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なんか試しに投稿してみます。前は電脳恋愛というのを書いていたんですが詰まったので。うぎゅっと。
で、気晴らしに別の話書いてたら案外長くなった。あと電脳恋愛完結しました。ついさっき。
「ある日、夕暮れにカラスが唄う」
《十一月八日、東京都野方駅で人身事故が発生。少年が特急電車に飛び込み、彼は遺体も残らないほどバラバラな肉片となった。平日の昼間だったためにその現場を目撃した人は少なかったが、駅の近くを通りがかった女性が線路に飛び込む学生風の男の子の姿を見たという。
少年は線路に立っていた一羽のカラスをかばうようにホームからその身を投げ、次の瞬間にその細いからだは、巨大な鉄の塊に飲み込まれた。カラスも一緒に見えなくなった。》
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きみが、そこにいたのを覚えている。
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その子は、ハルちゃんと呼ばれていた。クラスや学校のだれもがそう呼んでいた。けれど不思議なことに彼女の本当の名前を誰も知らなかった。クラス名簿にも載っているはずだし、出席をとるときに名前を呼ぶはずなのだが、担任の先生も彼女をハルちゃんと呼んでいたので結局だれにもハルちゃんの名前はわからなかった。それでも、
「ねえハルちゃん、きみの本当の名前はなんていうの?」
なんて聞いた子は一人もいなかったんだ。
ハルちゃんは特別な能力を持っていた。それが具体的になんなのかは、ぼくたちには解らなかったけれど彼女の周りではいつも不思議なことが起きていた。たとえば、彼女は人のこころを読むことが出来たと思う。あるとき教室で泣いている男の子のそばによって、しばらく見つめた後、ハルちゃんは何かをささやいた。すると男の子は驚いたように顔をあげ、泣き止んだ。その子は大事な携帯ゲーム機をなくして泣いていたらしい。ハルちゃんは彼の記憶を辿り、ゲーム機が転がっていた場所をずばり言い当てた。数分後少年は友達と楽しそうにゲームをしていた。でも、ぼくはあの時のハルちゃんを少し怖いと感じた。彼女は男の子を見つめているのではなく、まるで実験動物を観察するかのように無感情にながめているように思えたから。
またあるとき。ぼくは唐突にハルちゃんの気配を感じた。その気配があまりに巨大だったので驚いたぼくが急いで振り返ると、そこには髪の色素のうすいショートヘアーの女の子がいた。また、その子は肌が浅黒かった。ぼくは「ハルちゃん、君はどうやって変身したんだ・・・。」と思った。なぜならその時ハルちゃんは、ハルちゃんの外見をしていなかった。彼女は普段、長い黒髪をさらりとゆらしていて、はだは色を失くしたように白かったはずだ。でも、なんとなくぼくには「やっぱりハルちゃんだな。」と分かった。彼女がいつも纏っているオーラがそこにあったからだ。真新しく純粋で、こころが騒ぐようなオーラである。
「ハル」の周りには、澄み透った春風が流れていた。
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ぼくは、どちらかと言えば教室ではあまり目立たない人種だった。というか目立ちたくない。根本的にぼくのこころの中には、ひとを嫌う性質がこびりついていた。だから誰かとかかわる事なんてどうしようもなく煩わしく、どうでもいい事だと思っている。男同士で馬鹿話をして騒ぐなんてもってのほかであり、そこでぼくは自らのオーラを滅却する。それでも、学校に通っているからには誰かと接触することは避けられない出来事なので、そんな時ぼくは全力で普通を装い、反射的にまともな答えを口走る。その時大事なのは思いきり笑うことだ。いつの間にか、これらは癖になっていた。
ハルは、そんなぼくとは正反対だった。彼女は、きらきらしていた。彼女の行動や発言はまっすぐで、いつも一生懸命なのが伝わった。誰もが彼女をほほえましく見守っていた。ハルは自分を誇張して、変によく見せることをしなかった。ハル自身も、それが一番輝いて見えるということを知っているかのようだった。ぼくはそんなハルの存在を信じられなく感じていた。なぜその瞳に写る世界は、そんなにも輝いているのだろう?どうしてぼくは、こんなに醜くくすんでいるんだ?ぼくの手にはけして届かない場所が、彼女のこころにはあった。
