なんなの今日は厄日なの!? ~とある男爵令嬢の、愛と受難の日の話~
「ガドウィ様がご婚約ってどういうこと? ちょっとエーリク、どういうこと!?」
とある伯爵家のパーティーが佳境に入り、煌びやかに着飾った男女が軽やかにダンスに興じたり談笑したりしている中、私は会場の隅でパーティーなんてそっちのけで兄の親友であるエーリクを問い詰めていた。
「どういうって、そういうことだよ。残念だったねフロレンス」
だけれどエーリクは会って早々その話かよとでも言いたそうな顔で言った。
「待って! そんな話は初めて聞いたわよ。突然そんな話が出るっておかしいんじゃないの?」
私は、私の驚きとは対照的な全く興味のなさそうなエーリクに少々苛立ちながら問い詰める。
「いやおかしくはないだろ。だいたい政略なんだからお偉方が内々に決めてからの発表だし。今回はそれが発表前に漏れたというだけだ。よかったじゃないか、正式発表を突然聞いてショックを受けるよりはこうし先に聞けて」
「よくない! ああ私の美しいガドウィ様……憧れていたのに……私の楽しかった日々よさようなら……」
憧れの人をひたすら拝む、この生活の充実具合をこの男は全く理解していない。
「まあこれからはちゃんと現実を見ろよ。あの王子も見かけだけで中身はそんないいもんじゃないぞ。他にも若い男なんて山ほどいるじゃないか。そろそろちゃんと中身を見ろ。いい機会だ。ほら、ここにもいるだろう一人」
そう言ってエーリクは自分を指さしているけれど。
なによ失礼ね。私の五年に及ぶ乙女の夢をなんだと思っているんだこの男。だからモテないんじゃないの? 顔はいいのに。
いやそれより今はガドウィ様だ!
「エーリク、ちょっと相手は誰だか聞いてきてよ。せっかく殿下とスクールの同級生なんでしょ? こういう時にこそ、その人脈を使うべきでしょ。ほらあそこにいるから!」
「……相手はエリザベス嬢だよ。ロスターニャ侯爵家の」
「ああ! なにそれ! お似合い! 銀髪の君とブロンドの美女とか、なんなの出来すぎ! 美しすぎ!」
打ちひしがれる私。ああガドウィ様……五年前にその美しすぎる存在を知ってからというもの、ずっと私はあなたに憧れ続けてきたというのに。あなたはとうとう他人のものになってしまうのね……。
なのにそう言って打ちひしがれる私のことを冷めた目で見て追い打ちをかける無粋な目の前の男。
「俺を使って情報収集するのももうやめろ。趣味とか好きな色とか紅茶の好みとか。もう学校も卒業したんだろう? そろそろ大人になれ」
「エーリク、私は使えるものは使う主義なのよ。私みたいなしがない男爵の娘なんて、なかなか王族とはお知り合いにはなれないの。だったら今や侯爵様でガドウィ第二王子と同窓でもあるあなたにお願いするしかないじゃない。もちろん使うでしょ。あーよかったわーあなたが兄様と仲良しで。しょっちゅう我が家に来るからどんだけ兄様が好きなのかと思っていたんだけど」
「俺がお前んちに入り浸っていたのはそんな理由じゃねえよ……」
「ああ、ずっとお父様がご病気だったからでしょ? 一人っ子だし寂しかったのは仕方がないと思うわよ。それにご愁傷様だったわね、本当に。でもいくら喪中でもガドウィ様のご婚約を知っていたなら、せめて手紙でも書いて教えてくれてもよかったんじゃないのかしら?」
お父様の喪が明けてまだそんなに経っていないのに、パーティーに出てきたところを早速捕まえて責める私もいかがなものかとは思うけれど。
でもそれほどショックだったのよ。ああ私の憧れの君……。
銀の髪、白い肌。その美しい容貌はまさに私の好みど真ん中だった。
線の細い体格も中性的でまるで男を感じさせない。
眺めているだけで幸せになれる美しさ、それはまさに天使。現実世界に降臨した天使そのもの。
その美しいガドウィ様の容姿が、私の初恋を思い出させるのだ。
名前も知らない私の初恋の天使。
