愛と嘘、灰と白
コンコン。
花の彫刻が施された扉を少年がノックした。
何も返事は聞こえない。
白い湯気を立てる紅茶をトレイに乗せて、少年は小さくため息をついた。
扉を開き、部屋を見渡す。
豪奢な調度品と繊細な小物が置いてある大きな部屋。
トレイを近くの小机に置くと、部屋の奥へ歩み寄った少年は朝の陽の光を遮る白のカーテンを開けた。
生憎、今日の天気は曇りであった。分厚い雲に覆われた空を少年は残念そうに見上げた。薄暗い光は部屋の中に差し込み、ぼんやりと部屋の様子を照らし出す。
薄く赤みががった白いレースのカーテンが天井から下がった、雪の様な色のフリルが幾重にも重なった毛布の可愛らしいベッド。部屋の真ん中に大きな白く麗しい花が咲いている様に思えた。
その白色の毛布の中央が膨らんでいる。
少年の分厚い雲に覆われた空のような、灰色の瞳がその膨らみに向けられた。
微かに上下する毛布。
白い膨らみにそっと触れる。ガラス細工の様にすぐに壊れてしまわないよう、慎重にそっと、揺り動かした。
「ん……ぅ」
毛布から小さな声が聞こえる。くぐもっているが、可愛らしい声だ。
「起きてください。朝ですよ」
揺らす。
少年は再び揺らした。毛布から伝わる仄かな熱に微笑を浮かべる。
揺らす。
「お嬢様」
「……」
まだ揺らしている。
「朝です」
「……」
しかし、いくら経っても起きない少女にしびれを切らした少年は最初の優しさなどなかったかのように毛布を捲った。熱っぽい空気が冷やされ、毛布の中の住人の肌を冷たく包んだ。
さくらんぼのような唇をきりと引き締め、無言で抵抗していたのは淡い金色の髪の愛らしい少女だった。
花の中に住まう妖精の様な可憐な少女が小さく丸まっている。
部屋の少し冷たい空気に晒され、長いまつげを震わせながら少女はやっと目蓋を持ち上げた。
「おはようございます。アリアお嬢様」
「……むぅ」
アリアの藍色のガラス玉のような透き通った瞳が虚空をさ迷う。体を気だるそうに起こすと、宙に手を差し伸べた。
少年はその手を握ると、空いた方の手でアリアの肩を包むように支え、慣れた手つきで抱き起こした。
少年の温かい肌に触れて、アリアの表情は自然と緩んだ。例え、毛布を剥がされたという恨みがあっても、だ。白く細い指でさらりと髪をかきあげると、小さく言った。
「おはよう。ユリシス」
少年──ユリシスは淡く微笑んだ。
アリアは大きな欠伸をすると、目を擦った。ふぅわりと髪を煌めかせながら、もう一度布団に倒れ込むと、
「すぅ……」
瞬く間に寝息をたて始めた。
「お嬢様……起きなさい」
アリアの柔らかな頰を、ユリシスは指でふにふにとつまんだ。アリアはその指を払い退けた。
「良いじゃない。少しぐらい眠っていたって。起きていても、どうせ、」
アリアはごろんと寝返りをうち、窓の方を向いた。アリアの柔らかな髪が枕に散らばった。枕に頬を押し付け、アリアは目を開く。
「何も見えないのだから」
アリアの瞳は、霧のようにぼんやりとした光しか判別できなかった。幼い頃、高熱で生死をさ迷い、この世に留まれた代償であると、ユリシスは聞いている。
ユリシスはベッドに腰かけると、そぅっと、アリアの艶めく髪を撫でた。
いつも言っているでしょう、と表情を緩ませながら、言う。
「僕は貴女の目ですよ。お嬢様」
たっぷりの蜂蜜を溶かした温かいミルクのように、じんわりと心に染みるユリシスの言葉。
アリアはやっと、起き上がった。
◆
やっとベッドから這い出したアリアは、ユリシスが用意した紅茶を飲んだ。ミルクと砂糖を混ぜて、すっかりぬるくなってしまったこのミルクティーをアリアは美味しそうに飲み干した。猫舌のアリアには、このくらいがちょうど良いのだとユリシスは知ってるのだ。