そんなぼくとハルが、これから深く関わり始めていくことになる。それは、高校生のぼくらにとってあまりに悲壮な物語だった。けれど小さなふたりにはただ必死で耐えることしか出来なかった。いつも笑っていたハルにだって、色んな悩みがあっただろう。ハルにしか分からない世界の痛みがあっただろう。それでもハルは、やっぱり笑っていた。
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秋だった。木枯らしに吹かれながら、ぼくは夕暮れ道を歩いていた。誰とも話さないぼくは誰よりも早く学校を去ると思いきや、ぼくは美術部に所属していた。まともな高校男児がじっと座って絵を描くなんてことに興味があるはずがなく、美術部で男はぼくひとりだけだった。しかしそのほうが他人と接触を拒むぼくにとっては都合がいい。俯いたまま、ぼくは放課後みんなと離れて一人絵を描く。しだいに太陽が傾いてきて、赤が美術室の静けさに入り込んでくる。そこでふと窓の外に目をやったときに見える夕日が、結構お気に入りだったりした。特に夢や生きがいを持たず、人と関わるごとに傷ついてきたぼくの枯れたこころを毎日少しだけ、優しく撫ぜてくれた。
辺りのすべてにたっぷりした漆黒をもたらしながら、ゆらりとかまえる巨大な朱色が、ぼくのすぐ近くで目を細めるほどの光を放っている。それがあまりに格好よくて、ぼくはうらやましくなったんだ。でも、「すこしちがうなぁ。」と思った。それはあの、春の光だ。こんなにも切なげに浮かんでいたっけ?ぼくはいつの間にかハルちゃんの姿を思い出していた。
のっそりとした木々の覆いかぶさる細い道のまんなかを寂しいぼくが歩いていた。
やっぱり、こういう一人の時間が好きだ。色んなことを考えられる。夜になると世界が自分を主張しなくなり、昼とは違った美しさや感動を、次々にその身に纏いはじめる。ふわり、ふわりと。
ぼくは暗闇の色が、好きだった。
突如、夜の秋空に薄透明の風が満ちた。ぼくの長い髪がはらはらとゆれ、ひんやりとした空気を全身にあびた華奢なからだをふるわせながら、目を細めて秋風の軌跡をふと目で追った。右から左へ、緑色を失くした褪せたような幾千もの葉が、ざわめきながら歌った。ぼくの世界は夜の闇と、ざわざわとした音だけになった。
なんだか悲しい気持ちになって、誤魔化すようにほほ笑みをつくる。その視線は行く先を探すようにふらふらと進んだ後、暗闇の奥に掻き消えた。
そして思うんだ。僕らが感じることはあまりにも多すぎて、ちっぽけなこの僕には、それらをきっちり表してあげられるだけの言の葉は持ちあわせていない。いつか、誰かが木陰にすわって笑ってくれるだけの葉っぱを茂らせられるだろうか?いつの日かそんな人間に、なれるのかな。
目を閉じた。ぼくは悲しいのだろうか。いや、そうじゃなくてこれは― 。
ぼくが答えを出す前に瞼がほんのりと赤に染まる。目を開くと、道の端っこで何かが、ぼくやり光っていた。思わず声が漏れる。
「ハルちゃん?」
ぼくは相当、動揺していたと思う。びっくりして声を出さなければよかったと、激しく後悔した。しかし彼女は、気づいていなかった。高校生の女の子が夜に道端にうずくまって何かしているのは不思議な様子だ。声をかけるべきか迷った。しかしぼくは誰かと道の途中で会うのを強く嫌った。わざわざ人と関わって話をしなければならないことが煩わしかったのだ。だから登下校中に知り合いを見かけても挨拶せず、気づかれないように遠回りをしたりする。そんなぼくの意識も、ハルちゃんの両の手から溢れだす淡い光の中にある物体に気づいたとたん、急激に静かになった。
白い猫だった。ほかの色は何もないまっしろな毛並みが土に汚れて灰色になっていて、泥がこびりついたぱさぱさとした毛が無感情に逆立って、乱れている。その猫は黒い地面におとなしく横たわり、そしてそのちいさな体を、まるで猫に与えられた汚れや痛みを洗い流すように光が包み、いつまでも巡っていた。
野良猫だろうか。ぼくには一目で解った。その白い猫は、もう死んでいるんだと。
