2品目 とある駆け出し勇者とハーブティー
食事こそが、人が初めから決して退屈しない唯一の場である。
【 『美味礼讃』著者 ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの言葉 】
実際に目にした事は無いが、伝承や噂程度には聞いたことがある。
この世には自分たちの住む世界セーヌリアスとはまた別の異世界があって、世界が魔王の手によって危機にさらされたとき、ごくまれに異邦人と呼ばれる別世界の勇者が神の導きによって降臨することがあると。
彼らはセーヌリアスの錬金術文明とは全く別の方向に発展した優れた文明を持ち、そんな異邦からの勇者たちが遺した異世界の知識は聖遺物と呼ばれ、常に大陸の文化向上に強い影響をもたらしてきたという。
これまで剣と魔法のみだった戦争技術に鉄砲や火薬の概念を持ち込んだのも、彼らの異邦人の知恵によるものと歴史書にはある。
だとするなら……ここはまさか伝説に聞く──
「おう、アスト。【そっち】が騒がしいと思ったら新しいお客さんかい?」
不意に厨房があるらしいカウンターの向こうから男性の声がした。
「ええ、今年三人目の漂流客です」
厨房から顔を出したのは青年から中年になりつつある年の男だった。
宮廷の料理人が纏う白いコック服を着ているところから料理人らしい。
大陸人にしては掘りの浅い顔立ちで、大陸では見ない黒髪黒目の風貌。
東の島国【ひんがしのワ国】の民がそういう姿をしていると聞くが。
前に文献で観たワ国の生活を描いた画はこんなカンジではなかったと思う。
「ようこそ御新規さん。ここはさすらいの飯屋『エンジェル・ハイロウ』。っても、さすらうのはこっちのルームだけなんだが。まぁなんだ、いきなりのことでワケワカメだろうが、あんま気にせず美味いもん食ってってくれや」
と、料理人らしき男はドワーフのようにガハハと豪快に笑った。
帽子もかぶらず無精髭。宮廷料理人としてはあまり清潔とはいえない。
見渡す限り店内には料理人の男と給士の女性のみ。他に補佐を行う調理師や給士がいないところを見るに、この二人だけで店を切り盛りしているのか。
「ふむ、見たところ旅先でいろいろあって迷い込んだって風体だな」
無精髭の料理人はジッと疲労困憊の状態のディーンを見つめ、
「山賊かモンスターにでも追われて山中逃げ回ってほうぼうのていってところか。いきなりお冷を飲ますのはまずそうだな。アスト、見たところ中央の人間みたいだからタップリと砂糖をきかせたハーブティーを振舞ってやってくれ。内臓弱ってるだろうからヌルめにな」
当たらずとも遠からじな精度の高い分析を披露してみせた。
慌てて着た装備。負傷した全身。靴についた泥。肩にかかった枝葉。
それだけで言い当てる、まるで歴戦の冒険者のような観察力と眼力。
この男は何者なのか。とてもタダの料理人とは思えない。
「はーい。では、カウンター席のほうへどうぞ」
なかば強制的にディーンは給士の女性に座らされた。
「いまお茶を御用意しますのでしばらくお待ちくださいね」
と、アストと呼ばれた給士の女性はペコリとディーンに挨拶して、茶を用意するために店の奥へ引っ込んでいく。
「困ったな」
ディーンは手持ちの金銭を確認してどうしたものかと考える。
魔王軍に隠れ里を発見されて真夜中の強襲を受けたため、常にお守り代わりに身に着けているレイテの河の渡し賃【銅貨六枚】しか手持ちの銭を持っていない。こんな小銭ではパンも買えない。
無論、このまま食い逃げなど彼のモラルが許さない。
最悪、腰に下げている王家の紋章入りの名剣を質草にすることになる。
これは彼の身分を証明する大切なものであり簡単に手放せるものではない。
だが、それしか代価になるものがないのならしかたないと彼は思う。
敵の魔の手から匿ってもらい、さらには一飯の恩義を受けたのだ。
この料理店には国宝を手放しても足りない値千金の価値がある。
「それにしても……」
いまをもってしてもどういう状況なのか分からない。
