第一章 第一話:悪霊の出る土地
「これから北には地元の者でも行きません。悪霊が出ると言われています」
守人の護衛壁にたどり着くまでに二週間かかった。馬で守人の集落へたどり着いた後、見届け人とその護衛達と北へと向かった。
「あれが護衛壁か」
遠くに小高い山が見えた。どちらかと言うと盛り土に近い。それが視界の端から端まで続いている。壁という印象は受けなかった。
「あの先は何があるかは分かりません。この護衛壁の上までは守人が巡回で訪れるそうです。守人は北からの悪霊に対して備えているという事ですが、悪霊が攻めてきたという記録はありませんね」
この国から攻めた記録はあれど、攻められた記録は皆無であった。そもそも、守人の主な任務は流刑された罪人たちが南に戻ってこないように見張る役目となってしまっている。そのために兵役を免除されているのを不公平と呼ぶものもいれば、この北の大地で寒さと戦い続けなければならない事に比べれば戦争の方がましと考えるものもいた。どちらにせよ、この国は民に苦労を強いている。その代わりに周囲からの侵略に怯える事はない。
「明日にはお別れだな」
見届け人を買って出てくれた武将に言う。彼は南の戦いでゼノに命を救われていた。もしかしたらゼノの代わりに将軍に昇格するかもしれない位置にいる。
「ゼノ将軍」
「俺はもう将軍ではない」
「いえ、ゼノ将軍。どうか、生き抜いて下さい」
「酷な事を言う」
くっくと笑ってゼノは馬を降りた。今日はここで野営となるのだ。最後に人と語らうのも悪くない。これから先、誰とも出会えずに悪霊に殺される事になるだろうから。
翌日、護衛壁と呼ばれる土の山を越えて見届け人たちと別れる。
「ロイサム将軍に会う事があったら、元気でやっていたと伝えてくれ」
「ゼノ将軍……」
「あぁ、いや。やっぱりやめといてくれ。あの方はそんな事を聞くと泣いてしまいそうだからな」
ロイサム=アッサイト将軍はもともと父の部下だったそうだ。戦死した父の軍を引き継いだのが彼であり、それを手足のように操り今の国を作り上げた。ゼノにとって、二人目の父親同然の人物である。
ゼノは馬を降り、荷物を背負った。この荷物は見届け人の彼が一人で生き抜くために必要なものを道中で買い込んでくれたものだった。調理道具から斧、弓、ナイフ、防寒具など。しかし、一人で生き抜く事などできるわけがない。そして人がいる南には帰れない。つまりはそういう刑だった。
「さて、行くか」
ゼノは歩き出す。北の大地には針葉樹林を主体とした森が広がっているようだ。最後を迎える場所としてはいささか寒過ぎ、そして寂し過ぎるようである。見届け人はゼノの姿が見えなくなるまでそこにいた。
「命の恩人すら救えないのか」
流した涙と悔しさを糧に彼がこの後にこの国を覆すことになるが、それはかなり先の事である。
歩き続けたゼノは考えた。それはこれからの事である。二十歳を少し過ぎただけの彼は命を諦める気などなかった。それ故にここまでの道中で、今まで全くやった事のなかった調理や生活に必要な様々な知識を蓄えたのである。冷静を装って、しかし何かをしなければ不安が紛れないのだろうと勘違いした見届け人の護衛達は、喜んでこの元将軍に生活の知恵を教えた。ゼノの吸収は速かった。だが、北での生き抜き方は誰も知らなかった。
「まずは、どこか落ち着ける場所を選ぶ必要がある」
今の季節は春である。これから気温は暖かくなるはずであるが、冬が来れば凍死の危険性すらあった。寒さをしのげる家が必要だった。そして水と食料も。衣料は今着ているものを当分は着まわすしかないだろう。余裕ができるまで優先順位を間違うわけにはいかなかった。
まず一日目は歩き続けた。鍛えられたゼノの肉体をもってすれば一日歩き続けたところで体力は問題なかった。夜間は少し寒かったが、風もなく防寒具でなんとかなった。
翌日に川を見つけた。飲み水の確保ができたと思い、さらには魚が獲れないかと目を凝らす。しかし、雪解けの冷たい水の中に生き物はいそうになかった。
「食料は狩りをするしかないか」