彼女はじっと猫を見つめている。声は出していないけれど、泣いているのかな?なんだか、 そんな気がした。やがて、猫の体も光を帯びて輝きだした。光が夜の闇に滲む。ぼくは不思議な少女の横に立ってそれをみつめる。二人の顔がきらきらした光にやわらかく照らされて、ふんわりとした桃色やきらりとした黄色や、切なげな薄緑色に染まった。どれも儚げな色が、次々に移り変わる。そしていつしか白猫は光とともにわかれ、ぷつりぷつりとちいさな無数の光の粒となって、黒い地面を離れて楽しげに浮遊をはじめる。数え切れないほどの光の粒たちは、巨大な星ぼしの浮かんでいる宇宙の果ての方向を目指し、猫が確かに生きたこの世界を名残惜しむように、ふわふわと辺りを漂いながら夜空へと進んだ。今ある世界の闇や、空気や、僕らの思いを大切そうに拾ってしまいながら、昇った。彼の心は笑っている。ぼくにはそれらが、ちゃんと解った。そしてそれは、ぼくの隣にハルちゃんが居るからだということも、たぶんわかった。白銀の色を放つ光の玉は透きとおっていて、僕たちの頬を照らす白い光が、だんだんと薄くなっていく。猫はもうぼくらを振り返らない。いくらかの空間や時をへて、彼の光は夜の星に届き、ぴかぴかした惑星や衛星に混じって、溶けた。ハルちゃんとぼくはふたりして顔をあげてぽかんと口をあけながら空を見上げていた。降ってきそうな満天の星たちが、今日はなんだかやけに、
「きれいだ・・・。」
ぼくの呟き。だけどハルちゃんは、もういなかった。
そして世界は、墨を流したように暗い。
黒に溶けたカラスが、何も語らず彼をみつめたまま、少年の傍に佇んでいた。
次の日。
ぼくは昨日の帰り道に起きた短い時間の不思議な出来事は、誰にも話さず黙っておくことにした。まあ、例によってそれは2つくらいの意味をもっていたけれど。いやな授業の間はずっと昨日のことを考えて過ごした。まるで、よくあるお伽話のように天に召されていった白い猫。そして、ハルちゃんのこと。あのぼうっと明るい光を見ていた時間はいつもの色んな面倒くさい考えとか感情とかが消失してしまい、自分が今居る現実世界から離れて異世界に浮かんでいたような気分だった。そのせいか、今でもあれが昨日の夜、ぼくが実際に目にしたものだという確信がもてなかった。お昼休みのことだったか、そんなぼくに、ハルちゃんが近寄ってきた。中庭の隅っこのおおきな石の上に座って、一人お弁当を食べていると、いつの間にかハルちゃんがすぐ傍にいた。ためらいのない動作で隣に腰掛けると、驚いているぼくを尻目にこんなことを喋りだした。
「猫はね、自分の一生の長さなんて気にしないの。自分の生きた猫生が、本当に楽しかったって思えたなら、それが一番なんだよ。」
聞けば、あの猫はまだ八歳で、白血病にかかって死んでしまったそうだ。彼女がいつも公園で世話をしていた野良猫だったらしい。どうしてぼくにそんなことを話すのかと言うと、やっぱり昨晩の出来事は本当にあったということだ。そしてまるで信じられないようなハルちゃんの力も、確かに実在しているということ。それを確かめたくて彼女の方を向くと、きらきらとどこまでも奥深く続くような黒目が、ぼくの瞳をとらえた。
不思議な香りのする柔らかく厚みのある風が、誰もいない小さな中庭を横断する。少し居たたまれなくなって前を向いた。渡り廊下の向こう側には、ひろびろとした校庭があり、元気に生徒たちが走り回るぽつんとした影がいくつもみえて、笑い声が小さく響いてくる。そのさらに向こうには、両の側に高く伸びた校舎にはさまれて白と青が輝くきれいな雲空が覗ける。空に向かう校舎の窓からは、風にゆれる教室のカーテンと、身を乗りだしてどこか遠くを見つめる男の子の姿がみえた。ガラスに空の模様が映りこみ、世界はどこまでも広がっているかのように思えた。
長い漆黒の髪が、ぼくのすぐ近くで風に吹かれて静かにはためいていた。
「ハルちゃん、きみは何者なんだ?」
返事はなかった。
彼女はただ空を見上げて、わずかな太陽の暖かさをのせた秋風に吹かれながら、目をほそめた。
