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報われない気持ちもあるんデスケド。

 四月。また学年が上がり、ルキナたちは三級生になった。この頃になってくると、ルキナについていた見張りはほとんどいなくなった。時々、様子を伺いにくるくらいで、基本的にルキナを張り続けることはなくなった。半年以上、ルキナにそれらしい動きがなく、完全にシアンのことは忘れていると判断されたのだろう。特に、ここ一、二か月は、秘議会の調査に関しては人に任せ、ルキナ自身はあまり動かずにいた。動きのないルキナの見張りに人員を割く必要はないと判断したのだ。だからといって、気を抜いて良いわけではないが、以前より動きやすくなったのはたしかだ。

「バリファ先輩はあと一年で卒業しちゃうんですね」

 ルキナは、まだ先の話だというのに、既に寂しさを感じてしまう。すると、ベルコルが少し嬉しそうに「まだあと一年はあるよ」と言った。

 ルキナたちは、生徒会室で仕事をしながら話をしている。上級学校最高学年である五級生になったベルコルは、また生徒会長になった。当の本人はもうやらないと言っていたが、周りの強い支持により、結局三年連続で生徒会長を務めることになったのだ。それに伴い、生徒会のメンバーも変わり映えしなかった。

 ルキナは紙の束をトントンと机を使ってそろえ、それを持ってベルコルに近づく。すると、ベルコルが足元に置いていたカバンを机に上げた。

「前言っていた物、用意できたよ」

 ベルコルがカバンの中から小さな瓶を取り出した。

「これなら血は凝固しないよ」

 ルキナは、ベルコルから小瓶を受け取って説明を受ける。ルキナは今夜シアンに会いに行き、血をもらいに行くつもりだ。だから、ルキナはその血を液体状態で保存しておけるような容器を探していた。そこで、実家が病院のベルコルに相談したのだ。病院ならそういう特殊な容器があってもおかしくないと思ったのだ。思った通り、ベルコルは病院ではそういう容器が使われていると教えてくれた。そして、それを一つ持って来てくれた。

「ありがとうございます」

「でも、蓋はちゃんとしてね。そうしないと意味ないから」

「はい、わかりました」

 ルキナは小瓶を制服のポケットに入れる。ルキナとベルコルが二人で話をしていると、生徒会室のドアがバンッと勢いよく開いた。

「先生!ここにいたんですね!」

 ユーミリアが息を切らして立っている。どうやらルキナを探してあちこち探しまわったようだ。

「生徒会室に行くって言って…なかったわね」

 ルキナは、始業式が終わった後、ベルコルに瓶をもらう目的もあって生徒会室で仕事をしに行くつもりでいた。そのことをユーミリアに伝えたつもりだったが、言い忘れていたことを思い出す。

「先生!ただでさえクラスが違うのに…避けてるんですか!?」

 ユーミリアがルキナに抱きつく。

(あー、これ離れないやつだ)

 ユーミリアの腕にだいぶ力がこもっている。これはルキナが離れろと言っても離れないし、ルキナの力では引きはがせないタイプのハグだ。ルキナはユーミリアを引き離すのは最初からあきらめる。

「避けてるつもりはないけど。それに、クラスが分かれたって別に授業はどうせ一緒でしょ?」

「どうせってなんですか。なんか私と一緒に授業受けるの嫌みたいな言い方じゃないですか」

「だってそうなんだもの」

「えー!?」

「嫌って言うのは言い過ぎだけど、ユーミリアにはもうちょっと適度な距離感を大事にしてほしいのよ」

 ルキナはユーミリアを引きずって生徒会の仕事を続ける。といっても、新学期になって増えた資料をまとめて片づけるだけの簡単な仕事だ。ユーミリアが抱きついていなければもっと速く進むのだが。ベルコルは、ユーミリアがルキナにくっついていようが全く気にしない。手元の紙束をそろえることに集中している。見慣れた光景だからだろう。