昨日から独り言が多くなっている。誰が聞いてくれるわけでもないのに、不思議と落ち着いた。川の近くに窪地になっている場所を見つけた。今日はここで寝ることとしよう。荷物を降ろすと、また川へと戻り水を汲んだ。護衛の兵士たちに教えられたとおり、火を起こして調理器具を使い水を沸騰させる。こうして浄化しない水には悪霊が宿るのだと言う。しかし、思うように火が起こせずずいぶんと時間がかかってしまった。
「今日も、食料は手持ちのものを食べるか」
持ってきた食料は五日分もなかった。はやく狩りをしなければならない。思ったよりも良い場所が見つかったことで、ここを拠点に狩りをしようかと考えながらゼノは眠った。
翌朝起きた時はずいぶんと日が高かった。
「なんとかなるといいな」
狩りの準備をする。狩りはよく行軍中に行った。獲物の解体もできる。ただし、そこに獲物が来ればの話だ。ここは悪霊の住まう土地であり、獲物がいないかもしれない。それに厄介な魔獣とよばれる狂暴な動物がいる可能性もあった。魔獣がいれば通常は村や町の人間が総出で退治する事になる。近ければ軍が派兵される事もあった。一人で出くわせば苦戦するだろう。だが、今のゼノは魔獣でもいいからこの森に獲物が住んでいて欲しいと願っていた。弓と護身用の剣、そして解体用のナイフを持つ。他はできるだけ軽装にした。荷物は一括りにして木の室に押し込んだ。
狩人となったゼノは獲物の痕跡を探す。まずは糞を見つけるのだと昔の部下は言っていた。軍で行う狩りは森ごと獲物を追い込むところから始まったが、ここでの狩りは獲物を探すところから始めなければならない。数時間歩き回ってようやく、獣の糞と思われるものを見つけた。内容物からそれは草食の獣であると分かる。であるならば、この近くに獣の通り道があるはずだった。目星をつけて近くに潜む。木に登り、風上を見ながら一時間ほど待った。
ヒュンと音がして矢が獲物に突き刺さる。当たった時に思ったことは、この地でも矢を作らねばならないという思いであり、獲物をしとめた事を疑う事はなかった。
「魔獣?」
見たこともない鹿型の魔獣だった。見事な大きな角が付いている。拠点まで運ぶのが大変そうであったために、その場で心臓が止まる前に血抜きをした。腹を裂いて内臓を取り出す。肉だけで十分な食料となるために内臓はその場に捨てることとした。この匂いにつられて他の魔獣が寄ってこないとも限らない。角を持って持ち上げてみるとと血と内臓がなくなった分、いくらか軽くなった。引きずりながら拠点へ戻る事とした。
「そう言えば、獲物の保存のために川につけて冷ました方がいいって言ってたやつがいたっけ」
なんとなくそんな事を思い出したために川に魔獣を浸けた。雪解け水が肉を冷ますし血を洗い流すのにちょうどいいだろう。しかし、一部肉がふやけた部分があった。十分冷えたのを確認する頃には日が傾いていた。解体は明日に回し、一部のみ肉をそぎ落として焼いていく。不覚にも旨く感じた。屋根のない森の中で寝ながら、明日は家を作ろうかと考えていた。
翌日、朝から魔獣の解体を行った。ここに来る道中で買った岩塩の塊を削りまぶし、表面をあぶったのちに煙で燻していく。薪には近くの木の枝を落とし使った。護衛たちに習った肉の保存方法だ。生肉では保存が効かない。魔獣はかなりの大きさがあるからこれを食いつなげば数週間は持つはずだ。煙で燻す最中に手持無沙汰となったため、近くからツタを大量に採取してきた。そしてそれらを寄り合わせて縄を作っていく。不格好な縄ができたが強度はそこそこだった。もうちょっと長い間こういう技術を学んでおくべきだったと思ったが、ここに来るまでの数週間で全てができるようになるわけでもない。あとは我流で上達させていくしかないのだ。
「やはり、洞窟のような場所を見つけるべきだな」
家が欲しくなった。横穴があればそれが最も良い。目立たない崖のような所を掘っても良い。柱と梁を埋め込めば崩落の危険性も下がるだろう。だが、木を伐り倒すには時間がかかる。日が暮れるまでそのような場所がないか探し回った。あまり良い場所ではないが、少しだけ崖が抉られている場所を見つけた。地が崩れた後にできたのだろう。川も近い。上には木が植わっており、その抉られた部分には根が大量に張っていた。雨露がしのげる所であれば贅沢は言えなかった。湿度が上がっているようで、いつ雨が降るか分からなかったのである。