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その日からだった。ぼくとハルが一緒に居るようになったのは。ぼくらは徐々に打ち解けていった。ふたりが会うのはたいてい中庭で、決まって、ハルちゃんの方からぼくに近づいてきた。なぜかわからないけれど、いつも笑っている彼女のそばにいると、人を嫌うはずのぼくが、誰かと一緒に居ることの喜びや安心を感じた。ただ意味もなくふたりで並んで座っているだけのときもあった。それでもぼくはハルといれるだけでうれしかったし、きっとふたりとも笑っていたと思う。ハルはぼくの脆く、たくさんの恐怖を味わってぼろぼろになった心を許すことのできた初めての友達だ。
おしゃべりもない、ふざけあうこともないけど、こんなぼくやハルだからこそ、ただ傍にいられることの温かみを知れた。
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今日は朝から曇っていた。ぼくは一時間目の授業を抜け出して、中庭の石に体育座りして身を縮めていた。数学は苦手だった。でも、自分は理系を選択しようと思っている。ぼくの将来の夢は博士になることだった。ロボットを造るんだ。そう、遠い未来に誓ってからどのくらい経つのだろう。ぼくはなにも出来ず、なにもしないまま高校生になってしまっている。今ではもう、ぼくはこのつまらない世界に胸の躍るような幻想を抱くこともなくなった。世の中を見限った。勉強もできず、人と関わることも出来ないぼくがたった一つ大切に守ってきたものさえ今ではなくしてしまっていた。そして、世界もまた、ぼくを見捨てた。だからぼくは今では人々の流れに押し流されながら、過去の夢みる少年の日々を思い出しながら、なんとなしに道しるべを選んでゆく。そんなぼく。
ハルちゃんが隣にいた。体育座りで中空に視線を馳せていた。いつのまに来たのかなんてことはもうどうでも良かった。そんなぼく。
「ああ、こんなぼくはもうだめだ。」
唐突にそう感じた。興味をもった様子でハルちゃんがぼくを見てくるのでなんでもないよ、といった風に曖昧に笑っておく。すると、彼女はごく自然に手をのばし、掌をぼくの頭においた。また何か不思議なことをやらかすのだろう。ぼくはいつものことだと思って、じっとしたまま考え事を続けた。ぼくが脳内で悩みに苦悩し、本音をぶちまけるたびに彼女はくすりと笑った。それが少しばかり続いたところでいくらぼくでも、「ああこりゃ頭、覗かれてるな。」と気づいた。そのとたんハルちゃんは少し申し訳なさそうに細い指を離した。しかし彼女が本当に申し訳なさを感じていたのかどうかは定かじゃなかった。彼女はひざに手をついたまま体をかがめて、おもしろそうにぼくの表情を眺めていたからだ。だけど、嫌な気はしなかった。なんだかハルの笑顔を見て、ちょっとばかり胸の鼓動がおかしなリズムを鳴らしてしまった。すぐに思い浮かべた単語を打ち消す。だめだ、ぼくにそんな権利はないんだ。ぼくみたいな人間は誰かと深く関わってはいけない。もちろんハルちゃんとだって、今はこうして一緒に居れるかもしれないけれど、いつかはぼくの本性に気が付く。ぼくの醜い部分に触れ、恐怖し、軽蔑の眼差しをぼくに突き刺すに違いない。
悲しい気持ちになって彼女の存在をしっかりと確かめるように目線を横に馳せる。ハルちゃんの長い黒髪がゆったりと垂れて、冷たい石にそっと触れていた。彼女は灰色の石の心さえも知っているのだろうか。それなら、ぼくの心の全ても知っているのか?突然、強烈な脱力感に襲われる。葉っぱがはらりと落ちる。そうだ、これは絶望だ。まずい、ここから逃げなくちゃ。ハルちゃんとの全てが音を立てて壊れる前に。
ぼくはいきなり立ち上がって猛然と走り出した。中庭をでた辺りで何食わぬ顔で「冗談、冗談。」などといってハルちゃんの所に戻ろうかという強烈な感情が生まれたが、ぼくはそれを振り払ってわけもわからず走った。
風が冷たくなってきた。ハルちゃんは少し目を伏せて、ぽんっ、というはじけた音とともに消失した。近くの木からばさばさと慌てたようにカラスが飛び立つ。
ぼくが教室に戻ると、ハルちゃんはすでにいた。なんとなく後ろめたい気持ちがあって目を合わせないように注意しながら椅子にすわる。
よし、次の授業は理科だ。少しだけ嬉しくなってぼくはノート開く。シャープペンシルの細かいタッチでびっしりと描かれた落書きが空白を埋め尽くしていた。どれも、ぼくが将来造りたいと思うロボットたちのデザインだった。もちろん、こんなものお遊びだ。ただの現実逃避に決まっている。ぼくは急いでページをめくる。