ただ、当面の危機だけは脱した。それだけは確かなようだ。
あの絶望的状況から逃げ切れたことに光の神に感謝し安堵する。
すると急に気が緩んでハラの虫が鳴り始めた。
「お待たせしました。薬草茶になります」
暇を持て余して塩以外の中身がさっぱりな調味料入りの硝子の小瓶をいじくっていると、先ほどの給士がティーカップとティーポットを盆に乗せて戻ってきた。
「ふわぁ……」
テーブルに置かれた薬草茶入りのティーカップを見て、少年は普段の王子然とした態度からは見られない年齢相応の無邪気な感嘆を垣間見せた。
精巧な計算で整った器の形もさることながら、質の高い釉薬が使われているのか見ているだけで目が奪われそうな綺麗な陶磁器だった。いったいどんな陶芸家がどのような工程を経てコレをつくったのか気になって仕方がない。
食器一つでもこの店の異質さが分かる。ティーカップも小皿もポットも木製食器が基本の大衆食堂が揃えられるような代物ではない。付近にあるコップなどのガラス細工もまた同様だ。宮廷料理人経験者が揃う貴人向けの高級料理店でも、これだけの水準の陶磁器や硝子食器を扱う店は多くないだろう。
どうやらここは本当におとぎの国らしい。でないと思考が追いつかない。
まず目で驚き、次に驚いたのは鼻だった。
これまでの常識を覆す状況続きだったため、彼は薬草茶と聞いていったいどんな未知の植物を使ったゲテモノがやってくるのか内心でビクついていた。しかしほんのり鼻腔をくすぐったのは彼も良く知る懐かしい香りだった。
「これは『地竜の林檎』か?」
「はい、こちらではカモミールと呼ばれている近似種になります」
彼の故郷の大陸中央部には『地竜の林檎』と呼ばれる薬草がある。
鮮やかながらも泥臭くもある茶色い花を咲かせる一年草で、煎じて飲めば怒れる暴君も鎮魂するといわれるほど有用な鎮静作用を持つとされている。
大地の神の恵みによってもたらされ、ほのかに林檎に似た香りを持つことから、この薬草は『地竜の林檎』と呼ばれ、紀元前から民衆から薬湯や薬草茶の素材として愛されてきた。
まさかこんな異世界でこんな身近なものを提供されるとは思わなかった。
けれど、それが逆に嬉しかった。懐かしい匂いに身も心もほぐれていく。
「カモミールティーには『地竜の林檎湯』と同じく鎮静作用と疲労回復の効能があります。頭の疲れも癒せるよう砂糖で甘みも乗せておきました。一杯目は胃腸が驚かないように温めにつくっておきましたが、ポットのほうはアツアツですので二杯目からは適度に冷ましてお飲みくださいね」
給士の説明を待たず彼は一杯目のカモミールティーを飲み干した。
目で驚き、鼻で驚いたのなら、このまま舌も驚くべきだとばかりに。
その通りになった。
まず舌に襲い掛かってきたのはガンと目が覚めるような砂糖の甘み。
蜂糖とも楓糖とも異なるコレは王侯貴族だけが味わえる黍糖の類か。
西方でのみ栽培されている砂糖黍の汁を煮詰めて生成される黍糖。
信じられないことだった。こんな貴重品を茶に惜しみなく使うとは。
砂糖の甘みに隠れて次にやってくるのは薬草独自の優しい甘みと苦味。
クセのある味の後に口から鼻に突き抜けてくる林檎に似たほのかな風味。
細部は違うが味は非常に似ている。近似種というのは間違いないんだろう。
美味しい。それしか言葉に出てこない。
生き返るとはまさにこのことだ。乾いた喉と内臓を薬草茶が潤していく。
空腹に勝る調味料はないというが、それを差し引いてもこの茶は格別だ。
「お気に召しました?」
「とても」
給士の質問にディーンは真っ正直な感想を述べ、余韻に浸る時間も惜しく待ちきれないと、彼はティーポットの取っ手を引っつかみ、空のティーカップに二杯目を注いだ。
「あちちちちちっ」
今度はアツアツの二杯目をチビチビと縁から吸うように楽しむ。
がっつく子供のようだと思いつつも飲むのをやめられない。
庶民でも飲める薬草茶なのに王宮育ちの彼の心を掴んでやまない。
その理由は彼の舌が教えてくれた。
水だ──!
