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ついにご対面デスケド。

 週明け初日の昼休み、ルキナはシアンと一緒にシュンエルに会いに行った。シュンエルの行動範囲がわからないので、手当たり次第に探すしかなかった。だが、幸運なことに、シュンエルはすぐに見つかった。

「シアン、あの子がシュンエルさん?」

 オレンジ色の頭を指して、ルキナが言う。シアンが頷く。

「ツェンベリンさん、今日のお昼はどうされますか?」

「今日は麺類の気分です」

「では、いつもと違うところに行きましょうか」

 シュンエルは、同じ普通科の女子生徒と昼食の相談をしながら歩いていた。これから学食に向かうのだろう。

「声かけますね」

 シアンがルキナの顔を見て確認した。ルキナは頷いた。シアンがシュンエルの背後から「ツェンベリンさん、こんにちは」と話しかけた。シュンエルが立ち止まって振り返った。

「もう顔は見せないでって言いましたよね?」

 シュンエルは、話しかけてきたのがシアンだと知るなりそう言った。

(シアン、どんだけ嫌われてるのよ)

 ルキナは、シアンが憐れに思てきてため息をついた。本当は、今まで女の子に嫌われたことのないシアンを笑ってやるつもりだった。だが、シアンが嫌われているのを目の当たりにすると、かわいそうに思えてきた。

 ルキナがシアンの後ろに控えて待っていると、シュンエルがルキナに視線を送ってきた。ルキナは、シアンの横に出て、「私たちは、別にあなたに何かをしてほしいわけじゃないのよ」と安心させるように言った。

「私はルキナ・ミューヘーン。シアンを雇っている家の者よ。シアンが失礼なことをしたのなら、お詫びするわ。でも、決して、あなたに害を与えるつもりはない。ただ、教えてほしいの。あなた、時々、誰かからクッキーをもらわなかった?」

 ルキナは、シュンエルを興奮させないようにゆっくり話す。そのおかげか、シュンエルは怒りだすことなく、ルキナの言葉に耳を傾けてくれた。

「どうしてそれを?」

 シュンエルはまだ完全に警戒をといているわけではないが、ルキナと話を続ける姿勢にはなっている。

(やっぱり、クッキー効果は偉大だわ)

 シアンはキーシェルから度々手作りクッキーをもらっていたが、それはもともとキーシェルがシュンエルにあげるために用意したものだ。キーシェルは、妹のために作ったクッキーを何とかして妹に渡そうとするだろう。ルキナにはその方法が予想つかなかったが、クッキーを受け取っているだろうことは想像できた。クッキーという具体的な単語を出すことで、自分たちは同じゴールを見ていると伝えることができる。ようは、ルキナは、シュンエルに自分たちは敵じゃないと認識させようとしたのだ。そのかいあって、シュンエルは既に心を開きかけている。

「シアンもね、ある人からクッキーをもらってたの。その人から聞いたのよ。あなたにクッキーをプレゼントした人とシアンにクッキーをくれた人はたぶん同じ人。でも、最近姿を見なくなっちゃって。お礼をしたいから捜してるんだけど、全然見つからなくて。もし、あなたが何か知っているのなら、教えてほしいの」

 ルキナは、キーシェルという名を一切出すことなく、キーシェルの情報を聞き出そうとしている。ここで知りたいのは、シュンエルがキーシェルの存在をどのように認識しているのかということ。その返答次第では、キーシェルが寄生妖精か否かの結論に至れる可能性もある。

「すみません。私もよく知らないんです。クッキーをくれる人に会ったことはなくて。両親は、妖精からの贈り物だと言うばかりで」

 シュンエルは穏やかな声で言った。

(妖精)

 ルキナは、心の中で呟いた。やはり、シュンエルの両親はキーシェルが寄生妖精であることを知っている。もちろん、これだけでは寄生妖精と確信に至る証拠とはならない。だが、両親が敢えて「妖精」という言葉を使った可能性があるのはたしかだ。

「そう」

 ルキナは、シュンエルと話すことで多少なりとも情報を得られたことに満足する。

「あー、でも、両親なら何か知っているかもしれません。連絡をとってみますね」

 シュンエルは、ルキナが落胆しているように思ったらしい。クッキーをくれた人物の情報を得られなくて、ルキナは残念に思っているのだと、シュンエルは思ったのだ。

「ありがとう。それは助かるわ」

 シュンエルは、まさかルキナが既に自分の両親に会っているなんて思っていない。ルキナは、嘘をつくのは心苦しく思ったが、本当のことを言うわけにもいかず、知らんふりをする。