窓際の、一番後ろの机が、ハルちゃんの席だ。その時彼女の机の上に、乱れたようにカラスの羽が落ちていたことに気が付いた生徒はいなかった。はっとしてそれを見つけると、彼女は頬の紅潮した顔を、焦った表情に変えた。すばやく吹いた風が、開け放した窓を通り抜けて教室を冷やし、一枚の漆黒の羽がふわりと浮いて教室の空中に舞い上がる。それは生徒たちの頭上をひらりひらりと泳いだあと、狙い済ましたように少年のノートの上に舞い降りる。雑に描かれた丸みを帯びたフォルムの単眼ロボットが、薄黒く陰る。
ぼくは、戦慄した。
目をぎゅっと閉じて、何かを振り払うかのように頭をふった。突然感じた邪悪の香りに、心臓がハイテンポで動作している。しかしそれは一瞬のことだったので、ぼくは気のせいだと思うことにした。このカラスの羽は窓の外から風に運ばれてやってきたのだろう。そのまま些細な出来事として忘れることにした。感情をすくえない教師の声が再び耳に入ってくる。そしてそのまま、まるでいつもと同じ束縛された一日が過ぎ去る。
夕暮れの並木道をいつものようにぼくが歩く。辺りには夜の色が満ちていた。今日は美術部はない。それでも最近は日が落ちるのが早くなってきて、下校する時間にはもう太陽が傾いていた。空を覆うように立ち並ぶ建造物の影の向こう側に煌々とした明かりが被さって、散らばっていた。太陽が別の国へ仕事をしに行こうと、ぼくらの生きる舞台から退場していこうとしている。ずいぶん早い閉演だな。なんだかぼくらの人生までも、短くなったようだ。そんな薄情者に、
「ばいばい、また明日。」
なんて手を振る気にはなれなかった。
目の端に人影をとらえた。道に脇に植わった木に寄りかかって、ハルちゃんが立っていた。ぼくを見つけると、嬉しそうに顔をほころばせながら、
「一緒に歩こうよ。」とささやいた。吐息が見えた。その様子がだいぶ寒そうだったので、か細く色白の彼女を、少し心配してしまった。
ぼくが急いでうなずくと、少し安心したように丸めた両手に大きく白い息をはきだして、ハルちゃんがぼくの左側にかけよってきた。ぼくは、彼女と同じ速度になるように気をつけて歩いた。それとも、ハルちゃんが同じ歩幅になるように歩いてくれたのだろうか。ふたりはおんなじ速度で、まっすぐな道をゆっくりと歩いた。
「なぜ君は、ぼくと一緒にいてくれるんだ?」
冷たく静かな空気を乱してぼくが声を発する。それはぼくにとって、なぜだか強く勇気のいる質問だった。そしてきっと彼女にとっても、どこか核心を突いた問いかけであったに違いない。ハルの目が、赤く染まったように思えた。
少しの間の静寂。もうすぐ冬がやってくる。
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そのとき、たぶん彼女はこう言った。
「人は醜いと思うよ。たくさん汚いものを隠し持っていて、それは上っ面で言っている奇麗事なんかよりも、もっと一杯あふれているんだ。だから、たまに自分のことがどんなに頑張ってみても好きになれずに、ただ苦しみに堪えるつらい時間を過ごしたりもする。だけど、私達みんながそれを持っているのだとしたら、誰もが必死に抱えているものなのだとしたら、きっとその醜さは「人間」っていうことなんじゃないのかな。」
そこで大きく息を吸う。語尾が震えていた。
「だから、いいんだよ。私たちは大丈夫。きっとこれからも生きてゆけるよ。」
彼女の顔は夜の闇に紛れてよく見えなかった。ぼくはただ一言、
「うん。」とだけ声を絞った。
ぼくは彼女の言葉の意味に打たれていた。ハルは、苦しんでいたのだろう。自分の嫌な部分を見つめて苦悩し、みんなの前では気丈に振舞う。ハルだって、人だ。十六歳の女の子なんだ。一つの苦しみや憎しみさえ持たないなんてこと、あるわけないだろう。それなのに、ぼくは・・・。自分が、ひどく傲慢で低脳な動物に思えた。
そして、それが問いの答えになっていないということも気づいていた。これが、答えではないということ。しかしこの時ぼくは、彼女の言葉の本当の意味に気が付いてはいなかった。
