秘密の部屋デスケド。
「ルキナ様、どうかされましたか?」
ルキナが応接室の前で固まっていると、ルキナがいないことに気づいたシュンエルが戻ってきて、ルキナを呼んだ。ルキナはさっと笑顔を作り、シュンエルに「何でもない」と答える。シュンエルはルキナが何かを隠していることに気づいたが、踏み込んでそれを尋ねようとしなかった。
「もうみんなあの部屋に行ったの?」
ルキナはシュンエルのところまで駆け寄り、状況を確かめる。シュンエルは頷き、例の竜のオブジェも確認したと言う。
ルキナたちは二階にある書類保管室に移動した。そこでは他の皆がルキナを待っていて、壁にかけてあった絵画が扉のように開かれた状態にあった。絵画の裏には金色の竜の顔が隠されていて、それが隠し部屋へ繋がる扉となる。
「ルキナ、遅い。姉様を待たせるなんて言語道断。反省して」
マクシスが遅れてきたルキナに文句を言う。鍵となるシアンの血はルキナが持っているので、先に隠し部屋の扉を開けることができなかった。マクシスはみんなルキナを待っていたのだと怒る。
「はい、反省しまーす」
ルキナはマクシスを適当にあしらい、その後、皆に謝罪する。皆、ルキナが来るのが遅れたことに対し、さほど怒ってはいなかったが、早く隠し部屋の全貌を確かめたいと、そわそわしていた。
「えっと、ここに血を流せば良いの?」
ルキナはポケットから血の入った小瓶を取り出す。ベルコルからもらった特別製の瓶なので、一晩経っても血は液状のままだ。ルキナはそれを竜のオブジェに近づけたが、どうすれば良いのかわからず、困惑する。すると、チグサがルキナに近づいて手のひらを広げた。瓶を渡せということだろう。ルキナは勝手のわかるチグサに血を任せる。
チグサはルキナから小瓶を受け取ると、蓋を開け、中の血を竜の頭の上に垂らした。ポタポタと金色の竜の頭に落ちた血は、重力に従ってその表面を伝い、口の中へと流れ込んだ。皆が息を飲んで見守っていると、途端に竜の赤い目が光り始めた。目が光って五秒ほど経つと、だんだんと目の前の壁が透け始めた。竜の装飾と共に、本棚と本棚の間の壁が消えていく。
竜のオブジェを隠していた絵画も、竜のオブジェも、壁もどんどん透けていく。それに伴って、夜のように暗い空洞が見え始めた。これが隠し部屋の入り口なのだろうが、隠し部屋の扉が開くときはガタガタと派手な音がすると思っていたので、ルキナは拍子抜けする。
「この奥」
ぽっかりと壁に穴が開き、人が通れるだけの隙間ができると、チグサが中に入るように言った。しかし、チグサは先頭にいるのに入ろうとしない。ルキナは疑問に思ってチグサに入らないのかと尋ねた。すると、チグサは悲しそうな顔をして、自分にはその資格がないと言った。チグサに資格がないなら、ルキナたちが入るのも許されないはずではないか。ルキナはそう思ったが、チグサは頑なに奥へ進もうとせず、代わりにマクシスの背中を押した。マクシスが一番に壁の奥に入った。マクシスが不安そうに振り返り、後に続くものを待った。ルキナはもう一度チグサに行かないのかと尋ねたが、やはり答えはノーだった。
ルキナはマクシスの後ろに続き、隠し部屋へと繋がる通路に入った。壁の奥に隠された道は、暗い洞窟のような静けさがあり、そして、真っすぐ続いた。曲がり角やカーブもなく、段差もない一本道で、どう考えても屋敷の構造上、この通路があの壁の奥にあるのはおかしい。隠し部屋というのは、見取り図を見ればだいたいその位置がわかる。しかし、この隠し部屋への入り口は見つけようがない。どのような仕組みかはわからないが、屋敷そのものの形に関係なく、この隠し部屋は存在している。もはや、この通路は異空間に繋がっているように感じる。
前方には青白い光が見えている。あそこが出口、隠し部屋なのだろうことは予想がついた。だが、ずっと目の前に見えているのに、視覚的感覚以上に通路が長い。そのうち、時間的感覚も狂ってきて、何時間も歩いているのではないかと感じ始めた。だが、実際はほんの十何秒の出来事で、通路が本当に長かったわけでもない。