細い体に銀糸の髪、白い肌、整った目鼻立ち。そんな少年というよりは天使そのものではないかと思うような男の子に、私は過去に出会ってしまったのだった。私が多分五歳とか、それくらいの時のこと。
――かわいいね、フロレンス。
そう言って頭を撫でてくれた年上の天使。
エメラルドの瞳がどこまでも澄んでいてキラキラと綺麗だった……。
「ああ私の天使様……」
「まーた言っているのか。その昔の天使ももういいかげん大人だろ。人は変わるんだよ。いつまであの王子に重ねて夢見てるんだ。現実を見ろ」
「……うるさいわね。そんな風にデリカシーが無いから女の子にモテないのよ」
「俺はモテないんじゃねえよ! 寄せ付けないだけ!」
「はいはいそういうことで」
エーリクは去年お父様である前侯爵がお亡くなりになって侯爵位を継いだ身分の高い人だけれど、私の兄様とパブリックスクールで知り合って、その後大学に入ってからは親友と呼べるくらいまでに仲良くなったらしい。
そして大学のお休みの時などはなぜか兄様と一緒に、自分の実家ではなく我が家に帰省しては休暇を過ごしているような人だった。だから私にとってはもはや彼は家族同然で、いろいろ遠慮なく接することの出来る数少ない人となっている。
「まあなんだ。せっかくパーティーに来て踊らないのもつまらないだろう、踊るか?」
「ちょっと、私は今傷心なのよ。それなのになにが嬉しくて踊らないといけないの。踊るなら勝手にどうぞ。行ってらっしゃい」
エーリクは勝手にすればいい。私は一人で壁の花になって傷心に浸るのよ。ふん。
手をひらひらと振りながらもう用は無いとばかりに彼を送り出した。
ガドウィ様を遠くから初めて見た時には、私の天使がとうとう私を迎えに降臨したのかとそれはそれは感動したものだった。
そしてその時、燻っていた私の初恋が再び息を吹き返したのだ。
そりゃああの線の細い少年が成長してもそのままなんてことはないかもしれないし瞳の色も違うから、もちろんガドウィ様とは別人なのはわかるけれど、それでも私はガドウィ様を通してあの初恋の少年の夢を見るのだ。
あれは我が国の有名な保養地だったから、もしかしたら彼は病気だったのかもしれない。それなら色の白さもはかなげな雰囲気も、そして弱々しい微笑みも理解出来る。
ほんの数日だけの交流。
五歳くらいだった私は彼を一目見て、あまりの美しさに興奮したまま真っ直ぐに彼のところに行って一方的に自己紹介をした上で、
「お友達になって」
とお願いしたのだった。
いやあ幼児の私、無敵だな。
でも彼はそんな私を優しく受け止めてくれて、幼い私に根気よく付き合ってくれた。その優しさにますます私は彼に惹かれたのだった。ああ名前もわからない私の天使。当時の私に、もっとちゃんと名前を聞いて記憶するという知恵があったら良かったのに。
私の一家は旅行の途中でその保養地に立ち寄っただけだったから、数日滞在した後はまた次の旅行先へと移動してしまったのだった。当時幼児だった私には反対する術も説明する語彙も全く足りなかった。私に残されたのは、ただただ美しい数日間の思い出のみ。
はあ……。
さすがに婚約者や妻がいる人におおっぴらに憧れるのはちょっと。もうあの五年も持ち歩いてすり切れた絵姿も捨てなければいけないわね。
そう思いつつふとフロアの方を見ると、エーリクがどこぞの令嬢とダンスをしているところが目に入ったのだった。
あれは……たしかなんとか伯爵のご令嬢だったか。頬を染めてうっとりとエーリクを見つめている。そしてそれを羨ましそうに眺める令嬢たちも何人か見えた。
へえ、本当にモテないわけではないのね。まあこうして遠目で見ている分には麗しい金髪と高い上背、そして均整のとれた体格。お顔もまあなかなか整っているし地位もある上に品行方正。
ふむ、言葉使いも私と兄様に対してはくだけているが、外面は完璧な紳士だったなそういえば。
でも実は我が家の庭で、兄様と一緒になって上半身裸になって汗だくで転げ回っていた過去なんて、まるで無かったかのような涼やかな顔にはちょっと笑ってしまう。