案の定、次の日に雨が降った。ゼノは一日中縄と紐を作って過ごした。紐は採取してあったツタを繊維に分けてより直す事で作ることができた。だが、強度はいまいちである。更には居住空間を広げてみた。あまり広げ過ぎると崩落する危険があったが、どこまで掘っても木の根が出て、これがこの「家」を崩さずに維持してくれているのだと思った。燻製にした魔獣の肉をかじりながら、床にあたる部分に流れ込んでくる雨をどうするべきかを思案した。
朝がくると雨は去っていた。雨でぬれた服を乾かしたかった。ゼノはここを「家」とする事に決めた。天井にあたる木がゼノを守ってくれる気がしたからだ。近くの木を伐り倒す。周辺の石をかき集める。伐採した木を削り、石の上に並べ、柔らかそうな木の葉を大量に敷き詰め寝台を作った時にはゼノはこの孤独な闘いを楽しむようになっていた。
「動物の毛皮が欲しい」
この前狩って来た魔獣の毛皮を寝台に広げゼノは呟いた。敷くだけでなく掛ける毛皮があればかなりの防寒具として機能するだろう。食料も残り少なく、あと数日という所だった。
翌日から晴れた日には狩りに出かける事にした。しかし、獲物はほとんどいなかった。見かけたのは小さい鼠だけである。さすがに矢を使う気にはなれなかった。
卓越した弓矢の技術があっても的がなければ当たる事はない。ついに食料が尽きても獲物は見いだせなかった。相変わらず、雪解けの川にはなにも住んでいない。一度沸騰させた水と岩塩の粉が空腹を紛らわしてくれるが、実際に食料を胃に入れなければそれはすぐに思い出されるのであった。周囲に花が咲く植物はあっても、実をつけるものはなかった。ゼノはツタの根を掘り、それを茹でて食べた。
「まずい」
こみあげてくる吐き気を堪えて飲み干す。ここまで極限に腹が減っているというのにまずいと感じる時点で食料ではない事は明白であったが、それでも食うしかないと思っていた。そしてその日は腹を下した。しかし、排泄物は少量だった。
「これは死ぬかもしれん」
もとより、覚悟はできていた。この地で未来永劫に生きていけるわけがないのだ。しかし、ある程度生活ができるのであれば、他の地の探索もできるのではと思っていた。そのためにはここで生活しなければならない。そしてそれが潰えようとしている。
しかしたまたま登った木から獲物が見えた。熊の形をした魔獣だった。かなりでかい。そして魔獣はこちらに気づいておらず、のんびりと向かって来ていた。空腹で冷静な判断ができない。気づいた時には矢を放っていた。それが魔獣の頭に刺さる。そして二の矢を放つのにも躊躇をしなかった。次は首に刺さった。しかし、矢が貫いた感触はなく、どちらの矢も致命傷にはならなかったようだ。想定外の自体にゼノは逆に少し冷静になった。三本目の矢を放つかどうかである。急所と思われる所を射抜いてなお生きている魔獣に矢でとどめがさせるのであろうか。怒る魔獣がゼノが登っている木に突進した。バキバキと折れる木から跳躍しつつ三の矢を放つ。着地と同時に弓を捨て、剣を引き抜いた。数日間食を抜いて痩せてきているが力が減ったわけではない。目に刺さった三の矢をものともせずにこちらへ来る魔獣を避け、すれ違いざまに首を斬った。ズシンと音がして魔獣が地に伏せる。久方ぶりの食料を前にゼノは座り込んだ。
熊の魔獣は血抜きして内臓を取り除いても運べないほどに巨大だった。そのため、その場での解体が始まった。待望の食料に、大きな毛皮が手に入り、ゼノは満足を覚えていた。
「こいつがいたせいで森が静かだったんだな」
狩場は家から近かったために、解体した肉を他の動物にとられることなく、全て切り分けて運ぶ事ができた。前回の魔獣の毛皮は乾くと縮んでしまったために、今回はしっかり伸ばした状態で乾かす事にした。肉は前と同じように燻製にした。燻製にしなかった部分の肉を焼いて塩をかけて食らいつく。臭みがかなり強かったが、生きている味がした。ふいに涙が出てきたが、かまわず夢中でかぶりついた。
「死ぬかと思った」
生を諦めていた自分を認識した。そして生き延びたことも。ゼノは初めて孤独を感じた。