「じゃあ、お仕事終わった後は私とお出かけしましょうよ。せっかく始業式だけで終わったんですから」

 ユーミリアが自分の提案を名案だと言うように言った。だが、ルキナは断る。

「駄目よ。午後はノア様とデートだから」

 ルキナは今日王城に行ってシアンに会いに行くことになっている。その関係で、午後はノアルドと街に出かけ、そのまま城に行くというプランを考えている。ルキナの目的が城に行くことだと勘付かれては困るので、デートの延長で城にお邪魔するという建前を用意しておくのだ。

「えーっ、それじゃあ、私は先生と一緒にいられないってことですか?」

 ユーミリアが心底残念そうにする。ルキナにとってシアンに会いに行くことは最優先事項で、シアン奪還作戦の期限が迫っている以上、ユーミリアにもルキナにノアルドと一緒に行くなとは言えない。

 ルキナは、めんどうくさそうに「そういうことよ」と答える。すると、当然のことながら、ユーミリアがショックを受ける。

「先生は私のこと嫌いなんですか!?違いますよね?じゃあ、なんで私と一緒にいてくれないんですかぁ。他の人とデートするなら私とデートしてくださいよ!っていうか、他の人とデートしないでくださいよ!」

 ユーミリアがルキナの体をゆすって大声で訴える。

「なんか、イリヤに似てきた気がするわ」

「これでも一応姉弟ですからね!」

 ルキナが他人事のように感想を言うと、ユーミリアが切れ気味に答えた。ユーミリアが怒っていることは誰にでも見てわかる状態だ。そんなユーミリアの様子を見て、ベルコルが声をかけた。

「ミューヘーンさんにはボランティアに来てもらっているようなものだし、先に帰ってもらっても大丈夫ですよ」

 今日の生徒会の仕事は、ベルコルが勝手に一人でやろうと思っていたものだ。ルキナにすら手伝わせるつもりはなかった。ただ偶然別の用事があったからルキナも手伝う流れになっただけで、本当なら、ルキナもベルコルが一人で生徒会室で作業をするつもりなのだということを知らなかった。だから、ベルコルはルキナが帰ってしまっても問題はないと言う。たしかに一人でできない仕事ではない。でも、ベルコルが働いているのに、そのことを知っているのに、先に帰らせてもらうのは気がひける。それも、私用で抜けるのは申し訳なく感じる。しかし、ユーミリアは全くそのようなことを感じないらしい。「ほんとですかー?」と、ユーミリアが顔をパッと輝かせる。ルキナの返答も聞いていないのに、ルキナを連れて行けると思っている。

「先輩、ユーミリアを甘やかさないでください」

 ルキナは一度手を出したものを途中で放り出すつもりはない。ベルコルが優しいことに関しては何も文句を言うつもりはない。しかし、ユーミリアを甘やかすと調子に乗り始めて手が付けられなくなる。ユーミリアのわがままは適度に拒否しないと、後々痛い目を見る。

「せんせーい」

 ユーミリアがルキナに向かって甘え声を出す。ベルコルの許可が下りようとも、ルキナ本人が断れば意味はない。だから、ユーミリアは自分の気持ちをルキナにアピールをする。しかし、ルキナがそんなことでなびくわけがない。ユーミリアを無視して作業に戻る。ユーミリアががっくりと肩を落とす。

「別に早くこれが終われば、一緒にお昼くらいは食べられるわよ。ノア様との約束は昼食の後だし」

 ルキナは紙束をファイルに閉じながら淡々と言った。別にユーミリアがかわいそうになったからではない。こういえば、ユーミリアは作業を手伝ってくれると思ったのだ。

「さようでありますか!」

 急にユーミリアが生き生きとしだし、ルキナから離れた。そして、ルキナとベルコルに倣って資料整理を始める。ユーミリアはルキナの思った通りに動いた。

(最初から手伝ってくれてればもっと早く終わったのに)

 一緒に時間を過ごしたいと言う割に、ユーミリアは無駄なことばかりして一緒に過ごせるはずの時間も失っていく。彼女の矛盾した言動には呆れるばかりだ。

「先生ってけっこうツンデレですよね」

 ルキナが、ユーミリアは単純な子だな、と考えていると、ユーミリアが言った。ユーミリアは、ルキナは普段ユーミリアをうっとうしそうに扱い、つんけんしているが、なんだかんだユーミリアのことが大好きなのだと思っている。