「それで、代わりと言っては何ですが、その人のことを教えていただけませんか?」

 意外なことに、今度はシュンエルの方から歩み寄ってきた。

「さっき、クッキーをくれた人から私の話を聞いたと言いましたよね。それって、つまり、その人に会ったことがあるっていうことなんですよね?でしたら、私にその人のことを教えてください。私、本当にその人とは一回も会ったことがないんです」

 シュンエルは、クッキーをくれる「妖精」の存在をずっと不思議に思ってきたようだった。今日、やっと、「妖精」に近づけるヒントを手に入れるチャンスを得たのだと思ったらしい。

「シアン」

 ルキナは、シアンの名前を呼んで、キーシェルの話をするように促した。すると、シュンエルが少し嫌そうな顔をした。まだシアンのことは警戒しているようで、睨むようにシアンを見ている。

「私よりシアンの方が仲良いのよ」

 ルキナは、ルキナではなくシアンが話すのには理由があると言う。シュンエルは、「そういうことでしたら…。」と渋々頷いた。

(シアン、本当に何をしたのよ)

 ルキナはじとっとシアンを見る。シアンはどこか不安げだ。シュンエルに歓迎されていないということをひしひしと感じているのだろう。シアンは、シュンエルにキーシェルの話をしただけと言っていたが、本当にそうなのだろうか。

「僕にクッキーをくれたその人は、優しくて、かっこいい人です。僕にいろいろなことを教えてくれました。いつも、ツェンベリンさんの話を楽しそうにしてましたよ」

 シアンは「キーシェル」ではなく、「その人」を使って話を進めた。シアンも、さすがにキーシェルの名前をシュンエルの前で出すのは良くないと理解したようだ。

(シュンエルさんが兄がいないと言うのは、自分はキールに会ったことがないから。でも、周りの人たちはキールのことを知っている。皆、シュンエルさんの前でキールの話をしたのね。シュンエルさんからしたら、キールなんて全く知らない人で、それなのに、散々キールの話をさせられたんでしょうね。そりゃあ、うんざりするわよね)

 ルキナは、シュンエルがなぜ兄を話題にされるだけでキレるのかわからないでもなかった。寄生妖精、二重人格のことを近所の人たちに伝えてなければ、キーシェルとシュンエルは普通の双子の兄妹と思われて当然だ。事情を理解している者ならシュンエルの前でキーシェルの話をさけることはできるが、近所の者たちはそうではなかった。言ってしまえば、シュンエルはのけ者状態。シュンエルが会ったこともない兄を嫌うのは無理もない話ではあった。だが、そのせいで、シアンがこれほどまでに嫌われるとは予想してなかった。

「男の人ですか?」

 シュンエルはシアン相手でも普通に話せるようになっている。これは良い傾向だ。一方で、シアンが悲しそうな顔になった。

「すみません、私、本当に何も知らなくて」

 シュンエルがシアンに謝った。キーシェルはシュンエルを大切に思い、クッキーも手作りしていた。だが、シュンエルはキーシェルの存在すら知らない。シアンは、そのことを寂しく思ったのだろう。その感情が表情に出てしまったから、シュンエルに気を遣わせる形になってしまった。

「いえ、たぶん、その人がツェンベリンさんにバレないようにしていただけなので、ツェンベリンさんは悪くないですよ」

 シアンは、キーシェルとシュンエルの兄妹は何か複雑な事情があるのだろうと思い、シュンエルを慰めた。シアンは、シュンエルにまで悲しいことを言わせてしまったと反省する。

「ありがとうございます」

 シュンエルは感謝の言葉を述べた。シアンが「妖精」の話をしてくれたことに対するものと、シアンがシュンエルは悪くないと言ったことに対するものが含まれているだろう。

 なんだか変な空気になってしまった。一発触発な序盤の雰囲気を思えば断然良いのだが、異様に居心地が悪い。

「こちらでも何かわかったら報告するわね」

 ルキナが最後にそう言って、シュンエルと別れた。シュンエルは、ずっと待ってくれていた友達と一緒に学食に向かって去って行った。

 シアンはルキナに感心していた。シアン一人では、シュンエルと一言も言葉を交わせなかったかもしれない。シアンの成し遂げられなかったことをルキナは見事にやってのけたのだ。その横で、ルキナは呟いた。