必要な物が沢山あった。ここで手に入らない物はどうすればいいのか。歩き回って、岩塩と思われる岩を発見したのは幸運だった。塩がなければ人は生きていけない。水は手に入るが、食料となる獲物を狩る道具は消耗していくばかりだった。ここには刃物を手入れする道具は持ってきた砥石だけなのである。刃こぼれ以上の損傷には気を付けなければならない。人が一人では生きていけないという意味を嚙み締めた。それまでに、いるかどうか分からない「人」と出会う必要がある。とりあえずは、木を削って矢を作った。矢じりはなく、先を尖らせただけである。たまたま飛んでいた野鳥を射ち落とす事ができた。矢羽は手に入った。矢を作る作業は軍にいた頃に経験していた。将軍になっても自分の矢は自分で作ったものである。しかし、鏃までは作っていなかった。それに金属の製造にはどうしても道具と技術が必要となってくる。この環境ではどうしても無理だった。
「辛抱が必要だ」
この拠点にいれば問題なく生活できるまで、自身の生存技術と環境を高めないといけない。今はいるかどうか分からない「人」を探して歩き回るのではなく、来るべき冬に備える必要がある。ゼノは薪の準備、家の防寒を中心にここを変えていく事を決めた。そうと決めれば行動は速い。魔獣の毛皮が手に入って寝台が快適になったのと同様に、家を快適に変える事には満足感が伴う。やる気が出てきた。
小動物を捉える罠も作ってみた。自分では食べられそうにないほど硬い実がなる木があった。どんぐりのような実であり、地面に落ちている。それを食べにリスのような動物がいるのを見たことがあるのだ。地面に置いたその身を食べようと近づいた小動物が近くの棒を倒すと岩が落ちる仕組みを作った。これでまさか引っかかるとは思っていなかったが、意外にも一日に一匹程度は獲れるようだった。今までこのあたりに人が来た事がなかったのだろう。文明的なものにたいする警戒がまるでなかった。これならば大型の罠を仕掛けて置くこともできそうだとゼノは意欲を出した。
夏が近づいて来ると実をつける樹木も見かけるようになってきた。酸味が強く、国にいたころにはとてもじゃないが食べられそうにもなかった実も、ここでは旨いと感じる。久々の果実はゼノをそこに毎日通わせるには十分な魅力を持っていた。熟したものから収穫する。しかし、他の動物に食われる実も多い。鳥や、小動物は手製の木の矢で仕留める事が出来、それも貴重な食料となった。しかし、冬にはこれらの食料は一切なくなるのだろう。保存食を作る必要がある。
「果実も干せばいいのか?」
野菜を紐に吊るして干すという保存方法を聞いた。それも護衛の兵士たちが情報源だ。彼らが今のゼノを支えている。それまでは全て家人がやってくれる生活だったのだ。ヘタごと収穫した果実を手製の紐で括り、「家」の木から吊るしてみた。乾燥するまでに食べなければならない事態にならないように祈るばかりである。最終的にそれはしっかりと乾燥した果実となり、冬のゼノの食料の一つとなった。
獲った獲物は燻製だけではなく干し肉にもした。これは調理方法に時間がかかるが、そのぶん保存の期間も長い。もともと小さかったゼノの「家」は干した肉と果実で一杯となった。縄と紐を作る技術がメキメキと上達するのが分かる。時間を掛ければ布も作れそうだと思った。冬の仕事としては適しているかもしれない。
しかし、その「家」は壁もなくとてもじゃないが冬を過ごせそうには見えなかった。壁を作る最も簡単な方法は土であるが、それでは出入りができにくくなってしまう上に大量の土砂を運ばなければならない。ゼノは周囲の木を切り倒して丸太による壁を作る事にした。これも斧がなければできなかった事である。斧が壊れた時の恐怖と戦いながら、慎重に気を切り倒していった。しかし、見届け人が持たせてくれた斧は丈夫だった。ゼノは彼らのおかげで生きていた。
数日かけて数本の木を伐採した。それらを適当な長さに切り、「家」の周囲に立てかける。隙間はツタを絡ませた。下の方は土を盛っている。最終的には粘り気のある土を持ってきてある程度の隙間は埋めてしまいたい。中でたき火ができる穴も掘った。煙が出ていく穴が天井付近にできれば特に煙たい事はないだろう。「家」の穴を拡張して床を一段高くしたために雨が入り込んでくる心配もなかった。床には少しずつ石を敷き詰める事にした。この辺りには川もあるために手頃な石が多い。完成した「家」はなかなかのものだと思われた。中にはたき火用の穴と寝台と、食料の干してある空間しかないが、それでもゼノが生きていくには十分な空間だった。調理などは外にも設置したたき火で行えばよい。南向きにつけられた煙を出すための穴は光を取り込む窓としても機能していた。