ルキナたちは変な気分になりながら、ようやく部屋の中に入った。そこはさほど広い場所ではなく、そのうえ、ほとんど何も置かれていないような状態だった。部屋の中央に、台が置かれ、その上に水晶の玉らしきものが置かれているだけだった。でも、部屋の中は暗くなく、見当たる場所に灯りはないのに、部屋全体がしっかり見える。下から青白い光を感じるので、床が光っているようにも思えた。
(チグサはなんでここに行くように言ったのかしら)
ルキナはこの部屋に何を求めれば良いのかわからず、とりあえず中央の水晶玉に近づいた。だが、直径十五センチほどの球体は、無色透明で、何か珍しさを感じるようなものでもなかった。意味ありげに置かれた水晶玉を見れば、誰もがこれを怪しいと真っ先に思うだろう。しかし、特に何かが起きそうでもない。
(RPGの洞窟ダンジョンみたいだわ)
ルキナは吞気にそんなことを考え、ぼんやりと部屋の中を見回した。このまま何の成果もなしに出るのは変な話なので、一応、何かないか探そうと思ったのだ。
「先生、何か書いてあります」
ルキナが何かを探していると、不意にユーミリアがルキナを呼んだ。ルキナは慌ててユーミリアの傍に寄った。ユーミリアは入口から入って右手の壁を見上げて、何かを見ていた。ルキナもユーミリアに倣い、壁を見つめる。そこには字が彫られており、詩らしきものが書かれていた。
抗うことなかれ
その血の示すままに
悲しむことなかれ
運命に従うことを
古い言葉で書かれていた。だが、これでもルキナたちは国内最高レベルの上級学校に通う学生で、勉学に励んでいる身だ。この程度の古代語が読めないわけがない。ルキナはその詩を眺め、その場に立ち尽くした。
(これ、知ってる。どっかで聞いたことある…はず。けど、…)
ルキナは壁をじっと見つめ、その既視感の理由を探った。でも、何も思いだせない。ルキナが呆然と立ち尽くしていると、ユーミリアが心配そうにルキナの体を揺すった。
「先生!?」
「えっ、何!?」
ユーミリアが大きな声でルキナを呼んだので、ルキナも思わず大声で返事をした。ルキナは、ルキナの大声に驚いているユーミリアに、何かあったのか尋ねた。しかし、何かあったのか尋ねたかったのはユーミリアの方のようで、ルキナが心ここにあらずといった様子で壁の一点を見つめていたのを不思議がっていた。
「何回も呼んだんですよ?」
ユーミリアは、大声でルキナに呼びかけるに至る過程があったと主張する。だが、ルキナは壁の文字に夢中で、ユーミリアの必死の声すら耳に届いていなかった。
「ごめん」
ルキナは、ユーミリアに謝る。自分でも気づかないうちに何度も無視することになってしまったことを申し訳なく思う。
ルキナが我に返り周囲に意識を向けられるようになった頃、不意に部屋が霧に覆われたように輪郭がぼやけた。ルキナは驚いて後ろを振り返った。そこには、水晶玉とその近くでおろおろしているアリシアの姿があった。
「ごめんなさい。ちょっと触ってみたら勝手に…。」
アリシアが不安そうにする。どうやら、部屋の中央にあった怪しい球体にアリシアが手で触れたようだ。水晶玉は白い光を発し、不気味に輝いている。その光はゆらゆらと揺れ、ぼんやりと見える壁に薄く映る影が動く。
「心配しないで。もしかしたら、グッジョブかもしれなから」
ルキナはなおも光り続ける水晶を見ながら言った。アリシアが心配そうにしているが、もしかしたら、水晶に触れるというのは正解の行為かもしれない。
しばらくすると、どこからともなく声が聞こえてきた。
『ごめんね、シアン。ごめんね』
小さくて、よく聞こえないが、この場の全員が理解した。チグサの声だ。でも、この場にチグサはいない。皆が不思議に思っていると、だんだん声が大きくなってきて、泣き声にも聞こえるチグサの声がはっきりと聞き取れるようになった。
ルキナはおもむろに水晶に近づいた。か細いチグサの声はその水晶から聞こえてきているように感じたのだ。その時、パッと周囲が明るくなった。
「え?」
シェリカがその場でくるくる回りながら驚いた。急に景色が変わり、まるで瞬間移動でもしたように感じた。皆の視界には、このリュツカ家の屋敷の外観と庭が映った。あまりの変化に、自分たちがいる場所が部屋の中とは思えなかった。しかし、皆の中心にはあの水晶が煌々と輝いていて、空間そのものが変わったわけではないのだと物語っている。
(プロジェクションマッピングみたいなもの?)
