしてしまいましたか?」
シアンが落ち込んだように言う。自分がルキアに壁ドンしていることが頭から抜け落ちているのか、シアンは普通に会話を試みている。
「え?」
ルキナはシアンが何を落ち込んでいるのかわからず、聞き返した。
「一昨日ぐらいから、ずっと避けてますよね、僕のこと」
シアンは、ルキナに避けられていることにショックを受けていたようだ。そして、その原因は自分にあると思っている。
「そんなこと…なくもなくもなくもない?」
「どっちですか。まあ、何かあったんじゃなければ良いんですけど」
ルキナは誤魔化すようにきょとんとしてみせた。すると、シアンは自分の勘違いだったのかもしれないと思い至り、ルキナを開放した。
「お嬢様も、どこか行く予定があるって言ってましたよね。引き留めてすみませんでした」
シアンはそう言ってソファに戻って行った。読みかけの本を読み始めた。
ルキナはしばらく読書をするシアンを見ていたが、覚悟を決めてシアンに近づいた。そして、シアンの隣に腰かけた。シアンはびっくりしたようにルキナのことをチラリと見たが、すぐに本に視線を戻した。
(どうしょう)
ルキナは顔が熱くなるのがわかった。さっさとクッキーを渡して立ち去りたかったが、どうやってクッキーを渡せば良いのかわからない。
ルキナはドキドキする胸を落ち着かせようと、目を閉じてみた。それでもやっぱり心臓はうるさい。目を開けて、ふとシアンの方を見た。シアンはルキナのことなど気にしないで、読書を続けている。頭の中では何か考えているのかもしれないが、少なくとも、外からは何も気にしていないように見える。
シアンを見たらなんだか落ち着いてきた。ルキナは一度深呼吸をし、シアンの名前を呼んだ。シアンが本を下ろしてルキナの方を見た。
「ほんとはファレンミリーで渡すつもりだったんだけど」
ルキナはクッキーをシアンに差し出す。クッキーを渡す覚悟はできたが、まだ自信はない。ルキナはシアンから顔をそらす。
「ありがとうございます」
シアンは、ルキナからファレンミリーに贈り物をもらえるなんて思っていなかったので、少し驚いた。シアンは、ルキナからクッキーを受け取り、大事そうに両手で包む込んだ。
「い、一応、手作りなんだけど、前あげた時よりは上手くなってると思う。あ、でも、女の子たちから飽きるくらいいっぱいクッキーもらってるだろうし、捨ててくれても良いから」
「食べますよ」
ルキナは緊張のあまり、思ってもないことまで口走ってしまった。でも、シアンは真っすぐルキナを見て、捨てるつもりはないと言った。
「…うん」
ルキナは、シアンの何気ない言葉が嬉しくて、下を向いた。下を向いていないと、にやけている顔がシアンに見られそうだった。
「ここって飲食して良かったでしたっけ」
シアンが独り言のように呟いて、キョロキョロと周りを確認した。図書室の近くの席ではあるが、図書室の中ではない。図書室とはガラスで仕切られている。
シアンは、飲食可能と判断し、クッキーの袋を開けた。そうして、袋から一枚取り出すと、口に入れた。さくさくとクッキーを噛む音が聞こえてくる。
「おいし?」
ルキナは、シアンの感想が聞きたくて、顔を横に向けた。シアンの顔を下から見て、笑顔を作る。だが、緊張して表情がこわばってしまったので、笑顔は少々ぎこちなくなってしまった。ルキナがはにかんで問うと、シアンはスマートに「美味しいですよ」と答えた。ルキナはまたすぐに俯いた。隣からはクッキーを食べる音が聞こえてくる。
どれくらい時間が経っただろうか。ルキナはずっとうつむいたまま、シアンの隣に座っていた。シアンはクッキーを食べ終え、読書に戻っている。クッキーをシアンに渡せた安堵からか、ルキナは急に眠気に襲われた。ルキナは、欠伸をし、うとうとし始めた。
「寮に送って行きましょうか?」
寝るなら寮に戻った方が良いだろうとシアンが言う。しかし、ルキナは首を振る。
「ううん、いい。この後部活だから」
「そうですか」
「うん」
部活の時間まであとどれくらいあるのかわからないが、おそらく寮に行って仮眠をしてくるほどの余裕はないだろう。このままここでユーミリアが約束通り呼びに来るのを待った方が良い。
「肩、使いますか?」
ルキナがかっくんかっくんと頭を揺らしていると、シアンが言った。ルキナは遠慮なくシアンの肩に頭を乗せた。目を閉じればすぐに眠りの世界におちそうだ。なんだか時間がゆったりと進んでいる気がする。
「シアン」
「はい」
ルキナが名前を呼ぶと、シアンがすぐに返事をした。耳がシアンの体に触れているからか、シアンの声がいつもと違って聞こえた。
(シアンは私のこと、好き?)
以前は、シアンは自分のことが好きだと確信をもっていたのに、自分の好きを自覚した途端、シアンも自分と同じ気持ちなのか自信がなくなってしまった。
「なんでもない」
ルキナは本当に聞きたいことは聞けないんだと思い、口を閉じた。
「そうですか」
「うん」
シアンが本のページをめくる音がする。シアンは本の世界に入り込んでしまったのだろう。すぐ近くにいるのに、なぜか遠くの存在に感じる。
(これが、切ないってことかしら)
心臓がきゅーっとする。なんだか涙が出そうだ。そうして、ルキナは、切ない気持ちを抱えたまま眠りの世界へとおちた。