「ユーミリアに対してデレた覚えはないんだけど」

 ルキナは自分がツンデレであること、ユーミリアのことを大好きだと思っていることを否定する。すると、ユーミリアは「えー、デレてましたよ」と、ルキナが認めようとしないのを不満そうにする。

「あえていうなら、先生はもっとデレの割合を高めても良いように思いますけどね」

 ユーミリアがルキナの周りをぴょんぴょん跳ねながら言う。ユーミリアの頭がチラチラとルキナの視界に入ってくる。ルキナはイラっとしながら、直接ユーミリアを視界にいれないことで、それ以上イライラしないようにする。

「ツンとデレの割合が重要だという意見には私も同感よ。だけど、ツンデレが可愛いのは妄想の世界だけよ。現実にいたらきっと面倒くさくてしょうがないわ」

 ルキナはユーミリアに現実に幻想を抱くなと言う。二次元で許されることが現実になるという経験を実際にしているルキナだからこそわかる。夢は夢のまま終わらせておくほうが良い。ゲームのプレイヤーだった頃はグッドポイントだと思っていた、イリヤノイドの独占欲強めのところも、マクシスのシスコンなところも、現実として目の当たりにすると、総じて「面倒くさい」に切り替わる。ただ、ルキナの脳内では彼らはやはりゲームの中の住人で、そういうものだとわりきっているし、逆ハーレム化計画に必要な人材だと思っているので、なんだかんだ付き合っていられるのだ。面倒くさいところに目をつむれば、彼らも良い面をたくさんもっているわけだし、大切な友人だとは思っている。

「でも、ミューヘーンさんも、アイスさんなら受け止めてくれるだろうと思っているから、きつい言い方をするんだよね」

 ルキナたちのツンデレ談義を聞いていたベルコルが口をはさんだ。ツンデレが何かはわかっていないだろうが、話の流れでだいたいどんな意味かは予想がついているようだ。

「そんなにユーミリアに対して冷たいですか、私」

 ベルコルにもツンデレの疑惑をかけられていることを理解し、ルキナは嫌がる。ツンデレであることを認めれば、ルキナがユーミリアのことを心の中では大好きだと思っていると公言しているようなものだ。ユーミリアのことは嫌いではないし、むしろ好きだが、意地もあって、なかなか認めたくないものだ。

「ミューヘーンさんが冷たい人だとは思わないけど、アイスさんに対しては、特にそう見えるよ。だからって、悪いことだとは言い切れないよ。だって、そういうことができるのは、よっぽど相手を信頼してないとできないものだから」

 ベルコルが優しい顔で微笑む。ユーミリアが「そうだ、そうだ」とベルコルの言葉に乗っかって抗議する。ルキナはベルコルの言っていることは間違っていないと思った。だが、それでは、ルキナは母親にひどいことを言ってしまう反抗期の子供みたいじゃないか。

「どちらかというと、私は、スーパーでお菓子を買ってもらえなくて床で寝転がって駄々をこねる子供を叱る母親の気持ちですけどね」

 ルキナは、ベルコルという味方をつけて勢いを増しているユーミリアからプイっと顔をそらして言う。それを聞き、「スーパーが何かわかりませんが、誉め言葉でないことはわかりました」と、ユーミリアが悔しそうに言う。ルキナがツンデレをちっとも認めようとしないので、ユーミリアもじれったく思ったのだろう。

「こうなったら、お昼ご飯の時に、とことんお話しましょう」

 ユーミリアが腰に手を当てて言った。いつの間にか話しているうちに資料の片付けが終わり、机の上はどこを見てもきれいだった。これでやっとユーミリアが心待ちにしていた昼食の時間だ。

 ユーミリアはルキナの手を掴んだかと思うと、走って生徒会室を飛び出した。ルキナはユーミリアほどご飯の時間を楽しみに待っていたわけでもないし、走りたい気分でもなかったので、ユーミリアに引っ張られるようにして走らされるのは嫌だった。だが、ユーミリアはルキナの言うことを聞かず、そのまま食堂まで走り続けた。そして、宣言通り、昼食中、ユーミリアはルキナの「デレ」について語りまくった。ユーミリアの勢いはすさまじく、昼食に何を食べたか思い出せないほどだった。