ルキナは、光っている水晶玉がこの光景を映し出しているのだろうと考えた。部屋は霧のようなもので覆われていて、それがうまく作用することで、この部屋にまるで本物の景色を見ているような錯覚を覚えさせているのだろう。
ルキナが水晶玉の引き起こしている現象の原理を考えていると、急に部屋全体が青くなった。目の前に見えていた屋敷が青い炎に包まれている。
(十四年前の火事?)
ルキナは炎に包まれる屋敷を見て、すぐに過去の出来事であることに気づいた。そして、これは、チグサが当時見た光景なのだろうことにも察しがついた。なぜなら、皆の足元で幼いチグサがシアンを抱いている姿が映ったからだ。チグサは気を失っているらしいシアンを抱きかかえ、泣いている。周囲には大人たちが立っていて、地面に座り込むチグサを見守るように沈黙を保っている。だが、不意にその一人が口を開いた。
『チグサお嬢様、時間がありません。早く逃げましょう』
使用人と思わしき女性がチグサに声をかける。追手が来る前に早くこの場を立ち去るべきだと。だから、早く立ち上がって、シアンを預けてくれと。だが、チグサは首を振って、それを拒んだ。
『逃げれない』
チグサは、今逃げたとて、きっといつか確実に捕まると言う。チグサは目の前で起こっている状況を正確に理解しており、それが意味することも理解している。だから、ここから逃れたとしても、最終的にそれは不毛に終わることも知っている。
屋敷を包む炎は、リュツカ家の人間を燃やすもの。今、血の契により罰を受けているのは、シアンの両親。シアンが悪い予感というものを感じ、急いでこの屋敷に戻ってきた。だが、その時点で手遅れだった。屋敷は青い炎で包まれ、助けにいくことも困難。シアンも自分の両親が助からないことを理解し、だから、精神的に不安定になり、チグサは魔法で強制的に眠らせた。
『チグサちゃん』
チグサのそばに一人の男性が現れた。チグサを見守る使用人とはまた違った雰囲気。しかし、敵ではない。
「お父様?」
マクシスが呟いた。現れたのは、マクシスの父、マイケル・アーウェンだった。
『おじさん?』
チグサは驚いたようにマイケルの顔を見て、彼がどうしてここにいるのか聞きたがった。だが、マイケルはその問いに答えず、とある提案をした。
『君一人ならかくまうことができる。髪の毛と目を隠して、おじさんの子供として暮らすんだ』
マイケルの提案は、出身を隠し、アーウェン家の養子となるというものだった。チグサとシアンの身が危険なのは、リュツカ家の人間であるからだ。リュツカ家との繋がりを断てば、もしかしたら、二人とも追われることなく、平和に暮らせるかもしれない。しかし、マイケルがかくまうことができるのは一人だけ。そこでチグサを選んだのには理由がある。
『でも、シアンが』
当然、チグサは自分だけ助かろうとはしなかった。大切な弟のような存在を見捨てて、追手から逃れようとは考えられなかった。
チグサは、マイケルに向かって、一人しか救うことができないなら、シアンを守ってほしいと言った。チグサは自力で逃げるから、自分より小さいシアンの方を守ってほしいと。しかし、マイケルは首を振った。
『それは賢明な判断ではないと思うよ。君はリュツカ家の子だが、直系じゃない。君がいなくなろうとも、彼らはきっと気にしない。君が生きていれば、その子を助け出すチャンスもきっと生まれる。だが、もし、その子の方が消えたら、君の身も危ないし、彼らは血眼になって探すだろう』
マイケルがしゃがみ、チグサと目線を合わせた。チグサに落ち着いて話を聞いてもらうためだ。
『実は、書類上、おじさんたちの家には、娘が一人いることになっている。こんなこともあろうかと、先に準備をしていたんだ。でも、その子の分まで用意することはできなかった。代わりに、他の家がその子を守る』
『じゃあ、なんでその人は助けに来ないの?』
『来ているはずだよ。でも、おじさんと助け方が違うんだ』