「レディの前でそんな格好するなんて!」
そう言って文句を言う私を鼻で笑っていた男が。
さらに見せつけるようにズボンまで下ろそうとして、慌てる私を見て笑っていたあの男が。
あの伯爵令嬢は、そんな彼をきっと想像出来ないのでしょうね。
実は品が無くてスポーツばかりしている脳筋で、ちょっと寂しがり屋で頼み事は断れないお人好し。まあ、優しいのは認めてあげようか。
……考えてみれば結婚相手を探すご令嬢たちの、格好のターゲットなのかもしれない。今まで考えたこともなかったけれど。
そういえば女の人にあんな優しげに微笑んでいるところも初めて見たかもしれないわね。
私は去年女学校を卒業するまではパーティ-に出たこともなかったし、彼は最近まで喪中だったから、こんなパーティーでの彼をほとんど知らなかった。
だから今まで彼が周りの女の人たちにどう思われているかなんて考えたことがなかったんだわ。そして彼が他の女性をどう扱うのかも。
うーん、優しげな微笑みで私のよく知らない女性を見つめる彼を見ていると、ちょっと彼が遠くに行ってしまったようで、寂しいような気もしないでもない。
うーん?
「憂いた顔をしていますね、どうしたのですか?」
「はい?」
まあ神様、これは夢なのでしょうか?
振り返った私が見たのは、今まで手の届かなかった絵姿の君がその絵姿から抜け出して、輝く笑顔で私に話しかけている姿だったのですが……!
思わず頬をつねってみたい衝動を、王族の御前という状況をかろうじて理解した理性が押しとどめた。
「突然話しかけて、無作法だったかな。 ああ、緊張しないで。せっかくのパーティーなのに楽しんでいないのかと思ってちょっと心配になってね」
ああ、そう言って微笑むその笑顔のなんと眩しいことでしょう!
そうか! お近づきになるには憂いていればよかったのか!? ええ、そんなことってある!?
突然の僥倖に頭の中はパニックになりながらも、平伏しながら答える私。
「……ご心配いただいて恐れ多いことでございます。わたくしは大丈夫ですわ。それよりガドウィ様のご結婚がお決まりとか。おめでとうございます」
「おや、もう知られてしまっているとは。ああ、エーリクが言ったのかな。彼とは仲がいいそうだね。妬いてしまうな」
「まあ、そんなことはございません。兄が仲良くしていただいている関係というだけですわ」
まさか殿下が私のことをご存知だとは! フロレンス、最高に感動でございます! エーリクありがとう! なんていいやつだ!
憧れの君の顔を間近でガン見したいのをぐっと堪えて答える私。
そんな私にさらにガドウィ様はやさしいお言葉をくださるのだった。
「ああ顔を上げてください。あなたが私の絵姿を大切にしてくれているとエーリクから聞いてね、前から気になって、いつかあなたと話をしてみたいと思っていたのだよ。だから今日見かけて、礼を言おうと思ったのだ。ありがとう」
「まあ、いえ! 殿下は私の憧れですので!」
エーリク! 一体何を伝えているの! よくやった!
そして感動に打ち震えている私に、殿下は意味深に笑って内緒話をするようにささやいた。
「今度二人でゆっくりお茶でもいかがですか?」
「まあ! 光栄でございます。ありがとうございます」
「ではまた連絡するよ」
そう言われて、私は天にも昇る気持ちだったのだ。
のだけれど。
その直後、駆け寄ってきたエーリクにことの次第を伝えたらとっても驚かれて、そして彼は何故か怖い顔になったのだった。
「お茶に招待だと?」
「そうなの! 今度二人でお茶でもって! エーリクのおかげよ!」
「それはまずいな」
「えっ!?」
その後私は、急に何か焦るような顔になったエーリクに兄を呼びに行かされ、急かすように馬車に乗せられて、家へと送り返されたのだった。
家に着くと、エーリクも一緒に馬車を降りる。
玄関先まで送ってくれるのかと思ったら、一緒に中まで入って来て、そしてそのまま兄様とエーリクと私の三人で応接室での話し合いの様相だ。
ええ、なんで……?