「まずまずね」

 シアンはルキナの顔を見て首を傾げた。

「でも、これで、シュンエルさんがキールの妹ってことが確定しましたよね」

 シアンには、ルキナが満足していなさそうに見えたようだ。別にルキナは満足していないわけではない。ただ、寄生妖精に関する証拠がそろえにくいことを悩ましく思っていただけだ。シアンは、ルキナの悩みなど理解していない。シアンは、シュンエルがキーシェルの妹かどうかという判断をやっと下せたという時点にいる。ルキナは、それよりずっと先にいる。

「ううん、それ以上の収穫はあったわよ」

 ルキナは、ニヤリと笑う。シアンは引き気味に「え…。」と声を出した。シアンは、ルキナが意味ありげに笑うのは何かたくらんでいると思っているので、嫌そうな顔をする。

「なによ、その反応」

 ルキナにとってはシアンの反応は不本意だった。

「外で話すことではなかったわね」

 ルキナは自分の二の腕をさすって、寒さを紛らわせる。自分たちもさっさと昼食を食べに行くのが良さそうだ。

「シアン、行くわよ」

 ルキナはシアンを呼んで走り始めた。

「え、お嬢様、なんで走るんですか!?」

 シアンはルキナを追いかける。

「寒いからに決まってるでしょー!」

 ルキナは、シュンエルから聞きたいことが聞けたし、シアンも見返すチャンスを得られて、とても良い気分だった。


 その夜、ルキナは、寮の個室で今まで得た情報をまとめていた。紙に書き出すというのは、考えをまとまるのにとても有効的だ。

(あ、シュンエルさんに誕生日を聞くの忘れてた)

 ルキナは、今日、シュンエルに誕生日を聞くつもりだったのを思い出した。寄生妖精だった場合、生まれてから十六年目を迎える誕生日は重要な日となる。シュンエルの誕生日を知っておくのは、必須条件だった。

(まあ、明日聞けばいっか。シアンなら、もしかしたらキールの誕生日を知ってるかもしれないし)

 ルキナはそう考えてペンを置いた。ルキナはぼんやりと窓の外を見た。部屋の明かりが外の白い景色に降り注ぐ。

 ルキナは、ふと、タイムリミットが少ないとベルコルが言っていたことを思い出した。たしかに、今年度も残すところ数か月だ。シュンエルの誕生日もすぐに訪れる。

(やっぱり、今日のうちに聞いておこう)

 ルキナは、部屋の灯りを消し、部屋を出た。廊下は少しひんやりとする。寝間着の上に、コートをはおる。

(シュンエルさん、もう寝ちゃったかしら)

 ルキナは、静かな廊下を一人歩く。もう夜遅い時間で、寝ている生徒もたくさんいる。寝付けない者たちが談話室にいることもあるが、ほとんどそれぞれの部屋で過ごしている。ルキナは、女子寮の入り口に向かった。シュンエルの部屋は知らないので、入口にあるプレートで確かめようと考えた。

「えーと、シュンエル・ツェンベリン、シュンエル・ツェンベリン、シュンエル・ツェンベリンっと…。」

 ルキナは、部屋番号とそれぞれの部屋の生徒の名前が書かれたプレートを眺める。その際、その中に、一つ、ぽっかりと空いている場所があった。名前を書いたプレートは外に出る時に外す。こんな時間に誰かが外に出たのだろう。

(いくら学校の敷地内といったって、夜に女の子が出歩くなんて危ないわよ)

 ルキナは、危険なことをする女生徒もいるものだと思った。

「…まさか」

 ルキナは、なんだか嫌な予感がした。慌てて、寮監室の窓をコンコンとノックした。寮もいつでも自由に出入りできるわけではない。この時間は、外に出る時は、寮監室にいるスタッフに外に出る旨を伝えなければならない。つまり、外に出た者が誰か確かめられる。ルキナがノックしてから数秒後、シャッと勢いよくカーテンが開いた。