 昼食を終えたルキナは、ユーミリアと別れ、ノアルドとの待ち合わせ場所に行った。ユーミリアの話に付き合って疲れていたからか、ノアルドに会った瞬間、ルキナはノアルドに体調を心配された。だが、ルキナはノアルドに大丈夫だと告げ、予定通りデートに勤しんだ。ルキナたちは、以前から決めていたように、観劇を楽しみ、夕食を共にした。その後、最大の目的地、王城に向かった。

 馬車に揺られながら、ルキナは目の前に座るノアルドの顔を見た。ノアルドはどこか憂いを帯びた表情で、ぼんやりと窓の外で流れる景色を見ている。ルキナが名前を呼ぶと、ノアルドがはっとしたようにルキナの方を見て、ニコッと笑った。

「ノア様、大丈夫ですか?」

 デートを始める時、ノアルドはルキナを心配していた。しかし、ルキナにはノアルドの方が心配されるべきだったように思えてならない。体調が悪いのとはまた違って、心の方がひどく疲弊しているように見える。

 ルキナの突然の問いかけに、ノアルドは首を傾げた。ルキナがなぜ大丈夫かと問うたのかわからないまま、「大丈夫ですよ」と答えた。

 ルキナにはノアルドに関してずっと引っかかっていたことがある。それがノアルドの表情の原因かはわからないが、ルキナはとにかく聞いてみようと思った。

「私はたくさんの人の協力のおかげで、今、好きなようにやれています。感謝をしてもしきれないほどに。特にノア様には、たくさん負担をかけているように思います。肉体的にも、精神的にも」

 ルキナは友人たちの手を借りながらシアン奪還作戦を進めている。そこにはもちろん、ノアルドの協力も不可欠だった。こうしてルキナがシアンに会いに行くことができるのも、ノアルドの協力があればこそだ。ノアルドがルキナとの婚約を解消せず、ルキナがそれを利用することを許容してくれなければ、ルキナは城に近づくことすらできない。ノアルドはそのことを何でもないことのように振る舞い、ノアルドがどう思っているか口にしたことはない。だが、本当はルキナたちの知らないとこrで、ノアルドの心が傷を負っているのはないか。

 今度はルキナの言いたいことをすぐに理解したようで、ノアルドは笑顔で「そんなことないですよ」と応えた。

「私も友人であるシアンを自由にしてあげたいと思っていますし、ルキナが喜んでくれるなら、私にとってそれ以上嬉しいことはありませんから」

 ノアルドが聖人のような穏やかな表情で言った。でも、ルキナはその言葉をにわかには信じられなかった。

「それは、私にとって都合が良すぎませんか?」

 ノアルドの言葉が本心なら、ルキナはノアルドの好意を利用しているということになる。ノアルドの気持ちを踏みにじる行為だ。それはとうてい許されることではない。ルキナは、それは良くないのではないかと言う。

「良いんですよ。あなたには私の気持ちも立場も利用してもらうくらいの方がちょうどいいです」

 ルキナがせっかくオブラートに包んだと言うのに、ノアルドは直接的な表現を用いることをためらわない。ノアルドはルキナが何を言わんとしているか正確に理解していることがわかった。それに、ノアルドが、ルキナがノアルドを利用していると思っていることが、わかってしまった。

「それはあまりにも非人道的ではありませんか?」

 ルキナがノアルドの目を見て訴えると、ノアルドはゆっくりと首を横に振った。

「この気持ちをすぐになくすことはできませんが、押し付けるつもりはありません。私の気持ちがルキナに受け取ってもらえないことはずっと前からわかってます。でも、だからこそ、利用されるくらいの方がちょうど良いんです」

 ノアルドがふっと儚く笑った。ルキナはやはりノアルドの気持ちが理解できない。

「私だったら、きっと耐えられない」

 ルキナが小さな声で呟いた。とういうのも、本当は声に出すつもりはなかった。ルキナは無意識に思っていたことを口に出してしまっただけなのだ。

「それだけシアンのことが好きなんですね」

 ノアルドは、ルキナが自分に置き換えて想像して発言したのだと気づき、ルキナの言葉はシアンへの想いの強さだと理解した。ルキナはそれを指摘され、自覚無しだったため、急に恥ずかしくなって顔が赤くなった。だが、今は照れている場合ではない。