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その細い道を数分進むと、神社の敷地の中にでる。小さな鳥居をくぐると左横に狛犬の後姿があって、そのもう少し先には低い階段と一回り小さい狛犬が対になって番人のように入り口を見張っていた。階段を下りたところでぼくらは別れると、ぼくは左、ハルちゃんは右の狛犬の前を横切って帰った。のろのろと歩いたせいか、透き通るような虫の声がどこからか聞こえてきている。俯いて歩くぼくの真上には荘厳な星空。視認しなくてもその圧倒的な存在感を誰もが感じてしまう。こうやって世界の大きさを知るたびに、宇宙はぼくに興味がないんだと理解する。誰からも見捨てられ、ぼくはいつも独りだ。そのはずだった。今まではそのはずだったのだ。しかし今は、ぼくの隣にハルちゃんがいる。いつかお互いに悲鳴をあげるような大きな傷を残してぼくらは決裂するような、なんだか悲しい予感がしたけれど今はどうでも良かった。それほどまでに、他人の存在というものにぼくは救われていたんだ。
冬が訪れた。
昼間だというのにどんよりした灰色の雲が空を覆って、世界はまるで閉じたように薄暗い。そんな景色にうんざり顔の、くたびれた様な人々を、攻撃的な寒さが襲っていた。そんな朝の寒空には、小さな日の光だけが世界の良心に思えた。今年も終わりが近い。最近では東京だというのにちらほらと雪も見かけるようになって、なんだか時が進んでいることを感じさせられる。雪の粒はゆっくりと下へ向かって進む。どこか違う場所へ行こうとも考えず、空の高いところで生まれたときからずっと同じ道のりを旅して、最後には僕らの足元で消え去ってしまう。それでいいのだろうか。彼らはそれでいいのだろうか。もしそれが抗いようのない地球の重力だというものの仕業だとしたら、同じくこの星に生きる僕らも、抗いようの無い時間という力に流されているのかもしれない。そう考えるぼくと、隣を歩くハルちゃん。今日はもう冬休みなので学校はなく、休み前の学校でのある日ハルちゃんと、冬休みになったら一緒にどこかに行こう、と約束したことを朝思い出し、暇なのでその約束を実行することにした。彼女は学校に居るときはいつも制服姿である。ぼくらの通う高校は服装自由なのにも関わらず、いつでも濃紺のブレザーを着てきている。そんな格好しか見たことのないぼくは、漠然と今日のお出かけも制服姿で来るのをおもいうかべていたのだが、学校近くの神社で待ち合ったとき彼女をみて、ちょっとばかり驚いてしまった。なぜなら、ハルちゃんはやっぱり制服姿だったのだ。しかし、まあそれでこそハルちゃんだ、と言うべきでもあるとも思った。そんな彼女が可愛らしい。すこし照れたように手を振っていた。しかし、思い返してみれば友達と一緒に外出なんていつ振りだろう。はるか昔のような気がする。きっとぼくも緊張した笑いを浮かべていたに違いない。
こんなふたりだったので、特に行くあてもなくふらりふらりと歩いていた。昼の雪が眩しかった。冷気から身を守るように人々は家の中に引きこもっていて、商店街の通りには、だあれも居なかった。息の詰まりそうな外気に数分当てられると、ぼくもだんだんと外出したことを後悔し始めてくる。なんとなしに、錆びれた商店街の近くにある駅に向かうと、まばらに人が見えるようになってきた。通りすがる人の顔は皆凍えていた。心の中で「寒いのにどうもお疲れ様です。」と声をかけておいた。そんな気持ちになるくらい、何かに耐える表情を誰もが貼り付けていた。こんな風な小さな悲しみが、一日の間にいくつか集まると、世界はなんて悲しいのだろう、と思うことがよくある。ぼくや誰もの周りの小さな世界には、いつでもぼくらの腕をするりと抜けていくような苦しみで満ちている。ぎゅうぎゅうと溢れているのだ。それは悲しいほど確かなことなんだ。
ぼくの横で、ハルちゃんがびくりと体を震わせて、何事かを呟いた。早口だったためになんと言ったのか聞き取れなかった。背中を丸ませて呻いていた。顔を覗き込むと額には冷や汗が流れていた。
「大丈夫?」どうしたんだろうか。
無理やり辛い顔を崩そうと、必死になりながらいう。
「うん。ちょっと休ませて・・・。」
ハルちゃんの手を引いて商店街の古びた喫茶店に入った。店の奥地の空いている席を見つけて、そこに向かい合わせて座る。お店の中は異常に暖房がきいていて、すぐに頭がぼやける感覚に襲われ体が火照った。
