1品目 とある駆け出し勇者と異世界飯屋
食物を愛するよりも誠実な愛はない。
【 アイルランドの劇作家 バーナード・ショーの言葉 】
(ここはいったい……何処なんだ……?)
逃亡中の駆け出し勇者ディーンは困惑していた。
追っ手から逃れるために飛び降りた崖から先は天国か地獄か。
真っ逆さまに奈落の底へ向けて頭から墜ちていったその先は──
「いらっしゃいませ。『エンジェル・ハイロゥ』へようこそ」
いささか珍奇な衣装に身を包む給士が応対する一軒の飯屋だった。
「えっと……」
ディーンは自分が置かれている状況をまったく把握できないでいた。
ついさっきまで自分は追っ手から逃れるために山中を走っていたはずだ。
森を駆け巡るうちに仲間とはぐれ、皆の安否も分からず敵に追いつかれ。
やがて逃げ場の無い崖っぷちに追い詰められる絶体絶命のピンチに陥った。
目の前には魔王軍が放った追撃隊が十数名。
闇の馬に跨る黒騎士の群れ。どれもこれもが海千山千の猛者ばかり。
それだけでも駆け出し勇者の彼が逃げ切るのは困難であったのに……
「追い詰めたぞ光の子ディーン。随分と余の手を煩わせてくれたものだ」
まさか魔王自らが先陣を切って自分を追い詰めに来るとは。
魔族にとって最大の災厄になると予言された子を芽吹く前に潰しにかかる。
これほど合理的で、これほど空気を読まない手段が過去にあっただろうか。
いや、ない。
通常、魔王と呼ばれる存在はここまで露骨に覚醒前の勇者を襲わない。
寧ろ戦力の逐次投入でレベル上げを手伝って、美味しく育つのを待つ程だ。
伝説級まで強くなった勇者を倒してこそ魔王はブランドを高められる。
光の神の寵愛を生まれながらに受けた光の子ディーン。
大陸最大国家グローリアの第一王子として生まれた少年は幼き日より神童と謳われ、王家成人の儀式である聖王廟の試練を十に満たない年齢で突破する偉業を果たし、試練の場に立ち会った一人の預言者はいつしかこの子は聖王ベリアの再臨に等しい魔族にとって最大の災厄になると宣言した。
これほどの大物。
魔王ならば旬が訪れ存分に脂がのった頃に喰らうのがマナーだ。
なのにあの男は魔王の禁忌とも言える『新人つぶし』を平然と行ったのだ。
浪漫を挟まぬ徹底した現実主義。
それほどまでにあの魔王は地上侵略に本気だった。
現在、大陸は七人の魔王の同時侵攻により未曾有の危機に陥っていた。
どの国家も魔王軍との防戦で精一杯の中で、魔族にとっての驚異の誕生。
それはすなわち地上のものにとっては救世主の降誕を意味する。
七人のうち六人は彼の存在を驚異とみなしつつも早期に潰す気はなかった。
魔王の御他聞に漏れず、玉座にふんぞり、彼を成長を待つことにしていた。
光の子なにするものぞ。
神の尖兵の全力を真っ向から叩き伏せてこその魔王。
もし自分が光の子に敗れるのであれば、その程度でしかなかったいうこと。
そういうものなのだ。
部下から慢心の極みと眉をひそめられようと魔王とはそういうものなのだ。
だが、一人だけ光の子の成長を問題視する者が居た。
【蝕星王ノヴァ】。
このディーンと年の変わらぬ若き魔王だけが彼の危険性を見抜いていた。
最初に蝕星王ノヴァに命を狙われたのは三年前の王都急襲のときだ。
そのときは宮廷魔術師団と王宮騎士団の活躍によりなんとか魔王軍を撃退させることに成功したが、王宮から城下町まで多大な犠牲を払うことになった。
以降、彼は蝕星王の注意を自分にのみ向けるよう逃亡の日々を過ごした。
王宮の皆に迷惑をかけないよう、彼は名を変え身分を隠して下野し、大陸中を旅しながら仲間を集め、己を鍛え、反撃の態勢を整えることに専念した。
だが、蝕星王側も姿を消した彼を見つけられぬほど愚かではなかった。
先日、ついに拠点にしていた隠れ里が蝕星王の偵察隊に発見されたのだ。
発見して即の蝕星王軍の襲撃は手早く、あまりにも絶望的なものだった。
村は焼き払われ、自身は孤立し、念入りな王手をかけられ盤面は詰み。
やぶれかぶれで正面から戦うか?