でもエーリクから事情を聞いた兄様も、驚いたあとにとても怖い顔になったのだった。
「よりによってフロレンスか。困ったな……」
「どうする? このままではまずいぞアルバート」
「ちょっと、まずいって何なの? 普通にお茶会でしょ? まさか私のお行儀がまずいとか言うんではないでしょうね? ちゃんとやる時はやるわよ。学校で習ったんだから!」
だけどそんな私を複雑な目で見る二人。
ええっと……なんだか空気が不穏なんですが。
父様が領地に行っていなかったら、父様も呼ばれていそうな感じなのは、なぜ?
「お前いつ殿下に言ったんだフロレンスのこと。迂闊じゃないか」
兄様がエーリクを睨んだ。
「まさかこんなウブな娘に手を出すとはさすがに思わなかったんだよ。しかし俺もいつ言ったんだ? 覚えてないぞ。少なくとも最近じゃあない」
「ウブってなんなの、失礼な。狙うってなによ」
思わず文句を言う。
「ウブだろうが。なにしろガドウィ様が『二人きりのお茶』に誘うことの意味を知らないんだから。アル、お前教えて無かったのか」
「え? お茶はお茶でしょ?」
「……だからウブだって言っているんだよ。この女学校出たてのデビューしたてが。まさか僕から妹に教えることになるとは思わなかったがいいか、フロレンス。ガドウィ様が女性を『二人きりのお茶』に誘うということは、愛人になれと言っているも同義なんだよ。それでも今までは跡継ぎのいる既婚の女性や未亡人が主な相手だったんだ。未婚の令嬢を誘うことはなかったのに。母様も教えていなかったのか? 結構有名な話だぞ」
「は?」
えぇぇえ? なにそれ!?
「男爵の娘だからと軽く見られたか? だがれっきとした貴族の娘だぞ。遊んでいい相手じゃない!」
兄様が怒っている。
「きっとご自分の婚約が決まって焦ったんだろう。正式に婚約した後で堂々と愛人を囲うことは難しいからな。特に相手がロスターニャ侯爵家だ。もしかしたら今までの相手は逃げたのかもな」
「だが長い婚約期間中にエリザベス嬢に手を出すわけにもいかない。で、その間気軽に遊べる相手が欲しいのか? そしてそれには自分に憧れている何も知らない娘が手軽だと? くそっ婚約期間くらい大人しくしていればいいものを」
「こっそり会って、もしバレても正式に側妃にすればいいとでも思っているのかもしれない。相手が未婚ならそれが出来る」
ええ……まさかそれ、本当にガドウィ様の話……?
驚く私に気まずそうな二人。
ああ……今までは王族が男爵の娘と直接関わる可能性なんてほとんど無かったから、言わなくても大丈夫だと思っていたのかもしれない。それにこの事を教えて私に大騒ぎされるのも嫌だったのかもしれないわね。そしてきっと、真実を知る前に私の熱が冷めるとでも思っていたのだろう。
なんだか二人揃ってそう言いたげな顔をしていた。
実際接点が無ければ実害は無い。
はずだった。
でもまさかそんな人だったの? 全然そうは見えないんですけれど……?
ちょっと、私の今までの五年間を返して……!
これまでの美しい王子のイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
詐欺だ……。
人は見かけによらないとは言っても、程がありませんかね。
そして若い娘をそういうゴシップから遠ざける風習も良くないと思います!