フカフカのクッションが乗っている白い座椅子に座るアリアの髪をユリシスは一束取る。櫛で梳かす。
「ユリシス」
ユリシスに髪を櫛で整えてもらいながら、アリアは訊ねた。
「何でしょう」
「ユリシス、今日の空は何色かしら」
窓の外に広がる空は蒼色を飲み込んだ雲のせいで灰色だ。同じ色の瞳が空を見つめた。
「とても澄んだ青空ですよ 」
アリアは嬉しそうに微笑む。
青空の青はアリアが一番好きな色だ。
「ユリシス、今日の服は何色かしら」
ユリシスは髪を弄る手を止めて、少し考えると言った。
「今日の空のような青色ですよ」
早く着たいわ、とアリアは言う。
「では、そろそろリーナを呼びましょう」
「ええ」
ユリシスは真っ白い部屋を出ると、
「リーナ。お嬢様にお召し物を」
「はーい」
すでに準備万端の少女が衣服を持って立っていた。ユリシスと同じように整った顔立ちのリーナは、ユリシスの双子の妹だ。瞳の色は淡い茶色だということ以外は雰囲気も似ている。
「あぁ、兄さん」
「なに?」
リーナは手に掛けていた洋服を、ユリシスの前で広げて見せた。
「これでいいかしら?」
フワリと広がる白いレース。襟も袖も全て真っ白の質の良いワンピース。
ユリシスはにこりと笑う。
「良いね。完璧だよ」
ワンピースを腕に戻しながらリーナも笑った。
「今日は何色なのかしら」
「青だよ」
「はい、わかったわ」
リーナは返事をすると、扉の前に立つ。ドアノブに手をかけて、振り返った。アリアに聞こえないよう、声を潜める。
「いつまで続けるのよ。こんな下らないこと」
微笑みを浮かべたユリシスは、こたえた。
「いつまでも」
階下へ降りていくユリシスの背中を見送ると、リーナは部屋の中へ入っていった。
「お嬢様ー!今日のドレスはとっても素敵なものですよ!」
◆
◆
ユリシスとアリアは、現在ベンチに座ってる。
アリアが外に出たい、とユリシスにねだったのだ。
灰色の空の下、二人は隣り合って座っている。
二人の目の前には薔薇が咲く。
真っ白の薔薇と真っ白のアリア。
この二つはよく似ている。
可憐で、触れると少し痛いが、とても愛しいのだ。
「ユリシス」
「なんでしょう」
「花の良い香りがするわ」
「庭に植えた薔薇が咲き誇ったのですよ」
「とても、綺麗……よね」
「ええ、とても」
アリアは薔薇に触れるように身を乗り出す。ぐらりと細い身体が傾いた。あぁ、とユリシスがアリアの細い腰に腕を回す。
「危ないですよ」
「つい、触りたくなったのよ」
ユリシスはため息をつくと、アリアをきちんと座らせた。次に、地面に膝を着き、薔薇の花びらをプツリとちぎった。
「ほら、お嬢様」
白い花びらをアリアの手に握らせる。
「茎の棘が危ないですからね」
絹のような手触りのすべすべとした小さな花びらをアリアは嬉しそうに触っている。
「ユリシス」
「なんでしょう」
「この薔薇は何色なのかしら」
「明るい黄色ですよ」
「まぁ!」
「お嬢様の髪の様です」
ユリシスはアリアの髪を撫でた。
「うふふ」
アリアは気持ち良さそうに、ユリシスの肩に小さな頭を乗せる。そして、お日様に照らされた眠たい猫のように目を細める。ユリシスはそんなアリアの様子を、愛おしそうに見つめたが、言った。
「お嬢様。夜に眠れなくなりますよ」
「じゃあ、眠らないように本を読んで」
ユリシスはあらかじめ手元に置いておいた本を、膝の上に乗せた。
「ええ、良いですよ」
「早く早く」
ユリシスは、優しい声で、言葉を紡ぎ始めた。
「あるところに、幸せになりたい、オオカミとヒツジがいました───」
◆
◆
◆
◆
「───そうして、オオカミとヒツジは、極上の幸せを手に入れました。」
物語が終わった頃、風が吹いてきた。