「背中が・・・。」
突然彼女が呟く。おそらくぼくに向かって発した言葉ではなくて、耐えれずにぽろりと漏らしてしまったような言葉だった。
「背中が痛むの?見せてみて。」
自分の脳内で何事か考えていたようだったがはっとして困った顔になったが、すぐさま明るい調子で取り繕った。
「ううん。なんでもないから。あたしはもう大丈夫だよ。平気。そうだ、今日どこに行こうか。そういえば全然決めてなかったね。」
「いいから。ここ人いないし。」
ハルちゃんは強くためらった後、ぼくの心配そうな、どこか怪しむような視線に抵抗できなかったといった様子で、ゆっくりと体の向きをかえて、いすの背もたれに腕を乗っける格好になった。長い髪も前に垂らす。ぼくは物凄い力で心臓が跳ねたのがわかった。後姿を見ると一層、そのか細さのわかる女の子の背中に、抜群にするどい刃物で切り裂かれたかのような真っ赤な線が三本引かれていた。脱いだブレザーの下のシャツがそのような形に切れており、血がそのままの濃度で背中全体に滲んでいる。もうすぐ裾の部分に滲んだ血が到達して、ぽたぽたと垂れ落ちそうだ。すごい量だ。早く止めなくては。しかし、うまく行動できない。こんなもの、普通に生活していればたいていの日本人は遭遇することのない光景である。ハルちゃんに強く言っておいて、ぼくの方が涙がでそうだ。おろおろと、
「大変だ。どうしよう?これは大変だ。」
とかいう吐きそうになるくらいどうでもいい事を口走りながら、一方で自分が何をしゃべっているのかわからない状態の目玉だけになったぼくが一心不乱にその惨劇を見つめているだけであった。ハルちゃんは痛みを感じていないのだろうか?傷は細いが、深くまで切れ込んでいて、見ているだけでものた打ち回りそうになる。そんなぼくの情けない姿を横目でみて、ハルちゃんが息だけを吐くように笑う。やはり苦しそうだ。しかし、・・・あれ?折れそうな背中に残酷に刻まれていた傷が、いつの間にか浅くなっている。かつんと正常な意識が戻る。急いでズボンのポケットに入っていたハンカチを取り出して大雑把にハルの体についた血液をふき取り、着ていた上着を脱いでハルちゃんの体に巻きつけた。そうして向かい合ってコーヒーを飲みながら少しばかり休んでいると、もう血は滲まなくなった。ぽつりと、ハルちゃんが口を開いた。
「ごめん。もう一緒にいられない。せめて今日だけでも、君と二人で楽しい思い出を作りたかった。あたしにはもう時間がないから。だから・・・。でも、大丈夫いつかきっと戻ってくるから。」
そういうと、店の扉があいて外のひんやりとした風が吹くのと一緒にその姿はぼくの目の前からなくなった。
遠くから人間たちの話し声が聞こえてくる。小さな喫茶店のはじっこに、僕という人種がいた。他のどの人間とも交わることの無い、「僕」が一人いる。
僕を耐えがたい孤独が襲い狂う。目のくらむような無限世界にただ一人になった。やがて守るように僕の心を取り巻いていた春風が薄くなっていき、完全に去ってしまうと、薄く脆い心から大切なたくさんが大量に零れ落ちた。鼓膜を攻撃するように激しく音を立ててぼろぼろと足元を転がる。死んだ目に黒を宿しながら急いで拾おうとしたら、かがんだ拍子にまた幾つかなくなった。涙も何粒か落ちた。これでもう涙は枯れはてた。ありったけの雫が落ちた心たちに当たってはじけ、透明が僕を見た。僕も写ったその姿を見る。そこには他の何も無く、ただそれしかなかった。
その瞬間余りの衝撃に絶叫した。その叫びは一瞬に僕を切り刻んだが「他の人間」たちには聴こえなかった。僕は、気付いてしまった。
折れそうな背中をしているのはこの僕だった
残酷すぎる傷を背負っていたのはこの僕だ
じゃあ、何のためにハルちゃんは傷を負ったのか
この僕を、守るため
誰でもなく、僕
どうしようもない位ダメなで、ダメで、そしてダメな一人の少年
彼は心に傷を負っている
君は知っていた
僕がたくさんの人間の中で泣きそうになりながらいつも誰かに助けを求めていたこと
本当は、どうしようもなく寂しかった、他人を嫌いだと言ってせめて自分にだけは小さく強がっていた
人が嫌いなんじゃなくて、嫌われるのが怖かったんだ
僕と言う人間の奥底の薄汚れたところに心を隠し続けた
そうすれば僕は大丈夫だと思った