ええ八つ当たりですが! この怒り、一体どこへ持って行けばいいの。
「しかし何も知らないで返事してしまったぞ、どうする。正式にお茶の招待が来たら断れない」
兄様が頭を抱えている。
「でもだからといってのこのこ行って、無事に帰ってこれるかどうか」
エーリクも珍しく焦った顔をしている。
「でもこのままでは側妃にしてもらう以外に道が無くなる。殿下のお手つきだと思われたら、フロレンスの評判が地に落ちるぞ」
「嫌よ! 愛人も側妃も嫌! 私にも夢があるのよ!」
私は思わず叫んだ。
「私にも愛し愛されるという夢があるのよ。二番目なんて嫌。せめて私を一番に想ってくれる人とちゃんと結婚したい」
手軽だと思われるなんて、なんという屈辱。
沈黙が三人を包んだ。
兄様が何か言いたそうにエーリクを見ている。
エーリクは兄様を見返しながら渋い顔をしている。
私は……なかば放心していた。
随分と重苦しい沈黙が続いた後、何かを躊躇していた様子だったエーリクが、突然意を決したように立ち上がった。
そのまま歩いて放心している私の前に来て、そして跪く。
私の手を取って、そして。
「フロレンス、俺と結婚しよう。せめて婚約していれば、ガドウィ様も手が出せないはずだ。君が俺を何とも思っていないのは知っている。だけど、実は俺は前から君が好きだ。大切にすると約束する。だから俺と結婚してほしい」
真剣な顔で一気にそう言ったのだった。
「は?」
何の冗談? エーリクが私を好き? え?
きっとそんな思いが顔に出ていたのだろう。
兄様が言った。
「実はそいつ、昔からお前が好きだからな。お前はガドウィ様ばかり見てキャーキャー言っていたから全然気がついていなかったみたいだが、エーリクはお前ばっかり見ていたぞ?」
「え……?」
たしかに今は、エーリクが今まで見たことがないほど真剣な顔で私を見つめているけれど。
「君のことを全力でガドウィ様から守ると誓う。そして一生大切にする。君が俺を好きになってくれるように努力もする。だから、よい返事をして欲しい。もっと君が俺を意識してくれるまで待とうと思っていたけれど、どうやら時間が無くなってしまった」
ええ…………?
でも彼の目は真剣で、嘘を言っている目ではなかった。長い付き合いだから、知っている。
「いつから……?」
「それは……イエスと言ってくれたら教える。まずはイエスと」
「ええ、でも突然今すぐなんて無理でしょ。一生のことなのよ? 私、結婚なんてもっとずっと先の話だと思っていたのに」
「でもまごまごしていたらガドウィ様のお手つきになるぞ」
兄様が煽る。もちろんそんな状況は嫌だ。
「とりあえず婚約だけでもして、何ならどうしても嫌だったら後から解消してもいい。でも今はとにかくガドウィ様を遠ざけるのが先決だ。だからフロレンス、まずはイエスと言って欲しい」
普段は自信家なエーリクが、珍しく弱気なことを言う。
「ま、まあ、そういうことなら。本当に後からどうしても嫌だったら解消してもいいのね?」
「約束する。では、婚約でいいね?」
「うん、はい。えーと、よろしくお願いします……?」
「よし、ではすぐに新聞広告に載せるぞ!」
兄様が即座に立ち上がった。
って、ちょっと兄様、早い早い。もう少しこう、大事な妹を取られて寂しいパフォーマンスとかないの!?
まだ私、何の実感もないのに。
「でも昔からエーリクにはお前さえ良ければ嫁にやると約束していたわけだし、まあちょっと思っていたよりは早まったがそれもこんな状況では仕方が無い。大丈夫、きっと幸せになるよ」
って、何なの兄様のそのエーリクに対する信頼は!? そしてその約束ってなに! 初めて聞いたわよ!?
「ではよろしく婚約者どの。ちゃんと幸せにするから」
エーリクが見たことも無いほど嬉しそうに笑っていた。あれ、こんな笑顔をする人だったかしら?
「まあエーリクにはよかったんじゃないか? どうせこいつを待っていても全然お前には気付かずに、いつまでも過去の初恋の『天使様』ばかり想っていたぞきっと」
「ああそれはたしかにな。何しろどんなに隣にいても会話していても全然こっちを見ないで『天使様』だもんなー。一生懸命アプローチしても、全く気付かれもしないのには本当にまいった」
って、何それ、アプローチって一体なんのこと?