「樽とか壺があれば食料や水の保管もできるんだけどな」
さすがに樽を作る技術はゼノには持ち合わせていなかった。であるとするならば壺であるが、竈があるわけでもなく、あったとしてもどのような粘土を使えばいいかも分からない。仕方なくゼノは丸太をくりぬいた木の深皿を作る事にした。これならば時間を掛ければできるはずだった。乾燥したためにやや歪みはでたものの、不格好な皿が何個かできた。途中で割れる皿もあったが、なんとか物になった。いつ調理器具が壊れるか分からないのである。少しでも作れるものを増やしておきたかった。
「あとは、水だな」
水筒は一つしかなかった。よく見てみるとこれは何かの動物の胃袋でできているようだった。
「次に狩った魔獣の胃袋は洗って乾燥させてみよう。もしかしたら水筒くらいできるかもしれない」
荷物の中には見届け人が入れてくれた針と丈夫な糸がある。これは貴重なためによほどの事がない限り使わないつもりでいたが、水筒の製作には使ってもいいだろう。服を作るのは、当分先の事になるに違いない。
初夏になり、またしても魔獣を仕留める事ができた。最初に仕留めた鹿型の魔獣である。今回は相手に発見され、追跡されたためにあえて「家」の近くの川の付近で迎え討った。木の矢が額に刺さり、即死した魔獣の血を抜き、川に浸ける。今回は内臓も使う予定である。
「これは、旨い」
生の肝の臓が美味かった。軍にいたころに部下から聞いた話ではあまり食べ過ぎてはいけないそうだ。動物の肝の臓には悪霊がいる事がある。しかし、悪霊はもっとも旨い部分に宿るとも言われている。沸騰させた水につけて浄化すれば問題ない。新鮮であれば内臓も食料となる。この数日はこれを食おうと思い、肝の臓と心の臓を取り出し川で洗った。当初の予定通り胃袋を取り出す。裏返して洗って乾燥させる予定だ。他の内臓は今回は使い道が分からず捨てようと思ったが、罠の餌には使えるかもしれないのでとっておく。骨も加工すれば鏃くらいにはなるかもしれない。すでに食い終わった燻製肉の骨が家の周辺に落ちている。あれの使い道も考えねばならなかったが、捨てる事もなさそうだ。骨を削って、角と組み合わせればナイフくらい作れるかもしれなかった。削るための道具は、今度考えることとしよう。
「今回は余らす事なく使えそうだな」
茹でた餌用の内臓を持って罠を作ると、いつもより成功率が高い気がした。鳥が引っかかったのは大きい。またしても尾羽で矢を作る事ができそうだった。内臓を取り出した鳥は取ってきた岩塩を振りかけて干し肉にした。
魔獣の毛皮は伸ばして乾燥させた。首回りから肩にかけての防寒具が欲しかったために半分はその形に加工した。熊の魔獣の爪と、鹿の魔獣の角を削って前側のボタンを作成する。さすがにこれを取り付けるのには針と糸を使った。裁縫なんてした事なかったためにこれには苦戦した。最終的に不格好ではあるがしっかりと結んだ糸が外れることなく加工した爪と角に開けた穴と毛皮とを固定する事ができた。今は暖かい季節であるためにあまり必要ないとは思うが、これから先に重宝するだろう。夜間、まだ寒い時間帯にはこれをつけて寝ると良かった。
残りの毛皮は寝台の補強に使った。さらに快適になった寝台を見て満足する。これはもっと寝心地を重視しても良いかもしれない。枕にも毛皮を使い、中の素材をどうするか考えた。
最終的に考えたのは乾燥させた木の実を枕の中にいれる事だった。国にいた頃には羽毛を詰め込んだ布を枕としていたために、柔らかさは全く違う。しかし、今の生活を続けるゼノにとっては格段に良いものであったし、なにより軍にいた頃にはもっとひどい寝台で寝ていた事もあった。どんぐりに似た木の実はいくらでも拾うことができるようになっていた。それをかき集めて布の袋に詰め込んだ。そしてそれを毛皮で包むと上質な枕ができあがった。
「これじゃあ、寝る事に生きがいを感じているみたいじゃないか」