少し冷たい風だった。アリアのワンピースの裾が大きくはためく。髪も乱れた。
「お嬢様。そろそろ屋敷へ戻りませんか?」
「嫌よ」
アリアは即答する。
「もう……」
「もう一冊、本を読んでくれたら帰るわ」
アリアはユリシスの肩を小さく揺すった。ぷぅっと頬っぺたを膨らましたアリアの可愛さというものは、世界中の男の心を鷲掴みにするほどの魅力があった。
ユリシスは根負けしたように、アリアに言った。
「では、本と膝掛けを取ってきます。ここで動かないで、大人しく待っていてくださいね」
「はぁいっ」
元気良く返事を返したアリアを残してユリシスはお屋敷へ、足早に向かっていった。
◆
◆
◆
◆
◆
屋敷へ戻ったユリシスは、リーナに温かそうな膝掛けを一枚頼んだ。
アリア専用の白い膝掛けを持ってきたリーナは、本を選ぶユリシスを一瞥した。
「今日は何を読んだの?兄さん」
ユリシスは本棚に戻したばかりの本を指差した。
「これだよ。膝掛け、ありがとう」
「ふぅん」
リーナは本を抜き出して、最後のページに目を通す。ユリシスがアリアに読み聞かせたモノとは別の内容が書かれていた。
「また、ハッピーエンドにしたの?」
「ああ、そうさ」
リーナは本を戻した。ユリシスの手に取られた新たな本を見る。リーナの記憶では、その本の最後はバッドエンドだったはずだ。
「馬鹿じゃないの」
「何が」
「いつもいつも、お嬢様に嘘を吐いて」
「僕は、お嬢様に汚い世界を見せたくないんだ」
飄々と言うユリシスにリーナは腹を立てた。以前からそうだ。ユリシスはアリアに汚いところを見せない。何色にも染まらない白で、アリアを染めるユリシスが、リーナは心の底から嫌いだった。
「そんなのエゴよ」
「お嬢様は、綺麗なモノが大好きなんだ」
「だからって嘘を吐くの?」
「そうだよ」
「愛してるのに?」
「……そうだよ」
ユリシスは微笑む。リーナはその横っ面を張り倒したくて仕方がない。しかし、ここはぐっと堪える。どんなに憎たらしくても、兄の気持ちは痛いほど心に突き刺さるからだ。
「愛してるなら、尚更。なぜ嘘を吐くのよ」
「愛してるからだよ」
ユリシスは答えになっていない答えを返す。
「お嬢様の目でいれば、ずっと僕らは一緒にいられる」
ユリシスは本当に嬉しそうに、言った。とろけそうな声と熱い吐息がユリシスの唇から溢れた。
呆然と立ち尽くすリーナの顔を見ると、ユリシスは灰色の瞳を細めた。
「お嬢様が待ってるから」
出て行くユリシスの背中に、リーナは手を伸ばしてみた。すぐに自分の胸元へ戻す。
扉が閉まると同時に、リーナはその場に座り込んだ。
膝に顔を埋める。もどかしさが、ぶわりと溢れる。
「馬鹿な兄さん」
ユリシスは、アリアを愛している。
使用人の分際で、主に恋心を抱いている。
アリアは、ユリシスを愛している。
主であるのに、使用人に恋心を抱いている。
アリアの目から世界が失われたとき、アリアは家族から、この屋敷に隔離された。
それを良いことに、ユリシスはアリアの側にずっといる。
ユリシスは、アリアを愛している。
アリアは、ユリシスを愛している。
しかし、互いにユリシスが抱く“愛”とアリアが抱く“愛”は違うと思っている。
だから、互いに繋ぎ止めようとしている。
どんな手を使ってでも。
「馬鹿なお嬢様」
◇
風が強くなってきた。
隣にユリシスが腰かけていない分、心も身体も肌寒い。
びゅうびゅう。風の音を目蓋を閉じて聞く。
ゆっくりと目蓋を持ち上げる。
アリアは空を仰いだ。
ユリシスが“青”と言った、“灰色”の空。
「まるで、ユリシスの瞳みたい」
屋敷の方からユリシスの影が見えた。
アリアは再び、目を閉じる。なぜならユリシスが、アリアの代わりとなり、世界を見てくれるから。