『そして、もう一つ、提案がある。と言うより、お願いかな。これはその子の両親から言われたことなんだけど。その子のこれまでの記憶を消してほしいんだ』
『シアンの記憶を消す?』
『君の力があればきっとできるはずだよ。これは、その子を守ることに繋がるんだ。その子が、彼らにとって知っていてほしくないことを知っているかどうかで、彼らの態度は百八十度違う。記憶がないことで、その子の自由が増える』
マイケルの話を聞いて、チグサが絶句する。腕の中で眠っているシアンをぎゅっと抱きしめ、頭の中で状況を整理している。
『簡単に言うとね…』
マイケルが噛み砕いて説明しようとしたところで、チグサが首を振った。十分意味はわかっているという返事だろう。
たった五つ、六つの子供にはあまりにも酷な選択だ。シアンを見捨て、自分の身を守ること。そして、シアンの記憶を消すこと。それは結果的にシアンのことを守る行為になるとしても、そう説明を受けても、幼い子供には難しい決断であった。しかし、チグサは心を決めた。チグサは聡い子だ。最終的な犠牲を小さくするため、今は多少の犠牲を受け入れるべきであることをしっかりと理解した。
『わかった』
チグサは地面にシアンを寝かせて、頭の近くに膝をついた。そのままシアンの頭を抱きしめるように覆いかぶさった。そうして、チグサが魔法を使い始めたのか、彼女の腰まで伸びた白銀の髪が淡く光ったように見えた。
チグサは、他人の記憶操作を行ったのは初めてだ。いくら魔法の能力に長けたリュツカの一族だとしても、並大抵の所業ではない。それでも、順調に進んでいると思われた。
しかし、しばらくすると、チグサがうめき声を上げ始めた。苦しそうな声だ。シアンに覆いかぶさったまま、チグサは左目をぐっと手で押さえている。左目が痛むのだろう。
リュツカの人間は魔法に対する耐性が強く、魔法の攻撃を受けても負傷しにくい。それはチグサのかけようとしている忘却の魔法も例外ではなく、力と力が反発し合うような現象が起きている。つまり、チグサは本来必要な魔力量を遥かに超えて消費することでシアンに忘却の魔法をかけている。その結果、チグサは言葉通り、身を削ることになった。失われるはずのなかった血の力が消えていく。
異変に気づいたマイケルが、チグサにやめるように言った。だが、チグサはその言葉を無視して魔法を使い続けた。シアンの苦しみに比べたら、自分の痛みなど、ほんの些細なものだ。チグサはその年に似合わない覚悟と忍耐の持ち主で、自分で決めたことを途中で変えるような真似はしなかった。結局、チグサは役割を全うし、見事にシアンの記憶を消してみせた。
チグサは、シアンの体から一度離れて体を起こすと、シアンの体を抱きしめた。
『ごめんね、シアン。ごめんね』
チグサが消したのはいわゆる思い出にあたる部分なので、記憶をなくしたとはいえ、自己認識能力まで損なうことはないだろう。だが、知識と思い出は密接な関係にあり、もしかしたら、己の名前を満足に言うことすらできないかもしれない。そうでなくても、シアンが今後の人生で苦労することは目に見えている。チグサはそのことに対する懺悔を涙に変えた。
『よく頑張ったね。さあ、行こう』
マイケルは、チグサが仕事を終えたとわかると、急いでこの場を離れようと言った。追手に姿を見られれば、この計画は全てパアになる。それだけは阻止しなければならない。どんなに離れ難く思っても、姿を隠すことが最優先事項だ。チグサも、そのことはしっかり理解している。
チグサは立ち上がり、地面に横たわったままのシアンの顔を見つめた。そして、最後に誓うように言った。
『絶対にシアンを助ける…!』
そのチグサの言葉を最後に、映像が終了した。
「チグサはこれを見せたかったのかしら」
ルキナはそう言って、目の前にある水晶玉に触れた。すると、光を失っていた水晶玉が再び発光し始めた。また新たな景色が映し出される。
「他にもあるみたいだね」
マクシスが見覚えのない景色を見て言った。今度は誰も知らない景色が映し出された。そうして、また誰かの記憶が再生された。