独りで笑う。何故、ここまで枕に拘りを感じるようになっていたのだろうか。しかし、無性に楽しかった。そしてこの生活には新たな発見があり、それに喜びを感じている事が分かった。木の実を拾っている時に気づいたのである。これを乾燥させて粉にし、水で練って焼けば食料になるのではないか。「家」の周囲にはこの木の実が生る木が沢山あった。これだけの量を全て粉にすれば一冬くらいは余裕で過ごせるはずである。ここは何もない土地ではなく、自然豊かな土地だったのだ。枕に使った量の倍の量を拾い集める。すでに乾燥しかかっているそれの皮を剥き、洗った平べったい石の上で片手で持てるほどの大きさの石を使い砕いていった。
「専用の道具を作らねばならんな」
意外にも重労働であり、粉になるまでにはかなりの時間を要した。更には少し湿っているためにすでにまとまりかけている。少量の水を加えて練ってみた。思うように塊にはならない。もう少し細かくするべきだったのだろうが、これ以上は耐えきれそうにもなかった。なんとか固まったその「何か」を串に刺して火にくべる。最初に試食した塊は中が生焼けだった。最後に試食したのは表面が黒焦げだったが、中は意外にも食べる事のできる味だった。
「焼き方を考えればなんとかなりそうだな」
直火はよくないのかもしれない。今度は竈を作って石の上で焼いてみようと思った。これで食料問題は解決するかもしれない。穀物と肉と果実が手に入るのだ。一人が食べていくには十分な量がある。後は冬を越すことのできる家と服があれば、なんとかここの土地で生きていくことができるはずだった。まだ夏だった。想像を絶する寒さの冬が来るかもしれない。薪の準備を怠るわけには行かなかった。一冬でどれだけのものを使うか分からないのである。そして、この「家」で十分とは言い難かった。できれば一冬をその中で過ごすことのできる十分な空間と防寒が必要である。やはり、洞窟を探すべきなのだろうか。それとも本格的な家を建てるべきなのかもしれない。一人でやれる事には限界があった。
その日の夜。不穏な気配にゼノは起きる。たき火の火が消えているが、月明かりが部屋の中を軽く照らしていた。剣と弓矢を持って外を覗う。
「狼か」
群れで行動するのはほとんどが狼型の魔獣である。おそらくは保存食の臭いにつられてきたのであろう。「家」の中はそこそこの空間があるとは言え、弓を引くには不十分だった。しかし「家」の前は木を伐採しているために切り株が点在する広場になってしまっている。囲まれるのは得策とはいい難い。
「仕方ない」
あまり気は進まなかったが「家」の壁を壊す。そしてもともと煙の脱出用だった穴を拡張させて、そこから狼たちを射た。最初の連射で三匹ほどの狼が絶命する。群れの規模はどのくらいなのだろうか。天井から外にでたゼノは周囲を全て囲まれている事を悟る。
「だいたい十五匹って所かな」
「家」の前の広場に集まっていたのが十匹ほどであり、その周囲に五匹が散らばっていた。天井に生えている木の周辺には二匹しかおらず、それは剣で切り伏せる。素早く木に登ったゼノは木の上から矢を連射した。作った木の矢が全てなくなった時には狼は残り四匹にまで減っており、そいつらはもちろん逃げて行った。
「家を壊しちゃったな」
周囲に散らばる狼の死体を固めて置く。昔、軍にいた頃に狼を食べた事はあるが、どうにも食べられたものじゃなかった。肉食は基本的に肉がまずいと知ったのはその時である。熊は雑食であるので問題ないが、狼は純粋な肉食だった。後で毛皮をはぎ取って捨てる事になるだろう。丁寧に矢を引き抜いていく。再利用できるものは利用するのだ。矢じりがなく、返しがついていない矢はすぐに抜けた。半分ほどは再利用できそうだった。矢羽が痛んでいないものも回収しておく。「家」の壁の応急処置を施して、その日は寝る事にした。
翌日は狼の毛皮をはぎ取るので忙しかった。十匹もの狼の死体があるのである。肉と内臓は捨てるしかなかった。肉食の狼の肉は罠の餌にすらならなかったのである。ただし、大量の狼の毛皮は重宝した。糸がもっと欲しかった。あれば服を作る気になったかもしれなかったからだ。