「エーリクに、せっかくスポーツで活躍してみたりパーティーにエスコートして張り付いたりダンスに誘ったり、いろいろしているのに全然つれないと愚痴を聞かされる日々がやっと終わって、いやあ兄としても親友としても喜ばしい限りだ」
って、兄様もエーリクも、なに晴れ晴れとしているの。
「まあこれからは堂々と婚約者として他の男どもを牽制も出来るし、もっと直接誘えるようになったからな、応援してくれアルバート。全力で落とす。さて、早速明日あたり馬車で一緒に散歩でも行くか、フロレンス」
そう言ってさりげなく笑顔で私の隣に座って腰を抱いてくるこの人、こんな人だったっけ?
今までは、いつも礼儀正しく向かいに座っていたじゃないの。
戸惑いつつも初めての距離にドキドキしてしまうのは、しょうがないわよね?
兄様だってこんな近くには最近は座らないのに。
男の人らしい大きな体を実感してしまって緊張する。
「じゃあ早速新聞社に婚約を知らせる手紙を書いてくる。あ、二人で話をするのはいいがドアはまだ開けとけよ? 我が家で不埒なまねは困るからな?」
そんなことを言って、うきうき部屋を出て行く兄様。
そしてますますぴったりくっついてくるエーリク。
「エーリク……一体どういうことなの。本当なの?」
「……フロレンス。俺がなんで昔からこの家に入り浸っていたと思ってるんだ。君に会うためじゃないか。いやあアルバートが協力してくれるいいやつで本当によかった」
「ええ!? ということは、いつから……?」
この人が最初に兄様と一緒に家に来たのはいつだっけ?
「……かわいいと思ったのは最初から。君があの保養地で『わたし、フロレンス! ごさい! わたしとおともだちになってくれない?』って言った時からだ。当時は単にかわいらしいと思っていただけだったけれど、アルバートが君の兄だと知って興味本位で会いに来てから、徐々に女性として惹かれるようになった。でも君が全然俺に気付かずに昔の俺を美化してうっとり語るのはあまり嬉しくなかったな。目の前に本物がいるのに、君は五歳で出会った時の俺ばかり好きで」
ええ…………?
ま さ か ?
……まさか、まさかの私の『天使』のなれの果てが、これ!?
「ちょっと! 全然違う! ぜんぜん! なにそれ詐欺じゃないの!? 私の天使様はこんなんじゃない!」
私は思わず叫んだのだった。
私の天使はこんなガタイのいい男じゃない! おかしい!
もっと線が細くて……儚げで……!
「そりゃあ子供の時とは違うさ。でも昔は本当に病弱で、保養地で過ごすくらいには体が弱かったんだ。だから全寮制のパブリックスクールに入った時に虐められてさ。色白で線の細い男ではだめだと思ったから必死に体を鍛えたんだよ」
「でも、髪の色が! 銀だったじゃないの」
「子供の時は色が薄くて、大人になるにつれて髪色が濃くなるのは遺伝だ。昔も銀というよりプラチナブロンドくらいだったよ。 今では普通のブロンドだけど」
そう言って自分の髪をもてあそぶ至近距離の大人の男の人は、ちょっと私には迫力がありすぎて。
見慣れているから普段は意識しないけれど、この人一応は整った顔なのよ。
しかもこんな近くにその顔があることなんて今まで無かったのよ。
普段は意識していなかった、男の人らしい彼の香りが私の気を散らす。
ちょっと、そんな目で私を見ないで。
そんなに嬉しそうにしないで。
そして腰に回した手を、一旦どけよう?
私はこんな状況は初めてなの。
お願い、私に時間をちょうだい。
なぜだかドキドキして考えがまとまらない。
エーリクなのに!
ちょっと心を落ち着けて、整理をする時間を私にちょうだい?
なんだかこのまま流されてしまいそうな気がする自分がいて怖い。
この状況が嫌じゃない自分が怖い。
だから私の耳に息を吹きかけないで!
私はこの日、この世に純粋な天使なんてものは存在しないのだということを、悟ったのだった――。