「…そういう話ではないと思います」

 ルキナは火照った顔を意識的に無視して言う。

「そういう話ですよ。好きな人に別の好きな人がいる。それはこの世界にありふれた現象ですよ。だから、ルキナが気にすることではありません。それに、今は兄上のことが心配でなりませんし、失恋とか考えている余裕はありませんから」

 ノアルドはそう言って小さく笑った。なんだか自分に言い聞かせるているように聞こえて、ルキナはやりきれない気持ちになった。

「意地汚い話ではありますが、こうしてルキナに私のことを心配してもらえたことが嬉しいんですよ。少しでも私のことを考えてくれる時間がルキナの中にあったのだとわかって、本当に嬉しいんです。それだけで、充分、私の気持ちは救われていますよ」

 ノアルドは最後までルキナに対し笑顔しか見せなかった。ルキナは、ノアルドの本心が隠されたままに思われて、そのままにしておきたくはなかったが、残念ながら馬車が止まってしまった。

「さあ、ルキナ、降りましょう」

 ノアルドが一足先に馬車を降り、ルキナに手を差し出した。ルキナはその手をとり、馬車から降りた。

 ルキナたちは、城の中に入ると、目的もなくウロチョロと歩いてみたり、時々一か所にとどまってみたりして、話をした。馬車の中でしていたような話はできなかったが、不思議と話は尽きなかった。ルキナは月に二回ほどシアンに会いに行っている。だが、ルキナが王城に来るのはそれよりずっと多い。毎回シアンに会いに行っていては、ルキナが城に来ている目的がバレてしまう恐れがある。だから、カモフラージュとして、必要以上に城に足を運んでいる。

 ルキナたちは適当な時間まで時間をつぶし、その後、シアンの部屋の下に移動した。例のごとく、ノアルドが魔法でルキナを隠し、ルキナが木を登る。空気が暖かくなったため、最初にこの木を登った時に比べ、ずっと上りやすく感じる。五回以上上り下りしているので、慣れもあるだろう。だが、やはり手が冷えるかどうかは重要な違いだ。

 ルキナが窓の正面にあたる枝に到着した頃、部屋の窓が開かれた。シアンが顔を見せる。最初の頃のように石を投げつけなくても気づいてくれるのは、シアンがルキナが来るのを待ってくれているからだろう。シアンは目で見なくとも、部屋に近づく者の存在に気づくことができる。特に、ルキナが魔法石を身に着けている時は、シアンが少し周囲に注意を向けるだけでルキナが来ていることにすぐに気づくことができる。

「シアン、こんばんは」

 ルキナが木の枝に立ち、笑顔を見せる。どんな心配事があっても、シアンの顔を見てしまったら、全てどうでも良く感じてしまう。ルキナはシアンに会えるのが嬉しくて、はしゃいでしまう。でも、ここは木の上で、体でその喜びを表現することは不可能だ。

「危ないですから座ってください」

 シアンが、ルキナが木から落ちてしまわないか心配する。ルキナはシアンの言うことに従い、木の枝に座る。

「私、やっぱり忍の才能あると思うわ」

 ルキナは、これまで城の者にバレずに木登りを成功させ、シアンに会うことができているのは自分の才能のおかげだと冗談交じりに言う。実際はチグサとノアルドの力があってこその結果なので、ルキナが威張るのはあまり褒められたことではない。それを知ってか知らずか、シアンが「そうですね」と適当に返事をする。

「意外と気づかれてませんね」

 シアンがハハッと笑う。ルキナは、シアンが「意外」と言ったことが癇に障って、「意外って何よ」とツッコミを入れる。

「なんか、どんくさそうなイメージがあったので」

 シアンは悪びれる様子もない。ルキナはひどいと思った。いくらシアンの方が運動能力が高いとしても、シアンの基準でルキナの能力をはからないでほしいものだ。

「あっ」

 シアンと話ながら、ルキナはふとここに来た目的を思い出した。制服のポケットから小瓶を取り出した。ベルコルからもらった医療用の特別製の小瓶だ。ルキナはそれをシアンに差し出す。ルキナが腕を伸ばして小瓶をシアンの方に近づけると、シアンはルキナが小瓶をシアンに渡そうとしていることに気づき、シアンも腕を伸ばして小瓶を受け取った。