本当の僕を知られずにすむ、嫌われずにすむ、僕は、一人じゃない
大丈夫、生きてゆけると、何度もくりかえした
いつしか心はどっかにいってしまい、あわてて見つけたそれはもうぼろぼろだった
そうしてから、誰も心を許せる人間が、頼ることの出来る誰かかいないことが本当に一番つらいんだと知った
なによりも孤独が、怖かった
人は一人では生きれない
他の誰かがいるから人なんだ
みんながいて、それで僕たちは人間
やっと、人間だ
じゃあ、それならば、こんな僕の生きる意味とは――――
ぼくをかばって、もう限界だった彼女
ぼくが、君を傷つけていた
何かにすがろうとしたけれど、いつも傍にいた君はもういなかった
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僕の生きる意味。それはいつの間にか君だった。気付いたら、僕のそばに君がいてあの細い腕でそっと支えてくれた。そういえば、君はあの時泣いていたね。赤と黒がよりそっていた夕暮れの細道で、確か僕はこう聞いただろう。
君は、どうして僕と一緒にいてくれるんだ?と。
僕は君に救われていた。なぜ教室で誰より輝いていた君が僕の傍にいてくれるのか、いつも不思議に思っていたけれど、それでも僕にとって君は他の全てよりも必要とする誰かだったんだ。
心が見えてしまう君にはずっとわかっていたんだね。僕と歩いている間、泣き出さないように堪えていたんだろう?僕が君に質問して、君が顔を上げたとき、目を真っ赤にしてたっけ。でももう、そんなことしなくていいんだよ。僕は、もうすぐこの世界からいなくなってしまう。ああ、でも僕がいなくなっても、きっと君は僕みたいな誰かを見つけて優しく傍にいてあげるんだろうね。君は、いつも自分ではなく誰かのために生きた。
でもね、ハル。
君はもうそんなことはしなくていい。僕があの時の言葉の意味に気が付いたのはずっと後になった今頃だった。そのとき君は、たぶんこう言った。
私達みんながそれを持っているのだとしたら、誰もが必死に抱えているものなのだとしたら、きっとその醜さは「人間」ってことなんじゃないのかな。
僕がその言葉を初めに聴いたとき、僕はそれは君の事を思った言葉なんだと、そう感じた。僕は、やっぱりダメなやつだったよなぁ。僕の葉っぱはまだ生い茂った緑色ではなくて、そして折れそうに細い茶色の木の枝にぽつんと小さく蕾をつけていたんだろうな。寂しげな蕾だったと思う。
だけど、ハル。僕は気付いたよ。だからなんだか本当に申し訳ない気持ちなんだけれど、だけど今度は、君の春風に育てられた青い葉っぱをみせてあげたい。感謝の、言の葉を君に贈りたい。
僕のことを想った言葉だったんだ。僕の苦しみを知って、君は声を震わせながら言った。もう、本当にどうしようもなく馬鹿だよなぁ。こんな、こんな僕のために・・・。謝罪の言葉なんかじゃなくて、きっともっと大切な言葉なんだろう。まだどっか拙いかもしれない。君が僕にくれたたくさんに比べたらあまりにも足りないのかもしれない。でも僕は全力で言うよ。僕の青々と茂った葉を歌わせてやる。
ハル、ありがとうな。ごめんなんて絶対言わないぞ。ありがとう。ハル・・・・・・。心から、ありがとう。
君はもういいよ。これからは自分のために生きな。君の人生だ。自分のためにその綺麗な心を使いなさい。でもね君のそのきらきらした心に触れて救われる誰かはきっといると思う。だからその時は、あの時の日々みたいにその人の傍にそっと寄り添っていていてください。そして君は普通の女の子のように自分を想って、自分を大切なものにしてあげて。そうすればその子も僕にみたいに悲しい気持ちにはならないはずだから。だから・・・・・・。
ああ、ハル・・・・・・。もうすぐさよならだよ。君とも、この世界とも。
あの時君は、どうしていなくなったんだ・・・・・・?
その日を境に、ハルはぼくの傍から消えた。
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冬の空を泳ぐカラスはどこか寂しげだ。世界はなにもなかった。
今回もなんも続き考えていません。それにしても、僕は主人公と自分を重ねてしまう傾向が
圧倒的に強いのですが、今回は少しまずいです。
あと電脳恋愛のほう見てください。完結編を載せたので。出来れば・・・。