いや、いかに彼が天才的でも未熟な現状では無謀な選択だ。
相手は軍なのだ。駆け出し勇者ごときではとても勝てる相手ではない。
今は……まだ……
背後には底の見えぬ断崖。墜ち行く奈落の先は無慈悲な岩場か激流か。
前門の虎に後門の狼。どちらを選択しても死は自分の心臓を撫でるだろう。
ならば1%でも生還の可能性があるほうを選ぶしかない!
彼は意を決し、一縷の望みを託して自ら全力疾走で死の淵に飛び込んだ。
そこまでは憶えている。断崖を飛翔して気を失って今がある。
自分は崖下の岩盤に叩きつけられコナゴナになって死んだのだろうか。
それとも崖の下の渓流かに呑み込まれて無様に溺れ死んだのだろうか。
少なくともこの異常な光景は現世のものとは思えない。
「あの、すみません。ここはあの世なのでしょうか?」
自分でも素っ頓狂な質問をしたとディーンは苦笑する。
伝承では人は死すると闇の神が統治する死者の国に招かれる。
そこで魂は各々が現世で行ってきた罪過と善行に応じた転生への旅を強いられ、あるものは天国での旅を、あるものは地獄での旅を経て、解脱へ向けた次なる魂の修行のために来世への扉を開くという。
逝き着いた先が河原ならまだ分かる。
彼の生まれた国の神竜信仰にもレイテ河という境川の伝承がある。
古代から続く伝承というものは多少の地域差や宗教差で解釈が異なったり内容が歪むものだか、概ね普遍的な共通性があるもので、この世とあの世の境目の河原とか冥府の裁判官とかは何処の文献でも名前を変えて存在している。
でも、冥府の入り口が飯屋というのはさすがにない。
「いいえ、ここは御食事処。迷える旅人が訪れるさすらいの料理店です」
給士の女性は母性が溢れる微笑を込めてそう言った。
歳の頃は二十歳くらいだろうか。
綺麗な女性だった。思わず言葉を失ってしまうほどに。
透き通るような銀色の長髪に聖海を宝石にしたような蒼の瞳。
彼の住む大陸のどの人種とも違う神々しさと気品を感じる顔立ち。
これまで多くの貴人を見てきたが、これほどのものはいなかった。
まるで伝説に聞く世界の北の果てにある天空島に住む天使のようだ。
改めて自分は崖に落ちて死んで天国に来たのではないかと想ってしまう。
それにしては随分と、王宮の使用人メイドに似た衣装の天使ではあるが。
「料理店? いや、でもボクは確か崖に落ちてそのまま……」
ディーンはようやく自身が立つ現実を認識して首を右往左往する。
料理店といわれても、彼の知識で知る料理店とはまるで感じが違う。
彼は王家の出身だが、ゆえあって下々の世界に身を隠して五年になる。
これまでの逃亡生活の中で様々な地の様々な料理店を彼は見てきた。
腕自慢の荒くれ者がたち酒と飯と仕事を求めて集う冒険者の酒場。
街の人間がホッと息をつきながら煙草を吸い茶をすする喫茶店。
大陸の東西南北、下町の簡易的な屋台から都会の大衆食堂まで。
逃亡生活の先々で、彼はかなりの見聞をしてきたつもりだった。
そのどれとも違う。
かといって貴族向けの高級料理店のような豪華絢爛なものとも違う。
大陸の文化様式ではない。エルフの文化でもドワーフの文化でもない。
パッと見た感じでは木材をメインにした一般的な大陸中央の建築様式だが、その細部を注意深く見れば、彼の知る文化様式のどれにも該当しない調度品や機材があちこちにあるのが見て取れる。
窓一つ無い料理屋の設備はとにかく異様のヒトコトだった。
天井に煌々と輝く複数の照明灯は魔法技術によるものだろうか。
家具はいったいどのような職人の手によるものか恐るべき精巧さ。
硝子板の先に円盤らしき物体が見える大きな箱には心穏やかになる音楽が。
店のあちこちに未知の言語らしき記号。飾られた絵画も知らない画風だ。
カウンターにならぶ陶磁器や硝子細工も一般食堂ではありえないものだ。
ここには彼の知るありとあらゆる常識と知恵が通用しなかった。
「……まるで……おとぎの国……」
ポツリとそんな言葉が口に出た。
ここにきてようやく、少年は自分が異世界に迷い込んだことを理解した。