「これがどうかしたんですか?」

 シアンが小瓶を手に尋ねる。急に小瓶を渡されても、どんな意味があるかわからなくて当然だ。ルキナは、シアンの手の中にある小瓶を指さして、目的を言った。

「それに血を入れて」

 ルキナは自分がいかに突飛なことを言っているのか自覚がある。だから、できるだけ不信感を抱かせないように、笑顔をキープして言ったのだ。でも、その効力はあまりなかったようで、シアンが「は?」と口をあんぐり開けて固まっている。

「だから、シアンの血がほしいの」

 ルキナは、シアンがしっかりと聞き取れるようにゆっくりと言った。

「私の血が?」

 シアンが戸惑った様子でルキナに確認をとる。その問いに、ルキナはこくんと頷く。

 シアンの一人称はもともと「僕」であったのに、ルキナをお嬢様と呼ばなくなったように、「私」と言うようになってしまった。ルキナは、シアンが「私」を使う度に違和感を感じるが、極力意識しないようにする。

「何に使うんですか?」

「んー、内緒」

 シアンは、当然のことながら、ルキナに血を手に入れて何をするのか尋ねた。だが、ルキナはその質問には答えない。血の用途について、シアンに話すのは、全て終わってからの方が良いと考えている。とはいえ、さすがに理由を言わないと血はくれないかもしれない。シアンはルキナを訝し気に見ている。

 ルキナが諦めて簡単に理由を説明しようとした時、シアンがおもむろに窓から離れた。部屋の中にある机に近づき、引出しを開けた。そこから一つのナイフを取り出すと、それを自分の掌に押し当てた。赤い液体が雫になってポタポタと垂れる。その血はルキナが渡した小瓶に吸い込まれていき、小瓶の五分目ほどまで溜まった。シアンが瓶の蓋を閉め、ルキナに渡してくれる。

「ありがと」

 ルキナは、シアンの血が入った瓶を受け取ると、満足そうにする。そのルキナの顔を見て、シアンも嬉しそうにするが、やはり譲ったものが血だっただけに、最後まで「変なことに使わないでくださいよ」となんだか警戒していた。

 ルキナは、瓶の蓋がしっかり閉じているのを確認し、ポケットに戻す。その間に、シアンが掌に布を押し当てて止血していた。

「私が言うのもなんだけど、その手、ちゃんと手当しておいてね」

 ルキナがシアンの傷を心配すると、シアンは大丈夫だと言った。

「私は普通の人より傷の治りが速いんですよ」

「そんな力もあるの?竜の血は」

「今までそんなに怪我をしていなかったので、最近知ったんですけどね」

 ルキナが顔をしかめる。この発言を聞く限り、最近はシアンも怪我をしているということなのだろう。ルイスに命令され、あちこちに足を運んでは様々な事件を解決していると聞く。いくら竜の血の力があるといっても、シアンも十八歳の子供に過ぎない。ルキナは、シアンが危険な任務を背負わされていないか、心配になる。

「誰か来ます」

 ルキナはまだ話をしようと思ったが、シアンが帰るように言った。誰かが部屋に近づいて来るのを察知したらしい。

「それじゃあ、気をつけて帰ってくださいね」

 シアンはルキナを笑顔で見送った。ルキナは、シアンに促されるまま、急いで木から下りた。シアンが窓を閉め、カーテンを閉めた。シアンと話せた時間はほんの少しだけだった。顔を合わせて話ができた時間と、ノアルドとデートをしたり城で話をした時間を比べると、苦労に見合っていないように感じられるが、ルキナにはそんな天秤は存在しなかった。どんなに短くても、シアンと話ができれば、それですべての努力が報われたような気がするのだ。タイムリミットはもう目の前。最後まで全力で駆け抜けるまでだ。

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