7品目 とある未来の大魔王とカルキ水
その残った人生を砂糖水を売りさばくことに費やしたいか?
それとも世界を変革するチャンスが欲しいかね?
【 アップル創業者 スティーブ・ジョブズの言葉 】
店内が凍てついていた。
口から漏れる吐息がうっすらと白くなる。
大陸中央部は豊穣祭を控える春の手前。冬が来るにはまだ早い。
そもそも世界と異世界の狭間にあるここに大陸の季節感は通用しない。
ならばなぜにこれほどの冷気が覆っているのか。
空調の故障か? 否、そうではない。
来店した一人の少年が放った殺気。それが店内を凍りつかせたのだ。
「なぜそんなことを聞く?」
「なんとなくな」
殺気を放った少年は魔界でも有数の実力を誇る魔王だ。
なにの人間ならば殺意の風を浴びただけで昏倒してもおかしくない。
実際に抜刀しなくても首を刈られる幻覚に襲われて即死したかもしれない。
人は殺意を向けられただけででも恐怖で死ぬことがあるのだ。
魔王ノヴァは若輩だがそこらの三文勇者が狙うような雑魚魔王とは違う。
皇帝の座が空席である現在、魔界第三位の爵位『侯爵』の座にいる本物だ。
第三位のクラスとはいえ侯爵位の魔王は魔界全土を見てもそう多くはない。
ハイエルフたちが古代帝国を建国するよりも遥か以前、創世記の時代にまで遡って純血を維持し続ける真祖種のみに許される公爵の位を例外とすれば、侯爵は一般的な魔族がたたき上げで昇格できる最高位。
親が侯爵だったとはいえ、たかが十年と少ししか生きていない若輩中の若輩者の小僧が侯爵の座に恥じぬ力を早くも世に知らしめた事実。
長命ゆえに成長の遅いはずの魔族とは思えぬ早熟ぶり。
まるで人間と同じ速度で完成に近づいていく肉体。
あと五年して成人を迎えたらどれほどの怪物になるのか予測も付かない。
それほどの逸材の放つ殺気を店主は飄々と受け流す。
真の魔王を前に一歩も退かぬ大した胆力であった。
店の奥に抑止力がいるといっても暢気にしていられる濃度ではない。
店主には与り知らぬことだが、蝕星王の魔王軍にとって主たるノヴァの出生の秘密を探ることは禁忌中の禁忌であり、彼の真相は闇の中に包まれている。
過去、ノヴァの父親について触れた幾人かの魔族は即刻首を刎ねられた。
先代侯爵であったノヴァの母親も黙して語らず絶対の秘匿とされてきた。
配下たちが命を惜しみ決して踏み越えなかった一線。
知らぬとはいえ、それを店主は堂々と土足で踏み抜いたのである。
「ただ、あんたの食いっぷりが見事でな。そう思っちまった」
「どういう意味だ?」
「なんつうのかね。久しぶりに懐かしい故郷の飯を食った顔してたんだわ」
「ッッッッ」
殺意を放つ魔王を目の前にしてこの態度。なんなのだこのクソ度胸は。
常人ならこれで死を覚悟する。歴戦の勇者でもそれなりの警戒を示すはずだ。
この男、みかけこそ料理人だが相当の修羅場をくぐっている。
自軍の幹部たちですらこれほどの殺意を向ければ竦み上がるというに。
魔王も勇者も貴賎を問わず平等にお客さん。そういわんばかりの対応だ。
「ほら、うちの店は見ての通りセーヌリアスとは別の世界、あんたらが異邦人と呼んでいる異世界人がもともと住んでいる世界のモンだ。つーか、ちょいとした事情で『あっち』と『こっち』がガチャンとつながった不安定な場所に店を構えることになってなぁ。あー、そこはまぁおいといてだ」
無知ゆえの蛮勇か。はたまた蒙昧ならではの無関心か。
いつノヴァが癇癪を起こして斬りかかってもおかしくない空気の中で、店主は相変わらずの豪快な自然体のままである。
自分の素性に不用意に探りを入れられた憤りの一方で奇妙な興味が湧く。
はたしてこの底の知れない店主に一撃を入れたらどうなるだろうかと。
愛刀は傘たてに放り投げたが、殺傷武器を持っていないわけではない。
この手ひとつあれば非戦闘員にしか見えない店主の首など容易く縊れる。
料理人という職業柄、多少の筋肉はついているが戦士のものではない。
ならば魔法使いの類かとも思ったが、やつら特有の魔法力の流れは感じない。
相手は本当にタダの料理人だ。ならば縊り殺すのは容易だ。
そこまで考えてノヴァは思いとどまる。
バカらしい──と。
相手が勇者ならば、その場で残酷無惨に殺していただろう。
相手が配下ならば、その場でそっ首を引きちぎっていただろう。
しかし相手は単なる料理人だ。感情に任せて殺すのは稚拙にすぎる。
自分はメシを食いにきたのだ。戦争をしにきたわけではない。
命拾いをしたな。
それは目の前の店主に対してか、はたまた己を御した自分に対してか。
諸事情により原稿紛失のため本作品は随時書き足しで更新していきます。
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