乾燥させた薬草の質も逸品だが、水の鮮度と精度が故郷とは別格なのだ。
彼の生まれた国グローリアは大陸中央部にあり、残念ながら水が良くない。
初代国王である聖王ベリアが邪神を退けたこの聖地に都を築いたのが六百年続く王都グローリアの始まりだったが、いわくのほうはともかく立地条件はというとあまりいいものではなかった。
大山脈から瀑布を経てやってくる雪溶け水も、北は聖なる湖からやってくる清流も、大陸内部の河川を巡るうちにどうしても荒土の洗礼を受ける。
これまでの歴史で運河の開発などで水源開発や治水工事を行い、どうにか飲める範囲まで水質の確保と改善を行ってきたが、それでも嗅覚の鋭い種族が顔をしかめる泥臭さと、分かるものには分かる雑味だけは拭えなかった。
そのため水質操作を行える水神の神官や水の浄化系魔法の使い手は王都では貴重であり、水系魔術師の適正があれば就職には困らず、王国の国教が光の神にもかかわらず水の神殿は王国内で光の神殿なみの手厚い保護を受けている。
「すみません。この水って、お茶用に特別なものを?」
「いいえ。無料のお冷にも使っている普通の水道水ですよ」
クスッと微笑む給士。たぶん幾度となくされた質問なのだろう。
馬鹿な。この水準の清水が普通の水道から得られるというのか。
おそろしく澄み渡った飲料水。
はたして北の聖湖の湧き水でもここまでいけるだろうか。
水の神の大神官クラス、あるいは最上位水系浄化魔法の使い手がいれば、この基準の清水を生み出すのも可能だろうが、上水道から市民でも無料で得られる飲料水として市街規模で提供するとしたら──
やめよう。途中まで計算してディーンは考えるのをやめた。
人員の確保の至難さも含めどれだけのコストになるのか想像も付かない。
二杯目を飲みきり、続けざまの三杯目、酷く苦い四杯目を迎えた頃には……
「至福だ」
少年は身も心も完全にリラックスして心地よい脱力感に沈んでいた。
これまで少年を縛り付けていた焦燥感や緊張感が完全ときほぐれた。
村のみんなは生き延びただろうか。仲間のみんなは無事だろうか。
さっきまでそのことしか頭に無かったのに、今はだいぶ余裕ができた。
みんなのことは心配だし早く村に駆けつけたい気持ちはある。
が、この弱った状態で逸るのは危険だと冷静になれる。
それはきっとこの薬草茶に秘められた効能のおかげなのだろう。
「地竜の林檎の花言葉は『不屈の精神』。心が折れるほど辛いことや悲しいことがあっても、なにかに踏みにじられて挫折することがあっても、そこから伸びようとする心意気がある限り、人は何度でも立ち上がれる。カモミールも花言葉は違えど本質は同じ。いまのあなたにはそれが必要かなって思ってカモミールティーをお出ししてみました」
「給士さん……それって」
地竜の林檎を煎じた甘茶をこよなく愛した聖王ベリアが残した言葉だ。
地竜の林檎は踏みにじると味が良くなるという俗説がある。
昔から一級品の地竜の林檎の乾燥葉は寝床や公園から取れると言われているのは、地竜の林檎が生える場所にあえて人を座らせたり寝転がらせたりさせることで草そのものの生命力を高め、強く味濃く生長させるためだかららしい。
生粋のセーヌリアス人である彼には与り知らぬことだが──
カモミールにも『カモミールのベンチ』という似たような風習がある。
その花言葉は「逆境には負けない」。
追い詰められた駆け出し勇者に提供する店の最高のもてなしであった。
「アストは相変わらず気取った言い回しをするな。もっと簡単に『ハラが減ってはいくさはできねぇ』って言えばいいんだよ。食前茶で腹も準備万端だろ? なんか喰ってけや坊主」
まるで見計らったように厨房から顔を出す料理人。
「いえ、あの、そのお心遣いはありがたいのですが、手持ちのお金が」
「いらねぇよ」
しどろもどろの少年の言葉を料理人がバッサリと一刀。
「え?」
「初見の客は無料サービスで御提供ってのがウチのやりかたでな」
そこで『ただし』と料理人は人差し指を立てて付け加える。
「そんかわりアンタがいまハラんなかに抱えている【心の闇】を打ち明けてくれ。ここは心の迷い人に光の道を示す料理店エンジェル・ハイロゥ。悪いもん吐き出しきったら美味いモンで腹を満たし、心を晴れやかにして旅の続きに出てもらう、そういうところなんでね」