「あの、聞きたいことがあるんですけど、今、外にいる女の子って誰か教えてもらえますか?」

「そういうのはあまり教えられません」

 プライバシーの問題で、誰が外に出て行ったのか教えられない決まりがあるらしい。

「えっと、名前じゃなくても良いんです。たとえば、髪色とか。オレンジ色の髪の子だったりしませんか?」

 ルキナがそこまで言うと、スタッフは小さく頷いた。立場上、そういった情報をたとえ同じ生徒であろうが教えることはできない。だが、ルキナがあまりに必死だったので、こっそりと教えてくれた。

「ありがとうございます」

 ルキナはそう言いながら、自分の名前のプレートを手に取った。

「すみません、私も出ます」

 ルキナはバンッとプレートをスタッフの前に置き、走り出した。

「えっ、ちょっと!」

 スタッフはルキナを止めようとしたが、ルキナはそれを無視した。シュンエルが外に出たとして、それに深い意味があるとは限らない。だが、ルキナは胸騒ぎがしていて、不安だった。

(でも、どこにいるか知らないし)

 ルキナは、走り出したのもつかの間、すぐに立ち止まった。学校の敷地外にまで行ったとは考えにくいが、それでも範囲は広い。闇雲に探してどうこうなるものではない。その時、目の前を銀髪の少年が走り抜けて行った。

「シアン!?」

 ルキナは思わず大きな声を出した。シアンらしき人影が立ち止まった。そして、驚いた顔をしながらルキナに近寄ってきた。

「キールを見ませんでした?」

 シアンは、焦って尋ねてくる。

「キール?キールがいたの?ここに?」

 ルキナは、思わぬ人物の名前が出てきて驚いた。だが、ルキナの問いに答えず、シアンはまた走り出した。

「ちょっ!シアン!待ちなさい!」

 ルキナはシアンを引き留めようとする。しかし、シアンは聞いていない。

「あー、もう!シアン!命令よ、止まりなさい」

 ルキナが大声で言った。さすがにこの声はシアンの耳にも届いたようで、シアンが慌てて立ち止まる。

「シアン、キーシェルの誕生日は?」

 ルキナが語気を強めて尋ねる。なぜこんな質問をされるのかわからないと言いたげに、シアンは「今日」と言った。シアンは今すぐにでも走り出したそうだ。一方、ルキナは頭が真っ白になっていた。

(まさか本当にそんなことが…)

 ルキナの頭は混乱していたが、シアンが一歩踏み出した瞬間、冷静になれた。

「良いから待ちなさい。闇雲に探したって見つかりっこないわ。生まれた時間までわかれば確実なんだけど…。」

 ルキナはそう言って、キョロキョロと辺りを見渡す。

「こっちよ」

 ルキナが走り出した。シアンはその後につづく。

 ルキナは、ベルコルから聞いた寄生妖精の話を必死に思い出した。たしか、十六年目を迎える瞬間、寄生妖精は、行動可能な範囲で最も北の高い場所に行って旅立つと言っていた。つまり、この学校で一番北の高い建物の屋上に行けば良いということになる。

「はあ…はあ…」

 走り始めて間もなく、ルキナの息が乱れ始めた。ルキナはシアンほど体力はない。ルキナの足の速さに合わせていると時間がかかりそうだ。シアンが見かねてルキナをお姫様抱っこする。その状態で、シアンが走る。

「あっちよ」

「どうしてわかるんですか?」

 ルキナは迷いなく道案内する。シアンは走りながら尋ねる。

「法則みたいなのがあるのよ」

 ルキナが適当に答える。

「そもそも、なんでこんな時間に外にいるんですか。危ないじゃないですか」

 シアンは少しずつ落ち着きを取り戻し始めている。

「シュンエルに誕生日を聞こうと思ったら部屋にいなくて。外に出てるみたいだから、捜しに。急ぎだったから」

 ルキナは進行方向に目を向けたまま答える。

「誕生日?誕生日が何かあるんですか?」

「ここよ」

 ルキナは、シアンの問いかけに答えないで、代わりに自分を下ろすよう言った。ルキナが自分の足で歩いて、目の前の建物の入り口に向かう。扉に手をかけ、思い切り引く。普段なら防犯のために鍵がかかっているはずなのだが、今は何の抵抗もなく開いた。