夏が過ぎて秋になった。ゼノはまだ独りのままだった。冬に備えてやることが沢山あるのが彼を救っていたと言っても良い。「家」の拡張と薪の準備に毎日を費やした。保存食となる干し肉も作っていたが、木の実もかき集めた。この実はおそらく昨年の秋にできたものだったのだろう。上を見上げると青々とした実が沢山生っているのが見えた。冬にかけて地に落ちて、春に芽吹くに違いない。芽吹く前に拾い集めたものだけが「家」の中にある。
「食料はなんとかなりそうだ」
しかし、薪は分からなかった。すでに大量の薪や枝が「家」の横に積み上げられている。そこには乾燥させたツタもあり、食べた後に残った魔獣の骨も置いてあった。この地で生きていくための財産である。春に生っていた果実よりも甘い果実が見つかる事もあった。それらはできるだけ乾燥させて保存するようにしている。肉だけでなく、果実を食べると体が楽になる気がしたので定期的に食す事とした。冬を乗り切れば、ここで生きている目途が立つ。そうしたら、さらに北へも行けるかもしれない。まだ見ぬ「人」を探すのである。
風に冷気が混じるようになった。今着ているものだけでは心もとない。狼の毛皮を羽織る。かじかむ手に合うように切り取り、ツタで作った紐で巻き付ける事もした。靴にも同様に毛皮を巻き付け、足先が冷えないように気を配った。寒さで毎日の水くみが辛くなった頃に、雪が降ってきた。
「雪か……」
冬が来たのだ。これを乗り越えなければ、ここで生きていくことはできない。考え得る準備はしてきたつもりだった。そのために必死でこの辺りを駆け回った。「家」の壁にも隙間風が来ないようにツタや毛皮を巻き付けてある。中で火を絶やさなければ暖かいはずだった。だが、現実は甘くない。
「こ、凍える……」
たき火にいくら薪をくべても温まらない日があった。ありったけの毛皮にくるまって火のそばを離れずに過ごす。一日中、火をくべ続ける日もあった。そんな日にはひたすら食べ続けるしかなかった。暖かいものを食べると、芯から熱くなる。すぐ近くの川まで行くこともできずに、雪を鍋に入れて溶かす日が続いた。余裕があると思っていた食料は、凍える日が来る度に残り少なくなっていく。しかし、食べずに乗り切る事はできなかった。
雪が深い日は、むしろ暖かかった。
「雪は熱が逃げにくいのだな」
木と乾燥したツタだけの壁では、熱がすぐに逃げてしまうらしい。ゼノは思い切って「家」の外にでて、削った木の板で「家」の周囲に雪をかき集めた。それを硬くなるまで壁に貼り付ける。完全に「家」が入り口を残して雪で埋まるまでそれを続けると、「家」に入ったゼノはその内部の暖かさに自分の考えが正しかったことを知った。たき火の熱が雪で逃げなくなった「家」はようやく住めるようになった。ゼノは数日おきに「家」の周囲の雪を補充し、熱が逃げないようにした。
「もし来年があるようであれば、土を盛っておくのもいいかもしれん」
残り少なくなった食料の干し肉をかじりながら、来年に思いをはせる事ができるほど余裕が生まれていた。余裕が生まれると、仕事ができる。集めておいたツタから紐を作り出すこともしていた。籠は作れなかったが、毛皮を固定する時などに役立った。一日中「家」の中にいるのである。出るのは薪を取りに行くときと用を足す時だけだった。木の実をすりつぶすのも上手くなった。それを入れて置く木の容器も削りだした。徐々に快適になっていく環境に、これは自然との闘いだと思うようになっていった。
雪が降らなくなった。ゼノは、冬を乗り切った事を確信した。
この地で約一年を過ごし、ゼノは春を迎えた。
「乗り切ったか……」
なんとか、生き抜く事ができた。ここにいればもう一年くらいならば問題なく過ごせるだろう。少し探索の範囲を広げても良い。「誰か」に出会えることを願うばかりである。それには、やはり準備が必要だった。この一年は環境を整えるのにずいぶん時間を使った。「家」はすでにできているのだ。冬における熱の問題を解消すれば、これ以上の改善は必要ない。であるならば、遠出をする用意ができる。まずは食料からだった。
「肉が必要だ」