(シュンエルさん…キールが開けたのね、きっと)

 ルキナは、自分の考えは正しかったと確信した。

「ビンゴね」

 ルキナはためらうことなく中に入っていく。この建物は魔術研究科の生徒が使う棟だ。二人とも入るのは今日が初めてだ。

「シアン、屋上に行くわよ」

 ルキナが人差し指で屋上を指す。シアンは、ルキナの言いたいことがわかって、またさっきのようにルキナを抱き上げる。普段なら魔法石で動くエレベーターに乗れば良いのだが、今はスイッチが切られていて動かないだろう。屋上まで階段で行かなくてはならない。十階以上あるのに、ルキナが階段を駆け上れるわけがない。

「掴まっていてくださいね」

 シアンはルキナを落とさないようにしっかり支えて階段を上り始める。人を一人抱いてるとは思えないスピードでのぼっていく。そうしてあっという間に屋上にたどり着いた。

「このドアの向こうね」

 ルキナがシアンの腕から降りると、屋上に出るためのドアに手をかけた。ここも鍵がかかっていない。普通ならかかっているはずの鍵がかかっていない。これは、先客がいることを如実に物語っている。

 ガチャリと音を立ててドアノブを回すと、重い扉が動き始めた。扉を開けると、そこは不思議な空間だった。たしかに、屋上に変わりないのだが、空気が他のところと違う。ほんのり温かい感じもする。なぜか霧がかかっていて、学校の敷地内じゃないみたいだ。その中に、人影を確認する。

「シアン」

 ルキナがシアンの服を引っ張る。彼女が指さした先には、ぼんやりと一つの人影が見える。シアンがキーシェルかもしれないと思って近づこうとする。しかし、ルキナが服を掴んだまま引き留める。

「お嬢様?」

「しっ」

 ルキナは、これから何が起こるのか知らない。むやみに近づかない方が良いかもしれない。何かあってからでは遅いのだ。人差し指を唇の前に立ててシアンを静かにさせると、その場で静かに人影の様子を伺った。

 人影は、霧でゆらゆらと輪郭を揺らし、いつの間にか、一人から二人に増えていた。すると、霧が薄くなってきて、屋上の中心に立っている二人の姿がはっきり見えるようになってきた。そこにいたのは、キーシェルとシュンエルだった。互いに向き合って立ち、目を閉じている。キーシェルの方がずっと身長が高い。

 シアンたちが息を飲んで見守っていると、二人がゆっくり目を開けた。タイミングが全く同じだった。

『体を貸してくれてありがとう』

 キーシェルが話している。でも、いつもと声の感じが違う。

『辛い思いをさせてごめんね。でも、もうこれで終わりだから。君と会って話すことはできなかったけど、君の兄になれて嬉しかったよ』

 キーシェルがシュンエルにゆっくり話す。シュンエルは、複雑な表情でキーシェルの顔を見つめている。

「キール!」

 シアンが耐えきれなくて、大きな声で名前を呼んだ。キーシェルは、声に驚いた後、シアン達の方を見て微笑んだ。

 シュンエルもシアンたちがここにいることに驚いた様子だ。でも、シアンが目の前にいる謎の少年がキーシェルという名前の人なのだと理解すると、慌ててキーシェルに向き直った。

「あの」

 シュンエルが呼びかけると、キーシェルがシュンエルの方を見る。

「クッキー、ありがとう。お兄ちゃん」

 シュンエルは、彼こそが、何度もクッキーをくれた人なのだと気づいた。同じ色の髪で、顔だちも自分に似ている。彼が自分の兄であったということも気づいた。

 キーシェルは、シュンエルに最初で最後に「お兄ちゃん」と呼ばれて、満面の笑みを見せる。キーシェルの身体はどんどん透けていく。このまま消えてしまうのだろう。

「さようなら」

 キーシェルは、最後にシュンエルの頭をぽんぽんと優しく撫でて別れを告げた。そして、次の瞬間、キーシェルの姿は透明になってしまった。それと同時に、霧も消え、別空間に来たかのような感覚もなくなってしまった。

 シュンエルは、心の中にあった大切なものを失ったかのように感じ、その場で泣き崩れる。声をあげて泣きじゃくっている。ルキナが駆け寄り、抱きしめる。シアンは、それをただ眺めていた。

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