もっとも保存がきいたのはやはり干し肉だった。そして乾燥した木の実だ。木の実の粉を水で練って、焼いた石に貼り付けるとやや苦いが食えるものになる。灰汁の抜き方がいまだに分からないが、この際味は二の次だった。沸騰した水に干し肉を浸けると柔らかくなり、暖かい水分とともに摂る事ができた。これらは冬においてゼノを生きながらさせた食料である。そして乾燥させた果実に岩塩。余裕があると思っていた食料はギリギリだった。遠出をするのならさらに多めに取っておく必要がある。ゼノは食料を調達することに精力を傾けた。
春のうちに魔獣を二匹狩った。一匹は鹿型の魔獣であり、もう一匹は熊型の魔獣だった。熊の魔獣はやはり弓矢ではとどめをさせず、しかし後ろ足を射る事で動けなくなったところを刺した。二匹ともに「家」の近くの川の付近へ誘導したために、内臓も含めて全てを使う事ができた。夏に向けて、干し肉を作るつもりだったゼノは全ての肉を干すことにし、直後に食べたのは塩茹でした内臓のみだった。生きるために、塩気以外の味に拘りはなくなっていた。
熊の魔獣の毛皮を丁寧に伸ばして脂肪を取り、乾燥させて外套を作る。それは雨からゼノの体を守ってくれるほどに大きなものであった。前回の毛皮は加工もせずに寝台に敷かれている。貴重な糸を使って、前で止めることができるようにしたそれは、夏に差し掛かる頃には暑くて着れなくなったが、冬に向けて重宝すると思われた。
しかし、この頃にゼノに異変が起こる。
「ああぁぁぁぁ!!」
あまりにも人と交わらない事による発狂に近い叫び。人と話すことに飢えていた。独り言がかなり多くなるが、それでは満たされない。死ぬことすら考える。だが、すぐにそれは否定される。それの繰り返しの中で、持前の強靭な精神をもってしても孤独には耐えられそうもなかった。
だが、初夏の事である。
「森が……なんか変だ」
それは森を歩いていた時に感じた違和感から始まった。以前にも熊の魔獣が出た頃に、あまりにも静かな森を経験していた。その頃には違和感を感じるほどに森に慣れていたわけではない。しかし、今回の違和感は間違いない。だが、静かなわけではなかった。どちらかというと、侵入者に対する警戒というところではないか。
「帰った方がいいか」
初めての反応に「家」へ帰る事を選択する。もしかするとまだ見ぬ魔獣が来ているのかもしれない。この違和感がなくなるまでは「家」の中ではなく、木の上にいた方が良いかもしれなかった。「家」が見下ろせる大木に登る。持ち物は食料と狩りの道具である。夏に入ったために、このまま木の上で寝ていても凍死することはない。
「さて、何が出るか」
その違和感が「家」に来る可能性が低いとは思っていた。もともとあまり目立たない場所にあるのだ。数日間、この上で過ごして何もなかったという落ちが待っているに違いない。ゼノは自分の慎重過ぎる行動に驚きながらも、直観を信じる事にした。もし、ゼノにとっての脅威が近づいているというのなら、この行動は命を救う。そうでなければ、何もないだけである。
そして、その違和感はゼノの直観どおりやってきた。
「なんだ?」
何かが動いている気配がした。大きさからいうと魔獣かもしれない。ゼノと同等程度のものだ。それが茂みの中から「家」を伺っているようだった。幸い、樹上のゼノには全く気付いていない。相手の正体が分からないゼノはこのまま見守ることにする。ただし、矢は弓につがえていた。
がさりがさりと茂みの中の「何か」がゼノの「家」に近づく。唾を飲む音がそれに聞こえるのではないかと思うほどにゼノの喉で響いた。その「何か」は全体的に黒かった。狼の魔獣が同じような色をしていたはずだった。しかし、狼にしては少し大きい。そして黒くない部分もある。ゼノはその正体が分かった気がした。
「おい!」
ゼノの呼びかけに「それ」がびくりと反応する。まさか上から声をかけられるとは思っていなかったのだろう。あわてた「それ」が茂みから這い出てくる。進行方向をふさぐように、ゼノは飛び降りた。それに気づかなかった「それ」が目前に出現したゼノに再度おどろいてしりもちをつく。
「何か用かい? 言葉は分かるか?」
ゼノは「それ」に話しかけた。
「わ、分かる」
「それ」は答える。だが、ゼノの予想は当たっており、そして外れていた。予想外とはこのことだ。ゼノは信じられない様子で言う。
「女?」
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